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2019年1月20日日曜日

撃研でクラクラ

今月は1回しか開催されない昭島スポーツセンターでの韓氏意拳技撃研究会に参加してきた。

いつもどおり、まずはウォーミングアップ。
……の前に、体操マットを敷いて、軽く受け身の練習。
高校生のときにすこしやったことがあるが、柔道の前回り受け身だ。
これが思ったよりやばかった。

頭を打たないようにやや首をひねり、肩口から背中へマットにつくように前回りをするのだが、ぐるりと回転すると思いがけず強烈なめまいに襲われた。
そういえば、前回りなんて何十年もやっていない。
三半規管がなまってしまっているらしい。
たった一回回っただけなのに、めまいで上下感覚が失われて、即座に立てないほどだった。

そのあと、ウォーミングアップがてら、体育室をぐるっと走り、一周ごとにマットで前回り受け身をしたのだが、なんとか徐々に回転に慣れてきて、徐々にめまいはおさまっていった。
それにしても、乗り物酔いのような気持ち悪さがしばらくつづいたのはやばい。

ウォーミングアップのあとは、対人でのコンタクトの練習。
駒井先生は「フルコンタクト韓氏意拳」などと冗談をいっていたが、通常韓氏意拳では打撃のコンタクトも対人練習もない。
ひとり稽古が中心になっている。
しかし、この対人稽古をつうじて、ひとり稽古をおこなうときの大きなヒントを得ることができる。

そもそも武術の経験もない、日常での運動経験も薄い者にとって、いきなりただじっと立っているだけのひとり稽古は雲をつかむようなもので、なかなかその意義を理解できるものではない。
ある程度の経験があり、また日常的に身体を使う習慣を持つことが、ひとり稽古のベースになるというのが駒井先生のアイディアで、実際にやってみると賛成できることがわかる。

しかし、対人でのコンタクト練習といっても、練習相手には女性もいるし、私も含め年齢を重ねた者もいるので、節度が求められていることは安心できる。
武術の稽古において「怪我をしない」という信頼感があると、さまざまな観察や試行ができるように思う。

駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を1月21日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

ピアノ七十二候:大寒/款冬華(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大寒の初候(70候)「款冬華(ふきのはなさく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(18)

地方都市でポピュラー音楽に詳しく、演奏もできて、しかも生放送である程度臨機応変にしゃべれるという人間がいたとしたら、ラジオ局にとっては使いやすい人材だったのだろうと思う。
私も自由になる時間がたくさんあったので、FM福井からのオファーを受けることにした。
なによりおもしろそうだった。

ラジオ局での私の最初の仕事は、番組の構成を作ることだった。
タイムテーブルにそってどのタイミングでだれがなにを話して、どのタイミングでどの曲を流し、どのタイミングでどのCMをいれるか、といった構成表を書くのだ。

パーソナリティはある程度「こんな感じのことを話す」という指示をしておけばいいが、アナウンサーには原稿を書いておく必要がある。
また、番組の進行に合わせた選曲も必要だ。
私は局のCDライブラリーに出入りする自由をもらった。
そこでさまざまな曲を聴き、選び、番組を構成するのだ。
その課程で、私はかつてないほどたくさんの、そしてさまざまな種類の音楽を聴くことになった。

自分の好みだけでなく、番組の進行に合わせた音楽なので、これまで聴いてこなかったようなジャンルの音楽もたくさん聴いた。
ジャズはもちろん、ポップス、ロック、クラシック、イージーリスニング、邦楽、そして世界のさまざまな民族音楽。

これは大変おもしろく、そして勉強になった。
かつて文学作品を系統立って読みあさったような体験を、音楽についても得ることができたのは、貴重だったと思う。

私が最初に構成した番組は、初めて出演した情報番組だった。
この番組には局アナのほかに、名古屋のタレント事務所から派遣されてきたタレントも出演していた。
そのタレントは名古屋でもかなり売れっ子のナレーターだったが、本人はナレーターは食い扶持、本職は役者と自認していて、実際に名古屋の劇団に所属している俳優だった。

その劇団はKSEC名古屋という名前で、正式名称は「国際青年演劇」といい、早稲田小劇場の流れをくむ前衛劇団だった(いまでも元気にクセックACTという名前で活動している)。
そこに所属している榊原忠美という役者がタレント事務所を通してFM福井に派遣されてきていたのだが、彼との出会いが私の即興ピアニストとしての道を、その後決定づけることになった。

2019年1月19日土曜日

体験参加者が加わって現代朗読の基本をレッスンする

定期開催の朗読ゼミは休講になって、個人レッスンのみに移行したばかりなのだが、ゼミ生のゆきこさんが自分のレッスンに体験参加者も受け入れてもいいといってくれたので、開催日程をオープンにしたところ、参加申し込みがあった。
日程をオープンにしたといっても、ほとんど告知らしい告知をしていなかったので、ネット検索で見つけてくれたのは稀有といっていい。

聞けば、これまでほとんど表現活動はやったことはないのだが、先日、家族に雑誌の星占いのところを読み聞かせていたところ、朗読するのがだんだん気持ちよくなってきて、経験したことのない高揚感に包まれたのだという。
それをまた体験できないかと、あちこちネットを検索して、現代朗読にたどりついたらしい。
よくぞ来てくれました。

ゼミ生のゆきこさんと現代朗読家の野々宮も参加して、現代朗読がめざすところを確認し、実際にエチュードをやってみる。

上手/下手、正しい/間違いの世界ではなく、自分自身の生命現象をいかに正直に誠実に伝えることができるか、オリジナリティに鋭くアプローチする練習をいっしょに試みる。
ほかではない練習法でとまどう人もいるが、今日の参加者のゆうきさんは素直に受け入れていろいろ試してくれた。
観察の眼も素直で、言語化された気づきもかなり的を射ている。

後半は実際に朗読をやってもらったのだが、こちらの演出に応じてどんどん変化し、最後には自身の存在の奥深さをかいま見せるような、聴いているこちらがドキドキするような、もっとずっと聴いていたいような読みを聴かせてくれて、びっくりすると同時にうれしかった。

そんな彼女、さっそく私たちの仲間に加わってくれることになった。
いったん定期開催を取りやめたのに、これは復活したほうがいいのかな。
仲間が増えればそれだけ稽古にバリエーションができるし、また群読表現をいっしょに作っていくという楽しみもできる。

2月のゼミ開催予定は以下のとおり。

 2月2日(土)/16日(土)/24日(日)

参加申し込みはこちらから。
体験参加も歓迎です。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(17)

〈Space B’〉はビーちゃんという、いまでもお元気だと思うが、福井ではちょっとした有名人がやっていた現代美術のギャラリーで、まだ実家にもどって間がないころ、福井にもおもしろい場所がいくつかあるらしいと聞きつけていたひとつだった。

行ってみると、ちいさなギャラリーだったが、土屋公雄さんという彫刻家の個展をやっていて、それはすばらしい作品群だった。
その後、土屋公雄さんとは交流がつづいたのだが、いまや、というかそのころから、日本を代表する彫刻家のひとりだ。

土屋さんとは別に、ギャラリーの主のビーちゃんもおもしろい人で、自身はドラマーなのだった。
フリージャズも好きだということで、当時脚光を浴びていた美術家とのパフォーマンスもおこなっているらしかった。
美術館でのパフォーマンスに即興演奏で加わっていたりして、私も興味を引かれた。
向こうもこちらのことをおもしろがってくれて、近いうちにおこなわれる商店街のイベントでの演奏に誘ってくれた。

臨時にあつらえられた屋外ステージで、ドラムとキーボードによる即興演奏を好きなだけやる、というゆるいイベントで、まあビーちゃんの顔ででっちあがったものだろう。
とにかくおもしろそうだったので引き受けることにした。

