2011年12月31日土曜日

2012年これやるぞ、の巻(大晦日のまとめ)

さてさて。いよいよ暮れようとしてます。
 今年のことを振り返るのはやめて、来年のことを書いておきます。あくまで予定ですが。

◎表現ゼミ
 1月6日が初日です。
 自分でも思いがけない立ち位置へとやってきた「げろきょ」こと現代朗読協会の活動は、ゼミの場が中心となっていますが、来年からはいくつかのゼミが「表現ゼミ」として統一されることになりました。
 表現ゼミは朗読のみならず、読み聞かせや音楽、テキスト表現など、自分のやりたいこと、やっていることを持ちよって、互いに共感的なコミュニケーションのなかで学びあう場とします。すべての表現に通底しているある考え方を私はずっと示してきましたが、それをゼミの場で統一的に扱ってみようというのです。
 このゼミにはGoogle+のHangout機能を利用して、ビデオチャットで遠方や自宅からも参加できます。
 ゼミに参加するには、げろきょの正会員になっていただく必要があります。

◎ライブワークショップと基礎講座
 一般参加者を募集して「朗読はライブだ!」ワークショップは全6回の最終回に実際に朗読ライブをおこなうワークショップ。基礎講座も全6回で現代朗読の基礎を学んでいただく講座です。
 ライブワークショップは現在第9期を開催中で、その3回めが1月7日に開催。基礎講座の次期シリーズの初日は2月11日で、隔週の土曜日開催です。

◎体験講座
 現代朗読を実際に体験してもらうための2時間の講座で、だれでも気軽に参加できます。参加費も2,000円とお手頃。
 毎月やってますが、2012年は1月14日が最初の開催です。

◎いろいろなライブ共演やライブのサポート
 ピアノ演奏、音楽提供、演出、朗読テキストの提供など、声をかけていただければ喜んで協力してきました。2012年もどんどんやりますので、気楽にお声がけください。
 さしあたって決まっているのは、ボイスパフォーマーの徳久ウイリアムくんが主催する取手アートプロジェクトの「団地の声を聞く」という一般参加型のワークショップ&ライブが1月23日に。朗読家の秋山雅子さんのピアノ演奏のサポートを1月23日に。また来年もフリージャズピアニストの板倉克行さんのライブには飛び入りさせていただいたり、呼ばれて参加したりする予定です。1月18日には中野〈スイートレイン〉で、2月28日には新宿〈ピットイン〉に出ます。

◎畳の学校
 1月16日に最初の回をやります。以後、まずは月に2回くらいのペースで開催していきたいと思います。
 これはげろきょの会員やゼミ生でなくてもだれでも気軽に参加できる学びの場で、一種の私塾だと思ってください。小さなお子さんがいたりして行動に制限があるようなお母さんも、学びたいという人なら歓迎です。もちろんお子さん連れでも参加できます。
 ベースに共感的コミュニケーションを使ったお互いに学びあう場で、学びの種類に限定はしません。学校では学べないようなことを積極的に取りいれたいですね。

◎ぴあののことば
 下北沢・音倉で月に一回のペースでやっているランチタイムコンサートに「ぴあののことば」というタイトルが付きました。来年からは毎月第三水曜日の昼にやります。即興ピアニストとしての私の定期演奏の場です。

◎音読療法
 来年はよりいっそうこれに力を入れていくことになるでしょう。
 すでに一回開催したボイスセラピスト2級講座の2回めを2月5日に、そしていよいよボイスセラピスト1級講座を4月に4回シリーズで開催する予定です。
 春にはふたたび被災地に行って、今年講評だった音読ケアのボランティアワークをまたやりたいと思っています。音読ケアは学校や職場、老人ホームなどでもとても有効なものなので、お声がかかればできるだけお邪魔するつもりです。
 秋には音読療法士のマスターコースも開講すべく準備中です。

◎槐多朗読
 今年やった第一回が好評で、第二回もやることになりました。2月20日ですが、この日は村山槐多の命日でもあります。明大前のブックカフェ〈槐多〉で開催。
 ここは楽器がないので、キーボードと音源を持ちこんでの演奏です。朗読は野々宮卯妙。

◎執筆
 以上のほかに、いろいろな執筆は折をみて続けていきます。ものを書いていないと死んでしまう人間なので、来年もたくさん書くでしょう。
 ブログを始め、現代朗読の本、音読療法の本、読み聞かせの本などを書きたいと思っています。できれば音楽の本も書きたいですね。構想はあるんですが、執筆の時間をどうやって確保するかが、来年も課題のひとつとなるでしょう。

 みなさん、特に女性の方々、来年2012年もどうぞよろしく。
 私・水城はおカネよりいのちにダイレクトにつながっている女性の方々の感受性を信じ、来年もせいいっぱいサポートさせていただきます。

音楽家や著者はこれからどうやって生きていけばいいのか

CD、DVD、書籍など、知的生産物としてのコンテンツがまったく売れなくなっているといわれています。それは業界にとって悲鳴に近い論調です。
 実際、私も音楽やオーディオブック、書籍などのコンテンツビジネスの世界でずっと生きてきて、そのことを肌で痛感しています。制作者はどんどん廃業に追いこまれ、出版社もバタバタと倒れています。
 たとえば音楽制作の現場でいえば、かつては高額なスタジオを好きなだけ押さえ、プレイヤーもオーケストラを筆頭に好きなだけ使えましたし、プロモーションにもふんだんにお金を使えました。が、いまやプロモーション費用はぎりぎりまで抑えられ、プレイヤーやスタジオも使えないので、CDを出そうというアーティストは自宅に何日もこもってコンピューター相手に音を作っているありさまです。
 これはプロのアーティストもそうなのです。
 その姿だけ見るとまったくかつてのアマチュアミュージシャンとおなじで、インディーズCDを作っているのと変わりありません。プロとアマチュアの差がなくなってきている、というより、プロがどんどん追いこまれているといったほうがいいでしょう。
 つまり、マーケットが極端に縮小しているのです。
 小説家を含む書籍の著者もおなじです。書籍印税だけで生活できるのはほんのひと握りで、あとは学者などほかに本業を持っている者が専門分野でものを書いて出版しているにすぎません。
 その一方で、音楽を聴く人、本を読む人が少なくなっているのかといえば、そんなことはありません。音楽はかつて以上によく聴かれているし、映像もたくさん見られているし、活字もたくさん読まれているのです。ただ、コンテンツの収益構造が旧態依然としていて、一次制作者のもとへお金が流れなくなっているだけの話です。

 レコード会社にしても出版社にしても、古い商習慣のなかにあぐらをかきながら「売れない、売れない」を連発し、その怠惰のツケを一次制作者に払わせています。
 一次制作者とは、つまり、音楽家であり、著者であるわけで、彼らの生活はどんどん困窮し追いつめられていきますが、レコード会社や出版社の社員は給料をもらっているのでとくに困りません。会社がつぶれてしまえば困るのかもしれませんが、とりあえずは会社がある限り毎月決まった給料がはいってきます。だから、危機感にかられて現状をなんとかしようという意識は、一次制作者に比べて極めて低いといえるでしょう。とくに、これらの会社を経営している管理職や重役以上の人々は、まったくなにも困っていないので、むしろ現状維持でいいのです。本当は現状維持どころではない事態が進行しているんですけどね。

 音楽にしても映像にしてもテキストにしても、コンテンツから制作費(および制作者の生活費)を回収するにはどうしたらいいか、という話です。
 私はこれまでのビジネスモデルではもう無理だとかんがえています。というより、このモデルは耐用年数をすぎています。賞味期限切れなのです。
 どういうビジネスモデルかというと、コンテンツを大量にコピーして消費者に売りつけ、そのあがりをみんなで分けよう、というものです。一次制作者は10パーセント前後の「印税」もしくはロイヤリティという形で分け前を受け取ります。これは、消費者がコンテンツに対してお金を支払ってくれる、そしてそれが単なるコピー製品であるのに大量に買ってもらえる、ということを前提としたものです。
 しかし、マーケットに出回るコンテンツはたんなるコピーなのでいくらでも複製できるし、複製が増えれば増えるほど価値は下がります。つまり、コンテンツは売れれば売れるほど、作られれば作られるほど、価格が限りなくゼロに近づいていく商品だともいえます。
 商品として大きな矛盾を抱えているといわざるをえません。
 では、一次制作者はこれからどうやって生活していけばいいのでしょう。

 もちろんこのビジネスルールから離脱するのです。資本主義経済のシステムから離脱して、別の枠組みをみずから作ればいいのです。
 そのあたらしい枠組みを作るためのツールは、すでに全員が持っています。あとはそのツールを使いこなし、またみずからの表現クオリティを高める努力を惜しまず、またそのスキルを惜しげもなく他者や次世代へと伝えていく精神を持つだけです。
 音楽家や著者にとって、必要なことは、レコード会社や出版社に依存して作品を流通させることではなく、リスナーや読者に作品を届けることです。これまではレコード会社や出版社が流通ルートを使ってその役目をになってきたわけですが、ネットが発達した現代においてはもはや流通ルートは必ずしも必要ありません。流通を通すことなく、直接ユーザーに作品を届けることは可能です。流通にマージンを取られることもなく、作り手からユーザーへとダイレクトに作品を渡すことができるようになりました。
 これは同時に、作り手とユーザーが直接つながれるということでもあります。
 また、CDや書籍を作る方法も、個人の手のなかに充分に落ちてきています。コンテンツ制作はもはや資本に頼らずとも、個人がいくらでもできるのです。音楽でいえば、音楽制作環境は恐ろしく安価になりましたし、ソフトも充実しています。出版も電子書籍ならすぐにでも作って売ることができます。紙の本もオンデマンドのサービスがいろいろと出てきています。
 このような状況でプロとアマチュアを分けるものがあるとすれば、コンテンツのクオリティしかありません。つまり内容のよさ。

 デジタルコンテンツはコピー商品ですから、それだけで生活するのは難しいかもしれません。無料、もしくは非常に安価でなければ、ユーザーは手に取ってくれないでしょう。
 では、アーティストはどこで生活ベースを確保すればいいのか、ということになります。
 これまでアーティストは自分の「独自性」を確保することで、他コンテンツとの差別化をはかろうとしてきました。それは技術的な部分を含みます。そしてその技術は人に知られないようにしてきました。が、この情報化社会において技術的独自性はもはや意味がありません。どんな複雑な、人にまねができないような技術を駆使したところで、それはすぐに知られ、コピーされます。
 アーティストはその部分に力を注ぐのではなく、自分自身のオリジナリティ、つまり身体性と感受性を表現することで、独自性を持てばいいのです。その方法はまた、デジタル技術ではなく、まちがいなく身体と結びついたアナログ技術です。音楽でいえばライブ演奏であり、書籍でいえば思想であり文体であり、つまり生活そのものでしょう。
 そしてもっとも重要なことは、それらの行為をすべて社会に開示することです。学びたいという人があれば、広く受け入れることです。私塾をやってもいいでしょう。生徒を取ってもいいでしょう。メールマガジンを発行してもいいでしょう。とにかく、これまで閉じられがちだったアーティスト個人の世界を、積極的に社会に向かって開示し、社会と関わり、社会活動に参加していくことで、時間を超えた贈与をおこなっていく。その必要性のなかで生活ベースを作っていけばいいのです。
 すでにそのような活動を始めているアーティストがいくらかいます。意識しているかどうかはわかりませんが、こういったアーティストが次世代をになっていくのだろうと思います。
私もそうありたいと考えています。

マインドフルネスで変化する時間感覚

今年の震災前に始めたこの「今日のみずきさん」も、これで今年最後の回となりました。
 ありきたりな言葉でしょうが、今年は本当にいろいろなことがありました。そんな軽い言葉ではすまないような、文字通り激震の年だったといえるでしょう。
 長い一年でした。あっという間の一年だった、という人もいます。その感覚は私にもわかるんですが、私には別の意味で長い一年でした。
 マインドフルネスという心身のありかたを学びはじめてから、時間の進み方というか感じ方がどんどん変わってきたように思います。「いまここ」に意識を向けていくこの方法を練習していくと、時間の流れが濃密に感じられます。結果的に、単位あたりの時間を長く感じるのでしょう。
 この年末も、クリスマスから今日までの一週間ほどがとても濃密に長く感じられ、以前の感覚ならまるで一か月くらいの濃厚さでした。もちろんこの一年も何年にも感じられるような濃厚な時間でした。
 マインドフルネスを意識するようになって以来、年々この感覚は強まっています。年をとると時間がたつのが早くなる、という人が多いのですが、私は逆です。年をとればとるほど、時間が減速していき、高速度撮影のように濃密な感覚ですぎていきます。
 2012年もマインドフルネスを心がけ、さらに緻密な時間を持ちたいと思います。
 みなさんもどうぞよいお年をお迎えください。

2011年12月30日金曜日

多様性と芸術の役割についてかんがえてみた

教育行政においてお題目のように「個性尊重」「多様性重視」というようなことをいわれます。
 わざわざいわなくても、本来、人は多様性を持っているものです。
 子どもを見ればわかります。生れ落ちて成長するにしたがって、子どもはみんな個性的になっていきます。絵本やビデオなどおなじものを見ても反応はそれぞれ違うし、ゲームをしてもそれぞれが個性的です。まったく予測できないようなことをいったり、行動したりします。成長するにしたがってますます多様性をおびてきます。
 ところが幼稚園にはいったり小学校にはいるようになると、行動をそろえることを学習します。というより、学習させられるわけです。なぜなら、そうしないと管理者(先生ですね)が都合が悪いからです。みんなてんでばらばらの言動をしていたら管理できません。
 行動抑制を学習させるのは、直接的に管理者の都合があるからですが、さらに社会の都合もあります。職場や地域や国民国家において、みんなが勝手なことをしていたら管理できません。それぞれひとしく、法律を守り、税金を納め、管理者の都合のいいような投票行動をしてもらわなければなりません。
 資本主義社会においては、さらに全員にひとしく「消費」してもらわなければなりません。消費を拡大させ、不要なものまで買いこませ、そのための給料を稼ぐために馬車馬のように働いてもらわなければ、資本主義というシステムそのものが破綻するのです。
 これらは人間の思考と行動を抑制するためのシステムといってもいいでしょう。
 人は放っておけば多様に、ばらばらに、それぞれがイキイキと存在するはずが、抑制され、型にはめられ、システムのなかに押しこめられることで生気を失って生きています。

 芸術や表現活動は、これらのシステムに対する抵抗運動といいかえてもいいかもしれません。もしくは個人的な闘いです。
 自分のなかにある多様性を見つけなおすこと。自分本来のオリジナルな身体性と感受性にスポットをあてることで、システムの枠から自由になること。人々の多様性を認め、共感しあうことで、優位性を競ったり、批判しあったり、独占したりしないように生きること。
 表現においては注意深く自分が教育され背負いこんでしまっている社会システム的思考とふるまいに気づき、それをやめていくことが必要になります。それだけで表現はすばらしくなるのです。なぜなら、それができたとき、人はその人本来の個性的な存在となりうるからです。あとは音楽でも文学でも絵でもダンスでも、ただ自分を表現すればいいのです。

ボイスセラピスト2級、1級、マスターコースの種別

先日のボイスセラピスト2級講座では、講座を受けただけでは資格認定がされません。講座修了後、実際にボイスセラピー(音読療法)をだれかに実践して、そのレポートを提出した時点で、資格認定となります。
 先日の受講生からはその実践レポートが届きはじめています。家族やパートナー相手に実践してくれたレポートです。
こうやって、ボイスセラピストが続々と誕生していくのはとてもうれしいです。
 まずは初回のボイスセラピスト2級講座で(みなさんがレポートを提出し終われば)6名の2級ボイスセラピストが誕生する予定です。

 ところで、よく聞かれる質問に、
「ボイスセラピスト2級と1級ではどのような違いがあるの?」
 というものがあるので、それにお答えしておきましょう。

 ボイスセラピスト2級は、対象が個人やファミリー向けです。お母さんやお父さんの音読ケアの基礎知識や、高齢の方の社会貢献活動に役立てていただこうという主旨です。そのため、教養やカルチャー感覚で受講できます。また、身近な人とのコミュニケーション法を身につけ、共感的な会話を練習できます。
 認定方法としては、講座受講のほか、受講後1週間以内に身近な人に実施してレポート提出をしていただきます。その時点をもって正式認定となります。

 ボイスセラピスト1級は、職場や学校、その他コミュニティでグループ指導できるスキルを身につけていただくことが目的です。知らない人相手のコミュニケーション法も学べます。
 認定方法としては、講座受講のほか、4回ある講座ごとのレポート提出と、実地試験および面接を受けていただきます。1級を受けていただく前に2級の認定を受けていることが条件でもあります。

 これらのほかに、2012年秋から音読療法士マスターコースをスタートする準備をしているところです。
 これは、音読療法士の指導者育成ができ、ライブであらゆるケースに対応可能なスキルを身につけていただくためのコースで、全110時間程度の受講を必要とします。音読療法は医療行為ではなく、代替医療の扱いですが、マスターコース修了の方は治療が必要なレベルの人も場合によっては対応できるようにします。
 専門家育成のコースなので、気軽に受講していただくというわけにはいきません。でも、もちろんやる気のある方は歓迎です。

音楽の即興演奏はジャズだけでなく

音楽で「即興演奏」というとすぐにジャズを思い浮かべる人が多いでしょう。実際にジャズは楽譜に固定された音符ではなく、その場・その瞬間で生まれてくる音を大切にします。
ジャズ以外に即興演奏がないのかというと、そうではありません。ジャズほど複雑ではありませんがブルースやロックなどのポピュラー音楽にもありますし、クラシック音楽の延長線上にある現代音楽にもたくさん即興性や偶然性を重視した作曲法が導入されています。
ジャズは即興を重視する音楽ですが、でたらめな即興というわけではなく、それなりのルールがあります。普通はリズムをキープした上で、コード進行やモード(音旋法)にもとづき、そのなかで使える音(available notes)を選択しながら演奏します。当然、調性は保たれます。
リズム、コード進行、調性など、すべてのジャズルールから自由になったものが、フリージャズと呼ばれるものです。
私は朗読との共演からスタートして、ジャズの手法をさらに進めて、非ジャズ即興演奏をおこなうようになりました。フリージャズとも違います。リズムを使ったり使わなかったり、コード進行があったりなかったり、調性があったりなかったり。つまりすべての制約をはずすのではなく、選択肢を広げることで自由になる手法です。
これを書きながらいま驚きつつ思ったんですが、ひょっとしてこのような非ジャズ即興演奏をやっているのは、日本では私だけかもしれません。世界のことはわかりませんが。

2011年12月29日木曜日

マインドフルネスによるメタ認知が人生の荒波を乗りこなすスキル

怒りや憎しみ、苦しさ、悲しさを無理に押さえこもうとしても大変です。それはそもそも自分の感情のメッセージであって、強いエネルギーを持っています。そのエネルギーを消すことはできません。無理に消そうとしても、一時的に平静な気持ちになっても、それは水面下でくすぶっていて、あとになってもっと強烈な形でよみがえったりします。
すべての人がなんらかの形で持っている「トラウマ」というのは、そのようなものです。
マイナスイメージの感情やトラウマは、それを消そうとするのではなく、それとうまく付き合っていく方策を持てればいいのです。その感情もトラウマも私の一部であり、私の人格を形成しているものの一部でもあります。それらがあるから、私の行動や表現は私自身の特有のものとなって表出されているのです。

ではどうすればうまく付き合えるのか。
「自分を見失う」といういいかたをしますが、強い怒りや憎しみ、悲しみに襲われたとき、人はその感情に飲みこまれてほかのことはなにも考えられなくなります。その感情に思考や行動まで支配されてしまいます。だから、そのときはそれでいいのです。思いきり感情を爆発させてください。
ただし、人に向けてではなく。
これはコロンビアのNVCトレーナーのホルヘ・ルビオから教わったんですが、そういう感情を暴れさせるスペースを自分のなかに作ってやるのです。練習すればだれでもできますが、感情を押さえこもうとせずに、存分に暴れさせてやります。自分のなかで。
興味深いことに、そうやっているとしだいに自分が落ちついてくるのがわかります。少し落ちついたな、と思ったら、そこですかさず呼吸法。深呼吸でもいいですよ。
私が音読ケアでやっているのは、自分の呼吸を観察しながらおこなう呼吸法です。呼吸は身体の観察でもあります。呼吸は身体につながっていて、たえず動いているものです。呼吸をゆっくと深くしていきながら観察することで、さらに落ちついていきます。
呼吸を観察することで、「いまここ」の自分の状態や周囲の状況にも「気づき」が持てるようになっていきます。これを「マインドフルネス」といいます。
そのとき感情はどうなっているでしょうか。もちろん消えてはいません。たとえば怒りは怒りのまま私のなかにとどまっているでしょう。しかし、「いまここ」において私は、「怒りにとらわれている自分」ではなく、「怒りを覚えていることを認識している自分」に立ち位置を変えています。
これを「メタ認知」といいます。
メタ認知は認知行動療法などでも非常に重要なスキルで、このことによって鬱や不安、適応障害などを予防したり、症状の改善につなげたりできます。
とくに問題のある心の病を持っていなくても、このスキルで日常生活を非常に明晰にすごすことができるようになります。実際に私もそのように生活できるようになったのです。

人生にはいろいろなことが起こります。それはいやがおうでもすべての人に降りかかり、避けることはだれもできません。
また、人の感情はたえず揺れ動くものであり、嵐の海のように大波が打ち寄せています。
それらをうまく乗りこなし、やりすごせていくスキルを持てれば、人生はとても楽しい波瀾万丈なものになるでしょう。
マインドフルネス呼吸法については、音読療法のなかで実践してますので、いつでもおいでください。

人の存在の価値についての尺度

朝日新聞の記事。
「外国人の年収などを点数化、「高度人材」には優遇措置」
⇒ http://www.asahi.com/national/update/1228/TKY201112280216.html

 より「高度」な人材に来てもらうべく、出入国管理にポイント制を導入し、学歴や年収に応じて点数をつける、という制度を、法務省が来春から作ろうとしています。
 一瞬、目が点になりました。それから、頭に血がのぼりそうになりました。
 なんてアホな、卑劣な、目先のことしか考えていないひどい制度なんだろう。そして私をさらに悲しくしたのは、何十万人もフォロワーがいる、著書もたくさんある有名な「キュレーター」が、この制度のことを「よい」と評価しているツイートを何十万ものフォロワーに向かって流している、ということでした。

