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2019年4月12日金曜日

私の読者と読者の私『ジョコンダ夫人の肖像』

NVC仲間の栗山のぞみから勧められて、E・L・カニグズバーグというアメリカの作家の『ジョコンダ夫人の肖像』を読みおえたところだ。
『クローディアの秘密』という本を書いた人で、その本のことは知っていたけれけど、読んだことはなかった。
女の子が読む本だと思っていたからだ。

でもそれは嘘だ。
というか、勝手に私がそう思いこんでいただけだけで、だれもその思いこみを正してくれなかったのがうらめしい。

しかし栗山のぞみがいた。
彼女はプロのライター(書き手)だけど、優秀な読み手でもある。
なにしろ私が書いたものも喜んで読んでくれる希少な読者だ。

最初に読んだ本のことで一致して盛り上がったのは、たしかアゴタ・クリストフの『悪童日記』だと思う。
もちろん世界的にも評価されている作品だし、まちがいなく傑作なんだけど、感じいる部分が似ていて、共通の価値観を感じたのだった。

その後もいくつかの作家や小説について共通の話題があったり、お互いにおもしろ本を勧めあったりしてきた。

先日なにげなく、これまで読んだなかで一番すばらしいと思ったのは……という話になった。
栗山のぞみの口から、「彼方なる歌に耳を澄ませよ」という本のタイトルが出てきた。
あれ、どこかで聞いたことあるぞ。
それって、私が世界中で一番好きな作家アリステア・マクラウドの唯一の長編のタイトルじゃない。
まさかどんぴしゃり、その本の名前が出てくるとはびっくりした。

アリステア・マクラウドはカナダの寡作な作家で、ほかには『冬の犬』と『灰色の輝ける贈り物』の2冊の短編集が出ているきりで、どちらも文句なしにすばらしいのだ。
そんな彼女から勧められた本を読まないわけにはいかないじゃないか。

そして彼女が家から持ってきてくれた『ジョコンダ夫人の肖像』と『ぼくと(ジョージ)』を読みはじめたというわけ。
……(なんでジョージに()がついているんだろう?)

『ジョコンダ夫人』はレオナルド・ダ・ヴィンチの話で、ダ・ヴィンチの弟子だったサライの視点で描かれている。
ふたりが愛したベアトリチェという女性が重要な役割で登場する。
タイトルはリザ・ジョコンダ、つまりモナリザのモデルになった女性のことだが、彼女は最後の1ページでようやく登場する。
そしてなぜジョコンダ夫人が最後に登場するのか、そのわけは最初から読んでいくとわかるようになっている。

断じて子ども向けの読み物なんかじゃない。
もちろん子どもが読んでもいいんだけど、もし私が子どものころに読んでいたとしたら、それなりにおもしろく読んだと思うけれど、いま読んだこの感じや理解とはほど遠かったことだろう。
そして、きっと何年かたってまた読みかえしてみると、さらに違った読み方ができるんだろうな、という確信がある。
それほど人間を深く描いているし、人間のおもしろさをさまざまな側面から描いている。
私はとてもこんな風には人間を描けない、脱帽。

つぎは『ぼくと(ジョージ)』を読んで、そのあとはいま届いたばかりの『ティーパーティーの謎』を読もうと思っている。

2019年4月8日月曜日

映画:LOVE DEATH + ROBOT

NETFLIXオリジナルのアニメーション・アンソロジー集。
デヴィッド・フィンチャーとティム・ミラーが製作総指揮、監督もティム・ミラー。
2019年3月公開。

アニメーションはCGと手描きの2種類が混在している。
CGアニメーションは、
「えっ、これCGなの?」
と疑いたくなるほどのクオリティの高さ。
とくに役者の表情や動きが生身の人間の役者とまったく遜色のないものが混じっていたりする。

全部で18本の短編がならんでいて、短いものは6分、長いものでも17分という短編集。
人間の役者とまったく変わりないCG表現になっているのは、そのなかでも「わし座領域のかなた」や「シェイプ・シフター」などの作品。
見ればわかるが、もう役者いらないよね、と思ってしまうことを抑えるのはむずかしい。
いわれなければCGだと気づかない人は多いんじゃないだろうか。

ストーリーもアダルトなもので、暴力的、性的表現がふんだんに、容赦なく盛りこまれている(子ども視聴禁止)。
たぶんそこのところを意識的に切りこんでいるのだろう、デヴィッド・フィンチャーならでは、ということで。
暴力と肉体は「ファイトクラブ」に代表されるフィンチャー映像のテーマである。

それぞれのストーリーには一貫性はなく、テーマも手法もさまざま。
というかバラバラ。
それゆえに、
「次はなにが出てくる?」
という楽しみ方もできる。

これはみじかい作品ばかりだが、ここからなにか得体の知れない、私たちがいま予測もつかないような映像作品が出てくるような予感が、しないでもない。

2019年4月4日木曜日

映画:ライフ

2017年公開の合衆国・イギリス合作映画。
監督はスウェーデン出身のダニエル・エスピノーサ。

ひさしぶりに映画でも観てみようと思って、なにげなく観はじめたら、あまりの怖さにふるえあがった。
SF映画を観ようと思ったのだ。
とくに宇宙特撮ものは好きで、日常世界から遠くに、しかしリアルな映像で連れていってくれる。