地方都市ではちょっと変わったイベントがあるということで、放送がはじまって間がなかったFM福井から、情報番組に生出演して内容を紹介してくれないか、という依頼がビーちゃんを通してやってきた。

放送法が改正されたばかりで、地方都市にもFMラジオがつぎつぎに開局していた。
FM福井も地元の新聞社や銀行などが資本を出してできたばかりだった。
東京FM系列の、ジャパン・エフエム・ネットワーク(JFN)から番組を配信されると同時に、地元オリジナルの番組もけっこう作っていた。

そのうちのひとつに、土曜日の午前中に地域のイベント情報などを紹介する「情報パック」という番組があって、そこに出演することになった。
ラジオに出演するなどというのは、私は生まれてはじめてのことだったし、ビーちゃんもそうだった。

情報パックはFM福井のアナウンサーとディレクター、そしてパーソナリティとして名古屋からやってきたタレントがやっている番組だった。
生放送なので、タレントとアナウンサーから聞かれることに臨機応変に答えなければならない。
しかもこのタレントが一風変わった人で、けっこう意地悪な突っ込みをいれてくるのだった。

私は案外、そういうのは平気だった。
あまりひと前であがるということがない性格で、ラジオでも落ち着いていたけれど、ビーちゃんはけっこうしどろもどろになる場面があって、そのたびに私が助っ人にはいるという格好になった。

番組が終わってすぐ、たぶんその日の午後か翌日のことだったと思うが、ディレクターから私に直接電話がかかってきた。
「番組作りを手伝ってみない?」
というのだった。

2019年1月18日金曜日

編物靴下、ユザワヤ、現代朗読ゼミ

何度も失敗して手こずっていた靴下の編物に再々挑戦。
オパール毛糸を使った輪針編みだが、糸が細いので、途中のかかとの工程のところでいつもうまくいかず失敗する。
今回は慎重に、ルーペ眼鏡をかけて、ゆっくりとやってみて、なんとかかかとをクリア。
あとは足首のゴム編みと伏せ目をうまくできるかどうか。

もうこうなったら靴下を極めるぞ。
ということで、立川のユザワヤでオパール毛糸と、細かい号数でマジックループのできる長めのコードの輪針を補充。

明日の午前中は現代朗読ゼミ。
体験の人が参加。
ゼミは基本的に個人レッスンにしているが、今月のレッスンはゼミ生のゆきこさんの好意でグループレッスンにしてもいいということで、ゼミ生以外の参加者も歓迎。

明日以外に29日(火)10時半からと、31日(木)16時からも受け付けています。
お問い合わせと申し込みはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(16)

長編小説は2週間くらいで書きあがってしまった。
かなり中途半端な長さで、原稿用紙で200枚ちょっと。

当時はコクヨの原稿用紙に万年筆で書いていた。
200枚ちょっとを2週間で書きあげるというのは、かなりのスピードだといえるが、なにしろ一日中ほかにやることがないのと、話の筋を決まっていたので、あとはただ小説として展開して書きつけていくだけだった。
問題は、書きあがったらどこかの新人賞かなにかに応募しようと思っていたのに、長さが中途半端で、どこにも応募できないということだった。

SF小説の新人賞は早川や徳間、光文社など、いろいろあった。
当時はSF文芸誌がけっこうあったのだ。
しかし、どの新人賞も短編が対象で、50枚とか、多くても100枚以内だった。
長編を対象にした賞もあったかもしれないが、そちらは300枚とか400枚、ようするに単行本一冊の分量が要求される。

私が書きあげたのは、そのどれにも当てはまらない、中途半端な長さだった。
かといって、書き直すほどの執着はなかった。
執着はなかったが、捨ててしまうほどなかったわけでもない。

そこで適当な出版社を選んで、郵送することにした。
選んだのは『SFアドベンチャー』という月刊誌を発行していた徳間書店で、雑誌の編集長宛に送ったのだと記憶している。

それっきり、自分が書いた小説のことは忘れてしまった。
経緯をはしょるが、そのすぐあとに私は京都を引きはらうことになり、ドタバタと引っ越しが決まった。
私は福井の田舎の実家に帰った。

実家にはまだアップライトのピアノがあり、それを使ってピアノの先生をやることになった。
最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったのだが、おなじ町でピアノレッスンをしている教師のグループの仲間にいれてもらって、生徒を回してもらったり、遠隔地の生徒グループをまとめて紹介してもらったりして、そこそこ収入があるようになった。
また、頼まれて近所の小さな本屋で子ども相手の学習塾の先生をしたりもした。

そんななか、福井の〈Space B'〉という現代美術作家ばかり扱っているギャラリーに遊びに行ったことがきっかけで、音楽活動を再開することになり、また私の音楽の方向性が思わぬ方向に進んでいくことになった。

2019年1月17日木曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(15)

中学高校と、音楽にものめりこんでいたが、おなじくらい、いやひょっとしてそれ以上にのめりこんでいたのは、読書だった。
小学生の高学年のころから本が大好きになっていた。

きっかけをおぼえている。
5年生のときにかなりひどい風邪をひいて、一週間くらい学校を休んだことがある。
そのとき、父が近所の貸本屋から江戸川乱歩の少年探偵団のシリーズと吉川英治の『宮本武蔵』を何冊かずつ借りてきてくれたのだ。

たちまちはまった。
風邪がなおってからも、せっせと貸本屋に通って、娯楽小説をどんどん読みあさった。
貸本屋だけでなく、学校の図書館の本も片っぱしから読んだ。

そのなかに、少年少女向けの世界SF全集があって、それにはかなり夢中になった。
そのまま中学生になってもSF小説を読みつづけ、子ども向けではなく大人向けの小説も読んでいった。
ハインライン、アシモフなど、王道の作家から愛読し、しだいに周辺の作家にも手をのばしていった。

音楽でも小説でもそうだったが、田舎町に住んでいたおかげで、カルト的なものには触れる機会がほとんどなかった。
なにか興味を引かれてその世界にはいろうとしても、メインストリームのものしかとりあえず田舎では手に入れることができなかった。
工夫すれば周辺のカルト的な情報にも触れることができないことはなかったが、そこにいたるには田舎でも手にはいる主流のものからはいっていく必要があった。

私の音楽歴も、読書歴も、そのようにメインストリームのものからスタートしている。
SF小説もそうだが、中学生になると、家の書棚にならんでいた大人向けの世界文学全集と日本文学全集を片っぱしから読んでいったり、親に買ってもらった旺文社の文庫サイズの文学全集を大事に読み返したりしていた。
私の文学体験はかなり系統立っているといえる。
そのことが、のちの「ものを書く」ことに非常に役に立ったという実感が、振り返ってみればたしかにある。

バンドマン生活がほぼ破綻し、暇ができた私は、机に向かって小説を書きはじめた。
どうせ書くなら自分が読みたいものを書こうと思った。
書きはじめたのはSF小説だった。

そのころ『デューン砂の惑星』というフランク・ハーバートの長編SFにはまっていて、それは砂漠の惑星の話だった。
そこからヒントを得て、私は海におおわれて陸地がまったくない惑星の話を書いた。
それがまさか自分の商業小説家デビュー作になるとは思いもよらなかった。

2019年1月16日水曜日

韓氏意拳昭島火曜クラスで自分の弱点を洗い出す

中級教練の駒井雅和先生による指導で、昭島市での韓氏意拳定期講習会が開催されていて、私もそのメンバーになっている。
毎週火曜日に昭島市スポーツセンターか、駒井先生のご自宅であるK-Studioのどちらかで開催していて、メンバーも固定制だ。

月に4回、多いと5回の定期的な稽古があって、しかもおなじメンバーなので、稽古内容も充実するし、韓氏意拳の教学体系にそって稽古が進んでいくのもありがたい。

単発の講習会ではなかなかこうはいかない。
とくに練習の進度の差があると、どうしても初心者や体験参加の人に引っ張られて、体系の学習が進まないということが起こる。
また、教学体系を離れて、その基となる身体観について学んだり体験したりする稽古もしばしばおこなわれるので、入門したはいいがいつまでたっても体系の全体像がつかめないという人もいたりする。