 ある人物を評価するのに、学歴だの年収だのとった階層や金額を用いるというのは、本当に貧しい制度ではないでしょうか。つまりそれは、階層社会、経済優先主義、つまりいまや経年劣化を経て耐用年数が終わろうとしている「資本主義」という制度の尺度なのです。法務省がまだそのような制度のまっただ中にいて、また時代の先端を走っているはずの有名キュレーターがそれを「よし」とする発言をする。このことに問題の根の深さを感じると同時に、このような問題や制度のある世界から私はすでに離れつつあるんだなあ、と感じました。
 怒りが静まると、私は自分自身がすでにその問題について完全な傍観者というか、無関係な人間であり、どうぞ勝手にやってくれ、と突き放していることに気づいたのです。こっちはこっちで別の生き方をするんで、というわけです。
 私たち(とあえて複数形を使いますが)は人を評価するのに数字は使いません。そもそも「評価」などという行動はとりません。ただ人に「共感」するだけです。その人をありのまま受け入れ、ともにそこにあろうとするだけです。その人がたとえ学歴のない人であろうが、障碍者であったり老齢であることで無収入であろうが、そんな要素がその人を無価値にするなどとはかんがえません。
 私たちは人の存在の価値や生きる意味について、別の尺度を持ちつつあるのです。

音倉で〈Odorata〉、スイートレインで板倉克行ライブ

音倉でランチタイムコンサートをやるというのをツイッターで見て、昨日は行ってみることにしました。ピアノと木琴のデュオの〈Odorata〉という人たちの演奏ということで、ちょっと興味をそそられたのです。
ピアノは男性で、演奏が始まるとすぐに、ピアノの専門家ではないことがわかります。あとでMCで「オーケストラの打楽器奏者」だとおっしゃってました。ピアノは「それなり」ですが、作曲をされる方のようで、昨日も半分くらいオリジナル曲。楽しくかわいらしい曲が多かったですが、作曲法としてはかなりクラシックなもの。
女性が木琴を演奏してますが、こちらもまた本来はきっとマリンバ奏者なんじゃないかな。でも、木琴は気軽に持ち運べますからね。
なかなか楽しい演目だったとは思いますが、自分が即興性のない楽譜に書かれた音楽の演奏に対してほとんど興味を持てなくなってしまっていることを再確認して、いまさらながら驚きました。音楽という時間と空間のなかで展開する表現では、「いまここ」で自分がなにを感じ、なにをするか、という偶有性との対話が重要になると思います。楽譜がある音楽でもそれは可能でしょうが、さらに即興へと心ひかれる自分がいます。これは、ジャズ音楽の即興ということでもありません。

夜は中野〈スイートレイン〉へフリージャズピアニストの板倉克行さんのライブへ。こちらはもちろん対照的に、完全即興。
2ステージめでドラムの「押忍」さんが参加。空手4段とのことで、全身筋肉のかたまりのようなおじさんです。あとで聞いたんですが、これまであまりフリーはやってなかったということです。でも、反応しあうことが楽しくて、板倉さんとはちょくちょくやっているそうです。
2ステージの最後は照井数男がいつものように朗読で参加。

3ステージの頭で私にやらせてくれることになり、私は押忍さんとやりたくなって、急遽お願いしてフリーパフォーマンスを。ピアニカからはいって、押忍さんとからみながらピアノへ。たのし〜!
押忍さんもあとで「またやりたい」といってくれて、聞けばジャズメンでもあまりこのように反応しあうプレーヤーには出会えないということでした。
ピアノが板倉さんにもどり、野々宮卯妙が朗読で参加して、私も途中からピアニカで参入してセッション。これもたのし〜。
終わってからもなんとなくもっとやりたくて、押忍さんに頼んでふたりでジャズのモード奏法的なフリーから、後は完全フリーへ。野々宮を呼びこんで、「夢十夜」を朗読してもらいながらのフリーセッション。たのし〜。照井数男が参加したくてうずうずしてたみたいだけど、放置プレイ。
板倉さんがハネてからも、さらに居残って、izaさんのために野々宮が朗読するというので、またピアノを弾いたりして、昨夜はたくさん遊ばせてもらいました。スイートレインのママとマスターに感謝。めずらしく私のピアノ演奏について板倉さんからもマスターからもおほめの言葉をいただいてうれしかったのです。
最後までお付き合いいただいたizaさんとお客さんにも感謝でした。

新年から始まる「畳の学校」のこと

年明けから「畳の学校」というものをやろうと思います。
築80年近い古民家である羽根木の家の座敷でやるので、文字通り「畳」の上の学校です。インドでバンカー・ロイ氏がやっている「裸足の大学」をちょっと意識してます。
もともとこの羽根木の家では朗読やテキスト表現の勉強をしたり、音読療法の研究をしたり、アレクサンダー・テクニークやヨガ、非暴力コミュニケーションのワークショップを開催したりしています。そこからさらに視野を広げて、だれもが参加できるみんなで作る「私塾」のようなものにしようと思っています。
とくに小さなお子さんを抱えて、原発や災害の危機管理、エネルギーや食品の問題、子どもたちの教育、これからの政治、パートナー・縁戚関係・地域社会とのコミュニケーションの問題に心を痛めているお母さんたちと、気楽に安心して子連れでも来れる場を作りたいという思いがあります。
もちろん、お母さんでなくてもいいですよ。だれでも歓迎です。
だれかが教師となって教える、ということではなく、みんなで学び、みんなで教えあう場所になればいいなと思うのです。そしてそこからなにかが生まれるかもしれません。素敵な作品かもしれませんし、社会に向けての行動かもしれません。
ここからなにかすばらしいことが始まるといいな。

2011年12月28日水曜日

「畳の学校」始まります

年明けから羽根木の家で「畳の学校」を始めます。
 また新しいことを始めたね、といわないように。これは新しいことではなく、私のこれまでの、ここに至る道の延長線上にあるものなのです。

 バンドマン
 ピアノ教師
 職業小説家
 ラジオ番組やオーディオブックコンテンツのプロデューサー
 朗読演出家
 現代朗読協会
 音読療法協会

 という経緯で「いまここ」にやってきました。私がいまやっていることは、朗読やテキスト表現を柱にした「表現」の研究と実践、そして身体・呼吸・発声・音読を使った心身ケアの研究と実践。自分の表現もそこに含まれています。
 だれかに習ったわけではありません。そういう意味では私には「先生」と呼べる人はいません。世の中の人すべてが先生であり、いっしょに研究したり実践したりする仲間なのです。
 これらの過程で何人かから私塾をやってほしい、といわれていました。私が教えるのではなく、みんなで学び、教えあう場です。その方法はげろきょのゼミとまったく同じで、方法論としてはすでに確立しています。そこでは共感的コミュニケーションを用いて場の運営がなされます。

「畳の学校」では、表現や心身ケアに限らず、参加者が直面している個人的問題や社会問題を含むさまざまな事象について、みんなで学び教えあうことをします。
 とくに原発や災害の危機管理、エネルギーや食品の問題、子どもたちの教育、これからの政治、パートナー・縁戚関係・地域社会とのコミュニケーションの問題などに心を痛めているお母さんがたには、子ども連れでも安心して参加でき、ゆっくりと考えられる場になればいいなと思っています。
 もちろん、お母さんに限らず、学生、社会人、主婦、経営者、自営の方など、いろいろな立場の人が来てくれればいいですね。開かれた場にしたいです。

 まずは始めてみようと思います。
 興味のある方、ぜひ気楽にお越しください。事前にメールなどで来ることを知らせていただけると助かりますが、思い立ってふらっと寄っていただいてもいいですよ。

◎日時 2012年1月16日(月) 10:00〜13:00
    終わりの時間はアバウトです。
    当面、毎月2回くらいのペースでやりたいですね。
◎場所 羽根木の家 世田谷区羽根木1-20-17
    電話 : 090-9962-0848(現代朗読協会)
◎参加費 お茶代と場の維持費として500円
    持ち寄り歓迎。

 質問やお問い合わせがあれば、遠慮なくどうぞ。

どうして僕はこんなところに(2)

今年の自分の振り返り、つづき。

・いま関心を持っていること。
現代朗読。
音読療法と身体調整。
テキスト表現と電子出版。
即興音楽。
畳の学校。

・ここに至った道筋。
ここ数年の現代朗読協会の変化。
コンテンポラリー表現としての朗読の発見。
ノンジャンル化。

・変化を起こしたもの。
NVC。
現代思想。とくに構造主義。
アレクサンダー・テクニーク。
ヨガ。
合気道。

・変化の前は現代朗読協会も、その前身の朗読研究会も、プロ志向だった。声優、ナレーター、アナウンサーといった人たちが来ていた。参加費(対価)に見合うだけのスキルアップ(技術)を求められることが多かった。が、現代朗読協会は養成所や専門学校ではなく、表現者のコミュニティなのだった。
・朗読研究の前はオーディオブックやラジオ番組を制作していた。
・その前は商業小説を書いていた。
・その前は福井でピアノ教師をやっていた。
・その前は京都でバンドマンをやっていた。
・その前はダメ学生だった。
・その前は田舎の子どもだった。
・その前は生まれていなかった。

・最近気づいたこと。
困難な世で、国にも企業にも社会システムにもいいたいことは山ほどあるけれど、これらを変えるのは至難のわざ。革命でも起こさなきゃ変わらないし、そんなものは起こせない。しかし、実はいま、変革のためのツールはすべて自分たちの手のなかにあるんだ、ということ。私たちは人類史上初の、強力な個人ツールを個々が持っている。どんなことでもできる。できないことはなにもない。問題はやるかやらないか、だけ。

静かな年末の朝に

お正月まで今日を入れてあと4日ですね。と思いながらこれを書いているわけですが、今年は311の大震災の直前からこれを書きはじめて、途中何度か抜けたことはありますが、だいたいほぼ毎日のように書きつづけてきました。これで何回めなんだろうと思ったら、今日のこれで196回めとなります。
 ということは、お正月までさぼらずに毎日書けば、2012年1月1日の分はちょうど200回めとなるわけです。
 がんばって書こ。
 ところで、今日は世間では今日が仕事納めでしょうか。自由業の私には関係がありませんが、私は今朝も羽根木からせっせと明大前まで歩いて、カフェでこれを書いています。なんとなく世の中は静かです。カフェのなかには、ものすごく首と背中を丸めてThinkPadを叩いているおじさん、ケータイをいじっているOL風のお姉さん、文庫本を読んでいるおじさん、計算機とノートを広げてなにやら書きつけている、これはたぶん保険の営業のおばさんでしょうか、ひとつのパンケーキを分け合って食べている若いカップル、たぶん大学生、iPhoneで音楽を聴き、ガラケーを開いてテーブルに置き、さらにiPadを置いてなにやら見ているおじさん、こういった人たちがいます。
 音楽はたぶんキース・ジャレットがビートルズの「Fool On The Hill」を弾いています。
 静かな暮れの朝です。

2011年12月27日火曜日

どうして僕はこんなところに(1)

 激動の2011年が終わろうとしています。私はこの年のことを死ぬまで忘れないでしょう。
 ブログを振り返ってみれば、今年の私の変遷がよくわかります。

 80歳ロリン・マゼールのベートーベン全交響曲連続指揮(2010年大晦日のこと)
 MacBook Air(ずっと入れこんだ)
 やりたいことはすべてやる
 マインドフルネス(すべてはここに通じる)
 Ustreamでの坂本龍一ソロコンサート配信(触発された)
 水色文庫(作品点数こそ少なかったけれど)
 iPhone 4
 Ustreamを使ったネットライブの配信
 中東情勢
 Oeufs(うふ)の新曲「いつも」
 現代朗読体験講座(毎月一回継続した)
 児童養護施設の子どもたちに朗読のプレゼント
 今日の水城さんスタート(もうすぐ200回)
 テキスト表現ゼミスタート(継続中)
 東日本大震災、大津波、福島第一原発事故発生
 災害時のメンタルケアの配信
 音読カウンセリング
 春うふ2011
 災害時のメンタルケアの音声化と映像化
 アレクサンダー・テクニーク
 次世代オーディオブックリーダー養成講座
 著書『音読・群読エチュード』の出版
 デイサービスセンターでの音読ワーク
 窪田涼子の朗読による夏目漱石『彼岸過迄』の無料配信
 本郷館解体
 朗読ライブパーティー@羽根木の家(不定期に何度か開催)
 徳久ウイリアムによる呼吸&ボイスワークショップ
 初夏うふ2011
 Ustream番組「水城ゆうチャンネル」(また再開したい)
 読み聞かせ指導(本を書くつもり)
 お座敷朗読パフォーマンス(窪田涼子)
 繭世界/稲葉佳子展(愛知県一宮市の美術館にて)
 ライブワークショップ(継続中)
 Mac OS X Lion & iOS 5 & iCloud
 MacBook Pro の SSD化
 早朝ウォーキング
 大阪の朗読ライブ「労読組合」
 夏うふ&読んで歌うコンサート@さいたま
 朗読というダンス(朗読は音楽でありダンスでもある)
 公演「月あかりの森」
 猫スケッチ
 トランジション世田谷・茶沢会
 ライブと猫スケッチ展「猫のうた」@下北沢・音倉
 名古屋公演「レクイエム・幻のエレンディラ」
 次世代作家養成塾
 朗読ライブ「KOTOHOGU! 〜言祝ぐ東北」(唐ひづるの企画)
 現代朗読基礎講座
 SPTワークショップ・カフェ(世田谷文化財団)
 音声表現スキルアップ講座
 下北沢・音倉でのランチタイムコンサート、スタート(月一回)
 中野〈スイートレイン〉板倉克行ライブ
 Google+のHangoutを使ったビデオ朗読ゼミ、スタート
 田中智さんによるヨガ講座
 電子ブックの製作・配信スタート『オーディオブックの真実』
 新宿ピットインライブ(板倉克行ライブに参加)
 電子ブック『原発破壊』
 東北被災地ボランティアツアー(南三陸町と石巻)一回め
 電子ブック『祈る人』『BODY』
 英語力にカツを入れる
 朗読会「木を植えた人」とワークショップ@羽根木の家
 音読ケアワーカーの育成ブログラム、スタート ⇒ 音読療法士マスターコース
 秋の夜の琵琶演奏会(片山旭星さん)
 電子マガジン『HiYoMeKi』刊行スタート(月一回)
 さよなら、スティーブ・ジョブズ
 紀行レポート『2011年9月 南三陸・石巻紀行』刊行
 明治大学での朗読と音楽のリズムについての講義
 母の肺ガン手術
 NVC実践ワークショップにコロンビアからホルヘ・ルビオが来日
 こまきみらい塾での現代朗読講座5回シリーズ
 名古屋「沈黙の朗読」@あうん
 げろきょ祭り「しもきた奇譚」
 ボイスセラピスト2級講座
 小松左京、北杜夫死去
 朗読会「槐多朗読」@明大前ブックカフェ槐多
 マダム朗読@埼玉
 羽根木プレーパークでの突発朗読
 石巻ボランティアツアー二回め
 ボイスセラピスト2級講座
 声の表現者のためのスキルアップセミナー@名古屋
 日本の語り芸の延長線上に現代朗読を置く
 表現の統一理論
 演劇フェスティバル・イン・知立 with 小林サヤ佳
 来年から各ゼミを「表現ゼミ」として統一する
 Facebook勉強会
 カラフル筆ペン
 トランジション世田谷の忘年会でNVCを紹介する
 畳の学校構想
 電動歯ブラシ
 音読療法協会

 うわ。ちょっとくらくらしてきた。この1年は10年分くらいに匹敵するような気がする。
 続きはまた明日。
(つづく)

おばかな顕在意識と利口な潜在意識

顕在意識とは「自分がなにを考えているのかわかっている意識」のことです。
 潜在意識(無意識)とは「自分がなにを考えているのかわかっていない意識」のことです。これはフロイトにより「発見」されたとされ、その最初の著書『夢判断』で明らかにされました。が、最初はまったく注目されず、『夢判断』も1899年に出版されて以来、6年間で351部しか売れなかったそうです。私としてはなんだか親近感を覚えますが。
 自分自身をじっくりと観察してみるとすぐにわかることですが、私たち人間は「自分が意識してやっていること」と「自分が無意識にやっていること」の両方があります。そして前者はとても限定されていて、後者はほとんど無限といっていいほどさまざまな行動パターンがあることがわかります。
 私たちはなにかものごとを考えるとき、生まれ育ったり、社会生活をいとなむ課程で習得してきた思考パターンを使ってしまいます。朗読するときのことを考えてみましょう。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』を朗読するとします。あなたはほぼ自動的に「夏目漱石という文豪の有名作品を読むのだ」という思考にとらえられます。その思考にとらえられたまま読みはじめると、「夏目漱石らしく」「猫らしく」読もうとして、本来のあなたらしい読み方はどこかに行ってしまいます。この「漱石らしく」読んでしまおうとする思考パターンを捨てることは、けっこうやっかいです。なにしろ強力に刷りこまれていますから。
 このとき、顕在意識の思考パターンを捨て、潜在意識に朗読を任せることができたら、そこにはまったくとらわれのない、自由な、本来のあなたらしい表現が生まれてくることでしょう。

 潜在意識は非常に処理能力が高いのです。顕在意識は一本の思考回路をたどたどしくたどることしかできませんが、潜在意識は同時にいくつもの思考処理ができます。「直感」に判断をまかせたとき、たいがいうまくいくのは、この潜在意識がいい仕事をしてくれたからです。もっとも、この直感も、潜在意識の声に耳を傾けることに堪能でなければ、なかなか正常に働いてくれることはありません。
 思考能力を高める、とは、顕在意識における論理的な思考能力を高めることではなく、潜在意識を開放して自在に思考させてやり、その結果を無意識の暗闇の奥から上手にすくいとる能力を高めることです。
 潜在意識にアクセスするには論理思考や雑念を取りはらっていく瞑想しか方法がありません。瞑想といっても、座禅やヨガのように苦しかったり難しかったりすることではなく、ただ自分の呼吸の観察からスタートして、マインドフルネスの状態を作るだけでいいのです。
 この方法は私なりに、音読療法のなかできちんと体系化することに成功しました。

音読療法は来年、音読療法協会の主催講座へと移行します

来年2012年は音読療法をさらにしっかりと進めていきたいと思っていますが、資格の名称や主催についてわかりにくい部分があったので、整理してみました。
まず名称について、音読療法士とかボイスセラピストとか、多少混乱しておりましたが、以下に統一することにしました。

「音読療法士(=英語名称ボイスセラピスト voice therapist)」

資格は以下のものを発行していきます。

ボイスセラピスト2級(音読療法士2級)
ボイスセラピスト1級(音読療法士1級)
音読療法士マスターコース修了(ボイスセラピスト・マスター)

2級は現在、現代朗読協会の「音読療法協会準備部(仮)」が主催してますが、なるべく近いうちに2級も1級もマスターコースも音読療法協会の主催に移管していく予定です。
すでに音読療法協会のためのドメインは取っています。「voicetherapy.org」です。

マスターコースを受けるには2級と1級を先に取っておいていただく必要があります。
音読療法士の認定を受けると仕事があるかどうか、協会としては保証しません。雇うわけではないので。ただし、協会としては音読療法の啓蒙普及活動には力を入れますので、学校やホーム、企業など団体から療法士の派遣依頼を受けた場合、お願いしていく形になるでしょう。
また、自宅などで療法士として開業し、ホームページで告知宣伝しながら仕事としてやっていくことのサポートは、希望があればできるだけやりたいと思っています。

1級はまだ発表していませんが、4月の全日曜日の半日(10:00-13:00)を4回受講してもらいます。
マスターコースは9月スタート予定で、月に3回、日曜日の丸一日を使って、1年間やります。全110時間の予定です。費用についてはお問い合わせください。

女性が自立しながら、かつ社会貢献、社会参加していける仕事の創出ということで、私もかなり真剣に取り組んでいます。いや、男性も歓迎ですけどね。

NVCを学びたいと思っている方へ

私が参加しているNVC(Nonviolent Communication)のメーリングリストに以下のようなメッセージが回ってきたので紹介します。
 昨日の記事にも書きましたが、2月にやってくるロキシーのワークショップの詳細を知ることができます。

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CNVC認定トレーナーではありませんが、BayNVCでトレーナーとして活躍しているロク
シー・マニングさんを迎えて、2月18日-19日の週末にワークショップを計画していま
す。テーマはNVCベースのチーム・ビルディング。

☆NVCを学んで自分のニーズとつながることや、自分のニーズを大切にすることはわかった
けれど、みんなが自分のニーズに正直でいたら、コミュニティやチームとしてやらなきゃ
いけない仕事はどうやって分担するの?

☆誰かがやらなきゃいけないのだから自分が責任を負おうとしてきたけど、消耗感が強く
てもう疲れました。

☆同じ目的を持って集まった仲間なのに、意思疎通がうまく行かなくてスムーズにことが
運べない。そんな時、どうすればいい?

☆みんなで分担している仕事をひとりだけやらずに済ませているあの人、どうやったら仲
間だ、と思えるようになる?