最近は特撮というよりCGの技術が成熟したので、地上では撮影できないようなカットもどんどん映画にできる。
宇宙船やエイリアンの造形もそうだ。

この映画は宇宙ステーション(ISS)のなかが舞台になっている。
火星探査機が地質サンプルを持ってISSに帰還するのだが、途中で小惑星帯に接触して故障したままもどってくる、それをキャッチする、というシーンからスタートする。
冒頭のスリリングな長回しっぽいシーンなのだが、「ゼロ・グラビティ」を彷彿とさせる。
おそらくCGスタッフやスタジオは共通のものなのかもしれない。

そのあと、サンプルのなかに冬眠中の生命体を発見し、それを培養しはじめる。
それがどんどん成長していき……
あとはお決まりのエイリアンストーリーに展開していくのだが、展開や映像、そして役者がなかなかよくできていて、わかっているのに非常にスリリングな気持ちで見続けることができる(逆に気の弱い人は見続けることが困難だろう)。

俳優陣もいい。
日本人の真田広之が出ているのだが、すっかりハリウッド俳優となってなかなかがんばっている。
主演はジェイク・ジレンホールということになっているのだが、助演女優のレベッカ・ファーガソンのほうが主演といってもいいくらいだと思う。

ただ、エンディングがあまりに救いがない。
これは彼女が主演といえない理由にもなっているのだが、かといってジェイク・ジレンホールが堂々と主演といえるストーリーなのかというと、私にはそうは思えない。

制作側の思惑がこのようなバッドエンディングに落ち着いた理由なのだろうが、私が監督だったら絶対にもっとちがう展開にするだろう。

まあしかし、全体としてよくできた映画で、怖い映画が苦手ではない人ならかなり楽しめるといっていいだろう。

2019年2月27日水曜日

本:駒井雅和著『駒井式 やさしい韓氏意拳入門』

日貿出版社発行、2,000円+税。

日本韓氏意拳に入門して6年になる。
この本にも書かれていることだが、よくいわれるのは、
「韓氏意拳は難しい。わかりにくい」
ということだ。
私も長らくそう感じていた。

難しい、わかりにくい、ということ事態は悪いことではないと思っている。
興味や好奇心がかき立てられ、挑戦しがいがあると感じる。
が、実際に稽古していくことなると、なにをどうやっていいのか、雲をつかむような不明瞭さで困惑してしまうのは、問題だ。
とくにひとりで稽古するときに、そういう問題が生じるのはおもしろくない。
おもしろくないと続かない。

ちょっとやってやめてしまう人もいれば、長らくがんばってつづけていたのに途中でふっつりと参加しなくなってしまう人もいる。
私自身もそのような問題を抱え、なんとかクリアしようとしながらやってきたが、ここに来てこの本が出たことで、個人練習に大きな味方を得たような心強さを感じている。

著者の駒井先生はこのように書いている。
「誰も置いていかない、誰にでも分かる韓氏意拳、を目指して、話を進めていきたい」

読んでみるとわかるが、平易なことばで丁寧に、しかし簡潔に論理的に書かれている。
なんだか上から目線のようだが、長年自著をたくさん活字出版してきた身としてあえて感想をいわせてもらえば、文章がすばらしい。
武術関係の本はとかく、内容はすばらしく情熱も感じられるが、いっていることがよくわからないことがよくあるのだが、この本はそんなことはない。
日頃から駒井先生が読書を好まれることをよく知っているので、先生の文章力はその読書量に支えられているのだろうと勝手に推察している。

また文章だけでなく、写真や動画などの図版にも工夫がある。
昨夜の稽古で先生じきじきに教えてもらって気づいたのだが、図版のなかにもこまかな書きこみがされていて、稽古のときのチェックポイントが示されている。
これだけ丁寧に書かれている「テキスト」があると、ひとり稽古で課題に取り組むときも明快になる。
毎日すこしずつ稽古しなさい、といわれてもなんとなく取りくみかたが曖昧だったのだが、この本があれば「今日はこれを課題として稽古してみよう」というふうに明確さが生まれ、結果的に稽古を楽しむことができるだろう。

韓氏意拳の学習者だけでなく、まだ体験したことはないが興味はあるという人にも、韓氏意拳という武術がなにをやり、なにを目指しているのか、どのように特別な武術なのかが、よくわかるだろう。

さまざまな工夫がほどこされ、また自身の問題についても正直に開示されているこの本を執筆し、出版にまでこぎつけたのは、大変な苦労だったろうと推測できる。
駒井先生にあらためて、この本を出してくれたことについてお礼をいいたいと思う。

また、この本の著者にじきじきに、しかも気軽に毎週のように教えてこうことができることも、ありがたいと思う。
稽古仲間がひとりでも増えてくれるとうれしい。
みなさん、ぜひいっしょに、自分の可能性を探求する稽古をしましょう!


駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を3月27日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

2019年2月13日水曜日

映画:ショーシャンクの空に

1994年公開のアメリカ映画。
監督はフランク・ダラボン。
ほかにも「グリーン・マイル」や「ミスト」なども作っていて、この映画も含めてスティーブン・キング原作のものが多い。
監督作品よりもプロデュースや脚本で関わることが多いようだが、いずれにしてもハリウッド映画界ではベテランといってもいいだろう。

評判の高い映画ながら、いままで未見だった。
時間があったので、Netflixサーフィンをやっていたら目についたので、ふと観てみた。

途中で観るのをやめようかなと何度も思ったほど、前半は地味。
しかし、その地味さは計算された地味さで、後半に生きてくる。
そして最後は、ええーこうなるのか! とびっくり、感動するという仕掛け。