体系を学ぶことが目的になってはならないが、そうはいっても理由があってできている体系なので、ひととおり理解し体験していることで、普段の自主稽古が違ってくるのだ。

駒井先生はその「普段の稽古のやりかた」をきちんと教えてくれる。
また火曜クラスの特徴として、実際に「使える拳」であるかどうか、どうやってチェックするのか、ときには互いにコンタクトする対人稽古もまじえていく。
それが普段の稽古にとても生きてくる。

昨日の夜も、お互いに組んだり、コンタクトしあう稽古をした。
これは自分の「穴」を発見するのにとても役立つ。
相手と接触してみれば、自分の弱点がいやおうなく洗いだされてくる。
家に帰ってそこを重点的に自分で稽古していけばいいのだ。

ただ、昭島という都心からはちょっと離れた場所にあるので、毎週火曜日の夜に通ってこれる人となると、そう多くはないのが難点だ。
人数がある程度いるとできる稽古の種類も増えるし、また都合があって休みたいときも気兼ねなく抜けられるので、現在、お仲間大募集中!

駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を1月21日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

RadioU:くぼりょ2019に向けての演出家の野望

大阪在住のナレーターで朗読者のくぼりょこと窪田涼子が、新年初の春野亭訪問に来てくれたので、今年の抱負を聞きました。

けっこう長い年月の付き合いとなる朗読者と朗読演出家というふたりが、これからどのような方向に行きたいのか、かなり突っこんだ話になりました。
今後がとても楽しみです。

映像はこちら

2019年1月15日火曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(14)

私たちバンドマンの仕事を着実に奪っていったのは、カラオケマシンの普及だった。
それはひたひたと潮が満ちるように水商売の世界に侵食してきて、気がついたらどの店にも置かれるようになっていた。

私がバンドマンをやっていた1980年前後は、カラオケという名称ではなく、たとえば機械の名称を取って8トラとかいっていたと思う。
特殊な規格の8トラックカセットテープを機械にガシャンと挿入して、曲を選ぶ。
ひとつのカセットには8曲のオケ演奏がはいっている。
客はメニューを見て歌いたい曲を選ぶと、店のママとかホステスとかボーイが該当するカセットを選んで挿入し、頭出しをする。

マイクを使って歌うと、オケと自分の歌声がミックスされて、まるで本物のバンドといっしょに歌っているように聞こえる。
生バンドはもういらない、と思ったのは客だけではないだろう。
機械は買ったりレンタルしなければならないが、バンドマンのギャラよりはるかに安価だし、客からもカラオケ代として1曲ごとに回収できる。

ほんの一年とか二年とかいったスパンで、バンドマンの仕事は激減していった。
私のようなペーペーのバンドマンから仕事がなくなるのは当然のことで、店の不払いや機材購入の借金なども重なって、とたんに私は困窮してしまった。

私にとって選択肢はいくつかあったが、バンドで生活をつづけていくことができないことは確かだった。
バーテンダーにもどるか、あるいはまったく別の仕事をするか。
そしてもうひとつ、私にとって京都という街に住みつづけることがまったく魅力的ではなくなってきた、それは突然のように、京都に嫌気がさす、という形でやってきた。

仕事がなくなった私は、家賃が滞納しはじめたアパートの部屋で机に向かって座り、原稿用紙を広げて、ひたすら小説を書きはじめたのだ。
どこかの新人賞に応募して、あわよくば小説家になってやろうという野心があったかもしれないが、自分でもそんなことは信じておらず、逃避行動にちがいなかった。

ピアノ七十二候:小寒/雉始雊(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小寒の末候(69候)「雉始雊(きじはじめてなく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年1月14日月曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(13)

ひとつめの壁は私自身の音楽性——オリジナリティについてのものだった。
京都のバンドマンの、いわばコミュニティに、私は比較的すんなりと受け入れてもらえたと思う。
私自身もミュージシャンたちにたいするリスペクトと信頼が、いまから思えば無意識にあって、それが彼らにも伝わったのだろうと思う。
しかし、いっしょに仕事したり、ライブに出たり、リハーサルを重ねたり
と、関係が深まっていくにつれ、しだいに突っこんだことを追求されたり、要求されるようになった。
それは裏返せば私にたいする期待や信頼だったのだろうと思うが、それに応えられるだけの音楽的な厚みを、私はまだ獲得できていなかったのだ。

いちばんこたえたのは、こんなことばだった。
「それでじぶん、なにがやりたいねん」

まわってきたアドリブパートで、自分ではがんばってかっこよくソロを取ったつもりでいたのに、
「それでじぶん、なにがいいたいねん」
と突っこまれて、絶句してしまうことが何度かあった。

なにがいいたいとかなにがやりたいとか、そんなことはまったくわからなかった。
ただただ、うまく弾きたい、間違えないようにやりたい、かっこいいフレーズをばんばん弾けるようになりたい、ようするに人真似の域をまったく出ていない、田舎から出てきたモノマネ小僧だったのだ。
有名バンドのコピーやカバーを真似して演奏するだけの、趣味のアマチュアとなんら変わりなかった。

自分の音楽性とか、音楽でなにを表現したいのか、なにを伝えたいのか、そもそも自分のなにを伝えたいのか、自分とはどういう人間なのか、なにを求めどこへ行こうとしているのか。

もちろんそういうことをまったくかんがえてこなかったわけではない。
しかし、音楽演奏という、時間軸のなかでいやおうなく進んでいく表現行為に向かうにあたって、自分は何者なのかという問題はかつてなく鋭く突きつけられてしまうのだ。

私は大きな壁に突きあたり、その先にはなにもない巨大な闇があるように感じた。
このままがんばっても、一人前のバンドマンはおろか、ちゃんとしたミュージシャンにはとうていなれないだろう、そもそも自分はミュージシャンになりたいと思っているのか、思っていたのか。

そんな絶望的な壁に突きあたっていたときに、もうひとつの、これは自分にはどうすることもできない壁が私の前に立ちはだかってきた。

◎新刊電子ブック『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』(Kindle)が配信スタートしました。前著『共感的コミュニケーション2017』『2018』の続編です。合わせてお読みください。
購読はこちらから。500円。

2019年1月13日日曜日

【新刊】共感的コミュニケーションの本の2019年版が出ました

水城ゆうの新刊書、出ました。

『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』

現時点でアマゾンの電子書籍Kindleとして購読できます。
Kindleをはじめとする各種電子書籍リーダーでお読みいただけるほか、スマホやタブレット端末でもKindleアプリを使って読めます。
ポケットやカバンにいれて、いつでもお好きなときにお読みください。

内容は、好評の『共感的コミュニケーション2017』『共感的コミュニケーション2018』につづく、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)について書かれた数少ない日本語オリジナルの共感的コミュニケーションのシリーズ、第3弾です。
水城ゆうが数多くの勉強会や個人セッションで得た知見をもとに考察を深めたうえで、エッセイとして読みやすい形に書きおろした読み物となっています。

ご購入はこちら

現在、紙本の製作も進めています。
紙の本をご希望の方はいましばらくお待ちください。

共感本ようやく入稿、今夜は身体文章塾

完成が遅れていた共感的コミュニケーションの本がようやく完成して、とりいそぎ Kindle Direct Publishing に入稿した。
最終的にタイトルを『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』とした。
明日か明後日には公開されるはずだ。

そして今夜はオープン開催になった身体文章塾の初回。
だれでも参加できます。
といっても、あまりに大人数になると収拾がつかないので、いちおう申し込んでください。
今夜のお題は「密会」です。

詳細と参加申し込みはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(12)