こんな思いを持っている人にはきっと学べることが多いはず。
ご興味がある方は、ぜひこちらでロクシーについて、ワークショップの詳細についてチェックしてみてください。アンケート&先行予約も受け付けています。
また、お知り合いの興味のありそうな方々へもぜひご紹介ください。
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2012年名古屋でやりたいこと

2009年「Kenji」、2010年「Ginga」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき」「特殊相対性の女」と大きな公演を実現しましたが、2011年の今年は名古屋の皆さんとあまり多く関わることができなくて心残りでした。
 そこで、来年2012年はいくつかアイディアを暖めています。

 今年10月から今月にかけて小牧市のこまきみらい塾というところで「現代朗読講座」を開催させていただきました。そのときの受講生の方から、また受講チャンスがあればぜひ参加したいという声をいただいてます。
(小牧の塾のみなさん、ここ、読んでますか? 読んでおられたら連絡くださいね。塾生の名簿をいただいてないので、こちらからは連絡の取りようがないんですよ)
 そこで来年は、東京の現代朗読協会でやっている方式の表現ゼミと、ひとつの作品を参加者全員で作りあげていく過程で朗読表現を学ぶ方式のワークショップ、そして個人セッションをまじえた一日を、月に一、二度の頻度でやれないかとかんがえています。
 ウェルバのように、「公演ありき」ではない方向でやっていきます。
 興味があるという方はぜひ私までご一報ください。

音楽を消さないために

音楽CDがびっくりするくらい売れなくなってしまったらしいです。それなのに、人々が音楽を消費する量は、むしろ以前より増えています。
では、ケータイの着メロなど、ダウンロードコンテンツが買われているのかといえば、それもCDが売れなくなった分を補完するにはまったく足りないらしい。
人々はどこから音楽を買っているのでしょうか。
実は買ってはいないのです。ネットを探せばいくらでも無料で聴ける音楽があります。人々はもはや、音楽を聴くのにお金を払う必要がないのです。
しかし一方に問題もあります。たとえばあるアーティストのある曲を聴きたいと思って、検索して飛んでも、そこにはオリジナルの曲ではなく、カバー曲がずらりと並んでいます。ほとんどが素人がカバーした稚拙な音源です。オリジナル音源にたどりつくのは容易ではありません。そしてオリジナルは、レコード会社によって(CDの売り上げを確保するために)削除されたりしています。
音楽を作る人や、クオリティの高い音楽を確保するために、音楽を享受している人もそれなりの負担をし、制作者にそれが渡されるあらたな仕組みが必要になっている時代が来たように思います。かといって、どんな仕組みが適切なのかは、私にもわからないんですが。

2011年12月26日月曜日

音読療法2012

音読や朗読が私たちの心身の調整によい影響をもたらすことは、ここ10年以上の朗読演出の経験でなんとなくわかっていたことです。それが、311の震災を経て「音読ケア」という形で明確に心身のケアのために使うことを始めたとき、その有効性の確かさを確認することができました。
これをなんとか、心身の不調を感じている多くの方の役に立てたいと思い、音読療法を体系化することを始めたのが今年でした。さまざまな文献を読んだり、自分自身の経験の蓄積を名文化したりして、東北の被災地を始めチャンスがあるたびに音読ケアの実践をしてきました。ますます有効性を確信しました。

補完医療としての朗読療法をきちんと体系化し、これを使って心身ケアを実施できる音読療法士を育成することを目的に、10月くらいから第一期のマスターコースをスタートさせました。参加者はたったの4人ですが、大きな手応えを得ています。
また、ボイスセラピスト2級講座も実施して、6人のボイスセラピストが誕生しています。こちらはマスターコースとは違って、おもに実践的な手法を体得してもらって日常生活のなかですぐに役立てられるようにするための講座です。
グループワークができる1級講座は、来年の4月に集中的に実施する予定です。
第一期のマスターコースは、内容とカリキュラムを検証する意味合いもあって、気心の知れた知り合いに参加してもらっていますが、第二期以降は本格的に一般の方を対象に展開するつもりです。これはいまのところ、来年の9月からスタートする予定です。習得におよそ110時間、約1年の期間を要します。

補完医療としてさまざまな手法が存在していますが(音楽療法、アートセラピー、などなど)、音読療法はなにも道具を必要とせず、いつでもどこでも自分の呼吸と声と身体を使って自分自身やだれかのケアができる方法です。欝病やパニック障害を含む不安神経症、適応障害などに明らかな効果があることがわかっています。
これが広まって、心身に不調がある多くの人にお役に立てることができたらうれしいです。

次回ボイスセラピスト2級講座は、2012年2月5日(日)に開催されます。

ロキシーが来るよ

カリフォルニアのベイNVCでトレーナーをしているロキシー・マニングが、来年2月のなかごろにまた来日してくれることになりました。
 彼女とパートナーのバーバラは震災直後の4月末にも来日して、とてもおだやかなワークショップをやってくれました。おかげでとても落ち着かない気分だった人たちもだいぶ助かったのです。

 今回の来日のメインは2月18日(土)から19日(日)にかけておこなわれるNVC合宿です。テーマは「共感的コミュニケーションで育てる組織・コミュニティ」といったものです。
 組織やコミュニティには家族もはいりますし、会社組織のようなものも含まれます。
 メインのワークショップ以外に、平日の昼間や夜に3時間くらいのみじかい入門ワークショップをやってもらおうと思っています。
 この企画運営を手伝ってくれる人を、私が個人的に募集しています。
 会場は羽根木の家を使います。通訳もやってくれる人が決まっています。
 手伝ってほしいのは、日時を決めたり、告知したり、当日に受付や会場整理をしたり、予算を立てて清算したり、といったことです。
 スタッフ参加なので、参加費用は不要です。ただし、事前に一、二度、打ち合わせの時間をいただく必要があります。
 招聘をおこなっているメインのチームも全面的にサポートしてくれると思います。

 NVCにスタッフとして関われる、またロキシーとバーバラに直接知り合うことができるチャンスなので、興味がある方はお知らせください。
 まずは相談、ということでも歓迎です。

歯のはなし

電動歯ブラシというものをいただきました。
 これまで一度も使ったことはなく、もっぱら手動の歯ブラシでした。でもちょっと興味はあったのです。最近はさまざまな機能のものや、強力なものが出ていて、電車内の広告などでちらちらと見ては気になっていました。
 いただいたので、さっそく使ってみました。外出時にも持っていけるコンパクトなモバイルタイプです。動力は単四電池一本。
 ちょっと頼りない感じがしたんですが、使ってみるとこれがなかなか強力。人間の手では作りだせない微細で強い震動が、歯茎から歯の根元にかけて磨いてくれます。歯磨きごときを機械の力に頼るのがちょっと悔しいような気もしますが、かなり効果的です。
 私の友人でほぼ同年代なのに、歯が3本しか残っていないという話を聞いて、ちょっとびっくりしました。また、「8020」という運動があるとも聞きました。これは80歳で20本の歯を残すという運動だそうです。それを聞いて、80歳で20本の歯を残すことがそんなに大変なことなのかと思ったのです。
 いまのところ私の歯は全部残っています。これが20数年あまりで(生きていればですが)20本にまで減ってしまうなんて、ちょっと想像できません。それは嫌なので、歯磨きはきちんとしようと思っている次第であります。

2011年12月25日日曜日

クリスマス前とクリスマス後とでは気持ちが違う

クリスマスになるといつもちょっとほっとします。ようやくクリスマスの喧噪から開放され、ここ1か月くらい街に出ると毎日強制的に聞かされつづけたクリスマスソングを聞かずにすむようになるからです。
 大晦日にかけて街はまだまだあわただしい空気ですが、クリスマスに向かう喧噪と、正月に向かうあわただしさとでは、決定的に空気感が違うような気がします。クリスマスが終わってから正月に向かう年末は、あわただしいなかにもどこかキリっと身が引き締まるような緊張があって、悪くない感じです。
 クリスマスをすぎると、あわただしいなかにも今年一年をそろそろ振り返ってみようかという気にもなります。
 私の2011年は本当にいろいろなことがありました。大震災は多くの方と共有している経験ですが、個人的にもいろいろありました。去年もこんなことを書いたような気もするんですが、今年もみっちりとできごとと思いの詰まった、一年が十年にも思えるような長いながい時間でした。
 年を取ると年々時間がすぎるのが早くなると多くの人がおっしゃるんですが、私はまったく逆で、年を取れば取るほど時間が濃密にゆっくりとすぎていくように感じています。残り一週間ですが、これもまた何か月分にも匹敵する大切な時間になるのかもしれません。

2011年12月24日土曜日

楽しい年末

クリスマス(イヴ)ですね。
 年末ですね。
 なにかとあわただしいこの時期、街に出ると大変なことになってます。なので、家にこもってひっそりとしようとしてます。といっても、忘年会が続いて、ひっそりしているわけにはいきません。
 一昨日はNVCの会の忘年会でした。
 昨日は現代朗読協会の忘年会でした。
 どちらも大変楽しくてにぎやかな会となりました。そしてどちらもただ表面的にガサガサー騒ぐのではなく、深い話をして共感を深めることができたのです。
 昨日のげろきょの忘年会では、何人か(何組か)が朗読パフォーマンスを披露して、質の高い楽しさを共有できました。
 あ、そうそう。その忘年会の前に羽根木の家の大掃除と、柚子の収穫をしました。今年は柚子の当たり年で、たわわに実った柚子を叩き落として、大量の収穫がありました。これもまた楽しかったのです。
 そして今夜はテキスト表現ゼミのクリスマス会です。今年一年、テキスト表現ゼミを開催してきて、大きな成果を見ることができました。まだまだ可能性はありそうです。来年はどのような成果が出てくるのかとても楽しみです。
 来年はテキストゼミと朗読ゼミが統合され、表現ゼミという形になります。

2011年12月23日金曜日

純粋な好奇心をもって相手の心の森を探検する

昨日は朝ゼミの、月に一回やっている部活編でした。ゼミメンバーが集まって、まずはこたつに足を突っこんで暖まりながら、気づき報告。これはマインドフルネスを実践することで気づいたことを、お互いに報告しあう時間です。この時間がうちのゼミのキモといってもいいでしょう。共感的コミュニケーションの勉強の時間でもあります。
 それが目的ではないのですが思いがけず人生の問題が解決したり、考え方が変わって楽になることがあります。けっこうしょっちゅうそれが起こっていて、私にとっては大事な時間なのです。参加者も大事な時間だと思ってくれているといいなあ。
 ここで私がやっているのは、ただ純粋な好奇心をもって相手の話を聞く、ということです。そのことだけをやっているといってもいいでしょう。あるささいな問題に気づき、それを話してもらったとき、どのような感情を持っているのか、そしてその感情はどのニーズから起こっているのか、ただひたすら聞いていきます。
 ささいな問題でも、思いがけず大切なニーズにつながっていたりすることもあります。そういうときは、小さな入口から踏みこんでみたら思いがけず大きな森だった、という感じを受けることがあります。大きく暗い森の奥へ奥へと、純粋な好奇心を持って相手といっしょにはいっていきます。そのとき、なるべく頭は使いません。理屈をこねたり、なにかを判断したりする大脳皮質にはお休みいただいて、好奇心という心のサーチライトでひたすら相手の感情とニーズをたよりに森の奥へと踏みこんでいきます。
 すると、宝物を発見できます。
 発見できないこともあります。また、小さな宝物は発見したけれど、さらに大きな宝物が奥にありそうな感触があって、そこへはまだ届かない、ということもあります。
 森の奥へとはいっていくのは、本人も私も実は少し怖いのです。でも、わくわくする好奇心がそれをまさります。相手とつながりたいというニーズのほうが、怖れよりも強いからです。
 昨日も大小いくつかの宝物を見つけることができました。ゼミ生のみんなには感謝なのです。

 夜はNVCのコアメンバーの忘年会でした。
 羽根木シェフの真理子が仕込んだ材料をたくさん持ってきて、夕方からディナーの準備をしてくれました。
 夜は15人ほどメンバーが集まって、ディナー忘年会。オーガニックでおいしい料理と、持ちよったお酒。もう満足以上で、話も夜遅くまでにぎやかに盛り上がりました。
 来年は2月にロキシー・マニングという公認トレーナーをアメリカから招聘することになっています。その企画もきっとうまくいくことでしょう。

人とつながり自分を表現する生き方

マインドフルネスと共感的コミュニケーション、すなわち音読ケアと表現というものを生活の中心に置いたとき、世界がガラッと変わりました。既成概念と予断に満ちた世界観から、瞬間瞬間の偶有性に対してわくわくできる時間が持てるようになると同時に、自分自身に対するメタ認知によって移り変わりゆく感情に対処できるスキルを持てるようになりました。
これは私の話です。
 が、このスキルは万人が共有できるものだと思います。つまり、技術は人から人へと伝えることが可能な情報群によって成り立っているものだからです。
 このスキルは、実は5,000年前から人類のなかにあったものです。しかし、余剰生産が生まれ、富の偏在、国家システムの成立が始まったときから埋没しはじめ、産業革命から資本主義経済の進展のなかで急速に忘れられていったスキルです。
 もう私たちはすでに物質過剰文明の幻想を捨てたくなっています。物質や金銭を求めることのなかに幸福がないことを、ほとんどの人は実感しています。いま私たちが短い人生のなかで向かいたい方向性は、本当は私もみなさんもわかっていることなのかもしれません。
 とにかく私は、今日も、マインドフルネスと共感的コミュニケーションをこころがけ、人々とつながり、自分自身を表現することを生きたいと思います。

2011年12月22日木曜日

私はもう冬のいちごを食べたくない

いちごは夏の果物という印象が私にはありますが、市場では冬が出荷のピークということです。
 とくにいまの時期、冬至に向けての出荷がもっとも多くなります。もちろん、クリスマスケーキなどに使われるいちごの需要が増えるからです。
 この時期のいちごは当然、温室栽培です。温室といっても、ビニールハウスだけでなく、灯油をたいて温度をあげ、日照時間を確保するために照明をつけます。そしてもっとも重要なのは、いちごの花の受粉です。
 受粉作業に使われるのは蜜蜂です。当然、日本の蜜蜂はこの時期活動していませんから、オーストラリアなどから輸入されます。空輸されてきた蜜蜂をハウスに放ち、いちごを受粉させ、実を収穫するのです。
 この輸入蜜蜂はほとんどが使い捨てだと聞きました。翌年はまたあらたに輸入するのです。そのほうが、繁殖させて維持させるより手間もかからないし経済的だからです。
 このような話を聞いて、私はなんとなく、いちごが乗ったクリスマスケーキを食べるのがいやになっています。それを食べなくてもとくに困らないですし。
 みなさんはどう思いますか?

2011年12月21日水曜日

アレクサンダー、NVC、朗読原稿

昨日の夜はケンちゃん講師で今年最後のアレクサンダー・テクニーク講座でした。
 参加したのはかっしー、さよ、のの、ゆいさんとお友達、そして私。私はもう5年もやっているのに、毎回なにかしら発見があって驚きます。そして昨夜はケンちゃんから、
「いままでやってきたけど、今夜が一番アレクサンダーを使えるようになった」
 といってもらえました。うれしい。

 講座のあとはみんなで掘りごたつに足を突っこんで、お茶会。そして、話はNVCへと。
 アレクサンダーも初心者のさよさんと、ゆいさんのお友達は、NVCのこともまったく知らなかったので、その説明から始まって、具体的な練習へ。時間が充分になくてざっとしかやれなかったけれど、NVCの感触はわかってもらえたかもしれません。
 ケンちゃん、お疲れさんでした。

 ところで、一昨日くらいからたるとさんに「徳島チャレンジ祭」で読んでもらうためのテキストを書いています。
 合間を見てコツコツと書きすすめています。たいていは筆が早くて一気に書きあげてしまうタイプの私ですが、これは時間がかかっています。けっこう難しいことに挑戦してしまったかもしれません。

 今夜は音読療法の勉強会。
 明日はゼミ。そのあとワンコインランチをサービスする予定です。なにを作ろうかな。

「畳の学校」構想

だれでも気軽に参加できる「畳の学校」というものをやってみたいな、と思っています。
たとえば、小さなお子さんがいてなかなか勉強の場に参加できない、というような女性でも、子連れで来れるような場です。子育て中の女性は、多くの問題に直面しています。原発を含む環境問題、社会問題、教育問題、福祉の問題、そしてパートナーやその家族とのコミュニケーションの問題。そういった問題に直面している自分自身の心身のケアも必要かもしれません。これらのことをいっしょにかんがえ、理解しあう仲間がいるというのは、どれほど心強いことでしょう。
子育て中の女性だけでなく、いまの社会に不満を持ったり、漠然とした不安を抱えている人はたくさんいるんじゃないでしょうか。そういう人が集まって、知識や理解のある人から話を聞いてかんがえをクリアにしたり、自分たちが知恵を出しあったり、メンタルケアを学んだり、といった場ができるといいなとかんがえています。
幸い、羽根木の家というスペースがあるので、そこを開放できます。ともかくまず始めてみようかな。
興味がある方は連絡ください。いっしょに「いま」と「これから」をかんがえる場を作りましょう。

2011年12月20日火曜日

「エネミー・イメージ」を払拭して先入観なく人と接する

エネミー・イメージ(enemy image)とは、ある人に対する敵対的な先入観(image)のことです。これがあると、その人との関係がぎくしゃくしたものになります。ときにはその人に会うことに恐れや嫌悪を抱いたり、ついには顔を見るのも怖くなります。
 ポイントは、このエネミー・イメージがこちら(主体)の側に勝手に形作られ、それが「思い込み」となっている場合が多い、ということです。敵だと思う必要のない人にまで敵対的先入観を持ってしまうことが多いのです。それで不必要なディスコミュニケーションがしばしば起こります。
 例をあげましょう。
 最近引っ越してきたマンションの隣の部屋の住人が、まったく挨拶にも来ない。廊下ですれちがってこちらから声をかけても、ろくに返事もなく、顔を合わせない。こういったとき、こちら側は往々にして、彼に対して敵対的イメージを持ってしまいます。そうなると、隣人のなすことことごとくが憎らしく感じるようになります。
公共スペースであるはずの廊下に平気で何日もゴミを放置してあるのを見たとき、こちら側は怒りを覚えます。そのことを注意してやろうと機会をうかがいます。
 ある日、出かけようとしている彼に偶然出くわしたので、文句をいってやります。
「あなたね、ここはみんなが通る廊下なのよ。いつまでもゴミを放置しておかないで片付けてくださらない? できればいますぐ」
 相手もムッとした顔になります。場合によっては罵倒されるかもしれません。
「うるせえよ、ばばぁ。そんなに気になるなら、あんたが片付けりゃいいじゃん」
 こうなると売り言葉に買い言葉です。
「なんであなたのゴミをあたしが片付けなきゃならないのよ」
「おれは気になんねえんだよ。気になったあんたが片付けりゃいいだろ」
 あとはもう延々と暴力的な言葉の応酬です。ふたりの関係は破滅です。
 少しおおげさに書きましたが、こういったことは私たちのなかでしょっちゅう起こっています。家族の間、友人との関係、職場、地域社会、気づかないほどささいなエネミー・イメージが生まれては消えていってます。が、それらの積み重ねが、ある人に対する特定の先入観を形成していくのです。
 これを避ける方法があります。なにか起こったときに、相手に怒りを向ける前に、自分のなかにある怒りをまず見るのです。自分がどのように怒っているのか。そして存分にその怒りをあばれさせてやります。ただし自分のなかで。
 そのあとでゆっくりと、その怒りがどこから来たものなのか観察します。上記の例だと、隣人が廊下にゴミを何日も放置してある、という事実がまずあります。そのことでこちらは怒りを覚えたわけです。
 次に、その怒りは自分のどういうニーズ(望み・必要性)の不足から来たのか探します。怒りも悲しみも喜びも、すべてあるニーズの不足もしくは充足からやってきます。この場合だと、公共のルールを守ってほしいという規律性のニーズかもしれませんし、挨拶もしないゴミも片付けないということで隣人から尊重されていないと感じているせいかもしれません。あるいは隣人とちゃんと理解しあってつながりたいのに、ろくにコミュニケーションを取れないことでイライラしているのかもしれません。つまりつながりのニーズが満たされていないということになります。
 自分のなかにどういうニーズがあるのかわかると、感情の原因もわかります。自分がなぜこんなに怒っているのか、自分で共感を持つことができます。そのとき、人はみなちょっと落ち着くのです。
 落ち着いたら次にやるのは、相手のニーズを推測することです。彼はこちらと戦うためにここに引っ越してきたのでしょうか。もちろん違います。彼には彼なりの理由があって、そのような態度を取ったり、ゴミを放置したりしているのです。そのニーズを推し量るのは難しいことですが、とにかくやってみます。
 彼はなにか事情があってとても不機嫌なのかもしれません。あるいは人に挨拶するのが怖いのかもしれません。対人恐怖症で、だから挨拶にも来ないし、返事もろくにしないのかもしれません。ゴミを外に放置するのは、じつはすでに部屋のなかがゴミであふれ返ってるのかもしれませんし、逆に異常な潔癖性でゴミを部屋のなかに置きたくない、ゴミ置き場に持っていくこともできないのかもしれません。ひょっとしてゴミを廊下に置きっぱなしにすることでなんらかの切ないメッセージを発信しているのかもしれません。
 というような推測は、あくまで推測なので、あたっていなくてもいっこうにかまいません。相手のニーズを推測することで、相手もまたこちらと変わらない人間であり、実はつながりを求めているのかもしれないと思いやってみるだけで、相手に対するエネミー・イメージが消えていきます。
 この推測する行為を「相手に共感(エンパシー)をあたえる」といいます。
 自分に共感を与え、相手に共感を与えることで、敵対的イメージではなく、共感関係になるための土台を作ります。
 エネミー・イメージが払拭されたとき、こちらから相手にかけられる言葉が変わります。
「なにか不都合があってゴミを置き場まで運べないのだとしたら、よかったらわたしが持っていきましょうか?」
 相手はどう答えるでしょうか。ひょっとしたらまた暴力的な返事が返ってくるかもしれません。そうしたらまたフィーリングとニーズの作業を繰り返します。
 うまくいけば、相手と少しずつつながりが生まれるかもしれません。そのつながりの質を高めていくこともできるかもしれません。それができるかどうかは、相手の態度ではなく、こちら側の態度や考え方によるのです。まずはエネミー・イメージという先入観を捨てることができるかどうかです。

NVCは有用だけど特別な方法ではない

NVC(Nonviolent Communication)という方法は、アメリカのマーシャル・ローゼンバークによって体系化された優れた共感的コミュニケーションです。
 これはアメリカ国内だけでなく、ヨーロッパを始め、全世界に広がりつつあります。この公認トレーナーは英語の語学スキルだけでなく、さまざまなスキルを長い時間を使って習得しなければなりません。世界にたくさんはいません。
 とても優れた方法なので、私も身につけたいと勉強していますが、いまから公認トレーナー資格取得をめざす時間も余裕もありません。でも、資格がなくても、名乗ることはできなくても、ただ黙って実践することはできるのです。しかも完璧に実践できなくてもいいのです。トレーナーたちも自分が完璧に実践できていないことを正直に白状しています。
 もともと人は生まれつき、だれかとつながりたい、共感しあいたい、という強い欲求を持っています。しかしそれが教育や、競争社会、効率追求、経済至上主義などのなかで抑制されたり、ゆがんだ形で表現されるようになってしまいました。犯罪や心の病の多くが、人とうまくつながれなかったことで起こってきます。
 NVCは特別な方法ではありません。なにしろ私ですら、こんな年齢(50歳を越えて)からでも学び、身につけることができるのですから。