いやあ、よくできてるわ、脚本が。
もちろんそれを踏まえた映像もよくできている。

役者がいい。
主人公役のティム・ロビンスももちろんいいし、助演のモーガン・フリーマンもすばらしい。
他の脇役たちも、ちょっと鼻につく過剰演技がないわけではないけれど、なかなかの名優ぞろい。

ちょっと古い映画だけど、おすすめ。
観る人には、とにかく後半までがまんしてちゃんと観ることをおすすめする。
前半にいろいろ仕込まれていることが、最後にちゃんと回収されていくし、その回収のしかたがかなり驚きの気持ちよさなので。

映画:ボビー・フィッシャーを探して

1993年公開のアメリカ映画。
監督のスティーヴン・ザイリアンはこの映画の脚本も書いているが、むしろ脚本家といったほうがいい経歴の持ち主だ。

「レナードの朝」
「シンドラーのリスト」
「今そこにある危機」
「ハンニバル」
「ギャング・オブ・ニューヨーク」
「ザ・インタープリター」
「アメリカン・ギャングスター」
「ドラゴン・タトゥーの女」

そうそうたるリストがならぶ。
みんな私の好きな映画だ。
どうりで「ボビー・フィッシャーを探して」もよかったわけだ。

生まれもっての天才を扱ったストーリーというのは、どこかずるい感じがして私はあまり好きにはなれないのだが、この映画はよかった。
主人公の少年ジョシュは持って生まれたチェスの才能で注目を浴びるのだが、勝負の世界にどうしてもなじめない優しさが彼の本質でもある。

しかし、彼に期待する父親やコーチは、彼に厳しくあたり、勝つためには相手を憎めという。
負けると罰を与える。
そんな彼の唯一の理解者で見方となるのは、母親だ。
母親から離婚を告げられた父もやがて目がさめ、ジョシュを守るようになる。

チェスをしないこと、ときには負けること、公園のホームレスと野良チェスを楽しむこと、好きな野球をやること、そんなのびのびとした生活を取りもどしたとき、彼の本来の才能が輝きはじめる。
これは一種の教育映画なのだ。
教育とはなにか、子どもの本来の才能を伸ばすとはどういうことなのか。

そして子役がまたかわいいのだ!

有名な映画でありながら、なんとなく見過ごしていたが、気になっていた。
観てよかった。
未見の人がいたら、ぜひおすすめしたい。

2019年2月3日日曜日

映画:バード・ボックス

2018年公開のNETFLIXオリジナル映画。
監督はデンマーク出身の女性スサンネ・ビア。
主演はサンドラ・ブロック。

サンドラ・ブロックのいちばん新しいところでは、私は「ゼロ・グラビティ」が印象に残っているが、もっとも存在感を植えつけられたのは「スピード」だろうか。
あまり演技のうまい女優という印象はなかった。

「バード・ボックス」はのっけから非常に厳しい展開の映画で、万人におすすめできるものではない。
多くのサスペンスやホラーを観てきた私ですら、かなり厳しいと感じた。

とにかく人がどんどん死ぬ。
人が死んでいくなかで、主人公は生きのびるために必死になっている。
その必死さが切ない。
なぜなら、主人公は臨月の妊婦だからだ。

なぜ死ぬのか、なぜ眼をあけてはならないのか。
なにかを見てしまうと死ぬという設定であることがわかってくるが、その理由は最後まで明かされない。
人類が死滅するほどの危機におちいる、その原因が、宇宙人の侵略なのか、あるいは未知の病原体なのか、それとも別の理由なのか、明らかにはならない。

事件の発端の5年前と、その5年後の現在が、交互に語られる。
どちらも生きのびるために厳しい状況だ。
そんななか、主人公ともうひとりの女性がほぼ同時に出産する。
そして主人公はふたりの子どもを抱えて生きのびていかなければならなくなる。

主人公の生きる目的は、ただひとつ。
この子たちを生きのびさせること。
そのための手段は問わない。

絶望的な世界の状況のなか、最後はハッピーエンドといえなくはないが、まったくのすっきりした結末ではない。
世界は相変わらず絶望的なままだ。
しかし、エンディングには救いがある。

子役がすばらしい。
かわいい。
そして主人公が決死のなかようやくたどりつく状況は、予想しなかったものだし、メッセージ性も強い。
まあ、ラスト20分のために観る価値はある、かもしれない、といえる、かもしれない(もごもご)。

2019年2月2日土曜日

映画:ユピテルとイオ 地球上最後の少女

今年・2019年の1月にNETFLIXで配信されたばかりの映画。
監督はジョナサン・ヘルバートという人だが、私は聞いたことなかった。
主演はマーガレット・クアリーという若手女優で、助演がアンソニー・マッキーというまあベテランといってもいい俳優だろう。

じつはこの映画、ほとんどこのふたりしか出てこない。
主人公サムの父親のダニー・ヒューストンがちょっとだけ出てくるが。

設定は最近よくある、そしてちょっと食傷気味の感がある、汚染されて人類が住めなくなった地球。
人類は新天地を求めて宇宙空間に旅立っており、わずかに残された人々も大気汚染などで生物が死に絶えた地球で死に瀕している。

主人公サムはそんな地球に残った少女で、それが邦題になっている。

映画はだれもいない街で、酸素マスクを装着した彼女が食料などを調達している場面からはじまる。
彼女の独白がつづく。
残っている理由や、すでに宇宙空間に旅立った恋人とのメールのやりとりなどが描写されるが、どこか裏がありそうな気配がただよう。