時はちょうど80年代に差し掛かったころで、ブラックコンテンポラリーもロックもその他ポップスと、内外問わず爆発的に花を開かせていた。
音楽を楽しむための機器も安価なステレオコンポやラジカセ、ウォークマンが出てきて、レコードからCDへ、さらに購入からレンタルへと移行したため、個人が大量に音楽を楽しめる時代になっていた。

また音楽の作り手にとっても、シンセサイザーやコンピューター、音楽製作ソフトが個人でも購入できる価格まで降りてきているのがありがたかった。

20代のもっとも血気盛んで吸収意欲もマックスだった私も、たくさんの音楽を聴き、レコードやCDを買ったり借りたりし、また演奏機材も無理をしてでも購入した。

東京ほどではなかったが、関西でもたくさんのアーティストが来日公演した。
ジャズの大物もたくさん聴きにいった。
たとえばハービー・ハンコックがエレクトリックグループの〈ヘッドハンターズ〉ではなくてアコースティックのコンボで京都会館にやってきたりした。
そのときはスーツを着た、あるいはあまりカジュアルではない服装の男女がたくさん聴きに来ていて、どう見てもジャズファンの層とは違っていたのだが、あとでハンコックは創価学会員で、学会が動員をかけたのだろうということが判明した。
おそらくハンコックは創価学会というより、仏教にあこがれて仏教徒になるつもりで入会したのではないか、と私たちバンドマンは噂した。

私のアイドルといってもいいウェザーリポートは何度も聴きに行った。
またウェザーリポートのベーシストだったジャコ・パストリアスも、ビッグバンドを引きつれて来日したときに聴きにいった。

数えあげるときりがないのでいちいち書かないが、とにかくジャズ漬けの日々だった。
そんななかで、私もジャズについて学び、自分なりに理解し、自分の音を追求するようになっていった。
しかし、大きな壁が私の前に立ちはだかり、私はミュージシャンの道をいったん断たれることになるのだ。
しかもその壁は二重に立ちはだかっていた。

2019年1月12日土曜日

国立〈地球屋〉でライブをやることになりそう

国立のライブハウス〈地球屋〉に行ってきた。
リード奏者の森順治さんが出演するという情報をいただいたので、新年のご挨拶もかねて。

国立に来て2年半がたつけれど、世田谷に住んでいたときのように、現代朗読や音楽のパフォーマンスをおこなえる拠点がなかなか見つからずにいた。
あまり積極的にライブハウスめぐりをしていなかったというのもあるが、そんななかでも〈地球屋〉の名前はしばしば耳にして、気になっていた。
それが今回、ようやく行けた。

大学通りの、一橋大学の手前のビルの地下にあるライブハウスで、こじんまりしている。
残念ながらピアノはなく、私が演奏するとしたらなにかを持ちこむことになる。
が、なにしろ近い。
私が住んでいる春野亭からは徒歩5分だ。

森さんは〈和敷〉という和もの(といえばいいのか)バンドのゲストとして出ていて、珍しくフリーではなく決まったメロディや曲進行のある演奏だった。
ベースと和太鼓、三味線、そしてもうひとりのゲストは琴だった。

対バンの〈サンピン〉というユニットもおもしろく、手作りの回擦胡やリボンコントローラーと、これもすべて手づくりというパーカッションとのデュオだった。
パーカスの久田さんは楽器作りも専門にやっているらしく、私もひとつ、かわいらしいシェーカーを買わせていただいた。

ライブの前後に時間があったので、森さんと話ができた。
ここでもなにかやりましょう、という話になり、現代朗読の野々宮卯妙と私と森さんが急遽〈ミズノモリ〉というユニットを結成した。
すぐに地球屋のエルさんと交渉し、日程を組むことになった。

おそらく3月下旬から4月あたまのどこかでやることになるだろう。
その時期だと、ちょうど私がドイツからもどってきたばかりなので、ドイツ帰国報告もかねて、新ユニット〈ミズノモリ〉のお披露目ができると思う。
非常に楽しみだ。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(11)

そんなふうにして、私はけっこうすんなりと京都のバンドマン、ミュージシャンの仲間入りをした。
1980年になる前のことで、22歳ころのことだ。
バーテンダーのアルバイトはしばらく続けていたが、やがてバンド活動専門にシフトしていった。

京都のバンドマンは大阪方面の同業者ともゆるやかなつながりがあったが、基本的はそれぞれの「縄張り」を維持していた。

バンドマンはさまざまだった。
ジャズ志向の強いもの、ロック志向の強いもの、ほかにもリズムアンドブルース専門の人たちもいた。
ライブ志向の強いもの、メジャー志向のもの、あるいは商売・仕事と徹していて、毎晩のハコまわりやパーティーなどでの演奏以外には興味はないものもいた。

私のバンドはメジャー志向というわけではなかったが、ライブをどんどんやりたくて、オリジナリティを追求していた。
そのためには自分がまったく演奏者として腕がないことを、私は痛感していた。
だから、使える時間の大部分は音楽を聴いたり、研究したり、練習することに費やした。

ライブ志向のミュージシャンが集まって、臨時のバンドを結成することもあった。
私もその端っこに加えてもらうことがあった。
大きめのバンドのこともあったし、カルテットやトリオのような小編成のこともあった。

大きめのバンドでは、ロバータ・フラック、アレサ・フランクリン、スティービー・ワンダー、チャカ・カーンといった、ブラックコンテンポラリーをカバーするものにも参加したことがある。
そのために最新のシンセサイザーを借金して買ったりもした。
そのバンドは当時はやりはじめて京都にもいくつかできたディスコで演奏したこともあった。
ジャズとは共通する部分もある音楽だったが、なによりリズムが違っていたし、電子音を多用するのもあたらしかった。

コンサートも聴きに行った。
アース・ウインド・アンド・ファイアも来たし、スティービーやチャカ・カーンにも行った。

コンサートはもちろん、ブラック・コンテンポラリーだけでなく、ジャズ界の大物ミュージシャンもかなり積極的に聴きにいった。

2019年1月11日金曜日

国立〈宇フォーラム美術館〉まで平松輝子回顧展を観に行ってきた

国立に引っ越して2年以上が経つが、こんな美術館があるとは知らなかった。
現代美術作家である平松輝子の自宅横に美術館が建てられていて、現代作家に開かれている。
運営方式が独特で、ドイツでは多く存在している芸術振興組織「クンストフェアライン」のやりかたを採用している。

クンストフェアラインは「芸術連帯協会」と訳されている。
会員が会費を負担して運営される芸術の場で、宇フォーラム美術館も会費で運営がまかなわれている。
この美術館で作品展示をする作家は、使用料を負担しなくてよい。

普通、美術作家が展覧会を開きたいときは、ギャラリーを借りて、会期に応じた使用料金を負担する。
その必要がない、ということだ。
くわしい運営方針や内容については、私はまだ踏みこめていないのだが、地域にこのような質の高い美術館があるというのは喜ばしいことだ。

またここでは、美術展示だけでなく、ダンスや音楽などパフォーマンス系のイベントも催されることがある。
私も機会があれば、音楽や朗読でイベントチャンスを持てればいいなと思う。

今回は1月10日から会期がスタートした平松輝子の回顧展がおこなわれていた。
平松輝子という人を私は知らなかったのだが、あらためて作品と展示を観ておどろいた。

国立の中学校で図画工作の先生をしていた彼女だが、まだ二十代のときに単身ニューヨークに移り住み、そこで製作した作品が認められ、いわばシンデレラストーリーのように有名になった。
そのことは日本ではほとんど知られていないのだが、作品を見ると、日本の現代美術を代表する強烈な個性とパワーとアイディアに満ち溢れたものがあることに驚かされる。
一見の価値はあるし、もっと知られていい作家だろう。

彼女はすでに90歳を超え、作品製作はほとんどおこなっていないが、ご家族から直接お話をうかがうことができて、ラッキーだった。
作品とその生き方、現在のようすのお話など、たくさんの刺激をいただいた時間となった。