2011年12月19日月曜日

体験講座、トランジション世田谷の忘年会、共感的コミュニケーション

昨日は現代朗読体験講座が午前中からありました。しかしドタキャンが1人、そして無断欠席が2人! 結局、少人数開催となりました。それはそれでじっくりやれるからいい面もあるんですが。
 参加の方がそのまま残って、いっしょにお昼を食べながらげろきょの記録映像などを見ました。そして午後はそのままNEXTへ。

 午後4時にトランジション世田谷茶沢会の桃さんとあさわさん、ほかに何人か来られて、忘年会。
 その前に、エンパシーサークルというNVCのエチュードを使って、共感的コミュニケーションの練習を兼ねたお互いのニーズのシェアをしました。初めての人ばかりだったにもかかわらず、和気あいあいと共感を深めることができたと思います。
 そのあと、忘年会。持ち込みの料理やお酒をおいしくいただきました。
 夜がふけるにつれ、ふたたびニーズの話に。私がエンパシーバディとなって桃さん、あさわさん、アーチさんと深いニーズにつながる話をさせてもらいました。
 気がついたら日付が変わる時間。共感的コミュニケーションが組織やコミュニティの運営にとても役に立つことを強く実感しました。

冬至から年末、年始の移動へ

今年2011年の冬至、つまり一年で一番日が短く夜が長い日は、12月22日だそうです。
 私の苦手な寒い季節がいよいよ本格的にやってくるんだなあ、という思いと、これからは日一日すこしずつ日が長くなっていくんだ、というかすかな喜びが交叉します。
 そしてクリスマス、大晦日、正月とつづき、2011年から2012年へと年が変わります。
 この記憶にとどめるべき2011年はどのように暮れていくのでしょうか。そして新しい2012年はどのように明けるのでしょうか。
 私は毎年恒例となりましたが、元旦まで東京に残って年を越し、元旦に北陸の実家に移動します。年末の移動は大変ですが、年が明けるとがらっと楽になるのです。とくに元旦は移動する人もすくなく、楽です。
 新幹線で帰ることもあれば、飛行機で帰ることもあります。新幹線のときは、右側の窓側の席からたいていくっきりと富士山が見えます。これまで元旦の移動ではたいてい、太平洋側は晴天のことが多かったのです。が、北陸側は対照的にどんよりと雲が立ちこめて、雪が降っていることもあります。今年はどうなんでしょう。
 飛行機からは立山連峰や白山のそれはそれは気高い雪山の風景を見下ろすことができます。
 年始の移動は気持ちが引き締まってなかなか気にいっています。

2011年12月18日日曜日

ライブワークショップ、昼ゼミ、テキスト表現ゼミ

昨日は午前10時から「朗読はライブだ!」ワークショップの今期2回めでした。
 今回も一貫して身体のこと、感受性のことのエチュードと解説をしています。口先の技術だけでは朗読表現の質の劇的な向上は望めないのです。今期の最終ライブは2月18日ですが、今回も期待できそうです。

昼は東松原の〈アイキッチン〉に行ってカレー。
 土曜日の午後だからでしょうか、満席で、しかも回転率が高い。ここは値段が安いんですが、これだけお客さんが回転すれば相当なものでしょう。

 午後3時から昼ゼミ。
 昨日は敦子さんと美子さんのふたりだけ。こたつでまったりとやりました。
 敦子さんが23日のロードクパーティーで披露したいということで、私の「セカンドステージ」という作品をピアノと合わせて練習してみました。音楽と朗読が共演するということについてお伝えしました。音楽は朗読の伴奏ではない。演奏者と朗読者がコミュニケーションを取りながらひとつの表現作品を作っていくことについて。

午後6時からテキスト表現ゼミ。
 昨日もふなっちが差し入れを持ってきてくれたので、おいしくいただきました。ロールケーキ。
 ふなっちが最近もてもてで、朗読者から原稿依頼が次々と舞いこんでいます。昨日も福豆々子さんからの依頼だという作品にアドバイスしました。
 奥田くんはひさしぶりの時代小説を書いてきました。うまい。ほとんど商業作品のクオリティに達しています。しかし、そこをさらに超えていってほしいのです。
 あい子さんは基礎体力をつけてもらうために、日常的なスケッチ作品に挑戦してもらっています。自分の身体性、感受性に敏感になる作業でもあります。マインドフルネスが要求されます。なかなかいい感じ。

 ゼミが終わってから、アレクサンダー・テクニークを使っての歩き方や姿勢のことをちょっとやったり、これからの社会がどのようになっていくのかについてのけっこうディープな話をしました。気がついたら10時近くに。
 来週がテキスト表現ゼミの最終回なんですが、ちょうどクリスマスイブということで、クリスマス会をかねてまったりやることになりました。

マインドフルネスからすべてが始まる

いよいよ師走も押し詰まってきて、みなさんもあわただしい日々をすごしていると思います。こういう時期にはとかくマインドレス(mindless)になりがちです。つまり、「いまここ」の自分やまわりのことに意識がなく、「気づき」のない状態のことです。こういう状態だと時間はあっという間にすぎていき、さらにあわただしい気持ちが切迫してしまいます。
 私が関わってきた朗読も、音楽も、テキスト表現も、音読療法も、すべてはマインドフルネス(mindfulness)の意識が中心にあります。これは特定の宗教とも、スピリチュアル系のなにかとも、関係がありません。たんなる意識のありようです。
 とくに現代人はマインドフルを心がけて日々をすごすことで、多くの問題を解決できます。表現行為においてもマインドフルを中心に置いておこなうことで、行為のクオリティを劇的に向上させることができます。
 ただ、実際にマインドフルを実践しようとすると、ちょっとしたコツがいります。すぐに実践できる人はなかなかいません。私たちはマインドフルをさまたげる社会構造のなかに生きているからです。
 しかし、一度マインドフルを手にいれ、それをある程度習慣づけることができれば、豊かな時間が待っています。これは特定の宗教やスピリチュアル系のなにかの勧誘文句ではありませんよ(笑)。

2011年12月17日土曜日

カラフル筆ペンが楽しい

何度か書いてますが、手帳が大好きで、いつも肌身離さず持ち歩いてます。これは若いころからの習慣です。
 以前はかなり重いシステム手帳を使っていたんですが、いまはモレスキンのポケットサイズ一冊に落ちついてます。軽装です。
 この小さな手帳に細いペンでちまちまと書きこみをするのが好きだったんですが、最近ふと思いついて、筆ペンを使ってみることにしました。当然ペンよりは文字が太くなるわけですが、いろいろな線で書けます。太くも書けますし、筆先を使えばかなり細い線も書けます。ちょっと大変ですが、すごく小さな字も書けます。
 文房具屋に筆ペンを買いに行ったとき、たぶん若い女の子向けの商品だろうと思うんですが、いろいろな色のカラフルな筆ペンが並んでました。これはなかなか楽しいペンです。しかも安い。
 何本か買ってきて、さっそく試しています。
 手帳のページがカラフルになって楽しいのです。メモの内容ごとに色分けしたりしてます。そうすると、どんどん違う色が欲しくなって困ってしまいます。
 せっかく手帳をコンパクトなものにしたのに、ペンをたくさん持ち歩くことになれば、荷物は多くなってしまいます。持ち歩くペンを何本に絞るか。楽しい悩みどころですね。

2011年12月16日金曜日

ヘアカット、青山散策、Facebookの勉強会

うっかりしてたら髪が伸びっぱなしのまま年を越してしまいそうだったので、あわてて予約をして髪を切りに行ってきました。年末になると混みそうだったし。
 いつも切ってもらっている外苑前の〈ラルテ〉という店。
 昨日、電話をいれて、ちゃんと時間も決めたはずなのに、勘違いして1時間も前に行ってしまいました。ラルテの開店時間は12時なのに、11時だとばかり思いこんでしまったのです。
しかし、天気もよかったし、青山界隈を散策することにしました。このあたりはクリスマスの装飾もあまりけばけばしくなく、落ち着いた雰囲気です。古い店と新しい店がほどよく混在している感じも悪くないですね。
 散歩して、コーヒーを飲んで、12時になったのでラルテに行き、髪を切ってもらって、さっぱり。
さらに渋谷まで歩くことにしました。というのも、昨夜、ケンちゃんのアレクサンダー・テクニークで教えてもらった歩き方を散歩で試してみたところ、なかなか具合がよかったからです。これについてはすでに書きました。

 夜は現代朗読基礎講座に参加してくれた杉さんがFacebookのレクチャーをしてくれるというので、興味があるゼミ生が集まってお勉強会。機能が盛りだくさんすぎてわかりにくいFacebookについて、いろいろ解説してもらいました。
 杉さん、ありがとう。
 で、私としては、Facebookではなく、Google+のほうがあらためて親近感がわくなあ。

だれかに読んでもらうために作品を書く

朗読やナレーションのための原稿を書きはじめたのは、たぶん30年近く前にさかのぼります。
 最初はFMラジオの番組のためのスクリプトでした。まだ作家になる前で、番組の構成をアルバイトでやっていたのです。20代のなかばでした。
 番組用のスクリプトは、たいていの場合、だれが読むのか決まっています。なので、スクリプトを書くときは読み手の声や顔・姿を想像しながら書きます。
 その後、作家になって以降は、自分のテキスト作品を番組内で読んでもらうことが多くなり、番組も私のテキストと音楽で構成されるようになりました。ずいぶんたくさんのテキストを書きました。いずれも読み手のことを考えながら、音声化されることを前提に書きました。それを書くとき、私はいつも、頭のなかで文章を読みあげています。なので、私の文章はいずれも、声に出して読んでもらえるようにできています。

 最近は朗読のためのテキストを書くことが多くなってきました。
「沈黙の朗読」のシリーズである「記憶が光速を超えるとき」や「特殊相対性の女」、今年一宮の美術館で上演した「繭世界」など、たくさんあります。いずれも特定の読み手を想定しています。こういうのを「あてがき」といいますね。
 来年の1月(といっても来月ですが)には、ゼミ生で徳島在住のたるとさんが徳島の「チャレンジ芸術祭」に出演するというので、そのための朗読テキストを提供することになりました。たるとさんへのあてがきです。ギターの方と共演するというので、ギター演奏をどうからめるかについても、シナリオ的に若干の指示を書きこんでます。
 まだ完成してませんが、書きあげて、たるとさんに読んでもらうのが楽しみです。そして実際にどんなパフォーマンスになるのか、それが一番の楽しみです。
 見に行きたいくらいですが、徳島はちょっと遠いかな。

アレクサンダーで歩き方が変わったら膝が楽に

ケンサンダー(安納ケン先生によるアレクサンダー・テクニーク講座をこう呼んでいる)で先日、歩き方について教わりました。
 O脚を気にしている人がいて、それを改善するための解説だったんですが、大腿骨の上部は骨盤の外側のほうに接続していて、それが斜めにひねりながら膝のところまで中にはいって降りてくる、という仕組みです。なので、脚を「まっすぐ前に」出そうとすると、どうしても股関節から外側に開いていってしまいます。大腿骨が内側にひねりこんでいる意識を持つと、脚が外側に開かずにすみます。
 というようなことを、今日意識しながら、長い距離を歩いてみました。

 私は十数年前に膝蓋骨を複雑骨折していて、その後のリハビリにも失敗して、長距離の歩行や畳での正座、あぐらができません。もちろん走ることもできません。
 今日は大腿骨の仕組みを意識して歩いてみました。すると、かなり楽なのです。
 まず、歩き方がかなり変わりました。まっすぐスッスッと脚が前に出る感じで、膝への負担もかなり減っています。これならけっこう長距離を歩いても平気そうです。
 今日は外苑前まで髪を切りに行ったんですが、帰りは渋谷まで歩いてみました。膝が楽で、散歩が楽しくなりました。天気もよかったですしね。
 毎日つとめて歩くようにしていますが、これからはより楽しく散歩を楽しめそうです。
 ケンちゃん、ありがとう。

年賀状を書こう!

何年ぶりでしょうか。年賀状というものを買ってみました。郵便局で。
 実はたんに面倒くさがりだったんですが、「虚礼廃止」てな標語を掲げてここ20年くらいまったく年賀状を書かなかったのです。いただいた方にも返信すらしませんでした。
 そのうち、世の中はメールに移行していき、郵便の年賀状はどんどん発行枚数が減っていきました。そして今年は東日本大震災・津波・原発事故があり、さらに年賀状を出すという雰囲気ではなくなったみたいです。
 明けましておめでとうございます、というような類型的な言葉を安易に投げられる時代ではなくなった、ということを人々は敏感に察知しているのかもしれません。
 鈍感な時代から敏感な時代へ。
 ならば、私は人々が書かなくなった年賀状というものを、敏感でデリケートな心をつくしながら書いてみたい、と思うのです。
 この時代に書く年賀状というのは、どういうものでしょうか。さまざまなことに思いを寄せ、相手の立場や心をおもんぱかり、言葉を選んで誠実に書く。それはいわば、自分との対話といってもいいかもしれません。そういう時間を、この2011年という記憶されるべき年の最後に持つというのは、悪いことではないような気がします。

2011年12月15日木曜日

げろきょデーは共感的コミュニケーションの実践日

今日は朝から朝ゼミでした。
 ゼミではいつも最初に「気づき報告」という時間を持つんですが、これは共感的コミュニケーションの練習みたいになっています。今日もまりもちゃんやフジサワさんらと共感的コミュニーションを深めることができました。これはなにより私の喜びなのです。

朝ゼミ後はみんなで新代田のピピカレーへ。裏メニューのカレーうどんをいただきました。
 ちょっと変わったカレーうどんでしたが、ダシがしっかり効いていて、なかなかおいしいものでした。パクチーが不思議によく合って、私は苦手ではないのでたっぷり入れていただきました。
 片岡さんから原道N50という中華Padを見せてもらった。中華PadなどというITジャンルができていたんですね。おもしろかった。

午後は2時から昼ゼミ。
 まずは朗読原稿のカット方法について。朗読は時間軸にそっておこなわれる表現なので、どうしても時間的制約がつきまといます。そのとき、長いテキストをどのようにカットするかについての考え方を、私なりに説明しました。こまごまとカットするのではなく、ストーリーのシーンで大胆にカットする手法です。これは、ストーリーを再重要視するのではなく、文章の「テイスト」を損なうことなく朗読の素材として扱うための方法です。
 ほかにひさしぶりに参加した菊地くんの姿勢指導などもおこないました。

 夜は7時からビデオゼミでした。
 朱鷺さんの都合で、今夜はG+ではなく、Skypeのグループ音声通話でやりました。たるとさんの幸せな朗読生活の話をうれしく聞いたり、朱鷺さんに藤村の「若菜集」を聴かせてもらったり、最後は野々宮に太宰の「朝」を読んでもらって楽しみました。

アーティストというよりクリエイター

若いころ、20歳すぎくらいからミュージシャンとなり、その後小説家、コンテンツプロデューサー、朗読演出家と変遷してきましたが、いつも自分が表現者とかアーティストと称することに違和感を覚えていました。
 毎月、下北沢・音倉でやっているランチタイムコンサートもピアニストとして演奏しているわけですが、なかなかお客さんが集まらず、本来自分が楽しく演奏できればいいと思っていたのに、外部評価ばかり気になり、いっそやめてしまおうかと何度も思ったのです。
 自分はアーティストとしてではなく、演出やセミナー講師など、だれかの潜在的な才能を引き出して伸ばしたり、育てていくことのほうが向いているのではないかと、とくに近年感じはじめたことにも原因があります。アーティストとして生きるより、いっそ教育者として割りきったほうが、自分にも人にもいいのではないか、と。
 自分がやりたいことと、自分が向いていることとは違います。というのが、このところの私の考えでした。たしかにそのとおりなんですが、しかし、やりたいことを押し殺してまで自分を向いていることに向けさせることは、結局自分の半分を殺してしまうことになるのだ、と気づいたのです。そしてさらに、私はアーティストという言葉より、クリエイターという言葉のほうが自分にはしっくり来るなあ、と気づきました。
 音楽を作り、文章を作り、舞台を作り、人を作る。うん、なんの不都合もないではないですか。

2011年12月14日水曜日

12月のランチタイムコンサート、終了

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での今年最後のランチタイムコンサートが終わりました。
 今日はまず、童謡の「たき火」をアレンジしたものを演奏。テーマ部分を演奏したあとは、それをモチーフに即興をスタートして、だんだんイメージを広げていきます。即興ですが、ジャズのような即興とは違い、コード進行もリズムもキープしません。完全なフリーですが、フリージャズとも違います。転調はしますが、調性を大きく崩すことはありません。非ジャズ即興としかいいようがないでしょうか。
 このスタイルは先々月くらいから試みて、今回はすっかり自分の方法として馴染んだ感じがありました。
 2曲めは「風の木」とタイトルをつけておきましょう。これは完全な非ジャズ即興で、風に揺れる木をイメージしながら、最初は調性のあるミニマルミュージックのようなパターンから、次第にパターンを逸脱していって、非調性になったりいろいろしたあと(笑)、ふたたび戻っていって静かになって終わる、という構成、になりました結果的に。

 ここで現代朗読の野々宮卯妙に登場してもらって、朗読とのセッション。
 テキストは村山槐多を使うことになっていたんですが、実はこの日の午前中にテキスト表現ゼミがありました。そのとき、初参加の石川さよさんがとてもかわいい詩を書いてきてくれたのです。私たちが文章で自分を表現しようとするとき、ついいろいろと理屈で考えてしまい、技術をよく見せようとか外部評価とかを気にして最初に生まれた素敵なアイディアをすっかり台無しにしてしまうんですが、その前の段階の生まれたてのことばを書きつけたそのままの詩を持ってきてくれて、とても気にいったのです。そこで、それを野々宮に朗読してもらうことにしました。
 ルーズリーフのページをちぎった紙に書きつけた無造作な手書きの文字。それを読んでもらいました。とても素敵なパフォーマンスになったと思います。

 次に村山槐多の朗読。
 ふと時計を見ると、まだ15分しかたっていません。そこで、野々宮には急遽、2編読んでもらうことにしました。『五つの夢』から「天の尿」と「女の眼」。
 名古屋や福井を回ってきたので私は5日間ほどピアノに触っておらず、この日もほとんどウォーミングアップできなかったので指が動きづらかったんですが、にもかかわらず大変楽しくセッションできました。
 終わって時計を見るとあと5分あったので、最後も非ジャズ即興で「雪原」とタイトルをつけておきましょうか、そんなイメージで演奏しました。

 全部終わってから、聴いてくれていたひとりの女性から声をかけられました。
「来月もまた来ます」
 うれしい言葉でした。
 またゼミ生の弓子さんとそのお友だち、なおさん、そしてテキストゼミから引き続き石川さよさんが来てくれて、感想を聞かせてくれました。
 時々自信がなくなって、お客さんも少ないので、毎回続けることをためらってしまうランチタイムコンサートですが、今日はとても晴ればれした気分で終えることができました。
 みなさん、ありがとう。

2011年12月13日火曜日

明日夜はアレクサンダー・テクニーク・ワークショップ

現代朗読協会では不定期に安納ケン先生によるアレクサンダー・テクニーク・ワークショップを開催しています。
明日の夜も開催です。
 朗読とアレクサンダー・テクニークの関連性については、大変深くて有用なものがあります。私個人の話をすれば、朗読演出や個別指導において非常に助けられていますし、また日常生活においてもどれだけ役に立っているかわかりません。
 皆さん、ぜひどうぞ。

 講師の献さんはNVCを日本に紹介した先駆者でもあり、希望者はアレクサンダー後にNVCの入門編もやってくれるかも、です。

◎日時:12月14日(水)19〜21時(+α)
◎受講費:一般 4000円/ゼミ生 3000円

明日は恒例のランチタイムコンサートです

明日12月14日は、毎月一回、下北沢〈Com.Cafe 音倉〉でおこなっているランチタイムコンサートの日です。
 午後1時から30分くらいの短い時間ですが、ピアノ演奏と朗読セッションをお送りします。
 明日はピアノ演奏のちょっとした試み(インプレビゼーティック・ミニマルミュージック)と、村山槐多のテキストを使った野々宮卯妙との朗読セッションをお送りする予定です。
 ミュージックチャージなどはありません。コーヒーやランチのついでに下北沢散歩もかねて遊びに来ていただけるとうれしいです。いつもあまりお客さんがいなくてこじんまりとやっていますが、あまりにもお客さんがいないのは寂しいものですから。
 平日ではありますが、お時間の許す方はどうぞよろしく。

歯間ブラシで歯石がボロッ

成人してから比較的歯が丈夫で、ここ何年も――ひょっとしたら何十年?――も歯医者のお世話になってません。
「歯石を取ってもらったほうがいいよ」という人もいるんですが、とくに不都合を感じていません。歯石というのは、そんなにしょっちゅう取ったほうがいいんでしょうか。昔の人はどうしていたのかな。
 ところで、昨日、歯間ブラシというものが実家にあったので、試してみました。初体験です。
 ゴシゴシと歯のすきまにねじこんで、歯ブラシでは取れない食べ物カスをほじくり出す道具らしいのですが、下の前歯の間をゴシゴシやっているとき、なにかがボロッと取れたのです。指でつまんでみたら、砂粒くらいの大きさの、かなり硬い物体です。なんだ、と思ったんですが、どうやらこれが歯石というものらしいのです。歯のすきまに詰まっていたんですね。ちょっとびっくりしました。
 歯医者に歯石を取ってもらいに行く必要性はとくに感じませんが、歯間ブラシはけっこういいかもと思いました。
 あと、最近気になっているのは、電動歯ブラシというやつ。けっこういい加減に歯を磨いているので、電動歯ブラシだときっちり磨けるのかな、なんて。歳をとって歯がひどく悪くなるのは嫌ですから、きちんとメンテナンスしておこうかな、とかね。

2011年12月12日月曜日

名古屋、小牧、知立、福井

 先週金曜日は早朝から新幹線で名古屋に向かい、劇団クセックのアトリエを借りて「音声表現スキルアップセミナー」を開催しました。午前10時から午後5時までの長時間セミナー。
 参加者は私の友人の中村設子も入れて10名弱。少人数だったので、ひとりひとりのニーズにしっかりと応えるべく、じっくりとやりました。
 私がおこなうスキルアップ指導は、技術そのものを教えるのではなく、個人の技術向上を支えるメンタルとフィジカルを指導する方法を取ります。これは、セミナー受講後、受講者本人がどれだけ私のアドバイスを実践するかによって結果が大きく左右されます。まじめに実践すれば大きなスキルアップが期待できますが、そうでなければまったく効果はありません。受講後、参加者が実践するかしないかの比率は、私の印象ですが、9対1です。つまり、10人にひとりしか実際にはスキルアップしないのです。
 自分自身のスキルの向上に切実でない人は、受講してもあまり成果はないということでしょう。そういう人は私のセミナーに来てもらわなくてもいいですよ、ということをあらかじめお伝えしたほうが親切かもしれませんね。

