2011年12月29日木曜日

人の存在の価値についての尺度

朝日新聞の記事。
「外国人の年収などを点数化、「高度人材」には優遇措置」
⇒ http://www.asahi.com/national/update/1228/TKY201112280216.html

 より「高度」な人材に来てもらうべく、出入国管理にポイント制を導入し、学歴や年収に応じて点数をつける、という制度を、法務省が来春から作ろうとしています。
 一瞬、目が点になりました。それから、頭に血がのぼりそうになりました。
 なんてアホな、卑劣な、目先のことしか考えていないひどい制度なんだろう。そして私をさらに悲しくしたのは、何十万人もフォロワーがいる、著書もたくさんある有名な「キュレーター」が、この制度のことを「よい」と評価しているツイートを何十万ものフォロワーに向かって流している、ということでした。

 ある人物を評価するのに、学歴だの年収だのとった階層や金額を用いるというのは、本当に貧しい制度ではないでしょうか。つまりそれは、階層社会、経済優先主義、つまりいまや経年劣化を経て耐用年数が終わろうとしている「資本主義」という制度の尺度なのです。法務省がまだそのような制度のまっただ中にいて、また時代の先端を走っているはずの有名キュレーターがそれを「よし」とする発言をする。このことに問題の根の深さを感じると同時に、このような問題や制度のある世界から私はすでに離れつつあるんだなあ、と感じました。
 怒りが静まると、私は自分自身がすでにその問題について完全な傍観者というか、無関係な人間であり、どうぞ勝手にやってくれ、と突き放していることに気づいたのです。こっちはこっちで別の生き方をするんで、というわけです。
 私たち(とあえて複数形を使いますが)は人を評価するのに数字は使いません。そもそも「評価」などという行動はとりません。ただ人に「共感」するだけです。その人をありのまま受け入れ、ともにそこにあろうとするだけです。その人がたとえ学歴のない人であろうが、障碍者であったり老齢であることで無収入であろうが、そんな要素がその人を無価値にするなどとはかんがえません。
 私たちは人の存在の価値や生きる意味について、別の尺度を持ちつつあるのです。