平松輝子回顧展は1月20日までと、2月7日から17日までの開催。
宇フォーラム美術館のウェブサイトはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(10)

私の最初のバンドはピアノとキーボードの私のほかに、ベースとドラムというトリオ編成だった。
ふたりとも同年代だったが、私よりすこし若かった。

ふたりとも地元の京都の人間で、バンドマンの世界でも私より顔が広く、すぐにドラムのNくんが仕事を取ってきた。
週に一度、奈良のライブハウスで演奏するという仕事だった。
歌伴とかBGMのような仕事ではなく、ちゃんと客に演奏を聴かせる仕事で、ありがたかったが、その分、レパートリーを確保しなければならなかった。

練習スタジオを借りて、何度かリハーサルをおこなった。
ジャズのスタンダードナンバー、ボサノヴァやサンバの曲、その他お互いに気にいった曲を持ちよったりもした。

数か月はつづいたと思うが、あまり客入りがいい店ではなくて、そのうちにつぶれてしまった。
しかし、その間に客の前でたくさん演奏したり、そのためのリハーサルによって、非常に鍛えられたし、京都と奈良の行き帰りがなにより楽しかった。
音楽の話やらバカ話で、いつも腹がよじれるほど笑いころげていたものだ。

奈良のライブハウスがスタートして間もなく、祇園でのハコの仕事がはいってきた。
これはトリオではなく、ソロピアノの仕事だった。
いわゆるフィリピンパブで、「タレント」として入国したフィリピン女性がホステスとして不法に働いている店で、7、8人はいただろうか。

彼女らは時々歌をうたうときに、私はその歌伴をした。
聞き取りにくいフィリピン英語をしゃべっていて、みんな嘘つきばかりだったが、表向きは陽気で正直な人たちで、すぐに仲良くなった。

バンドマンはなぜか「先生」と呼ばれていて、彼女たちからも私は「センセ」と呼ばれた。
まだ二十歳そこそこの、駆け出しの若造だというのに。

その仕事は3か月くらいつづいたが、ある日店に行ってみると、シャッターが降りていて、張り紙がしてあった。
突然の閉店だった。
店長にもまったく連絡がつかなかった。
結局、その仕事のギャラは一度も払ってもらえなかった。

◆ピアノ七十二候
日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏を、時候に合わせて配信しています。
よろしければこちらからチャンネル登録をお願いします。

2019年1月10日木曜日

今月の朗読レッスンは臨時ゼミとして自由参加枠あり

2018年で現代朗読ゼミの定期開催は終了したが、朗読者のための個人レッスンは引きつづきお受けしている。
以前からのゼミ生が来てくれていて、新年も引きつづきレッスンを継続する。

ゼミ生のゆきこさんとは年末に吉祥寺の〈曼荼羅〉のオープンマイクに出演して、大変楽しかったのだが(そのときの記録映像はこちら)、今月末も国立の〈キノキュッへ〉という店でやることになっていて、そのためのレッスンも含めた現代朗読のトレーニングを何度かやることになっている。

ゆきこさんが、「ほかにも参加したい人がいたらどうぞ」といってくれたので、レッスン日を公開して、参加受付をすることになった。
興味がある人はどうぞいらしてください。

以下、その告知です。

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定期開催の現代朗読ゼミは終了していますが、ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで許しを得て臨時のゼミを開催します。

現代朗読とはなにか、そのゼミとはなにかに興味がある方は、水城ゆうブログ「水の反映」の「現代朗読」ラベルをご参照ください。

◎日時 2019年1月19(土)10時半/29(火)10時半/31(木)16時
    いずれも約1時間から2時間くらい

◎会場 JR国立駅徒歩5分の会場

◎参加費 ひとコマ5,000円(グループレッスンとして)

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。

会場には猫がいます。
アレルギーがある方や猫が苦手な方はご注意ください。

ピアノ七十二候:小寒/水泉動(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小寒の次候(68候)「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(9)

ジャズバー〈バードランド〉ではバーテンダーを2年半くらいやった。
毎日仕事でやってくるピアニストのほかにも、バードランドには毎日プロのバンドマンが何人か飲みに来た。
仕事が終わってからの深夜や、ナイトと呼んでいた深夜から朝方にかけてのステージの合間などにやってきた。

バンドマンたちの仕事は、キャバレーやクラブなどの大きな店で4、5人編成のバンドではいっていたり、ひとりかふたりで小さな店に毎日はいっていたりした。
まだカラオケが普及しはじめる前のことだった。

私も店の仕事の合間にピアノを練習したりしているうちに、先輩のバンドマンからたまに仕事をたのまれるようになった。
なにしろ譜面が読めるのと、ポップスなどのコードはそう難しくないから、バンドでならそこそこ弾けるようになっていたのだ。

バンドマンたちは「ハコ」と呼ばれる、毎日決まった時間に何ステージかこなす仕事で食べていたが、たまに結婚式とか、企業の記念のパーティーとか、なにかのレセプションとか、そういう仕事が臨時ではいってくる。
それはギャラが高いので、みんなそちらを優先したがった。
すると、ハコの仕事に穴があく。
そんなとき、まだ駆け出しのハコを持っていない若手に、ハコのエキストラを頼むのだ。
私にもそういう仕事がたまにはいってくるようになった。

ひとりで出かけていって、ピアノで客の歌伴をしたり、ソロで流行歌やポップス曲を適当に弾いたり。
そういう演奏用の楽譜がバンドマンの間で流通していた。
あるいは歌手が持っているハコに、伴奏ではいることもあった。
もちろん、バンドのピアノやキーボーディストとしてはいることもあった。

当時の京都にはまだ〈ベラミ〉という大きなキャバレーがあった。
山口組の組長が銃撃されたことで全国的にも有名になった店だが、そういう店のエキストラにも出かけることがあった。
そんなときは、バーテンダーの仕事は別のアルバイトに肩代わりしてもらう。

バンドマンの仕事は楽だった。
たいていが夜7時半か8時からはじまって、30分演奏して30分休む。
それを3ステージか4ステージこなす。
夜中の12時には仕事が終わる。
あとは知り合いの店に行って飲んだり、バードランドで客やバンドマンやホステスと遊んだり、あるいはさっさと家に帰ってしまってもいい。

自由時間の多い仕事だった。
そんな自由時間を使って、私は自分のバンドを結成した。

2019年1月9日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(8)

大学はろくに学校に行かなかったけれど、学生時代をすごした街といえばまちがいなく京都ということになる。
学生時代をすごす街としては、当時は理想的だったと、いまになって私は思いかえしている。
京都で青春時代をすごせてよかったなあ、と。
ただし、定住するにはいろいろと問題がある(私にとってはね)。

ジャズにどっぷり浸かったまま京都で暮らしはじめた私が、まず最初にしたことは、ライブハウスを探して行ってみることだった。
田舎の町にはもちろん、ジャズライブをやっているような店はなかったし、ジャズ喫茶もなかった。
ジャズ音楽を流しているような店もなかった。
ジャズは家でラジオかレコードで聴くしかなかった。
が、1976年当時の京都には、ジャズ喫茶がたくさんあったし、ライブハウスもいくつもあった。
京都に住みはじめた最初の年、私は東山二条の平安神宮の近く、岡崎という地区に下宿した。
岡崎の北側には京都大学や同志社大学があって、学生も多く、ライブハウスもジャズやロックやフォークソングなどが盛んに演奏されていた。

私は丸太町通りにあったYAMATOYAによく行った。
そこで生まれて初めて聴いたジャズの生演奏は、日野元彦、井野信義、まだ駆け出しの新人だった渡辺香津美といったメンツのカルテットかクインテットだったと思う。
曲目はもう覚えていないが、ものすごく刺激的だった。