 セミナー後はその足で小牧へ向かいました。こまきみらい塾での「現代朗読講座」の最終回でした。
 皆さんとお話したあと、全員でひとつの表現作品を作りました。また、野々宮卯妙が同行してくれたので、現代朗読のパフォーマンスを実際に観ていただきました。
 こういう講座ではいつもそうなんですが、賛否両論。終わってから「受け入れがたい」という人と「とても楽しかった」という人と、まっぷたつになります。私がやっていることはある意味とても新しいことなので、にわかに受け入れられない人がいることは充分に予想できます。すべての人に受け入れられるようなことを私はできません。でも一方で、受け入れてくれる人がいることはとてもうれしいことです。
 また小牧の人たちとお会いできるとうれしいんですが。小牧の人からお声がかかるといいなあ。

翌土曜日は、知立演劇フェスティバルのリハーサル日でしたが、時間があったので、岡崎在住の友人・たまさんに案内してもらって、岡崎市立美術館まで「村山槐多展」を観に行ってきました。
 いやー、びっくりした。すごい美術館です。街はずれの山の上にそびえたっている、現実離れした芸術の殿堂でした。
 槐多展は非常に充実した内容で大満足。2月20日の槐多の命日にやる現代朗読ライブが、さらに楽しみになってきました。
観覧後はそのままたまさんに知立のパティオちりゅうまで送ってもらいました。たまさん、ありがとう。
 小林サヤ佳ちゃんたちと合流して、小ホールでリハーサル。こじんまりとした使いやすいホールです。ピアノもまあまあ。よく調律してあって、いい音がします。

日曜日は知立演劇フェスティバルの本番。サヤ佳ちゃんと出演するこのイベントは、これで何度めでしょうか。毎回、あまりお客さんが入らない印象があったのですが、今回は会場を大ホールから小ホールに移したせいか、けっこうお客さんがいる感じがしました。
 ウェルバ・アクトゥスのメンバーだったコギソさんがわざわざ来てくれました。コギソさんは、名古屋から名鉄で知立に向かった私たちを駅まで車で迎えに来てくれ、パティオちりゅうまで送ってくれました。コギソさん、ありがとう。
 ほかにも野々宮の両親においでいただきました。
 本番はサヤ佳ちゃんと私がまずアイヌの民話を、続いて野々宮と私が夏目漱石の「夢十夜・第十夜」を、最後に三人で新美南吉の「てぶくろを買いに」をやりました。お客さんも大変集中力をもって聴いてくれたようです。私も楽しく集中できました。

 終わってから、野々宮両親に車で大高駅まで送ってもらいました。途中、コーヒーショップでひと休み。思ったより疲れてました。
 そのあと、北陸線で福井の実家に帰ったんですが、眠くてたまらなく、乗りすごさないようにするのが大変でした。
 こうやって充実した三日間が終わったのでした。

北川健次展「鏡面のロマネスク」を観てきた

福井県立美術館まで北川健次展「鏡面のロマネスク」を観に行ってきました。
 以下、私見をいくらか書きますが、後半は北川健次ファンの方には不愉快な論調があるかもしれませんので、広い心持ちで流してくださるとうれしいです。

 北川健次は福井生まれの版画・造形作家で、近年は写真の世界にも表現を広げている世界的なアーティストとのことです。
 受賞歴も無数にあります。
 福井県立美術館での展示は、マテリアルごとに分けながらもだいたい年代順に200点くらいの作品をならべた構成となっています。
 最初のマテリアルは銅版画です。学生時代からこれを専門にしていたようです。エッチング、アクアチント、フォトグラビュールなど、さまざまな技法を駆使しながら、非常に緻密でクオリティの高い作品群が「これでもか」とばかりに並んでいて、圧倒されます。
 最初期の作品群は池田満寿夫を連想する瞬間もありますが、しばらく観ていくとまったく違うアプローチであることがわかってきます。
 次のマテリアルは造形作品。ほとんどが美しい箱に入ったり、さらにアクリルのケースに入っている、これまた緻密で楽しい造形作品。時計かなにかの部品と、古い写真、文字、数字、分度器などの計測道具などが配置された小品群です。これも非常にクオリティが高い。どうやって作っているのかわからないようなものもたくさんあります。思わず「欲しい」とつぶやいてしまいます。実際にこれらの作品のほとんどは個人蔵でした。
 次はコラージュ。これもクオリティが高すぎて、どうやって作っているのかまったくわかりません。
 最後は写真。これはたんに写真です。写しこまれている対象は、みずからの版画作品となにかとか、幾何学模様と風景とか、つまり版画や造形作品で取りあげている素材のような質感のものを見つけて、写真に固定したもので、その方向性は一貫しています。
 確実にいえるのは、すべての作品のクオリティの高さでしょう。それはアトリエワークで作りこまれ、磨きあげられた作家個人のイメージの世界で、すばらしいとしかいいようがありません。
 が、私は大きな違和感を持ってしまったのです。

 池田満寿夫は銅版画においても、エッチングよりドライポイントを好み、つまり自分の手の動き、情念や欲望をダイレクトに銅板に刻みこむ手法を多用しました。一方、北川健次はそれとは対極に、自分の手の動きを消し去り、工芸品の域にまで作品を作りこむ手法を選んでいます。
 池田満寿夫の作品はエロティックであり、それは人間の肉体と肉体の交感、つまりコミュニケーションを求める欲求にあふれています。北川健次はコミュニケーションを拒み、身体性や人間そのもののテクスチャを意図的に排除しているように見えます。
 池田作品は外に向かって開かれているのに対して、北川作品は内側に向かって閉じられている、あるいはアトリエ内で完成されているように感じます。コミュニケーションの拒否は冷徹な印象を与えます。たとえていえば、デュシャンの便器を非常に清潔で密閉された容器に封印して展示したような感じです。
 おなじ現代美術作品でも、方向性がまったく違うのです。
 作家のイメージが次々と立ちあらわれてくるのに、それは「私」に向けられたものではない、という寂しさを感じます。

 池田満寿夫は生身の肉体のエロスと猥雑さ、コミュニケーションの豊穣さ、人が持つ感触そのもののテクスチャを追求し、アートが次に向かうべき方向性を示してこの世を去りました。その次世代であるべき北川健次が、その方向を後退させているように見るのは私だけでしょうか。
 北川健次は1952年生まれです。私よりたった5歳上にすぎません。それなのに、老成した20世紀モダンアートの巨匠のようなたたずまいの作品で古色蒼然とした権威をもって近寄りがたい姿に見えるのは、私だけでしょうか。
 それはたぶん私が、これからのアートは生きた人間同士のコミュニケーションと、手触りと、共感のなかで存在するという、原初の表現行為に立ちもどってみたいという願望を抱きながらパフォーミングアートの活動を実践している者だからなのかもしれません。

こまきみらい塾「現代朗読講座」参加の方のコメント

しばらく落ち着いてコンピューターに向かえなかったので、ブログ記事へのコメント投稿を見逃してしまっていました。
 小牧の現代朗読講座の参加の方から、講座についてのコメントをいただきました。公開が遅れたので、二度も書きこんでいただいたようです。重複部分を削除した上で、あらためて紹介させていただきます。

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小牧まなび創造館受講生の「大胆な小心者」です。
先ほど、「現代朗読講座」を受けて、帰宅しました。感動しているので、すぐにメール送ります。
5回の講座とも大変刺激されました。
最終回の今夜、その最後に水城さんと野々宮さんのコラボレーション(といってよろしいでしょうか)を拝見(聴)し、さらに心打たれました。
今、貴重なお言葉の数々を思い出しつつ、余韻に浸っております。
小牧に来てくださって有難うございました。
またのご縁を楽しみにしております。

これからもコソコソと、大胆に小心に、フォロワーでいたいと思います。
知立でも感動がじわじわひたひたと広がるに違いありません。
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 平野さん、ありがとうございました。

まだ見ぬ風景を探して音の自由散歩

名古屋、小牧、知立とツアーを終えて、いまは北陸の実家に帰省しています。北陸は冷たい雨が降ってます。まだ雪にはなっていません。明日は天気が回復するそうで、雪囲い作業の最後の仕上げをしましょう。
 そして明日の夜には東京にもどり、明後日は下北沢・音倉で毎月やっているランチタイムコンサートです。
 毎月、いろいろな試みをしながらやっているんですが、今年最後の音倉は「インプロビゼーティック・ミニマルミュージック」というキーワードを思いつきました。ミニマルミュージックというのはごく簡単にいえば、あるパターンに沿った音楽演奏を少しずつ変化させていく現代音楽の手法ですが、それを即興的にやるとどうなるだろう、ということです。といっても、朗読とのセッションではけっこうそういうことを日常的にやってきていました。明後日は音楽演奏としてあるイメージからスタートして、音の散歩道を歩いていくと、どこへたどりつき、そこにはどんな風景が見えるのか、散歩者本人にも予測できないわくわくした気持ちで演奏してみたいと思っています。
 そこへまたいつもの朗読がからみます。現代朗読の野々宮卯妙が村山槐多を読んでくれる予定です。
 午後1時から、30分ほどの短い時間ですが、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉へ遊びにいらしてください。チャージはありません。

2011年12月10日土曜日

おのれの全力を投じる

名古屋に来ています。
 昨夜はこまきみらい塾の「現代朗読講座」の最終日でした。全部で5回のシリーズでしたが、毎回たくさんの塾生の方が参加されて大変充実した講座でした。最後は全員でひとつの作品を作りあげるという挑戦を楽しくやりました。
 昨日は小牧の前に名古屋で音声表現スキルアップセミナーを朝から夕方までみっちりやりました。これは声の表現の仕事をしている方(アナウンサーやナレーター、声優や歌手)やそれを目指して勉強中の人を対象に、ほかのどこでも教えていないであろう私独自のスキルアップのノウハウをお伝えするセミナーでした。涙あり、笑いありの、楽しくもディープなセミナーで、私も大変やりがいがありました。
 あらためて名古屋と小牧のみなさんに感謝したいと思います。
 全力投球の丸一日でしたが、なぜかまったく疲れはなく、ホテルに戻っても眼がランランと冴えて全然眠くならないくらいでした。
 こんなふうに、自分が持っている知識と能力を全力でだれかに伝え、役立ててもらえる仕事をしているというのは、本当に幸せなことです。
 今日はこれから知立に行って、知立演劇フェスティバルのリハーサル。明日が本番なんですが、語りの小林サヤ佳ちゃんとの共演で現代朗読の野々宮卯妙とともに出てきます。午後2時から出番なので、お近くの方はお会いできるとうれしいですね。

2011年12月9日金曜日

欲望の時代から調和・共感の時代へ

今日から今年(2011年)最後のツアーです。
 ツアーなんていうとおおげさですが、名古屋と小牧と知立と北陸の実家を回って、また東京に戻ってくるという旅程です。
 名古屋では声の表現の仕事をしている人たちを相手に「声の表現スキルアップセミナー」を丸一日かけてやります。
そのあとはこまきみらい塾の現代朗読講座の最終回。40人近い受講生の皆さんとのおつきあいも、これが最後となりました。なんとなく寂しいですね。
 翌日は知立市に行って、語りの小林サヤ佳ちゃんとここ何年か出演している演劇フェスティバルのリハーサルと本番があります。今回はげろきょから野々宮卯妙も助っ人で駆けつけます。
 こうやってだれかから求められてその場へ行けるというのは、とても幸せなことですね。自分からこうしたい、ああしたい、という気持ちももちろんありますが、それ以上にこうしてほしい、ああしてほしい、というだれかの気持ちに応えるときに、大変幸せな気分になれるのは、私だけではないでしょう。
 私は高度経済成長まっただなかの、いわば「欲望の時代」に生まれ育った世代ですが、欲望から調和・共感の時代へと確実に社会意識が変化していっているのを、自分の意識の変化とともに実感しています。

2011年12月7日水曜日

最先端表現の虎の穴

今日は朝からテキスト表現ゼミ。
 年明けからはテキスト表現ゼミと朗読ゼミを統合して、しかもすべてビデオチャットでも参加できるようにしようと思っているので、機材のテストを事前にやってみることにしました。
 これまでのビデオゼミでは MacBook の内蔵カメラと内蔵マイク、内蔵スピーカーを使って本体だけでビデオチャットをしていたんですが、それだと私の顔と声ばかり向こうに行ってしまうことになるし、音もそれほどよくないのです。それで、ビデオカメラとマイクとスピーカーを外付けにして、ビデオチャット参加の人もなるべく現場にいるのに近い雰囲気にしようと思ったのです。
 が、機材設定がうまくいかない。カメラ映像が内蔵から外付けに切り替えられない。そもそも、外付けカメラの選択肢がない。外付けマイクも音声入力がされているのかどうかよくわからない。
すったもんだやっていたのですが、今日はあきらめることにしました。残念。

 少し遅れてゼミスタート。
 今日はテキストの読み合わせや講評より、たっぷり時間を取っていろいろな気づきや表現についての話をしました。おかげで、テキストの読み合わせは30分くらいしか時間が取れませんでした。が、それはそれで実り多く大切な時間だと私は思っています。こういう話を真剣にできる場がどれだけあるというのでしょうか。

昼は弓子さん、みぞれちゃん、矢澤ちゃんと4人で新代田駅の横の〈香家〉に行き、担々麺をいただきました。
 午後、ヴォイスパフォーマーの徳久ウイリアムくんが来て、1月に取手アートプロジェクトでやるワークショップと公演の打ち合わせ。徳久くんが一緒にやりませんかと誘ってくれたのです。うれしい。
 オープニングになにか短いものをやろう、ということで、新美南吉の「一年生たちとひよめ」はどうか、と思い、げろきょのゼミ生のパフォーマンス映像を見せていたときです。徳久くんがしきりと感心してくれました。なにも仕組まず、できるだけその場の空気や身体性とコミュニケーションを大切にして即興的に展開していく朗読パフォーマンスを見て、おもしろいというのです。一見、楽しげに軽々と、とてもいいかげんにやっているように見えるんですが、見る人が見ればかなり難しいことをやっていることがわかるということです。この徳久くんの反応も私にはうれしいことでした。
「いまここ」の私たち自身とオーディエンスのコミュニケーション、身体性、感受性といったものに目を向けた即興的コンテンポラリー表現をやっているげろきょは、実はかなり先端的な表現集団なのではないかと確信しています。それがわかる人にはわかるのです。
 お稽古ごとでは飽き足りない、表現者をめざす人たちが集まってきています。といっても、ごく普通の会社員であり、主婦であり、学生やアルバイターなのですが。

自分の人生をこれ以上ややこしくしないために

昨日「股から出血した」という話を書いたところ、さまざまなリアクションをいただきました。
「いまからでも遅くないのですぐに医者に行きなさい」
「ウイルス性のイボだったら転移する可能性もある」
 など、私の身体を心配してくれる声のほかに、
「水城さんが『股』などという言葉を使うのが想像できなかったので、『脳から出血』と空目した」
 といった声もありました。
 皆さん、ありがとう。私の股はすっかり元気です。
 今日もせっせと明大前まで歩いてきて、カフェでこの文章を書いています。健康ってありがたいなあ。いや、ありがたいんじゃなく、健康でいることで自分と他人に貢献できる日々を作るためにも努力したいと思いますね、ほんと。
 健康でいるためにできること、それもほんのちょっとしたことがいろいろありますが、たいていはやりませんね。たとえば心がけてなるべく歩くようにするとか、食べすぎないとか、煙草をやめるとか、ささやかなことですが、たいていの人はやりません。精神科の名越先生がいってましたが、人はひそかに「自分の人生がややこしい事態になることを望んでいるようなところがある」みたいです。私はもうこれ以上ややこしい人生は嫌なので、自分にできることはできるだけせっせとやることにします。

2011年12月6日火曜日

表現のファーストステージとセカンドステージ

なにかを表現したいのに、なにをしていいのかわからない、もやもやとわだかまっているばかりでなかなか具体的な行動に踏み出せない、という人はたくさんいます。
 こういう人がおちいりやすい考えとして、
「締切りがないから書けない」
「日程が決まってないから練習できない」
 というものがあります。
 こういう人は往々にして、表現者はもともとなにか表現したいことがあって、それを時間的制約や枠組みのなかで組み立てていくことで表現行為が完結する、と考えているようなところがあります。
 実際にはどうなんでしょう。表現をしている人はなにか表現したいことがあるから表現しているのでしょうか。ひょっとして彼らは自分のなかになにも表現したいものが見つからなくても、とにかく表現行為を実行しているだけかもしれません。それはたぶん、やむにやまれぬ衝動に突き動かされているんでしょう。そして表現してから初めて、「自分はこういうことを表現したかったのか」と後から発見するのです。
 こんなことをいえるのも、私がそうだからです。

 人間の表現のステージには二段階ある、と私はいつもいっています。ファーストステージとセカンドステージです。
 ファーストステージは自分自身のなかにもともとある衝動によっておこなわれる表現の段階のこと。
 幼い子どもがだれかにいわれなくても自然に歌ったり絵を描いたりするように、人には根源的な表現衝動があります。大人にだってあります。表現のタネのようなものです。それを私は「純粋表現」と呼んでいます。これは人が人としてあるためにすべての人が持っているものです。人は社会的動物であり、他者とよりよい質でつながりたいという欲求が持っていることに由来します。そのために人は自分を熱心に表現し、また他者の表現を熱心に受け取るのです。
 しかし、この「純粋さ」はいつまでも放っておかれません。
 幼い子どもが絵を描く。するとそれを見た大人が、
「あら、この絵、上手ね」
 といいます。すると子どもは、自分が絵を描いたり歌をうたったりすることで大人が喜んでくれるのだ、ということを発見するわけです。そしてそこから自分の外側に向けての表現の発信、すなわちセカンドステージが始まります。
 セカンドステージでの表現欲求は、いわば学習された欲求です。人からほめられたとか、評価されたとか、報酬をもらったとか、だれかとつながりを持てた、など、後天的に学んだ「表現したい」という気持ちです。

 小説を書く場合でいえば、最初はまずひとりで妄想をめぐらせて、ときにはおもしろいことを思いついてひとりでクスクス笑ったり、エッチな場面を想像してニヤニヤしたりするわけです。これはだれもが経験のあることでしょう。また子どものときにおもちゃを使って勝手なストーリーを作って遊んだりした記憶はだれにでもあることだと思います。
 人というのはストーリーを作って遊ぶ動物なのです。世界を言葉で理解すると同時に、社会構造や自分の行動規範をストーリーを使って理解するからです。ストーリーを作って遊ぶというのは、人の成長過程に必要なことです。それは大人になっても変わりません。
 この段階では、ストーリーはまだファーストステージの上にあります。これを文字に書きおこして人に読んでもらおうという段階に進むとき、それはセカンドステージに進むことになります。
 このセカンドステージでは、妄想を作品化するための技術が必要になります。また締切りがないと書けないといった自分に課した外的制約も、戦略として用いられます。朝起きてすぐに書いたほうがいいとか、いや自分は夜に書いたほうが興が乗る、といったことも戦略のひとつです。
 冒頭ではできるだけ説明をはぶき、いきなりストーリーが動いているところから書きはじめよ、などというテクニックも、セカンドステージの戦略です。

 しかし、もっとも大切なのはファーストステージの純粋表現から生まれてくるイメージです。それをそのまま外に向けたいのです。
 もちろん人に読ませるわけですから、ある程度の技術と戦略は用いますが、その用い方をまちがえるとつまらないことになります。
 たとえば、読者におもねるあまり余計な説明をだらだらと書いてしまったり、あるいは「こう書けばウケるかな」などと計算してしまったり、売らんがための媚びるような内容になってしまったり、といったことです。これらはすべて「外部評価」を気にするあまりやってしまうことです。
 人が外部評価を気にするのは、自分をよく見せたいからです。うまいと思われたい、おもしろい人だと思われたい。その気持ちは、人から好かれたい、愛してほしいという欲求に由来します。それが高じすぎると「見て見て」だの「かまってかまって」だの、うっとおしいことになります。人の気を引くために過激な行動に出る人もいます。動物を殺したり、女子高生に切りかかったり。
 セカンドステージにおいても外部評価を手放す。ただ作品をそこに提示する。人の評価を気にしない。結果としてさまざまなことをいわれるだろうけれど、それによって一喜一憂するのではなく、自分の表現を通していろいろな形で人とつながることができたことをただ味わえばいいのです。それが本来の目的だったのですから。
 蛇足ですが、たとえ相手からけなされたとしても、相手が激怒したとしても、それはあなたとつながったことの表明の形のひとつですよ。それをも喜びをもって受け取れるはずです。

股から出血

昨日の夜、明大前から羽根木まで歩いて帰るとき、いきなり股間に鋭い痛みが走りました。
 いったいなんだろうと思ったんですが、まさか歩行中にいきなりズボンを脱いで確認するわけにもいきません。しばらくがに股で不自由しながら歩いていたんですが、ふと原因に思い当たりました。
 いつごろなのか覚えていないんですが、股の一番上のほうにイボというかホクロの色のないものというか、ポチッという柔らかい突起ができていたんです。プニプニして猫の肉球の超ミニサイズのような感触のものです。多少気になっていたんですが、場所が場所だけに皮膚科に行くのも面倒で、放ってありました。
 たぶん、それにズボンの縫い目がこすれて、傷がついたに違いありません。
 昨夜はジーンズをはいてました。固い縫い目がこすれたんでしょう。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで引っぱりあげ、縫い目が股間にこすれないようにしながら、やはりがに股で家まで帰ってきました。
 脱いで見てみると、思ったとおり、プニプニがこすれて血が出ています。いまにもちぎれそうになっています。思い切ってプチっとちぎったら、びっくりするほどたくさん血が出て止まりません。あわててティッシュをあて、それから絆創膏を張ったんですが、今朝はもう痛みもなく、すっきりしたような、なんだか物足りないような気分です。

2011年12月5日月曜日

バリトンサックス公演「Sound of Vision」by UKAJI を聴いた

先日、「槐多朗読」を開催したカフェの上にあるホール、キッド・アイラック・ホール( @KID_HallGallery )でバリトンサックスのソロ公演があるというので、興味を引かれて行ってみました。
 なんかよくわかんないけど、とんでもないものを聴いたような気がするので、とりあえず書きとめておきます。きっと今夜の音を私なりに消化するには、しばらく時間がかかるような気がする。