ほかにはだれも残っていないはずなのに、父親の講義録音テープを無線電波で毎日流しつづけている。

みつばちが出てくる。
汚染された環境に適応しつつあるのではないかというわずかな希望がある。
ほかにも豚の実験も出てくる。
しかし、希望はなさそうだ。

最後の宇宙へのシャトルが発射される時間が迫っているなか、突然、気球に乗った男がたどりつく。
彼はサムの父の博士をたずねてきたのだ。
そこから話は大きく展開していく……のだが、基本的に静かな映画だ。

たんたんとした描写がつづく。
荒涼とした風景と、CGで作りこまれた廃墟。
この静かさは、どこか「インターステラー」や「メッセージ」と通じるものがある。
悪くない。
私はきらいではない。
あまり救いのない映画ではあるが。

2019年1月21日月曜日

映画:玄牝 -げんぴん-

音読トレーナーのいしはらまなみが川崎のコミュニティハウスMUKUで開いた上映会で観てきた。
2010年公開、河瀬直美監督作品。

岡崎の吉村医院という、自然分娩を推奨している産科医院を舞台にしたドキュメンタリー映画で、以前からちょくちょく話を聞いたり、あるいは直接吉村医院と関わっている人たちと交流があったりと、気になっていた映画だった。
ようやく観ることができた。

まず最初にいいたいのは、
「すべての男性にこの映画を観てもらいたい」
ということだ。
少年も青年もおっさんもおじいさんも、未婚も既婚も、全員が観るといいと思う。
命をつなぐ女性という存在の偉大さのほんの一端でもかいま見ることができるだろう。

この映画を観たあと、電車のなかでベビーカーを押しているママにむかって舌打ちするようなやつはいなくなるだろう。
大きなお腹を抱えた妊婦に席が必要かどうか訊かないやつはいなくなるだろう。

そういう映画だ。

しかし、ただ女性賛歌、出産賛歌というだけの映画ではない。
撮影と監督も女性だが、この河瀬直美という人は一筋縄ではいかない。
批評精神がそこここで錆をきかせていて、吉村先生ですら欠点や苦悩をしっかりとあぶりだされている。
ただただ自然分娩サイコー、というようなメッセージは注意深く汚されている。

命がつながっていくことの喜びや大切さと同時に、重さ、苦しさ、複雑さも表現されているこの映画を、すべての男性が観るといいのに、と思ったのだ。

2019年1月11日金曜日

国立〈宇フォーラム美術館〉まで平松輝子回顧展を観に行ってきた

国立に引っ越して2年以上が経つが、こんな美術館があるとは知らなかった。
現代美術作家である平松輝子の自宅横に美術館が建てられていて、現代作家に開かれている。
運営方式が独特で、ドイツでは多く存在している芸術振興組織「クンストフェアライン」のやりかたを採用している。

クンストフェアラインは「芸術連帯協会」と訳されている。
会員が会費を負担して運営される芸術の場で、宇フォーラム美術館も会費で運営がまかなわれている。
この美術館で作品展示をする作家は、使用料を負担しなくてよい。

普通、美術作家が展覧会を開きたいときは、ギャラリーを借りて、会期に応じた使用料金を負担する。
その必要がない、ということだ。
くわしい運営方針や内容については、私はまだ踏みこめていないのだが、地域にこのような質の高い美術館があるというのは喜ばしいことだ。

またここでは、美術展示だけでなく、ダンスや音楽などパフォーマンス系のイベントも催されることがある。
私も機会があれば、音楽や朗読でイベントチャンスを持てればいいなと思う。

今回は1月10日から会期がスタートした平松輝子の回顧展がおこなわれていた。
平松輝子という人を私は知らなかったのだが、あらためて作品と展示を観ておどろいた。

国立の中学校で図画工作の先生をしていた彼女だが、まだ二十代のときに単身ニューヨークに移り住み、そこで製作した作品が認められ、いわばシンデレラストーリーのように有名になった。
そのことは日本ではほとんど知られていないのだが、作品を見ると、日本の現代美術を代表する強烈な個性とパワーとアイディアに満ち溢れたものがあることに驚かされる。
一見の価値はあるし、もっと知られていい作家だろう。

彼女はすでに90歳を超え、作品製作はほとんどおこなっていないが、ご家族から直接お話をうかがうことができて、ラッキーだった。
作品とその生き方、現在のようすのお話など、たくさんの刺激をいただいた時間となった。

平松輝子回顧展は1月20日までと、2月7日から17日までの開催。
宇フォーラム美術館のウェブサイトはこちら

2018年12月4日火曜日

映画:祝福(いのり)の海

音読トレーナーのいしはらまなみがいよいよ社会活動をスタートしようとしていて、その第一歩となる映画上映会を川崎市多摩区のコミュニティハウスで開催するというので、出かけてきた。

〈MUKU〉というコミュニティハウスで、いただいたちらしによれば、映画上映会のほかにもお絵描き教室やヨガ、お話会など、いろいろなイベントをもよおしているらしい。
とても気持ちのいい家で、今回の上映会にも赤ちゃん連れの若いママが何人も参加していたのが印象的だった。
近隣地域のママのちょっとしたコミュニティのようになっているのかもしれない。

いしはらまなみはいずれこちらで、音読カフェを開催したいと思っているらしくて、もちろん私も応援したい。
音読カフェにかぎらず、ママカフェや共感カフェもきっといいだろうし、デジタルピアノを持ちこめるなら親子連れで参加できる歌や音楽のイベントも楽しいだろうな、なんて想像していた。