大学時代はいろいろなアルバイトを経験したが、最終的には祇園の〈バードランド〉というジャズバーのバーテンダーに流れ着いたのは、ある意味、必然だったかもしれない。
バードランドは10人がけのカウンターと、奥にグランドピアノがあってそのまわりでも飲めるようになっている店だった。
私はその店で酒とジャズの知識をしこたま仕込み、そちらの世界にのめりこんでいった。
学校にはまったく行かなくなり、やがてやめてしまった。

バードランドには毎晩、プロのジャズピアニストがやってきて、30分のステージを4回おこなった。
その合間に私は彼らとしゃべったり、客がいないときには演奏を教えてもらったりもした。
そこから徐々にプレーヤーの道にはいっていくことになるのだった。

2019年1月8日火曜日

今年2019年の共感カレンダーが届いた

北海道弟子屈の tolio design が作った「共感カレンダー」が届いた。
tolio design というのは、NVC仲間であるトシちゃん・なおみ〜ぬ夫婦がやっているデザイン事務所だ(なおみ〜ぬは音読トレーナーでもある)。

カレンダーはトイレや居間に気軽に貼れるデザインになっていて、NVCの学習と練習でもっとも基本となる感情とニーズのことばが美しく印刷されている。

いつもなにげなく見る場所に貼っておいて、
「いま自分はどんな気持ちなんだろう」
「いま自分が大切にしていることはなんだろう」
と、自己共感の練習に使うことができて、とてもいい。

NVCすなわち共感的コミュニケーションを学んでいる人や、そのめざす世界に希望を感じている人は、入手するといいと思う。
2,000円。

販売ウェブサイトはこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(7)

FM番組「ジャズフラッシュ」を聴いていてとくにびっくりしたのは、ウェザー・リポートというグループがかかったときだった。
オリエンタル・エスニックな感じのメロディとサウンドを、ポリリズムっぽいアフリカンなリズムが支えていて、それまでなんとなく「ジャズっぽい」と思っていたどの音とも違っていた。
こういうのもジャズというんだ、と新鮮な驚きがあって、ジャズをもっと聴きこんでみたくなった。

調べてみると、ウェザー・リポートは1974年に「ミステリアス・トラベラー」、1975年に「テイル・スピニン」、1976年に「ブラックマーケット」をリリースしている。
私が出会ったのはそのあたりだ。

そのあたりがジャズ・フュージュンのはじまりで、そのころはクロスオーバーともいっていた。
ほかにもハービー・ハンコックのヘッド・ハンターズ、チック・コリアのリターン・トゥ・フォーエバーというグループ、デオダード、ボブ・ジェームス、リー・リトナー、ラリー・カールトンなど、爆発的な商業的成功をおさめつつあった時期だ。
キース・ジャレットがケルンコンサートで前代未聞の売り上げを記録したのもそのころだった。

高校から大学にかけて、私はジャズにのめりこんでいった。
ただし、自分で演奏はできなかった。
すこし真似事はしてみたけれど、ジャズという音楽の仕組みはまだよくわかっていなかった。

そのかわり、仕組みが非常にわかりやすかったのはフォークソングだった。
私はギターを買ってフォークソングを演奏したりした。
有名なフォークジャンボリーの直後のことで、吉田拓郎が「人間なんて」を延々と歌っているアルバムを聴いたりもした。

フォークソングは仕組みがシンプルで、演奏もすぐにできたし、自分でも曲を作れるようになった。
高校時代にいっしょに演奏していた同級生は、いまだにライブハウスでときたま歌ったりしているらしい。
私の演奏欲求はフォークソングで解消していた。

本格的にジャズ演奏に取りくむようになるのは、大学時代、ジャズバーでアルバイトをはじめてからのことだった。
ちょうど二十歳になるかならないか、という時期だった。

◆ピアノ七十二候
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2019年1月7日月曜日

木版画の賀状、キンカン、ひさしぶりの歯医者と歯の総点検

6日の夕方に北陸の実家から国立春野亭にもどってきた。
版画家の日高裕さんから賀状が届いていた。
いのししと、なぜかくじら。
木版画、いいなあ。

鍼灸師の桂さんが用事でやってきて、実家の裏庭で採れたというキンカンの砂糖漬けをくれた。
おいしい、ありがとう。

1月10日配信予定の「ピアノ七十二候:小寒/水泉動」のための演奏を収録。
そのあと、動画編集。

3年ぶり(以上?)の歯医者に行く。
東松原で点検して歯石を取ってもらって以来で、総点検とクリーニングを国立駅前のくぼむら歯科でやってもらう。
ネットで調べたら、うまい具合に予約が取れたのだ。

きれいな医院で、先生も歯科衛生士の人もとても丁寧で安心。
レントゲンを撮ったあと、詳しく調べてもらって、問題点を洗いだす。
虫歯はないが、年齢的にかなり用心したい時期に差しかかっているという自覚がある。
磨き残しがあったり、やはり歯石がたまっていて歯周病の予兆があったりと、この際、クリーニングと対処法をきっちりやっておくことになった。
いまのうちにきちんと対処しておけば、まだまだ長く健康に使えるとのこと。

夜は音読トレーナーの定期ミーティング。
オンラインだけど、なぜか美しい方ばかり集って、新年早々華やかな画面であった。
みなさん、今年もよろしく!
今年もあらたな仲間が増えるとうれしいな。

揚げそばがき

レシピ、というほどのもんじゃないので書かないけど、これ、おいしい。
しかも簡単。
失敗なし。

そば粉のちょっと古いのがあったら、作ることにしている。
まずそばがきを作る。
ようするに、そば粉に熱湯を注いで、ぐりぐり混ぜる。
ドロドロよりちょっと固めに練る。
けっこう固くても大丈夫。

それをスプーンでひと口大にすくって、油に落として揚げる。
こんがり揚がったら、器に盛り、大根おろしと刻みネギをトッピングして、そばつゆをかけていただく。
それだけ。

しかし、写真はどう見ても鶏の唐揚げだな。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(6)

高校のとき、FMラジオでジャズというものを初めて(ちゃんと)聴いた。
NHK-FMで毎週金曜の夜、2時間枠だったと思うが「ジャズフラッシュ」という番組をやっていた。

ジャズ評論家が何人か、持ちまわりで進行を担当していて、それぞれの得意分野のレコードを紹介していた。
それまではクラシック音楽ばかり聴いていたのだが、よく聴いてみるとジャズという音楽は演奏の方法論そのものが違っているらしいことがわかった。

クラシック音楽以外に、世の中にはいろんな音楽があることは知っていた。
田舎の中学生としては、普通に生活して耳にはいってくるのは、流行歌やポップス、演歌、民謡、せいぜい映画音楽やイージーリスニングくらいだった。
そういう音楽にはまったく興味は持てなかった。
クラシック音楽のように緻密に構築されたものではないものは、いっちょまえに演奏者のアプローチで譜面に接している耳にとって、雑に聴こえてしかたがなかった。

しかし、ジャズは違った。
でたらめなようでいて緻密、雑然としているかと思えば整然としたサウンド、そしてなによりリズムが非常にタイトで、これはクラシック音楽にはないものだった。
緊張感のあるリズムとサウンドが、思春期まっただなかの私の好みをとらえた。

私は毎週、ジャズフラッシュの時間を楽しみにし、カセットテープに録音して(当時はエアチェックといった)何度も聴きかえしたり、気にいったものはなけなしの小遣いでLPを買ったりもした。

LPは中学生にとっては非常に高価なもので、ひと月の小遣いでやっとこさ1枚買えればいいほうだった。
ウイントン・ケリーとかMJQとか、一風変わったところでは山下洋輔トリオのフリージャズとかを買った覚えがある。
当然、すりきれるまで何度も何度も聴いた。