 バリトンサックスというのは普通はアンサンブル楽器で、単独で演奏されることは滅多にありません。そこに興味を引かれたのです。演奏者のUKAJIさんという方は面識もありませんし、お名前も初めてうかがった方です。
 行ってみたら、なんとこの公演は今日が154回めだというではありませんか。1970年代からずっとひとりでやっておられるそうです。演奏者はUKAJIという方。立派なおじさんです。私より少し上かな。
 キッド・アイラック・ホールの素っ気ない空間に、演奏者用の椅子とテーブルと譜面台と、バリトンサックスがゴロンと転がっています。客席は折り畳み椅子が8脚くらい。つまり、このくらいのお客さんしか来ない、ということなのでしょう。

 7時半すぎに演奏が始まりました。
 ベレー帽をかぶったUKAJIさんが椅子に座って、椅子や譜面台やテーブルの位置を微調整。楽器を取って、さらに微調整。それからおもむろに、
「本日は寒いなかお越しいただきありがとうございます。始めます」
 といって、吹きはじめました。
 最初は倍音を含んだ奇妙なロングトーンが何度か続いて、いったいなんの曲だろうと思っていたら、バッハの無伴奏チェロソナタが始まったのでした。が、私が一度も聴いたことのないような解釈。リズムを崩し、フレーズの途中で平気で(たぶんわざとですが)ブレスを入れ、ロングトーンでは倍音やらトレモロを入れ、それは即興でしょう。
 バッハの曲というより、現代音楽、もしくはフリージャズの演奏のようです。
 びっくりしました。
 たしかにこんな演奏は、一般のお客さんには受け入れられないかもしれません。集客は難しいことでしょう。が、そこにはまぎれもなく、ほかのだれでもないUKAJIという演奏者の存在が確固として示されているパフォーマンスが存在していました。あまりにかっこよくて、しびれました。しびれて思考停止状態に陥ってしまったほどです。
 次回はいつなんだろう。
 今日はひとりで行ったんですが、次は絶対に知人を誘って行きたいと思いました。

 スポットライトがひとつ落ちているだけの薄暗い空間に身を置いて音を聴いていると、かつて豪徳寺の酒屋の地下のスタジオで「Into You Mind」というソロライブのシリーズを私もやっていたことを思い出しました。あのときもお客さんがほとんど入らなくて苦労して、1年くらいやってやめてしまったんですが、あの経験が私にとってなにものにも代えられない貴重な経験であったことを、あらためて知らされたような気がしました。
 UKAJIさんがこのようなライブを154回にも渡って継続してこられたことに対して、心から敬意を表します。

各ゼミを「表現ゼミ」として統一したい

 現代朗読協会では「朗読ゼミ」というものが活動の中心になっています。
 参加者はまず、現代朗読協会の正会員になると同時に「ゼミ生」というものになっていただきます。ゼミ生になるとどのゼミ、講座、ワークショップにも自由に出られるようになります。ただし、外部講師をお願いしているアレクサンダー・テクニーク講座やヨガ講座などは別枠ですが、正会員の特別割引がたいていあります。
 いずれにしても、ゼミはカルチャーセンターや専門学校のような「教育と金銭との等価交換」の場ではありません。ゼミ費は現代朗読協会という「共有の学びの場」を持続させるための経費としていただいてます。

 最初は朗読ゼミしかなかったんですが、その後「テキスト表現ゼミ」ができ、「ビデオゼミ」ができました。
 ところである人から、
「水城さんの私塾を作ってはどうか」
 という提案がありました。朗読にかぎらず、表現のこと、世の中全般のこと、思想のこと、コミュニケーションのこと、私たちのありようそのもののことなどをお互いにかんがえる場で、私はそこにエデュケーターというよりコメンテーターとして参加するようなイメージでしょうか。
 そういわれたとき、ふと、「ゼミがあるじゃないか」と思ったのでした。
 わざわざ私塾を作らなくても、すでにゼミはそのような内容に近づいています。もちろん朗読ゼミでは朗読表現のことをメインにやってますが、実は半分くらいは「気づき報告」という名のもとでさまざまな意見交換をする場になっているのです。そしてその時間が私たちにとって大切な時間になっています。気づき報告の時間がないゼミなどほとんど意味がないくらい重要になっているのです。
 それに「私塾」なんていうとなんだか私の私有物みたいでなんとなくはばかられます。
 そこで、いまある各ゼミを「表現ゼミ」として統一しようかなと思ったのです。

 表現のなかにはもちろん朗読があり、テキストがあり、場合によっては音楽や美術やダンスがあってもいいかもしれません。私以外にも講師を呼ぶとおもしろいかもしれません。
 朗読という表現に限定しているととても狭苦しい感じがしていたのは事実です。げろきょの活動は朗読を越えてどんどん越境しています。ジャンルの枠でかんがえるよりも、「表現」というものの本質についてかんがえる場になれば、それは朗読にも物書きにも演奏にも応用できるでしょう。
 いまやっている「朗読ゼミ」「テキスト表現ゼミ」「ビデオゼミ」という枠を取りはらって「表現ゼミ」とすることで、朗読をやりたい人は朗読を、小説を書きたい人は小説をそれぞれ持ってきてもらえばいいですし、常にビデオチャットの窓口を開いておくことで遠隔参加もいつでも可能にしておきます。
 げんについ先ほど、マダガスカルで仕事をしている人から「ゼミに参加したい」というメールをいただきました。そういう人も参加できます。
 もっとも、中心にすえるのはやはり「ことばとからだ」ということになるでしょう。このことは朗読ゼミでもテキスト表現ゼミでももともと共通していたことです。私たちの表現が「ことばとからだ」から出発するということだけは押さえておきたいのです。

 いかがでしょうね、皆さん。そしてゼミ生の皆さん。
 これはまだあくまで「試案」ですが。

演劇フェスティバル イン ちりゅう 2011 vol.15 に出演します

もう何回めになるんだろう。かれこれ8年越しくらいのお付き合いとなった語りの小林サヤ佳ちゃんのサポートで、標題のイベントに出演します。たぶん4回めくらいです。
 場所はパティオ池鯉鮒・花しょうぶホール。
 12月11日(日)の午後2時から1時間くらいの枠です。
 入場無料なので、どなたも気楽にお越しください。といっても、愛知県の知立市ですから、お近くの方でないとなかなか来れませんね。

 小林サヤ佳ちゃんが民話を語り、私がピアノを弾きます。また現代朗読の野々宮卯妙もからみます。
 現代朗読枠もいただいたので、漱石の「夢十夜・第十夜」を楽しくやりたいと思います。

カラダを作るのだ!

人並みに忙しい師走ですが、マインドフルに人生の荒波サーフィンを楽しむためにも身体作りが大切だと思っています。
 とくに私のような年齢に差しかかると(来年は55歳)、とくに老人化が迅速な男はしょぼしょぼとみすぼらしくなり、病気がちになる人が多いので、気をつけたいものです。カクシャクとしたじじぃになることが私の目標です。
 というわけで、せっせと身体作りにはげんでます。

 まずはなにより早起き。目標午前5時。つまり、午後10時までには就寝したい。午後10時から午前2時の間に成長ホルモンがもっとも活発に分泌されるというデータがあるので、なにも成長したいとか若返りたいということではなくて、いつも頭がしゃきっとしていたいから早寝早起きを心がけたいのです。
 今朝は歩いて明大前まで。ただウォーキングのためのウォーキングは嫌なので、目的をもって歩きます。私の場合は、カフェに行って、コラムを一本書く。500字くらいの短いものです。アイ文庫のウェブサイトに日替わりで掲載しているものです。ブログにも流してますが。
 明大前まで往復すると、歩数にして4,000歩くらいになります。朝の運動としてはそこそこでしょう。

次に、できれば午前中にプール。目標1,000メートルですが、いまのところ500メートルくらいでへたってしまいます。一度1,000メートルまで回復したんですが、さぼっていたらまた落ちてしまいました。これをまた1,000メートルまで戻したい。
 落ちてしまうのは、筋トレをさぼるからです。家にいるときもつとめて筋トレをしたいものです。筋トレとストレッチは習慣としてやりたいですね。
 筋トレはダンベルを使います。コンピューター作業の合間に時々やります。やりすぎると腕がへろへろになってキーボードが打ちにくくなります。
 あと、腹筋とスクワット。
 この程度の運動だったら、とくに仕事や生活の時間を圧迫することなく、毎日楽にできます。血圧もこの年齢にしては(写真のように)落ち着いてますね。
 そして一番大切なマインドフルネスにすごすためには、もちろん呼吸です。自分の身体の面倒をきちんと見れるようになれば、頭のなかの面倒もちゃんと見れるようになります。

人生の荒波サーフィンを楽しもう

あたらしい週がはじまりました。週を日曜はじまりとするか、月曜はじまりとするかの議論はさておいて。
 今週はなかなか忙しいのです。水曜日はテキスト表現ゼミと、音読療法士のスタディグループ。木曜日は朝ゼミ、昼ゼミ、ビデオゼミ。そして金曜日は名古屋で音声表現スキルアップセミナー。その夜は小牧に行って、こまきみらい塾の現代朗読講座の最終回。
 翌土曜日は知立演劇フェスティバルのリハーサル。語りの小林サヤ佳ちゃんといっしょに出るのです。野々宮もサポートします。日曜日が本番。そのまま北陸に帰省して、火曜日に東京に戻る、というスケジュールです。
 翌14日・水曜日はいつもの下北沢・音倉でのランチタイムコンサートです。
 年末はなにかと人並みにあわただしいですね。しかし、そんななかでも、マインドフルを心がけて「いまここ」を見失うことなく、人生の荒波サーフィンを楽しみたいと思います。
 そういえば、18日・日曜日は今年最後の現代朗読体験講座です。朗読にかぎらず、表現に興味がある方は気楽にご参加ください。近く、朗読やテキスト表現などいくつかのゼミを「表現ゼミ」として統合したいと思っています。

2011年12月4日日曜日

下北沢でのフリーマーケット

今日は下北沢のピュアロード商店街でフリーマーケットがおこなわれ、それにトランジション世田谷・茶沢会が出店するというので、いくらかでも売り上げに協力すべく不要品を持って行きました。
 マリコも協力してくれるというので、一緒に歩いて下北沢へ。
 あさわさん、かじさん、ゆかりさん、ももさんが来て、ゆるゆると店の準備。メインは古着やら不要品と、手作りのジンジャーエールです。マリコは古着や食器、靴を持ってきてくれました。私は使わなくなったブルートゥースのヘッドセットやらマウスやら、iPhoneケースやら。
しばらくして野々宮ファミリーが来たので、お昼ご飯を食べに離脱。〈イスティックラル〉というトルコ料理店に入って、タウク・ソテという料理を食べました。野菜いっぱい、かなりスパイシーでおいしかったです。

 いったん羽根木にもどり、雑用の片付け。
 夕方、ふたたびピュアロードへ。
 午後5時すぎにゆるゆると撤収開始。私が出したものもいくつかは売れたようです。売れ残ったものを回収。
トランジションのブースの真ん前で、なにやら楽器を売ってました。聞けば「鼻笛」とかいう陶器でできたもの。鼻にあてて息を出し、それを口に響かせて口腔の大きさで音程を変えたり音色を変えるというものらしいのですが、デザインがおもしろいので買ってみることにしました。うまく演奏できるかな。とにかく音程はなんとか出せるようになりましたが、練習が必要です。

アレルギー性鼻炎、花粉症

どういうメカニズムなのかわからないんですが、この季節になるとアレルギー性鼻炎がひどくなります。寒い季節になるとひどくなるようです。
 暖かい季節でも、雨の日にはひどくなります。とくに朝方はつらいです。
 花粉症の季節はもちろん症状が出ます。
 まとめると、寒さ、雨、花粉、ハウスダスト、そういったものに反応するみたいです。
 梅雨の季節、秋の長雨の季節、寒い季節(冬ですね)、花粉が飛散する季節、これらがすべて私の鼻にとってはつらい季節となっています。つらくない時期を数えたほうが早いです。夏の数ヶ月、ごく短い季節だけが、私が鼻の不具合を気にしなくていい季節ということになります。
 こういう人間は、たぶん、とっとと南国に移住してしまったほうがいいんでしょうね。
 沖縄は花粉症がないと聞いたことがありますが、本当でしょうか。もしそうだったら、そろそろ老年期を迎える私にとって、移住してしまったほうが幸せな晩年を送れるということなのでしょうか。
 大げさなことを書いているみたいですが、ひどい鼻炎や花粉症を経験したことのある人なら、私のこの気持ちをきっと理解してくれるに違いありません。

2011年12月3日土曜日

ライブワークショップ、テキスト表現ゼミ

今日は朝から「朗読はライブだ!」ワークショップの初日でした。今期で9期めとなる今回の参加者は5名。
 ちょうど5人ということで、先日「槐多朗読」で使ったテキスト、村山槐多の「五つの夢」を使うことにしました。とても変な話ですが、ライブ・パフォーマンスの素材としてはおもしろいんじゃないかと思います。そして、参加者たちもおもしろがってくれてよかったのです。
 初回の今日は現代朗読の特徴や、毎日の生活のなかでこんなことをやっておいてほしいという、身体、言葉、読解などのためのトレーニング法や、ストレッチ、呼吸、発声など、現代朗読の基礎をなしていることについての解説をしっかりとやりました。

 終わってから昼ご飯を食べに、参加のゼミ生といっしょに東松原の〈円喜家〉という中華料理屋へ。
 ここに入るのは初めてでした。ランチメニューの豚と玉子とキクラゲの炒め物をいただきましたが、けっこうおいしかったです。また来よう。

 夜は6時からテキスト表現ゼミ。
 欠席者が多く、今夜は4人の参加。なので、ゆっくりじっくりとやれました。それぞれの作品の読み合わせのほかに、身体と意識、呼吸法と無意識のことをやりました。最近とみに安定的におもしろい作品を出してくるふなっちは、日常的にこの呼吸法をやっているそうです。
 呼吸法をやりながら、私自身も気づくことがあって、今夜はなかなか有意義でした。表現の統一理論のことでまたさらに確信を深めることができました。

あと一か月という時間と今年一年という時間

すでに今年も12月になりましたが、今年の残り1か月と、今年の始めの1月に新たな年を迎えて12か月をこれから過ごそうと思ったときを比べて、いったいどちらが「長い」んだろうと思うんですよ。
 1か月と12か月とを比べれば、数字上では単純に12か月のほうが長いに決まってます。でも、それは本当のことでしょうか。人の意識のなかで1か月と12か月って、そんなに違いがあるんでしょうか。
 たとえば、赤ん坊のとき。だれもがそれを経験しているはずですが、記憶はほとんどありません。生まれてから12か月のことを思うとき、それは長かったのでしょうか、短かったのでしょうか。非常に濃密な時間であったであろうことは容易に想像できますが、その時間のことは記憶にありません。しかし、記憶になくてもその時間が私の人生を大きく左右していることも確かです。
 私のこれからの1か月がどのような意味を持つのか、私にはあらかじめ知ることはできません。また、今年の始めから11か月すごしてきた時間が私にとってどのような時間だったのか、いまの時点ではまったくわかりません。私たちにできるのは、ただいまこの瞬間を大切にしながら、時間の長短など計算することなく、マインドフルに生きていくことだけではないでしょうか。

2011年12月2日金曜日

朗読会「槐多朗読」抜粋

 2011年11月28日、明大前のブックカフェ〈槐多〉にて「槐多朗読」がおこなわれました。
 その抜粋映像です。
 夭折の画家・村山槐多は文章も残しています。その中から「童話・五つの夢」や詩作を水城のオリジナルテキストもまじえて構成し、野々宮卯妙が朗読しました。音楽演奏は水城ゆうです。
 この朗読会のレポートはこちらのブログ記事で読めます。

初参加ふたりのテキスト表現ゼミ

今日も寒かったですね。朝からテキスト表現ゼミをやっていたんですが、自転車でやってきたミキティの目が凍りついて開かなくなってました。もちろん比喩ですが。
 今日はテキストゼミ初参加の人がふたり。なので、最初にテキスト表現ゼミのめざすところを少し説明しました。
 私たちはなにか理路整然と表現したい自分というものがあるわけではなく、表現というのは自分のなかになにが起こっているのか、自分はどういう人間であるのかを発見するための行為である、ということからスタートします。テキスト表現もそうで、首尾一貫した文章を書けるなどというのは幻想であって、私たちの内側は一瞬一瞬、変容しつづけています。なにかを書こうとして、あらぬ方向へ文章が行ってしまった、という経験はよくあることでしょう。
 社会生活を営む課程で、私たちは「あらぬ方向へ行ってしまこうとする自分」をだましすかし、なんとかスジの通った読み物を相手に渡そうとします。しかし、そこには大きな「嘘」が混じります。
 暴風雨のように移りかわりつづける自分の内側から、言葉をすくいあげて文字に固着する。それがテキスト表現の第一ステージでおこなうことです。

 てな話をまずはしたわけです。
 それから、自分の書いたものを人からけなされたときはどうしたらいいか、批判にさらされたときはどうしたらいいのか、についても話をしました。もちろん、私たちはお互いに評価しあうことはしませんが、世間はまだまだ他人の評価でしか自分の表現の価値を判断できない人が多いのです。

 その後は実際に個別の作品を読みながら、表現についていろいろ意見を交換しました。とくに今回は、初参加の佐藤ほくの非常に短い、詩のような短歌のような作品群について、じっくりと話し合うことができました。まだまだ検証したいことはありますが、まずはそのとっかかりが作れたのも、彼女がリアルゼミに初めて参加してくれたからだと思います。
 そうそう、テキスト表現ゼミや次世代作家養成塾は、これまでオンラインのみのメンバーもいましたが、今後はリアル参加のメンバーのみに絞っていくことにしました。
 とはいっても、どうしても物理的に参加できない——遠方に住んでいる方、身体が不自由な方など、諸事情で羽根木の家まで来れない人については、ビデオチャットで参加していただくという方法を残してあります。そちらを利用してもらえればと思います。

 ゼミ終了後は例によってピピカレーに行って、カレーを食べながらまた表現の話のつづきをしたのでした。
 楽しかったね。

さまざまな表現の統一原理を考えている

今日はテキスト表現ゼミの日です。少人数で「文章で自分を表現すること」について、あーでもないこーでもないと研究します。
 現代朗読協会は基本的に朗読という行為を中心に表現を勉強したり、社会活動をする場なんですが、表現には朗読も音楽も芝居もダンスも、あるいは絵画や文学も、共通する原理のようなものがあるのではないか、と私は考えています。いわば表現の統一理論のようなものです。
 もともと人の「自分を表現したい」「自分のことを人に伝えたい」「だれかとつながりたい」という気持ちは生まれつきのもので、この世に生まれて生きている以上、消えることはないものです。人から見られたくない、孤独になりたい、と引きこもっている人ですら、その行動は表現欲求の裏返しというか、形を変えたもの、社会適応に失敗したものだと考えられます。
 なにも表現者と名乗らなくても、人はいろいろな形で自分を表現しています。料理をする、編物をする、営業する、飲み会に行く、メールを送る。とくにいまはテキストを書く機会が大変増えています。テキストで自分を表現することの、とても原理的な仕組みを深く考えながら、自分の内側を探索する場が、テキスト表現ゼミなのです。

2011年12月1日木曜日

アレクサンダー、朝ゼミ、新ゼミ生

今日は冷えこんでいますが、昨日はびっくりするくらい暖かかったですね。あまりにいい天気なので、シーツを洗濯して干してから、下北沢まで散歩に出かけました。
 Segafredoというイタリアンカフェで外カフェ。ここのコーヒーは私好みなんですが、店内はいつも煙草臭いのです。暖かい日に外のテーブル席でしか飲めません。
 帰ってから簡単に昼食作り。実家の畑で取れた大根の葉っぱを炒めて玉子とからめたもの、ブリ大根、納豆。

夜はケンちゃんによるアレクサンダー・テクニーク講座。
 参加者が少なくてどうしようと思っていたら、バタバタと駆けこみで3人増えてよかったのです。アレクサンダーがまったく初めてという人もふたり。基本的なことから応用まで幅広くやれたみたいです。
「みたい」というのは、途中から私はホルヘNVCの招聘や通訳のことでがんばってくれたケンちゃんをねぎらうべく、彼の好物の揚げ物を作っていたからです。鶏のもも肉を5枚、フライにしました。ほかにも野菜を少し。
講座が終わってから、みんなでこたつに入って揚げ物とワインなどいただきながら、談笑。ドイツから帰ってきたばかりの唯さんの話とか、楽しかったです。

 今日はうってかわって寒い日。朝から朝ゼミ。
 メンバーがひとり休んだので、コタツにぎゅうぎゅうに詰めて座ってスタート。といっても、前半はほとんど朗読というよりコミュニケーションの話と気づき報告でした。しかし、これが楽しくも大切な話なのです。毎回、お互いに大きな学びがあります。
 後半は朝ゼミメンバーでやっている「声」という作品の研究。イントネーションについて。げろきょでもいちおうこういうこともやるのです。

 昼はピピカレーへ。ちょうど開店一周年ということで、特別メニューになってました。プレーンのカレーの上に、トッピング乗せ放題。さらに肉じゃがまでサービスされて、ついつい食べすぎてしまいました。
 そうこうするうちに、今日、見学を申し込んでいたという人から電話が。今日の昼ゼミは参加者が少なくて休講だったんですが、見学者のことをすっかり忘れていたのでした。大変失礼しました。
 あわてて羽根木の家にもどりました。まりもちゃんも付き合ってくれて、げろきょに興味があるという人にいろいろと説明をしました。とりあえず、ゼミ生として仮登録することになりました。長続きしてくれるとうれしいなあ。