映画は東条雅之という、監督というか映像ジャーナリストといったほうがいいだろう、若い人が作ったもの。
自分の旅の軌跡をそのまま記録映画にしたものだが、旅路そのものがストーリーになっている。
監督の正直な興味、関心、好奇心が、問題をとらえ、ときにはしっかりと踏みこんでいく。
そしてふたたび、旅のスタート地点である山口県の〈百姓庵〉へと回帰していく。

編集の巧みさもあってのことだろうが、押しつけがましくなく貫かれているテーマ性が、こちらに大きな影響を与えてくる。

原発問題などシビアな問題を、批判精神を持ちながら切りこんでいるのだが、そこにはだれをも攻撃することなく対話や見守り、よりそうことを大切にする姿勢があらわれていて、新鮮だ。
ドキュメンタリー映像はとかく、批判の攻撃性を持ってしまうことがあるが、この映画はそれがない。
たぶん、あたらしい感覚のドキュメンタリー映像作家のひとりになるのだろうと思うし、このような作家がいま何人かあらわれてきているような気がして、希望を感じる。

多くの人に観てもらいたい映画だ。
とくに、原発反対派に反感を持っている人や、肯定派、推進派、より豊かな社会をめざして現体制や政権に協力的でありたいと思っている政治家や経済人にも、観てもらいたいと思った。
とはいえ、今日は若いお母さんたちや女性が観にきていたというのも(男の参加者は私ひとりだった)、希望と平和を感じる風景だった。

このような上映会をもよおしてくれたことについて、いしはらまなみに「ありがとう」をいう。

2018年11月23日金曜日

映画:大統領の料理人

二〇一二年公開のフランス映画。
なにげなく、どうというきっかけもなくなんとなく見はじめた映画だったが、これは拾いものだった。
いい映画だなあ。

一九八〇年代にフランスのミッテラン大統領に二年間仕えた実在の料理人であるダニエル・デルプシュさんをモデルにしているらしい。
映画ではカトリーヌ・フロという女優が演じている。
この人がまたいいんだな。
中年女性なのだが、自然体でしかしこだわりがある自信に満ちた人物を演じていて、魅力的だ。

映画は「現在」の彼女をオーストラリアのテレビ局スタッフが追いかけはじめる、というシーンからスタートしているのだが、そこは南極基地なのだ。
テレビ局は南極地方にある島の研究基地の取材に来たのだが、そこに女性の料理人がひとり働いているのを見つけ、追いかけようとする。
しかし、彼女はテレビを嫌がり、逃げまわりながらも、基地で料理する二年間の契約の最後の日をすごそうとしている。

テレビ取材を嫌がる理由を明らかにするかのように、大統領のシェフとしてエリゼ宮で働きはじめる日々へとシーンがカットバックしていく。
以後、島の基地とエリゼ宮を時間を超えて行ったりきたりしながら、物語が進んでいく。

最後のシーンで、基地の荒くれ男たちからいかに彼女が愛され、そして別れを惜しまれているのかが描写されるシーンがあって、カトリーヌ・フロという女優の魅力とそれが重なって、ちょっと胸が熱くなる。

昨今の合衆国発の娯楽映画を見慣れている身としては、最初はやや冗長に感じるが、きちんと見ているとそれも計算され、必要があってそうなっているのだということがわかってくる。
演出がじつに丁寧で、緻密なのだ。

たとえば、主人公がエリゼ宮の厨房に初めて入っていくシーン。
すでにたくさんの、ほとんどは男の料理人たちが忙しく立ち働いていて、しかし女料理人がやってくると興味しんしんで視線を注ぐ。
彼女を目線で追う男たちの演出が、画面のすみずみにまで行き渡っていて、その丁寧さが映画全体の空気を引き締めている。

南極基地とエリゼ宮を行ったり来たりする構成も、前半は冗長に感じていたのに、終わりのほうになるとちゃんとそれも必然性があってのことだとわかってくるし、むしろ南極基地での「現在」のほうに、この映画の「いいたいこと」が表現されているのだと判明する。

いい時間をプレゼントされた感じだ。
晩秋の夜にぴったりの映画だった。

2018年11月19日月曜日

映画:キング・コング

「・(中グロ)」のはいっている「キング・コング」、2005年公開のニュージーランドと合衆国の合作映画。
なぜニュージーランドかというと、監督がピーター・ジャクソンだからだ。

うかつにもそのことを知らずになにげなく観はじめた。
すでに一度観ていると思いこんでいて、出だしはどんなだっけなと観はじめたところ、まだ観たことのないことがわかった。
最近観たと思っていたのは、このあとで公開された別のキングコング映画「キングコング: 髑髏島の巨神」を観ていたからだろう。
こちらは今年の6月にレビューを書いているので、気になるかたはこちらをどうぞ。

出だしだけ確認するつもりだったが、観はじめたら止まらなくなった。
さすがにピーター・ジャクソン監督。
「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビットの冒険」「第9地区」、全部好きだ。
非常に緻密なCGと画面構成、ストーリー展開、いうことない。
そして主演女優のナオミ・ワッツのきれいなこと。

公開当時、37歳のヒロインと、話題になったらしい。
ナオミ・ワッツはイングランド生まれだが、14歳のときにオーストラリアに家族と移住し、シドニー時代にニコール・キッドマンと知り合い、いまでも交流があるという。
二コール・キッドマンはいちはやく売れてスターダムにのしあがったが、ナオミ・ワッツは陽の目を見るまでに時間がかかった。