いま、そんなふうに音楽を聴く者はほとんどいないだろう(だからどうだということではないけれど)。

ジャズ関連の本も買ったり借りたりして読んだ。
油井正一の『ジャズの歴史』も正座して読んだ(嘘)。
最初はジャズプレーヤーの名前があまりに多すぎて全然覚えられなかったし、演奏を聴いてそれがだれのものなのか聴きわけることなどできなかったが、聴きこんでいくうちにしだいに知識と耳が肥えていった。

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2019年1月6日日曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(5)

トランペットを吹くのは初めてだったが、音さえ出るようになれば、譜面が読めたので上達は早かった。
いっしょにブラスバンドに入部した同級生は譜読みに苦労していて、よく教えてあげたりした。

大きなアンサンブルの一部としてみんなといっしょに音楽を作るのは楽しかった。
ひとりでピアノを弾くのとはまた違った楽しさだった。

トランペットは4人いて、上級生がふたりと、私と、同級生。
ブラスバンドではたいてい、第一、第二、第三までトランペットのパートがあって、それぞれ分担して演奏する。
私と同級生は第二、第三パートを担当して、華やかな主旋律はめったに吹かなかったが、それでも楽しかった。
音もすぐに出るようになったし、高音も徐々に吹けるようになっていった。

ただ、私には苦手なことがあった。
それは、先輩後輩という人間関係、集団行動という枠組みだった。
演奏や練習そのものは楽しいのに、人間関係が徐々に苦痛になり、夏休みが終わって秋の演奏会やコンクールが近づくにつれ、部活動に参加することに嫌気がさしてきた。

そうなると、上達も止まる。
同級生は譜読みこそ苦手だったが、練習熱心で、気がついたら私より上達していた。
とくに高音部の音の美しさ、のびやかさが、私にはとても真似のできないものになっていた。
さらに部活が苦痛になっていった。

三学期にはもう完全にやる気をなくして、私は退部届けを出した。
引きとめられたが、もうまったくブラスバンドには魅力を感じなくなっていた。

とはいえ、音楽が嫌いになったわけではない。
先述したように、家では熱心にレコードを聴いていたし、ピアノもレッスンには通っていなかったが自分で好きなように好きな曲を弾いては楽しんでいた。
いまでもマーチ(行進曲)を聴くとわくわくするのは、短いながらもブラスバンド時代につちかわれた楽しみかもしれない。

あとで気づいたことだが、レッスンや部活から離れ、強要されたペースではなく自分の好きなペースで練習していたことが、音楽を身体化することの役にたったのかもしれない。
音楽からいったん距離を置いてから、あらためて近づいて自由に遊びはじめてみたことで、音楽の楽しみや可能性を知ることができたのではないか。
もちろん、このあとたくさん苦労をすることになるのだが、根底にある「本来自由で楽しいもの」という音楽と付き合う姿勢は手放さなかったような気がする。

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2019年1月5日土曜日

新刊書の最終詰め、雪囲いのやりなおし、年明けのペース・今年のペース

新刊『共感的コミュニケーション2019(仮)』のタイトルは『縁側のすすめ——共感的コミュニケーション2019』にしようと思う。
いよいよ大詰め。
今日は表紙を作って、前書きと後書きと章立てのところの文章を書いた。
あとは伊藤はるかのイラストというか漫画を何カットか、挿絵として使わせてもらう。

リリースは週明けになるかな。
明日は東京への移動日。
前後に個人セッションが何件かはいっている。

雪囲いに水を含んだ重い雪がのしかかって、波板を支えている横桟の一本があえなく折れてしまった。
やむなく、雪をどけて、木材の桟を金属の桟に取りかえる。
来年はもうすこしちがう方式の雪囲いにしようと思う。
(写真は自撮り(笑)。ムービーから起こした)

コンテンツ製作やらブログ執筆にマイペースでゆったりと取り組めた年明けだった。
このまま今年は執筆と製作に絞りこんで集中を持続させていきたい。
ほかには身体を動かすこと、マインドフルにすごすこと、そして旅にもいくらか出ること。
3月はドイツ旅行が非常に楽しみ。

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(4)

中学にはいる前に、私は両親にピアノレッスンをやめさせてくれるように頼みこんだ。
あまりにしつこく頼んだものだから、たぶんなにかと引き換えにやめさせてもらえることになった。

なにと引き換えだったんだろう。
私の両親のことだから、勉強がらみのことだっただろうと思うのだが、思いだせない。

ピアノのレッスンに通わなくてよくなったのはうれしかったが、もっとうれしかったのは、旺文社から出ている文庫版の文学選集を買ってもらえたことだった。
立派な箱にはいっていて、それを片っぱしから読むのが楽しみだった。
漱石や芥川などの日本の代表的作家の作品も、スタンダールの『赤と黒』もドストエフスキーの『罪と罰』もルナールの『にんじん』も『シートン動物記』も、みんなそれで読んだ。

一方、父の音楽好きは、FM放送がはじまったり、ステレオセットが安価で買えたり、LPレコードがたくさん出るようになったことでさらに進展して、私もそのおこぼれにあずかった。
とくにマニアックなコレクションでもなく、いってみれば大衆的なレコードばかりだったが、ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲やピアノ協奏曲、バレエ音楽、いろいろな作曲家のピアノ曲集など、クラシックを中心にそこそこ買い集めていた。
私はそれを聴くだけではあきたらず、縮刷版の指揮者用スコア(総譜)を買ってきて、各パートを追いながら繰り返し聴くのが楽しみだった。
聴くだけでなく、我流で編曲してピアノで弾いてみたりもした。
音楽の秘密を解きあかしたようなつもりになって、ひそかに満足していた。

かといって、音楽の道に進もうという気はまったく起こらなかった。
音楽も好きだったが、SF小説や、動物など科学読みものに夢中だったからだ。
『ソロモンの指環』のコンラート・ローレンツの影響で、自分でも小鳥をたくさん飼ったりもした。

家で音楽を楽しむだけでなく、中学ではブラスバンドに入部した。
ピアノ以外の楽器をやってみたかったからだ。
花形のトランペットをやらせてもらうことになった。
が、それは、私の現在にいたる致命的な性格の欠陥によって、1年もたたずにあえなく挫折することになる。

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ピアノ七十二候:小寒/芹乃栄(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小寒の初候(67候)「芹乃栄(せりすなわちさかう)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

5日おきに新曲が配信されます。
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2019年1月4日金曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(3)

私たち兄妹《きょうだい》のピアノ上達にかける両親の熱意はかなりのもので、とくに母は週一の通いのレッスンだけでなく、毎日の練習にも付きそった。
ピアノレッスンをスタートするにあたって、そんな約束をしたような気もする。
つまり、毎日練習すること。
ひょっとして、一日30分以上とか、量的約束をしたかもしれない。

妹はどうだったか記憶にないが、私は一日30分、母の付きそいのもとでピアノの練習をした。
練習曲は簡単なバイエルだし、もう小学3年生だし、毎日練習するのだから、どんどん上達しないはずがない。
また私は母親似で手先が器用なところがあったので(いまでもそうだ)、バイエルなどどんどん進んでいった。

バイエルは全部で100曲あるのだが、最初の1年もたたないうちに全曲をマスターするようなスピードだったと思う。
1週間に1度のレッスンでも、2、3曲はどんどん合格してしまうような進度だった。

バイエルが終わるとブルグミュラー、そしてソナチネ曲集。
ハノンとは別にチェルニー練習曲集もやった。
小学5年から6年のころには、ソナチネからソナタ曲集へと進み、自分でも全音ピアノピースのなかから好きな曲を買っては練習するようになっていた。

そのピアノ教室には数十人の生徒が通っていた。
最初のころは10人くらいだったが、先生は毎年1回、発表会を市民会館のホールを借りきっておこなった。
発表する生徒の数は年ごとにどんどん増えていって、小学6年のときには50人近くいたように記憶している。