 今夜はこれからビデオゼミ。徳島のたるとさんと、江戸川区の朱鷺さんが、Google+のハングアウトで参加してくれる予定です。

名越康文さんの「こころカフェ」に行ってきた

テレビやラジオにも引っ張りだこで、著書もたくさんある有名な精神科医の名越康文さんが、下北沢の音倉で「こころカフェ」をやるというので、行ってきました。
 ツイートを見てネットから事前申し込みをしたんですが、なんとすぐに定員一杯になったとのことで、行ってみると音倉は超満員。かなり窮屈でした。
 トークショーのような形です。テーマは「こころの病」だっけな。
 こころの病とはなにか。現代人はみんな病んでいる。そのケアの方法。そんな話を、対談というか、雑談形式で寄り道しながら2時間半、聴きました。
 さすがにトークはおもしろく、名越さんの人柄も好感が持てます。お客さんは女性が多く、しかも若い女性が多いのには驚きました。名越さんのファンなんでしょう。そのこともうなずけます。
 が、肝心の心理学的な話の内容は、私にはちょっと物足りなかったです。私が現在体系化している音読療法のなかにほとんどあるような話で、目新しいものはあまりなく、また、「怒り」や「悲しみ」といったマイナスの感情の扱い方についても「?」と疑問の残るものでした。この点については、ホルヘ・ルビオから学んだNVCの方法のほうがはるかに優れているし、認知行動療法に照らしあわせてもNVCや音読療法のほうが進んでいると思いました。
 著書を少し読み、トークショーを一回聴いただけなので、断言はできませんが、精神医学の世界は意外にまだまだ遅れている面があるんじゃないかと感じました。心や認知の科学は、いま一番研究が沸騰して日進月歩の世界なので、臨床の世界に応用されるようになるには時間がかかるのかもしれません。

2011年11月30日水曜日

世田谷生活工房「電気自動車でご飯を炊こう!」のご案内

げろきょがお世話になっている世田谷文化財団・生活工房の方からお知らせが届いたので、こちらでもご案内しておきます。

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今回は、突然で恐縮ですが
12月3日(土)に北沢タウンホールで実施する
「電気自動車でご飯を炊こう!」のご案内です。

生活工房ではこれまでも中学生を対象とした電気自動車組立教室を毎年開催してまいりました。
昨今、街には電気自動車が走りだしましたが
そのバッテリーに蓄電された電力は、
家庭内でも有効に活用することが可能です。

今回のイベントでは、
エネルギー問題に直面し、節電が叫ばれる今、
電気自動車と私たちの暮らしについて考えます。

当日は舞台上で、日本EVクラブさん製作による電気自動車を組み立てながら、講師が解説いたします。

直近のご案内で恐縮ではございますが、
ご興味ございましたら是非ご参加ください。
参加無料のイベントですので、ご家族、ご友人などにもお声掛け頂けると幸いです。

詳細は以下の通りです。

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◎開催日時
12月3日(土)14時〜16時30分

◎場所
北沢タウンホール

◎内容
・電気自動車の組み立て実演・解説
・(対談)日本EVクラブ代表 舘内端氏×JAF MATE編集長 鳥塚俊洋氏

◎申込
こちらのメールにご返信下さい。(参加無料です)

ホームページ

2011年11月29日火曜日

明日はアレクサンダー・テクニーク講座

不定期に突発的におこなっているげろきょのアレクサンダー・テクニーク講座。私の友人のケンちゃんが講師をやってくれています。
 明日30日の夜もあります。19時から。参加者が少ないので、興味がある方はぜひ。

 思えばこのケンちゃんのアレクサンダーからいまのげろきょのすべてが始まったような気がします。
 ケンちゃんは歌手の伊藤さやかが連れてきてくれたのです。伊藤さやかはオーディオブックリーダーの春日玲が連れてきました。
 最初はまだアレクサンダー・テクニークの公認インストラクターの資格を取りたてで、げろきょで定期的に講座を開いてくれてました。
 毎回の講座が終わってから、なんとなくお菓子を囲んでゆるいお茶会をやっていたんですが、数年前にケンちゃんは自分が受けているNVC(非暴力コミュニケーション)のトレーニングプログラムのことを紹介してくれるようになったのです。
 それが非常におもしろい内容で、私は大きな影響を受けました。とくに表現分野にNVCの考え方を適用できないかと考え、そして実行しました。その結果、げろきょが大きく変わっていき、いまのような大変おもしろい集団になってきたのです。
 ケン先生、さまさまです。

 そのケン先生が明日もアレクサンダー・テクニーク講座をやってくれます。
 アレクサンダーってなんだ、という人は、ぜひぐぐってみてください。そして興味がわいたら実際に受けてみることをおすすめします。
 一回や二回ではなかなかわからないかもしれません。しかし、日常生活や表現活動において非常に有用なものであることは、私が保証します。
 ケン先生のアレクサンダー・テクニーク講座の詳細は、こちら

朗読会「槐多朗読」レポート

2011年11月28日夜。明大前キッド・アイラック・ホール地下のブックカフェ〈槐多〉で、朗読会「槐多朗読」がおこなわれました。
 ここはホールのオーナーのこだわりの蔵書が興味深いブックカフェで、天井が高く、村山槐多の絵も飾られていて、とてもおもしろい空間です。
 客席は20席。カウンター席とテーブル席があります。そのうち2席を私が演奏機材のためにつぶしたので、定員18名。
 1か月くらい前に告知を始めたときは、お客さんが全然集まらずどうなることかと心配だったんですが、最終的には満席となりました。それどころか、予約をいただいてなかった人が3名くらいいらして、臨時の椅子を出したりしてかなりぎゅうぎゅうな感じのなかでライブがスタートしました。

 参加費がワンドリンク付きという設定だったので、ドリンクサービスが開始時間までに間に合わず、半分くらいの方はドリンクなしでスタートすることになりました。なので、中間のトークのときに、たっぷり時間をとって、全員にドリンクが行き渡るのを待ちました。しゃべることがなくなって困ったけれど。
 次にやるときは、ドリンクサービスの時間を入れこんだプログラムを作っておくといいかもしれません。

 前半は村山槐多の童話というか、奇妙な短編5連作を集めた「五つの童話」というテキスト。
 朗読の野々宮卯妙は入口の正反対の一番奥の本棚前に陣取ってます。私は入口脇の、カウンターの一番手前の部分にキーボードを置いて立ってます。
 ピアノがないので、楽器は持ちこみました。いつものKORGの61鍵のシンセと、MacBookAir、ミキサー、そしてBOSSのモバイルスピーカー。ひとりで持っていくにはけっこうな荷物です。これを羽根木から明大前までえっちらおっちら歩いて運んだのはかなりきつかったんですが、それよりきつかったのは、入り時間が開演40分前というあまり余裕がない時間になってしまったことです。
 行ったらいつもの早川さんが不在で、初対面の海野さんが対応してくれました。コンセントはどこだ、スピーカーはどこに置いたらいい? キーボードはカウンターの上に置いてもいい? ならんでいた瓶類を片付けてもらったり、使わないケースや鞄を片付けたりしていたら、もうお客さんが来てしまいました。開演まで30分を切っていました。
 初めての場所では音響がわからないのと、ピアノではなく電子楽器オンリーだったので、じっくりと音出しをしたかったんですが、それもままならず、お客さんもどんどん入ってきて、あっという間に開演時間をすぎてしまいました。
 心の余裕がまったくないまま、スタート。私にはとても珍しいことです。自分のニーズを大切にしないとこういう目にあいます。それはお客さんに対しても申し訳ないことです。
 が、野々宮はいつものように軽快に読みはじめたので、私は半分も集中できていなかったんですが、お客さんは朗読に集中してくれているようでした。

 もうひとつ、私には集中できない原因がありました。
 それは〈槐多〉のダクトの音でした。空調も換気扇も切ってもらったんですが、ホール全体の空調の音がダクトからどうしても聞こえてきて、それがかなり気になったのです。後半は「沈黙の朗読」のシリーズとして構成したテキストでしたが、静穏な環境とはいえなかったことが気になりました。
 とはいえ、こういう環境的な制約はよくあることです。そもそもピアノがないということも、私には大きな制約です。こういった逆風にどのように対処していくのか、今後の課題ですね。

 後半は「沈黙の朗読」シリーズのひとつと自分では考えている「金色と紫色との循環せる眼」という、槐多のテキストを構成し、私のオリジナルテキストも混ぜた作品です。
 後半はだいぶ私も集中できるようになってきていて、しかし音響感覚はまったく不安で、ダクトの音も気になって完全な集中というわけにはいかなかったんですが、最後はお客さんとなにかを共有できた感覚がありました。
 おいでいただいた皆さんには心から感謝します。

「沈黙の朗読」の後はいつもそうなるんですが、なんだか呆然としてだれも言葉も出ないような、脳みその言語領域ではなくもっと深いところ、身体につながっているところでなにかがうごめいているような感覚になったんじゃないかと思います。
 しかし、何分後かには皆さんも言語領域にもどってきて、楽しいおしゃべり。
 開演時には戻ってきた早川さんも「よかった」といってくれ、たちまち第2回の「槐多朗読」が決まりました。
 2012年2月20日、なんと村山槐多の命日だというその日にやります。今回のようなことがありますので、みなさん、どうぞ予約はお早めにお願いします。18名限定です。
 次回は私も余裕をもって準備して、マインドフルに臨みたいと思います。どうぞお楽しみに。

予測不能のライブワークショップ第8期スタート

「朗読はライブだ!」というワークショップを開催しています。全6回のワークショップを通じてライブ発表のための準備をして、最終回にちゃんとお客さんを呼んでライブをやってしまおう、というものです。今週末の土曜日から、その第9期がスタートします。
 ということは、これまで8期やってきたということになります。つまり、ライブワークショップのライブをこれまで8回おこなった、ということです。
 振り返ればどれも思い出深いライブばかりです。
 参加者はライブ未経験の人が多いのです。それどころか、朗読そのものも初体験という人もたくさんいます。そういった人たちが現代朗読を学び、たった6回のワークショップでライブ発表をする。毎回、驚くようなことが起きます。
なにが起こるかは私にも予測できません。でも、いつもなにか感動的なことが起こります。
 現代朗読では、なにか立派なものを作り上げたり、たくらんだり、準備したり、といったことはしません。ワークショップで学んでもらうのは、私たちが無意識に身につけてしまっている癖とか習慣とか、あるいは固定化された思考パターンを「やめていく」ことです。私たちが私たち自身に立ちもどり、ひと前でなにかを表現するとき、予測できないおもしろいことが発表する者と観客の間に起こるのです。

2011年11月28日月曜日

ボイスセラピスト講座の半分はコミュニケーション法

初めての2級ボイスセラピスト講座が終わりました。大変楽しくやらせていただきました。今回の講座で6名の2級ボイスセラピストが誕生しました。
 ボイスセラピストは、呼吸と声を使って心身の不調を整えていく技術を知っている人のことです。だれかに施術することもできますし、なにより自分自身を調整できます。
 講座でもお互いに施術の練習をしあううちに、どんどんリフレッシュしていくようでした。内容は理論面など難しいこともあるまじめな講座だったんですが、なぜか笑い声のたえない楽しい時間でした。
 というのは、このボイスセラピスト講座にはもうひとつ特徴があって、コミュニケーション法を身につけてもらうことが重要だからです。セラピストは自分の技術を使って人に「なにかをやってあげる」という意識を持つことはしません。すくなくとも私はそう思っています。相手から「こうしたい」という自主的な気持ちを引きだすために、まずは純真に相手の問題と向き合う好奇心と観察力が必要になります。
 NVCの手法も取りいれたセラピストのためのコミュニケーション法が、この講座の半分のウェイトを占めていたのでした。みなさんも私も、最後はとても希望に満ちた気持ちで終わることができました。
 次回2級ボイスセラピスト講座は、1月15日の予定です。

2011年11月27日日曜日

2級ボイスセラピスト講座、終了

今日は朝から「2級ボイスセラピスト講座」でした。
 これが初めての開催で、内容や教材について実践で確認したいというのもあって、あまり大々的に対外的には告知しませんでした。しかし、げろきょのゼミ生たちが6名付き合ってくれて、大変充実した内容で進めることができました。
 そして、ゼミ生たちが相手ということもあったのかもしれませんが、大変楽しかったのです。
 私としては、ボイスセラピー(音読ケア/音読療法)についての長年の考えや、これを普及するための講座内容についてしっかりと確認させてもらったのと、セラピストにとって重要なクライアントとのコミュニケーションにおいて応用できるNVCの方法を伝えながら実践できた、ということが大変大きな収穫でした。
 NVCについては、ホルヘとの一週間の一連のセッションが私に眼を開かせてくれて、これまでいまいちフィットしなかったNVCの語法がしっくりと自分のなかにはいってきた感じがしています。自分の言葉と自分のフィーリングで、違和感なくNVCの言語を使えることに近づいたような気がします。まだまだ練習は必要だとは思いますが。
 ボイスセラピストにも、このような共感的言語を使ってもらえたらいいなあと思います。

 いずれにしても、今日の講座では、参加者全員がさまざまな発見があったようで、なによりまず自分自身を癒すことからスタートしたいということで、共通の認識があったようです。そして、それぞれがとても深いクオリティのつながりを持てたことも、私にはうれしかったです。
 笑いあり、涙ありの今日の講座、もう一度いいますが、とても楽しかったのです。
 げろきょのゼミ生の多くがボイスセラピストになってくれたらいいなあ、なんて思いました。

 年が明けたら、第2回の2級ボイスセラピスト講座、そして第1回の1級ボイスセラピスト講座を開催する予定です。
 とりあえず、2回めの2級ボイスセラピスト講座は、1月22日(日)の開催です。

北陸の実家、小牧、東京、朗読ゼミ、テキストゼミ

NVC国際公認トレーナー、ホルヘ・ルビオによるワークショップの翌日、私は北陸の実家に帰省しました。
 東京は晴れていい天気だったのに、小松は強風と雷光の荒れた天気。左右にあおられながら不安定な着陸で、ひさしぶりに肝を冷やしました。ま、無事でしたが。これからの北陸の冬は、雪による運行中止や荒天など、予定どおりにはいかないことが起きそうで、覚悟が必要です。

実家では冬支度をいくらかやって(雪囲いの修理とか枝を払った後始末とか)、翌日は電車で移動。名古屋経由、小牧へ。
 こまきみらい塾の現代朗読講座4回めでした。
 これまでこの講座では、40名の参加者という大人数に対応するため、グループワークがほとんどだったのですが、今回はなるべくひとりひとりとコミュニケートしたいと思って、ひとりずつ順番に話してもらうことにしました。質問、感想、参加した理由など、さまざまな声をひとりずつ丁寧に聞かせてもらい、それに応えていくことで、これまでとはまた質の異なるつながりの深い講座になったような気がします。とても充実した、楽しい時間でした。

名古屋に戻って、投宿。
 翌日は東京戻り。午後は朗読ゼミ。
 参加者が少なかったので、羽根木の家の掘りごたつでまったりと。とはいっても、7人くらいはひとつのこたつに足を突っ込んで、肩を寄せ合っていたわけですが。それが理由かもしれませんが、とても親密で共感的な話と朗読の聞き合いができて、暖かい気分になりました。

 夜はテキスト表現ゼミ。
 こちらもまたもや、掘りごたつゼミ。参加者が昼より多くなったので、さらに窮屈で親密になりました。
 今回はライティングテーマが「偏頭痛」でした。これまで、参加者全員の作品をプリントアウトして全員に配り、それを見ながら読み合わせをしていたんですが、今回からプリントアウトは本人作品のみにして、ほかの人は私も含めて耳で聞くようにしました。そのことが、「いまここ」の集中力を高めることは確かなのです。真剣に聞き、真剣に感じたことを受け止めて、それを表現しあいます。
 このテキストゼミも含め、この日一日、私は自分自身の「いまここ」を大切にできた、とても充実した一日のような感じがしました。毎日このようにすごしていけたら、悔いのない生き方となるに違いありません。

2011年11月26日土曜日

コンテンポラリーアートとしての「槐多朗読」

京王線明大前にキッド・アイラック・ホールという東京でも老舗といっていい小劇場があります。演劇、音楽、朗読、美術、いろいろな文化的な催しが連日行なわれています。私が住んでいる羽根木からは歩いて行ける距離なので、いつかここで現代朗読のイベントをやれるといいなあと思っているんですが、私たちは集客力に自信がないので、いまのところは指をくわえて見ています。
 このホールの地下に〈槐多〉というブックカフェがあります。ゼミ生のなおさんがいつもここに現代朗読イベントのチラシなどを置きに行ってくれていたんですが、あるとき、ブックカフェのほうで朗読をやらない? という素敵な提案をカフェの方からいただきました。もちろん、やりますとも!
 というわけで、次の月曜日・28日の夜、ブックカフェ〈槐多〉で朗読会「槐多朗読」をやります。
 定員は18名ととても限定的なんですが、まだ席はあります。どうぞお申し込みください。直接「090-9962-0848」こちらまで電話ください。
 カフェは高い天井と本棚にこだわりの本が並んだとてもおもしろい空間です。そこでコンテンポラリーアートとしての現代朗読をおこないます。空間とパフォーマンスを楽しみにいらしてください。ドリンク付きで1,500円です。

2011年11月25日金曜日

二級ボイスセラピスト講座が開催されます

ボイスセラピストの二級資格を認定するための講座が、次の日曜日(27日)にあります。これは、本格的に音読ケアワーカーとして自立をめざすほかに、ちょっと家庭や職場、あるいは自分自身の心身ケアのために有効なボイスセラピーの方法を身につけておきたい、というような人におすすめです。
 いうまでもなく現代人は多くのストレスにさらされて生活しています。そのストレスは心身の不調となって現われます。それを「解消する」「注意をそらす」のではなく、どうやって「付き合っていく」のか、その扱い方に上達する方法のひとつがボイスセラピーです。
 ストレスを受けると、怒り、悲しみ、後悔、さまざまな感情に身体を含めて支配されてしまいます。その感情を消したり、注意をそらすのではなく、まずは完全に受け止めて自分がどのような状態にあるのかを認めます。自分のなかにどのような感情が生まれているのか、それはどこから来たのか、を認識するのです。これを「メタ認知」といいます。これができるだけでも人は随分落ち着きを取り戻します。
 このプロセスを、自分の呼吸と声を使って行なうのがボイスセラピーです。
 一日で終わる講座ですので、気楽にご参加ください。詳細はこちら

2011年11月24日木曜日

日本の語り芸の伝統の延長線上に現代朗読を置く

いま、日本で普通におこなわれている朗読会や朗読ライブを見ると、たいていは朗読の教室や勉強グループの人たちが発表する形で行なわれているものが多いようです。たまにひとりで企画したり、同好の士が集まって開いたりするものもあるようです。いずれにしても、出演する人はなんらかの形で朗読を「習った」あるいは「勉強した」人が多いようです。我流で始めて、人のことなんか我関せずとオリジナリティを打ち出して突っ走っている人もなかにはいるんでしょうが、私はあまり見かけたことはありません。
 では、その朗読を「習う/勉強する」というのは、なにを「習う/勉強する」ということなのでしょうか。

 私は朗読教室に行ったことはありませんが(なにしろ自分では朗読をやったことがないので)、聞いたところでは、日本語の「正しい」発音発声をまず教わるそうです。つまり、正しい母音や子音の発音や滑舌、共通語アクセント、鼻濁音、無声化などの技術を習います。
 ほかにも呼吸や姿勢をやったり、文芸作品の読解をやったりもするようですが、基本的におこなっているのは「放送技術」の習得といっていいようです。
 この放送技術はどこから来たものなのかというと、言葉どおり、ラジオやテレビの放送が始まったとき、その放送の現場から始まったものです。大正から昭和にかけて、まずラジオが普及しました。戦後、昭和30年代に今度はテレビが全国に普及しました。放送メディアというものが出現したわけですが、それにともなってアナウンサーやナレーター、声優といった、放送に関わる専門職も発生しました。
 全国津々浦々に電波が届くわけですから、話の内容が全国の人に伝わらなければなりません。そのために、放送のための話し方「放送技術」が生まれ、工夫され、現在にいたっているわけです。
 ラジオでは朗読も流れ、それは彼ら専門職が中心となってやがて朗読会も開かれるようになりました。それを聞いた一般人も、自分も朗読をやりたいと思い、彼らに習うようになっていきます。朗読を習いたいという需要が、朗読講座や教室の需要を生み、放送局の朗読指導講座やカルチャーセンター、ナレーター事務所の養成所といったところでも、日本語の話し方・朗読の技術の教育がおこなわれるようになりました。
 これが現在の朗読の普及のありかたです。
 こうやって見てくるとわかるように、いまの日本で一般的におこなわれている朗読は、放送技術をもっとも大きなよりどころとしています。「表現」としての朗読について深く思考/試行されているわけではありません。

 一方で、日本ではいにしえから豊かな「語り」の芸が脈々と引き継がれています。もっとも古くは「語り部」でしょう。一家のおばあちゃんが語っていたものから、専門職までさまざまな語り部がいたことでしょう。
 平安時代には琵琶を演奏しながら朗々と語る(うたう)琵琶語りが各地をめぐりました。
 それから能や狂言が生まれました。これは舞台表現の始まりです。私が「舞台」といっているのは、表現のための設置する「場」のことです。かならずしも文字通りの「舞台」がなければならないわけではありません。
 その後、浄瑠璃・文楽が生まれました。そこには専門的な語り手がいます。また江戸時代には、演劇に近いものですが、やはり声も使う舞台表現といっていい歌舞伎が生まれました。落語や講談も江戸時代に生まれました。
このように、「語り芸」の歴史が日本にはあるのです。
 朗読はこの語り芸の流れの延長線上にあるといえるでしょうか。
 私はいえないと考えています。朗読は放送メディアが生まれたことによって突然出現した「技術」です。技術的な面から「表現」へのアプローチは確かにあります。文芸作品を深く読みこんで、なんとか「表現」へと高めようと努力している人は多くいます。が、私はこの「放送技術」を出発点とした一般的な朗読にはどうしてもなじめないのです。

 では、現代朗読はなにをよりどころとしているのでしょうか。
 現代朗読では「表現」が前提としてまずあります。しかもその「表現」は、多くのコンテンポラリーアートがそうであるように、個人の唯一無二の存在そのものを伝えることを目的にします。技術もやらないことはありませんが、技術はあくまで表現に付随するものであり、下位レベルです。
 表現といえば、日本には古来から「語り芸」という表現の立派な歴史があります。現代朗読も、実はこの伝統から学ぶべきものを学び、この語り芸の延長線上に朗読表現を起きたいと思っています。しかし、あくまで「現代」の「いまここ」に焦点をあてた表現ですから、伝統技能を学ぶということではありません。日本が長らくつちかってきた表現の思想、そして身体使いの方法を学びながら、なおかつコンテンポラリーでなにものにもとらわれない表現を模索しようというのです。
 こう考えることで、私のなかで違和感がすっきりと解消しました。いま、現代朗読が向かうべき方向性がはっきりしたと感じています。

秘密のNVCコマンドー

コロンビアから来たNVCトレーナーのホルヘ・ルビオによるワークショップが、昨日終わりました。約一週間の日本滞在の最後のセッションでした。私は昨日も含め、すべてのセッションに参加したほか、丸一日、彼と東京観光を楽しみました。とても濃密で、大切で、学びの多い特別な一週間でした。そしてこの一週間はなにかが終了したのではなく、なにかが始まる一週間になるような気がしています。
 今日のワークショップでホルヘはおもしろい言葉をいいました。
「The Secret Empathic Commnado」
 極秘共感的部隊とでもいいましょうか。
 NVCを学んできた、と親しい人にいうと、なにか変な自己啓発セミナーみたいなものを受けてきたんじゃないかと警戒されることがあります。そして私が口を開くたびに、怪しいワザを使っていいたくもない秘密を暴かれるんじゃないか、と。
 NVCに違和感を感じ、意識的に距離を置いていた私にも、そういう時期がありました。しかし、なにもわざわざNVCという言葉を教える必要はないのです。ただ実践すればいい。それを生きればいい。なにもいわずに。秘密にしておいたっていい。極秘のコマンドーとして行動すればいい。
 秘密のNVCコマンドーが世の中に増えれば、どれほどたくさんの存在が尊重されることでしょうね。

2011年11月23日水曜日

自分自身の面倒をきちんと見る

なんとなくここ数日間で生まれ変わったような感じがしています。もちろん、NVCトレーナーのホルヘ・ルビオとのセッションのおかげです。
 自分が自分を否定してきたこと、他人を否定的に見ていたこと、エネミー・イメージを持っていたこと、そういったことが全部クリアになって、すべては人生や生命が本来あるべきニュートラルな土俵があらためて見えてきたような気がしています。
 もちろん人生には限りがあって、私もかなり長く生きてきましたから時間が余りあるわけではありませんが、たったいま、ここにいる私が、クリアな状態でいられることに感謝したいです。この感謝は、次世代へと具体的に伝えていきたいというのが、私の望みのひとつです。
 欲張りなので、もちろん望みはそのひとつだけではありません。些細なことから大きなことまでいろいろあります。書きたい、描きたい、奏でたい、作りたい、たくさんあります。いずれにしても「いまここ」の私の意識、ホルヘのいう「Vivencia」。
 人はきちんと自分自身の面倒をみることが大切です。それができていないと、いろいろなことのクオリティが低下してしまいます。一度きりの人生、大切に、丁寧に生きてみたいですね。

2011年11月22日火曜日

NVCの実践でもマインドフルネスがキーワードだった

ちょくちょくと書きましたが、先週の金曜日からNVC(Nonviolent Communicatio / 非暴力コミュニケーション)の合宿が始まって、明日のワークショップで一連のイベントの最終となります。
 私がNVCのイベントにここまでべったりと関わったのは初めてのことです。
 今回、招いた国際公認インストラクターは、コロンビア人のホルヘ・ルビオ。私に最初にNVCを教えてくれて、以来ずっとプライベートにリードしてくれている友人のケンちゃんの推薦で、日本でも招聘チームが作られ、私もその端っこに加えてもらっていたのです。

 ホルヘの教えるNVCは、これまでのどのトレーナーとも異なっています。
 もちろんこれまでのトレーナーはいずれもすばらしい人たちで、だれひとりとして忘れることができません。が、ホルヘは「私にとって」特別な感じがします。うまく文字で書くのは難しいんですが、一種の相性といってもいいかもしれません。曖昧な言葉なのであまり使いたくないんですが。
 NVCについては勉強をつづけてきたし、人にも勧めたり、また現代朗読協会の活動やゼミで実践したりもしていたんですが、どうとははっきりいえない違和感が身体の片隅にずっとわだかまっていて、居心地の悪さを感じていました。それが今回のホルヘとのセッションでじつにすっきりと取り払われたような気がします。それは、私がNVCとは関係なく考えたりいいつづけてきたことが、ホルヘのNVCのなかにとても似た形ではいっていることを発見してうれしかった、ということもあります。
「なんだ、とても似たようなことをやっていたんだ」
 という喜びもあります。

ホルヘは Vivencia という言葉を強調します。これは訳するのが難しいんですが、私たちが「いまここ」でなにを経験し、どう感じ、どのような生きていることの感触(クオリア?)を持っているか、ということについての意識のことです。
 これはまさに「マインドフルネス」の状態のときに起こる「メタ認知」にほかならないと私は思っています。これが起こるとき、私たちはものごとや感情に対するさまざまな執着からのがれ、感覚のシフトを経験します。
 ホルヘは怒りや悲しみ、妬み、寂しさ、といった、私たちが通常「よくない」と思っている感情にも居場所を与えようとします。だれかに対して強い怒りを覚えたとき、その怒りを存分にふくらませるスペースを自分のなかにあたえ、メロドラマじみた怒りのドラマを自分のなかで作らせます。
 自分のなかにスペースを作ることを「puff up」と表現していました。そしてその自分の状態を「puffer fish(ふぐ)」にたとえ、とてもコミカルに仕草で表現してくれるのです。その姿が私の脳裏に染みつき、「puff up」の具体的なイメージが私のなかに浸透したのでした。
 だれかに対して共感的になれずにいる自分を発見したとき、ついその自分を否定しがちです。そして「共感的にならなければ」と自分に強います。が、そのとき、「共感的になりたくない自分」を押し殺してしまうことになるのです。自分の一方をないがしろにすることで、自分の命の半分を殺してしまいます。
 そうではなく、「共感的になりたい自分」も「共感的になりたくない自分」も Vivencia として認め、そこに存分に活躍のスペースを与えてやる。そのあとで、ゆっくりと呼吸をし、落ち着いてものごとに対処する。
 怒りの感情を自分のなかで暴れさせ、自分で自分の感情に共感を与えたあとは、とくにだれかにあらためて共感してもらわなくても落ち着けるのです。そのテクニックをホルヘは教えてくれました。

というような堅苦しい話とは別に、昨日はホルヘが一日なにも予定がない、アテンドできる人もいない、ということで、私がアテンド役を買って出て、大変楽しい一日を彼とすごしてきました。
 午前中に渋谷のホテルまでホルヘを迎えに行きました。最初に彼の目的地であった赤羽のお茶店に行こうとしたんですが、念のために調べてみたら、なんと今日と明日は臨時休業とのことでした。
 予定を繰り上げて、浅草へ。
 浅草ではホルヘが大変喜んでくれて(初来日だったのでまあそうでしょうね)、おみやげを大量に買いこんでいるのにはちょっと心配するほどびっくり。
 ツイッターで「浅草なう」とつぶやいたら、すぐにホルヘ招聘チームの久美子さんが応えてくれて、休養日だったにもかかわらず夫の陣さんと駆けつけてくれました。浅草に詳しい久美子さんのおかげで、おいしい昼食とお茶屋に案内してもらって、ホルヘも大満足。
 久美子さんたちと別れて、秋葉原へ。パチンコ屋に連れこんでびっくりさせたり、プリクラを撮って遊んだりしていたら、もう夕方。ぐるっと渋谷にもどり、焼き鳥屋でビールと焼き鳥。
 一杯やったあと、ホテルまで送って、解散。子どもにもどったみたいに楽しい一日でした。

 明日は茗荷谷で最後のワークショップが一日あります。
 あいにく、50名の定員はすでに一杯であらたに参加をすすめることはできないんですが、招聘チームの一員としてみなさんのサポートができることに期待をふくらまらせています。
 明日も私が私とともにいられる一日でありますように。つまりはマインドフルにいられる、ということですが。

朗読の記事・中国新聞

中国地方に住む私の友人・よねらさんが、ブログに興味深い新聞記事を紹介してました。
「注目浴びる朗読」
「文学の「生命力」声で解放」
「小説の「音楽性」」
 といった小見出しがついてます。
 いつも私がいっていることと重複する部分は多いんですが、朗読が注目を浴びているというのはほんとかな、と半信半疑ですが。
 よねらさんのブログ記事はこちら

 あ、そうそう。
 来週28日(月)の「槐多朗読」には、皆さんぜひ来てくださいよ。一般的な朗読とはまた違った内容になるはずです。演出・音楽の私としては「沈黙の朗読」の系列として位置づけているコンテンポラリー朗読のつもりです。
 くわしくはこちら

クレイジー東京観光の一日

エキサイティングな二日間のNVC合宿のあとは、トレーナーのホルヘ・ルビオと東京観光の一日でした。
 スタッフのだれもホルヘのアテンドをできる者がいないようだったので、名乗り出て彼を観光に連れ出したのです。コスタリカに一年留学していたことがある某女子大生も同行。というのも、ホルヘはコロンビア人なので、母国語がコスタリカとおなじスペイン語なのです。NVC合宿では英語を使いますが。
 私はスペイン語ができないし、英語も話すほうはからきしダメなので、彼女がいてくれて大助かり。
 定番の浅草と秋葉原に行きました。ガイジンの眼になっておもしろそうなところを案内。浅草ではNVCをいっしょに勉強している仲間の久美子さん夫妻も駆けつけてくれ、おいしい店や、ホルヘの大好きな日本茶の店に案内することができました。
 おもしろかったのは、秋葉原で通りがかって「パチンコってなに?」と聞かれたので、百聞は一見にしかずと店内に連れこんだら、それはまあびっくりすること。大音量と、人々が台に向かって目を血走らせている光景。あらためて見ると、日本人ってクレイジーな面も多分にありますね。
 でも、日本に生まれ、日本に住んでいる幸せがあります。なかなか認識しにくいですが。ホルヘはよほど気にいってくれたらしく「帰りたくない」を連発してました。

2011年11月21日月曜日

大波でサーフィンを楽しむように生きよう

エキサイティングなNVC(非暴力コミュニケーション)合宿の二日間が終わりました。
 にわかにいいつくせないほど多くの学びがあった二日間でしたが、そのなかでもとくに深く心に刻まれたことがあります。それは「人に共感的であらねばならない」と自分が思ってそうふるまっているとき、共感的でありたくない気分の自分を抑え付けてしまっているこということです。そのことのストレスが生まれます。「共感したい」にせよ、「いまはめんどくさいので共感したくない」にせよ、いずれも自分の内側から来ている大きなメッセージであり、それをまず自分が受け取ることが出発点だと、今回のトレーナーのホルヘはいうのです。
 怒りや悲しみ、平和を乱すもの、暴力といった、私たちが否定的にとらえているものすら強い命のメッセージから来ているので、それをスペースをもって受けいれることから出発したい。
 この二日間で受け取ったことは、とてもにわかに消化しきれるものではないですが、それがゆっくりと私の身体のなかに浸透していく時間を楽しみたいと思っています。
 ホルヘ・ルビオのセッションは自由で、気ままで、なにも決まりごとがなく、どこへ向かうのかまるでわからず、しかし瞬間瞬間に驚くようなことが起こり、まさにライブでした。私の友人のケンが、私をホルヘに会わせたいといってくれたときから、半信半疑でこのときを待っていましたが、想像以上のことが起こったことをケンとホルヘに心から感謝します。

2011年11月20日日曜日

いい人であろうとすることの代償は高い

NVC合宿の一日めが終わりました。お昼すぎから始まって、夜までみっちりとトレーナーのホルヘ・ルビオとの学びの時間。時間がゆっくりと、しかし濃密に流れていきます。
 一日めの学びで私にとってもっとも印象的だったのは、「他人に対していい人であろうとすることの代償は高くつく」という言葉でした。私にも心当たりが大いにありますが、なにか人から頼まれごとをする、あるいは悲しんでいる人や困っている人を見たとき、自分のニーズを棚にあげて「いい人」になろうとする習癖があります。それはおそらく、自分を他人の尺度のなかで「よい評価」を得ようとする習慣的な行動でしょう。
 私たちはだれかの期待に応えようとする習性を身につけて成長してきたのです。それは親であり、教師であったかもしれません。
 その期待に応えようとする行為が、自分のニーズにつながっていないとき、私たちはいずれ代償を払うことになります。それは相手についてもおなじことです。ある行動が自分のニーズにつながっていないとき、「ノー」といえる勇気を持つこと。結果的にそれが自分と相手の尊重になるということ。
 ほかにも「木と風のエチュード」という、とても温かで創造的な、そして言葉を使わないコミュニケーションのエチュードがあって、とても楽しかったので、これは現代朗読のエチュードとしてもお借りしようと思いました。

2011年11月19日土曜日

われ、5キロダイエットに成功せり

3月の震災を契機に体重が増えつづけ、気がついたら5月には65キロになっていました。かつて経験したことのない重量です。当然ながら身体は重く、動きも鈍い。
 その前の2月には気管支炎から肺炎になりかけるほど体調をくずし、一時57キロ台まで落ちていたので、8キロ近い急激な増加です。身体にいいはずがない。
 というわけで、体重を絞ることにしました。それが5月のこと。
 もともと私は学生時代、体重が50キロそこそこしかなかったんですが、その後じわじわと増えていって、40歳以降は60キロ前後でほぼ安定してました。したがって、今回もせめて60キロまでは落としたい。できれば、筋肉量を増えしながら、それを上回って脂肪を落としたい。

 ダイエットの方法はシンプルで簡単なもの。

(1) 毎日体重を計ってグラフにつける。
(2) 夜は食べない。もし食べるなら極力糖質は取らない。
(3) なるべく歩いたり、運動する。

 これだけです。
 (2)のところで「えー」という人が多いんですが、慣れればどうってことないです。人間はもともと一日二食だったのです。それが産業革命以後、三食以上食べてカロリーをたくさん摂取し、馬車馬のように働くことを資本家から強要されるようになったのが、現代社会習慣としていまだに続いているだけですから。
 慣れると、お腹になにか入っていると気持ち悪くて寝られないようになります。お腹をからっぽにして眠りにつき、翌日中にしっかり食べる。
 (3)が一番実行が難しかったですね。いまだになかなか運動量を増やせていません。5キロ落としたのは全部脂肪分です。今後の目標は、筋肉量を増やして同時に脂肪を落としていくことです。ほとんど家にいて、パソコンに向かっている生活なので、意識的に運動しないとなかなか運動量は増えません。だからプールに通っているんですが、これも週に二回くらいが限度です。それでもやらないよりはましです。

 この半年くらいの間、自分へのプレッシャーとして「ラーメン断ち」を決行しました。
 私は毎日ラーメンでもいいくらいラーメン好きなんですが、体重が60キロを切るまではラーメンを口にしないと決めたのです。
 それが昨日、ようやく60キロを切ったので、今日の昼、ラーメンを食べてきました。ささやかなお祝いです。ひとりで孤独に、でしたが。
 今後も「60キロを切っていないときはラーメンを食べられないルール」を自分に適用しつづけるつもりです。

コミュニケーションの目的は静けさの質と奥行き

NVC(非暴力コミュニケーション)のトレーナーであり、コロンビア人のホルヘ・ルビオによる集中ワークショップが始まりました。
 おもしろすぎる。私にとってしっくり来る言葉がたくさんあって、わくわくします。
 たとえば、
「コミュニケーションの目的は静けさ。静かさの質と奥行きが大切。おたがいになにもいわなくてもいい状況を作るために、言葉を使う」
 というようなことをいうわけです。これ、普通はなかなか意味がわかりませんよね。でも、ホルヘのセッションを受けながらこれをいわれると、すとーんと来るんです。とくに日本人的資質に触れるものが多くあるような気がします。
 NVCトレーナーのセッションは、これまでもどれもすばらしいものでした。いずれも心に深く残っています。ホルヘのものもおそらくそうなることでしょう。
 現代朗読協会はNVCの理念を実践しながら運営されていますし、現代朗読という表現もNVCととても親和性が高いものです。げんに私は「沈黙の朗読」という朗読パフォーマンスのシリーズを作っていますが、まさに芸術表現が非暴力とつながっているありさまを具現化したいと思ってやっているものです。
 私が学んだことを、今後いくらかでも皆さんと共有できれば、こんなにうれしいことはありません。

2011年11月18日金曜日

プール、ラーメン、NVCのホルヘ・ルビオ

震災後に5キロも増量してしまった体重を、半年かけてようやく減量に成功。継続的に体重を維持しつつ、しかしもう少し筋肉量を増やして基礎代謝をあげ、脂肪を減らしたいので、せっせと運動をしようと思っています。なので、油断せずにさっそくプールに行って泳いできました。
 ひさしぶりだったにもかかわらず、意外に距離を稼ぐことができました。小牧、名古屋や実家との往復、東北ツアーなど、このところ移動が多く、身体を動かす機会が多かったからかもしれません。
 調子に乗って、半年以上「断って」いたラーメンを、自分に許可しました。

 とりあえず近場で、東松原の〈哲麺〉へ。豚骨醤油味で。
 いやー、おいしかったなあ。日常的に食べているとこれほど感動することはないんでしょうね。たまに食べるから、おいしいものもおいしいんでしょう。おいしいものに感動したいなら、平素は質素な食事をすべし、ということかも。

夜はNVCのトレーナーでコロンビア人のホルヘ・ルビオが来ました。ケンちゃんが彼の招聘をプッシュしていて、はるのさんを中心に招聘のためのチームを作って準備していたのです。それがついに実現したというわけです。今夜はそのコアメンバーとホルヘとの顔合わせ的なセッションでした。
 ケンちゃんから聞いてはいましたが、ホルヘは本当にNVCの深いレベルを見せてくれるトレーナーで、しかも自分の言葉で語ってくれるので、私にはとても腑に落ちることが多かったです。彼の語るNVCのストーリーは、私のニーズにつながる美しさを感じました。音楽的であり、沈黙を大切にするコミュニケーションです。これは日本人の資質にもまっすぐにつながるものだと思いました。
 明日と明後日は羽根木の家で合宿がおこなわれます。また、来週の月曜日から水曜日までワークショップがみっちりと開催されます。この学びの機会がとても楽しみです。

音楽としての朗読

はじめにことばありき。ことばがあるところにはうたが生まれる。
 といいますが、実はことばより先にうたがあったのかもしれません。鳥など動物にはことばはありませんが、うたはあります。もっとも彼らがそれをうたと認識しているかどうかはわかりませんが。
 それはともかく、ヒトの声帯は音を発するだけでなく、その音の音程を筋肉の働きによって変化させることもできます。そのことによって、言葉にメロディをつけることができるのです。そうやってヒトは原初のころからうたを歌っていたんでしょう。
 その後、文明が興り道具が発達すると、楽器が生まれ、メロディやリズムを奏でるようになります。ギリシャ・ローマ時代、インダス文明、古代中国の文明で音楽が奏でられていたことは確かです。
 いま私たちがよく聴いたり歌ったりしている音楽は、どこにルーツがあるのでしょうか。ごくおおづかみでいえば、歌謡曲、フォークソング、J-POP、ロックなどの大衆音楽は、リズムと和声の上にうたを始めとするメロディラインが乗った形式です。この形式の音楽が生まれたのは、ヨーロッバのクラシック音楽の古典派と呼ばれる時代です。作曲家でいえばモーツァルトやベートーベンの時代です。
 それまで音楽は、和声ではなく、旋律が主役でした。中世の宗教音楽はほとんどが単旋律で、聖書などの言葉をある音階の規則にのっとって歌われていました。グレゴリオ聖歌がその代表です。

 その後、ルネッサンスを経て音楽は複雑で華やかになっていきます。宗教のくびきから解放され、人間の楽しみのためのものになります。いくつかの旋律を組み合わせて壮大なハーモニーを作りだすようになりました。楽器の種類も爆発的に増えました。対位法という作曲法が生まれ、バロック音楽が花開きます。
 しかし、このように旋律がいくつも交錯した曲は、主旋律の強さが失われます。うたが曲のなかで埋もれがちなのです。そこで、旋律と和声が役割を分担する方式が生まれました。モーツアルトのピアノ曲などを聴けばわかりますが、左手が和音(分散和音のこともあります)、右手が旋律を奏でる構造になっています。
 オーケストラのような壮大なサウンドでも、オーケストラ全体で和声を構成し、旋律のパートが独立している、という構造を持つようになりました。
 現代の大衆曲も、基本的にこれとおなじ構造です。現代ポップスはこれにリズムやベースラインが加わって強調され、よりダンサブルに、より刺激的になっただけです。

 先日、あるライブカフェでギターとボーカルというふたり組のライブを聴いていました。歌はとても静かでナチュラル。まるで語りかたるように、ボサノバとかシャンソンのような歌いかたです。ギターはコードを控えめに進行させて伴奏に徹しています。
 そのときふと、歌手が歌っている歌詞、つまりことばが、メロディラインに拘束されているように感じたのです。もしメロディラインの拘束から解放されたら、ことばはより自由にならないだろうか。
 いや、しかし、そういう音楽はすでにあるではないか。ラップミュージックです。メロディラインの拘束から逃れた言葉が、リズムに乗せて「うたわれる」音楽。ヒップホップのラップです。
 では、リズムの拘束もはずしてしまったらどうなるだろうか。
 それは朗読そのものですね。
 ことばがメロディや和声やリズムに拘束されていった音楽の歴史があるなら、今度はそこからことばを解放していくことが音楽としての朗読ということにならないだろうか。

 実はそれはすでに現代朗読でやっていることです。
 音楽(たとえばピアノ演奏など)がサウンドを形成しているなかへ、朗読がすべりこんでいく。そのとき、朗読者に要求されるのは、音楽的センスにまちがいありません。声のトーン、リズム、音質、ボリュームなどのコントロールによって、音楽演奏者とともに音声表現を即興的に作りあげていくのです。ここに要求される音楽的センスは、音楽家と同等、あるいは同等以上のものでしょう。なにしろ、即興的に音声表現を組み立てていくわけですから、ジャズの即興演奏のようなものです。いや、ジャズにはジャズフォームという形式があります。朗読にはフォームがない分、自由であると同時に難しくもあります。
 ジャズのなかでも最高に自由で、最高に難しいフリージャズのスタイルに近いといえるかもしれません。
 一般的な朗読では、滑舌だのイントネーションだの、重箱の隅にあるような技術が問題視されますが、朗読表現の世界はそんなせせこましいものではありません。音楽と対等、あるいはそれを超えるような広大な表現の可能性を、ほとんど未開拓地として持っているのが、朗読という表現行為なのです。そしてそれはまちがいなく、音楽の延長線上にあります。