ほかの役者陣もたくみで、もちろんバリバリのエンタテインメント映画なので繊細さは押し出されていないが、こまかなところでかいま見ることができる。

ストーリーはいまさら説明する必要もないだろうが(1933年の最初の映画にのっとっている)、キャラクターや設定にはかなりの工夫がされている。
とくにコングだけでなくたくさん登場する恐竜や巨大昆虫など、凶暴な巨大生物とのバトルは、「ロード・オブ・ザ・リング」をほうふつとさせるものがある。

すこし前の映画ではあるが、かなりおすすめだ。
なぜこれをいままで観ていなかったんだろうと不思議なくらいだ。
そういえば、コング映画は好きで、なぜなんだろうと思っていたら、小学校のころ日本のテレビでキングコングシリーズをやっていたんだった。
日本独自のテレビ製作だったが、日本ではアメリカ本土よりキング・コングが人気があったとのことだ。

2018年11月9日金曜日

バカ映画と揚げ物をつまみながら編み物をする至福の時間

バカ映画と揚げ物と編み物は私の三大好物だが、バカ映画とはなにかという定義をしておかねばなるまい。

極私的でけっして普遍的な定義ではないのだが、バカ映画とはたんに「バカな」内容の映画ということではない。
私の場合、バカな内容であることと、それに巨額の予算と人的労力がつぎこまれているひとが条件となる。

近年のハリウッドはそのような映画を量産する末期的症状を呈している。
そういうものを茶の間にいながらにして、
「もっとほかにお金使うべきところがあるだろうよ」
となかば憤りながら自分も怠慢こいて観る、というところに、理不尽で屈折した快感があるのだ。
いったいなんのニーズだ。

昨日は私の身体的欲求として定期的におとずれる「揚げ物祭り」のニーズを満たすべく、豚バラ肉のかたまりをスライスしてちゃちゃっと揚げた大量のトンカツを中濃ソースまみれにしてつまみながら、オパール毛糸を使った靴下に挑戦しながら、ふとNETFLIXを開いたら、まさに私的定義ぴったりのバカ映画に遭遇したので、ここに嬉々として書き記しておくわけだ。

その映画のタイトルは「スノー・ホワイト」。
そう、「白雪姫」の大人向け実写バージョン。
2012年公開のアメリカとイギリスの共同制作映画。
総予算1億7千万ドルを注ぎこんで作られたということを明記しておきたい。

悪の女王役にシャーリーズ・セロンが出ているのだが、よくこんな役を引き受けたなあとびっくり。
主役はクリステン・スチュワートという女優なのだが、これがまあ、どうやったらここまで魅力のない白雪姫を演じられるのだという名演技。

監督はルパート・サンダースという人で、このあと「ゴースト・イン・ザ・シェル」の実写版を作っている。
私は途中まで観ているのだが、最後まで観る気がうせた。

というような文句をうだうだいいながら、揚げ物をつまみ、編み物をちくちく進める時間が、私にとっては至福の時間なのである。
ありがとう、白雪姫。

2018年11月2日金曜日

キース・ジャレット最新作「ラ・フェニーチェ」

ヴェネツィア・フェニーチェ劇場でおこなわれたソロコンサートのライブ録音アルバムだが、おこなわれたのは2006年7月。
なぜいまごろ? という話だが、受賞のお祝いの意味があるらしい。

賞というのは、今年、ヴェネツィア・ビエンナーレの音楽部門での金獅子賞のことだ。
これは現代音楽の作曲家であるピエール・ブーレーズやスティーヴ・ライヒも受賞している由緒ある賞で、ジャズピアニストとしては初の受賞となる。
初ではあるが、納得の受賞だと思う。

12年前の録音なので、現在のキースの音ではもちろんないのだが、現在のキースは健康を心配されていて、しばらくライブ活動は休止している。
心配だ。

高校生のころからジャズを聴きこんできたが、なぜかキース・ジャレットにはあまり関心が向かなかった。
私がジャズを聴きはじめた1970年代には、キースはすでにケルンコンサートなどで超有名プレイヤーとしての地位を確立していて、そんなところで逆になんとなく敬遠してしまったということがあるかもしれない。

あらためてキースを聴きこみはじめたのは2000年になってからだった。

2000年に私は福井の田舎から東京へと仕事場を移し、世田谷の豪徳寺の酒屋の地下室をスタジオにしていた。
地下倉庫を改造したスタジオで、完全遮音、完全遮光の環境だった。

あるとき、そこで、真っ暗ななか、キースの「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」というアルバムを聴いた。
ピアノの音が身体のなかにはいりこみ、染み渡り、知らず涙があふれてきた。

あとで知ったことだが、そのアルバムはキースが慢性疲労症候群で何年か活動を休止していたあと、自宅のスタジオで妻のためだけに演奏したものを収録したもので、往年のテクニカルで流暢な表現ではなく、寡黙で朴訥とした正直で無防備な音が胸を打つものだった。
それを聴いて、私自身、自分のピアノに向かう姿勢をあらためて深くかんがえさせられたりした。

以来、キースを聴きこむようになった。
とくに年齢とともに変遷していく表現には目をみはった。
病み上がり後のソロピアノの挑戦は刺激的で、完全即興でありながらも和声進行をともなかったもの(これは難しいよ!)から、調性のない現代音楽的なものまで、自分という現象を自由自在に、しかしピアノという制約の強い楽器を用いて抽象的に表現していく姿は、まさにキース・ジャレットというアーティストが唯一無二の存在であることを強く感じた。

この「ラ・フェニーチェ」は、そんな脂が乗りきった時期の演奏だ。
キースは1945年生まれなので、「ラ・フェニーチェ」は61歳のときの録音。
いまの私とおなじ年齢だ。
これを聴いて、比較しておれはだめだと落ちこむのか、刺激を受けて発奮するのか、それは私自身の選択である。
選択の自由はかぎりなく許されている。

2018年10月29日月曜日

映画:しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス

泣いた。
いい映画だった。

今年・2018年公開のカナダとアイルランドの合作映画。
監督はアシュリング・ウォルシュという人(知らない)。
10年以上前に「荊の城」という映画を作っているが、私は未見。

これは実在の画家モード・ルイスの半生をモデルにした映画らしい。
モード・ルイス役をサリー・ホーキンスを演じている。
どこかで見たな、しかも最近……と思ったら、「シェイプ・オブ・ウォーター」の主役で、この映画でアカデミー主演女優賞を取っている。
これも大変よかった(こちらのレビューは書きそびれているが)。

モード・ルイスは重度のリューマチを病んでいて、親戚からもうとましがられ、ひどい仕打ちを受けている。
ただひとつ、絵筆を持って好きな絵を描くことだけがささやかな幸せで、そのために自分の居場所と自立を求めて、家政婦の仕事に出る。
それが夫となるエベレット・ルイスの杣屋《そまや》であった。

本当に質素で、粗末な家なのだが、そこでささやかな自分の時間を見つけていくモード。
そしてある日、彼女の絵に価値を見出す女性があらわれ、モードは徐々に画家として知られるようになっていく。

一種の女性の自立の物語だと感じたのだが、その自立が特別な才能・才覚や人なみはずれた努力や運ではなく、ただありのまま、自分のささやかな幸せを大切にすることだけで成立していくという点が、ほかの成功・自立物語とは異なっているように思える。
そしてそのような人が実在したのだというところに、勇気をもらえるのだ。

夫のエベレット役のイーサン・ホークもよかった。
エベレットは実直な、しかし古い時代の暴力的な男性性を象徴するような存在なのだが、そのなかにもモードにたいする正直さと誠実さがあらわれている。

美しい(だけど荒涼とした)風景と、絶妙な音楽。
引きの画面と寄りの画面の巧妙な構成、静けさと抑制のきいた音楽の絶妙な組みあわせ。
ひさしぶりにサウンドトラックを聴きたいと思いながら、エンドロールでは涙が止まらなかった。

2018年10月25日木曜日

映画:教誨師

うちから一番近い映画館である立川の CINEMA CITY で観てきた。
監督(脚本も)は佐向大。
1971年生まれとまだ若いが、監督歴はずいぶん長いようで、作品もたくさんあるが、ほとんどがマイナーな作品で、私も名前を知らなかった。

しかし、この監督は注目株だと思う。

ふだん日本映画を観ることは少ない私だが、NVC関係の知り合いにクリスチャンが多いこともあって、この映画のことを知った。
「教誨師」とは、刑務所で希望する囚人にボランティアで話を聞いたり、宗教の話を説いたりするボランティアの牧師のことだ。

牧師とはプロテスタントの用語なので、神父とか、ほかにも仏教や他宗教の宗教家がいるのかもしれないが、この映画では牧師役を今年の2月に亡くなったばかりの大杉漣が演じている。
そう、この映画は大杉漣の遺作でもある。

全編をとおして、音楽はまったくない。
そしてほとんどのシーンが室内での教誨師と死刑囚との対話だ。
個性的な死刑囚が何人も出てくる。
それぞれが勝手なことをしゃべったり、沈黙を守ったり、苦しんだり、泣いたりわめいたり、さまざまな表情を見せる。
役者の見せ所ともいえる。

フィクションなのでぼかしてはあるけれど、実際に起こった事件とその容疑者を想定していることがうかがえる。
それぞれの役者がそれぞれの容疑者——その後死刑囚——を演じている。

私は知らなかったのだが、玉置玲央という若い役者が印象的だった。
障害者介護施設での連続殺人事件を想定する語りがつづく。
そこで彼がいう人の命、この現代社会の矛盾、そして死刑制度というものに対する問題提起は、なかなか衝撃的である。
いい役者だと思った。
東京の劇団「柿喰う客」のメンバーらしい。

ほかにも五頭岳夫、古舘寛治、光石研といった印象的な役者が出演しているが、なかでもびっくりしたのが烏丸せつこだった。
汚れ役を見事に演じていて、私はしばらく彼女だと認識できなかった。
そんなことも含めて、一見の価値はある映画だなと思った。

2018年10月20日土曜日

映画「ジェーン・ドウの解剖」

2017年公開のイギリス映画。
監督はアンドレ・ウーブレダル。
知らない。

いやー、びっくりした。
なんか息抜きに観るおもしろそうな映画がないかなと思って、NETFLIXで、全部観るつもりじゃなくて出だしのところだけブラウジング的にちょいちょいとつまみ見していたところ、これに出くわした。
つまみ見が上手になってくると、出だしの数分を見ればそれが自分にとってよい映画なのかどうか、すぐにわかる。
これは最初の1分で「あたり」だと思った。

一家が殺戮された凄惨な殺人現場の地下室から見つかった、まったく損傷のないきれいな遺体。
主役の親子は、その遺体を扱うことになった検死官で、そこはなぜか遺体安置所と火葬場にもなっている(イギリスではそういうシステムなのか?)。

「名無しの権兵衛」を女性にして英語でいうと「ジェーン・ドウ」になるらしいが、身元不明のその遺体をふたりが解剖していく。
非常にリアルで、血とか内臓とか皮膚を切り裂くシーンとか、その手のものが苦手な人はまず見ないほうがいい。
あと、これは声を大にしていっておこう。

気の弱い人はけっしてひとりで見ないでください。

私はうっかりひとりで見はじめてしまって、途中で目を離せなくなって、そしてひさしぶりに、

「肝を冷やした」

たいていのホラーとかサスペンスとかスプラッタなものも含めてたくさん観てきたけれど、この「ジェーン・ドウ」はひさしぶりに心底こわかった。
はじめて「エクソシスト」を観たときのこわさにちょっと似ているけれど、あれをもっと知的に、リアルに、そしてオカルト色を慎重に抑えて丁寧にした感じで、その分心理的な恐怖が増幅される。

いっておくけれど、前半はとくに、遺体を解剖するだけの映画なのだ。
ところが、不可解な事実がつぎつぎと明るみになっていって、気がついたら怖ろしい仕掛けに観客は巻きこまれる。

難をいえば、後半がややサービス過剰でわかりやすく作ってあり、興行的にはそれが必要なのかもしれないが、押さえた筆致の前半とのバランスがやや悪いように感じられる。

「大変気持ち悪い映画だが、私の好きな映画の一本に入れてもいいな」

という気分になっている。
前半を観て、ひとりで観るのはとても怖ろしくて中断してしまったのだが、結局気になって、あとで最後まで観てしまった。
今夜はきっと、夢をみる。

2018年6月11日月曜日

音楽:ケティル・ビョルンスタ「The Sea」「The River」

ちょっと時間があるときなど、Apple Music でランダムに音楽を聴くことがある。
知っているアーティストや曲を狙って聴くのではなく、知らない曲をあらたにリリースされた作品を中心にランダムに流してくれる「ニュー・ミュージック・ミックス」というサービスがあって、リストは私の視聴履歴に左右されるらしいのだが、いずれにしても私が聴きそうだとアルゴリズムが判断した新曲を連続で流してくれる。

だいたいは聴き流しているのだが、時々「おっ」と思うような曲にたどりつくことがある。
今日は Anneli Drecker という人が歌っている「Mayflowe, New York」という曲に出くわした。
歌もいいのだが、伴奏のピアノが私の身体にはいってきた。
だれだろう。

クレジットにはケティル・ビョルンスタとある。
知らない人だ。
うかつなことに、ケティル・ビョルンスタを知らなかったのだ、私は。

調べてみると、ECMからたくさん作品をリリースしている。
そして彼はピアニストというだけでなく、たくさん小説を出版している作家でもあるのだった。
そのこともあって、がぜん興味がわいてきた。
残念ながら、日本語に翻訳されている小説はない。
1952年生まれというから、私より5歳上だ。

すこし古いアルバムだが(1995年)、彼の代表作といわれる「The Sea」を聴いてみることにした。
つづけて「The River」も聴いてみた。

どうやらビョルンスタは「水」をテーマにした表現を多くおこなっているらしい。
なんとなく親近感を覚える。
どちらのアルバムも、どこか映画音楽のような、情景やストーリーが浮かぶようなものだ。
「The Sea」のほうはディストーションのかかったギターサウンドなどもからみ、ちょっとハードな、前衛的な面もあるけれど、「The River」とともに通じるのは、けっして奇をてらったり、テクニックをろうしたりはしていない、ということだ。
むしろ実直で、口数の少ないサウンドといっていい。

聴いていて、これはジャズなのだろうか、と思う。
ビョルンスタは北欧ジャズのコンポーザーでありピアニストとして分類されているようだが、一般的な意味ではジャズではないよな。
それは一聴すればだれでもそう思うだろう。
クラシックのような曲想であり、現代音楽のようでもあり、映画音楽のようでもある。
が、即興性もある。

「これは」というアーティストに出会ったとき、その人がたくさん作品を残しているとなんだかほっとするのだが、ビョルンスタも幸いにたくさんのアルバムがある。
これからじっくり聴きこんでみよう。
その前に、 Anneli Drecker が歌っている「Mayflowe, New York」のはいっているアルバム「A Suite of Poems」をまず聴きこんでみることにしよう。

2018年6月6日水曜日

映画:キングコング: 髑髏島の巨神

2017年公開の合衆国映画。
監督はジョーダン・ヴォート=ロバーツという人。知らない。

キングコングの映画はたくさん作られていて、最初に映画に登場したのは1933年。
日本のゴジラと対決する映画もある。
こちらは1962年。
この「髑髏島の巨神」は最新のキングコング映画ということになる。

サミュエル・L・ジャクソンがごりごりに頭のかたい、しかしやり手の軍人を演じていて、コングと軍人チームが対決する。
対決の構造はほかにも用意されていて、地中に住むやはり巨大生物のスカル・クローラー。

こういったドンパチシーンや、怪獣同士のバトルシーンは、相変わらずのハリウッド映画なのだが、映像自体はすばらしい。
とくに嵐に守られた島の風景、島民たちの姿、彼らが神殿としている朽ちた軍艦など、美術がいい。
こういった映像美術は「ジュラシック・パーク」や「アバター」「ロード・オブ・ザ・リング」などのCG映像の流れを汲んでいるものだ。

CGというとロボットや宇宙船やキャラクターのアクションを思いうかべることが多いが、世界設定というかその映画の世界観を作りあげる仕事において、いまや絶大な力を持っている。
ストーリーはともかくとして、映像を楽しめる娯楽映画としておすすめしておこう。


6月17日:身体文章塾
テキストで自分自身を伝えるために、自身の身体性とむすびついたことばや文体についてのさまざまな試みをおこなっています。6月の開催は17(日)11時からと24(日)19時から約1時間半程度です。