発表会のプログラムは、はじめのほうに入門したばかりの者が、終わりのほうには熟練者がならんでいるという、テクニカルな序列がはっきりわかるようになっていた。

小学3、4年のときは私の名前はプログラムのはじめのほうに記されていたが、5年には終わりのほう、6年にはトリに近いところに記されていた。
私より後に発表するのはひとりかふたり、それも長年レッスンに通っている中学生とか高校生のお姉さん生徒だった。

得意な気持ちをおぼえると同時に、それ以上に私は6年生になると、レッスンバッグをさげてレッスンに通ったり、発表会に出たりすることがたまらなく嫌でしようがなくなっていた。
というのも、当時ピアノレッスンに通うのは女の子ばかりで、男子は皆無といってもよかったからだ。

発表会でも男は私と、せいぜいもうひとりくらい。
レッスンに行っても、私以外はほぼ女の子ばかりだった。
ピアノが嫌いになったのではなく、女子にまじってピアノレッスンを受けていることがたまらなく恥ずかしい気がしてきたのだ。
ようするに、色気づいたのである。

◆ピアノ七十二候
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2019年1月3日木曜日

箱根駅伝のネット中継、雪

帰省中の息子といっしょに箱根駅伝をネット中継で見ながら、のんびりすごしている。
今年から日テレがようやくネット中継をはじめたので、テレビがなくても見れるようになったのだ。
去年はラジオで中継を聴いていた。

まあ、見れなくてもとくに生活に支障が出るわけではないのだが、今年は順位がけっこうめまぐるしく変わっておもしろい。
当事者たちは必死なのだろうが。

今年は雪がまったくないわけではないが、少なくて楽。
去年の正月は雪かきに追われていた。
そのあとも2月いっぱいまで大雪で大変だった。
今年はまだどうなるかわからないが、このまま暖冬がつづいてくれるとありがたい。

6日には東京にもどる予定だが、明後日・5日まではオンラインでの個人セッションなどを受けている。
必要な方はお知らせください(午前中はだいたいあいてます)。

◎水城ゆうの個人セッション
対面でもオンラインでも、レッスンや個人セッション(ボイスコーチング/共感セッション)をおこなっています。詳細はこちら

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(2)

私の家にピアノがやってきたのは、私が小学2年のときだった。
習いはじめたのは4つ年下の妹が先だった。
彼女はまず、当時全国に爆発的に広まっていって田舎町にも出現した音楽教室に通いはじめた。

ヤマハ系列とカワイ系列が二大教室で、どの町にもあった楽器店が系列の音楽教室を運営していた。
教室の収益自体はそれほどでもなかったと思うのだが、楽器が売ったマージンが大きな収入になったのだと思う。
とくにピアノは大きな売り上げで、世界中を見回してもこれほどどの家庭にもピアノがある国はめずらしい。
ヤマハとカワイが競い合って、まれに見る販売戦略を成功させたのだ。

うちに来たのはKAWAIのアップライトピアノだ。

妹はまず音楽教室に通って、歌だのお遊戯だのオルガンだのタンバリンだの、グループレッスンでしばらく習ったあと、教師のすすめで個人レッスンにスイッチすることになった。
そのためにピアノを買ったのだ。
その際に、両親は私にも、ピアノを習ってみたいか、と訊いた。

どでかいピアノは音の出るおもしろいおもちゃで、もちろん私は習ってみたいと答えた。
家にピアノがあって、親からレッスンをすすめられて断る子どもがいるだろうか。
ピアノがなくても、ピアノやバイオリンを習うことに興味を持てない子どもは少なくないと思う。
その証拠に、私の年代でも多くの人が子どものころにピアノを習った経験がある(そしていつしかやめてしまった)。

妹と私が個人レッスンに通ったのは、音大を出たばかりの、未婚の若い女性教師で、厳しいところもあったけれど、基本的に優しく、きちんと教えてくれる人だった。
私は小学3年生になったばかりで、当時のセオリーどおり、譜読みをおぼえながらバイエルとハノンの練習からスタートした。

いまから思えば、あれほどつまらない練習法はないと思うけれど、しかしあのつらない練習を乗りこえて興味を持続できることが、楽器習得の最初のハードルなのかもしれない。
すべての人が音楽を楽しめるようになるといいなとは思うけれど、すべての人が楽器を弾けるようになる必要はない。
楽器が弾けなくても、声や身体というすばらしい楽器を、人は持って生まれてくるからだ。

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2019年1月2日水曜日

私の音楽歴——いかにして即興ピアニストになったか(1)

2018年暮もなんとなく第九交響曲を聴いていた。
小澤征爾だのカラヤンだの、ほかにもいろんな指揮者や交響楽団があるけれど、どれも違う。
まったく違う曲のように聴こえる演奏もある。
当然、好みも出てくる。

ベートーベンが書いたおなじ楽譜をもとに演奏しているのに、これほど違ってくるというのはおもしろいけれど、どうしてそんなことになってしまうんだろうという不思議さもある。
ベートーベンがこの曲を書いた時代には、オーケストラで使われていた楽器や演奏法もいまとは随分違っていただろう。
そもそもベートーベンの頭のなかで鳴っていた音はどんなものだったのだろうか。

別のことも思う。
世の中には第九を聴いても、小澤征爾なのかカラヤンなのか、サイモン・ラトルなのかロリン・マゼールなのか、いっこうに区別できないし、する必要も感じないし、そんなことはどうだっていいという人がたくさんいる。
むしろそういう人のほうがほとんどだといっていいかもしれない。

私だって子どものとき、音楽を聴きはじめたばかりのころは、それがなんという曲でだれが作曲したものなのか聴きわけられても、演奏者や指揮者がだれかまでは聴き分けられなかったり、関心がなかったのだ。
それがいつから聴き分けられるようになったり、聴き分けることに興味が出てきたりしたんだろう。

私の生まれ育ったのは、北陸の雪深い山間部の、人口が数万しかない田舎町で、当然ながらコンサートホールだのライブハウスだのといったものはなく、プロの音楽演奏に生で接する機会などほぼ皆無の環境だった。
ところが、父が田舎町にはめずらしく高等教育を受けた人で、高校の商業科の教員だった。

父が東京の大学に行ったのはまだ戦前のことで、村から高校以上に進んだ者は父ただひとりだったという。
父の生家は豪農で、次男坊の父が東京の大学に行かせてもらうだけの余裕があったのだろう。

父は東京で同郷の者ばかりが暮らす寮にはいったのだが、そこにはさまざまな大学に行く同郷の、経済的にめぐまれた者たちがいた。
なかのひとりに、東京外語大学の学生がいて、フランス語が専攻だったのだが、彼はなんとピアノが弾けた。
当時、男性でピアノを弾くというのは、非常にめずらしかった。
父はそれを見て、男がピアノを弾けるというのはなんとかっこいいんだろう、と思ったという。
その話を、のちに私はピアノを習いはじめてから聞くことになる。
(つづく)

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元旦の実家帰省、冬の日本海側

例年のごとく、今年2019年も元旦に東京から北陸の実家へ移動。
国立から中央道、東海環状道、東海北陸道で福井へ。
このルートが一番早くて、約6時間。

太平洋側は雲ひとつないくらいの晴天だったが、岐阜・白鳥から油坂峠を越えて九頭竜湖、越前大野に抜けるととたんに、重い雲が垂れこめる冬の日本海側特有の曇天に。
さいわい、降雪は一段落しているらしく、路面に雪はない。

息子も名古屋から帰省していて、元気そう。

昨夜から今朝にかけてすこし雪が降ったらしく、夜中に何度か、屋根から池に雪が落ちる音で目がさめる。
今夜からまた雪になるということで、いまのうちに融雪の水を屋根にあげておき、池にも井戸水をいれて雪を溶かしておく。

6日には東京にもどる予定だが、この期間の天気はおおむね順調に悪そうだ。

2019年1月1日火曜日

ピアノ七十二候:冬至/雪下出麦(YouTube)

2019年、新年明けましておめでとうございます。

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
冬至の末候(66候)「雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら