2017年12月11日月曜日

アカシデカフェ、オハナ、知立文化会館、アロマファン

5年間つづいていた三軒茶屋の〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのミニライブ付き勉強会が、8日(金)をもって最終回となった。
最後は、というか、最後も、とてもいきいきとした最終回となった。
参加いただいたのは、経営者、公務員、講師、ヒーラー、お勤めの人、さまざまな方だったが、感謝したい。

オハナが終わると聞いて、親切にも、三茶の近くの池尻大橋にある〈アカシデカフェ〉につないでくれた人がいたので、オハナの前に野々宮といっしょに寄ってきた。
まだあたらしい店で、とてもきれいですっきりした、居心地のいいカフェだ。
てっきり、共感的コミュニケーションに興味を持ってくれているのだと思って行ったのだが、オーナーのゆきさんは朗読表現に興味があるのだという。
現代朗読のワークを定期的にこちらでやろうという話になった。
ありがたいことだ。

朗読のワークショップとはいえ、現代朗読は共感的コミュニケーションを重要なファクターとして取りいれている。
いわば身体的・音声的共感表現の練習ともいえる。

私と野々宮が隔月交代で担当することになる予定だ。
おなじ現代朗読のワークとはいえ、野々宮は朗読の実演者、私は演出家という立場で、それぞれアプローチがちがっていると思うので、ぜひ両方を体験してもらいたい。

金曜日は現代朗読ゼミを午前中に開催したあと、車を飛ばして知立に移動。
語人・サヤ佳ちゃんとその仲間たちが出演する知立演劇フェスティバルに出演するための、前日リハーサルに参加した。
このフェスには、去年こそ参加しなかったものの、その前に何度か参加している。
今年はサヤ佳ちゃんが代表をつとめる〈ゆめぱレット〉というグループでの参加で、私はピアノ演奏と、ちょっとだけ演出のお手伝いで、サポート出演した。

終了後は福井の実家に帰省して、木曜日・14日には名古屋天白の水野生惠さんの古民家スペース〈アロマファン〉で、音読と共感のコラボカフェを午後1時から開催する。
お近くの方、ご都合のつく方はどうぞお越しください。
とても居心地のいい民家で、アットホームな雰囲気でこころと身体の調整・健康法をおこなったり、共感的コミュニケーションについて知識と体感の統合をめざした勉強会を開催する予定。

2017年12月10日日曜日

メールやSNSにおける共感的コミュニケーション

「メールとかSNSのメッセージで共感しあうことはできますか?」
という質問にたいして、これまで多くの人に、言下に、
「できません」
と、にべもない返事をしつづけてきた。
たしかにそういう側面もあるし、いまもコミュニケーションは対面でなければ重要な情報の多くが抜け落ちてしまうというかんがえは変わりない。
しかし、文章=テキストで「まったく」共感しあうことができないか、というと、そうでもないような気が最近はしてきている。

私が「できない」といいきってきたのは、言語および身体コミュニケーションを前提とした共感のプロセスが念頭にあったからだ。
たしかにだれかがだれかに共感する、あるいは共感しあうという交流においては、ことばに含まれるテキスト情報だけでなく、それがどのように発しられているのか、どんな調子なのか、どんなリズムなのか、そこにはどのような感情が読めるのか、引いてはそのことばはどのような身体から発しられているのか、といった複雑でリッチな情報の受け取り合いが重要になってくる。
しかし、それは対面または直接の音声交流がリアルタイムにおこなわれることを前提とした共感のプロセスにおいて重要だ、という意味だ。

最初からリッチ情報を交換できない、という限定された条件で共感を試みるとしたら、どんなアプローチがありうるのだろうか。
たとえばテキスト情報しか交換できないという限定条件において。

その観点から、共感のプロセスを一から見直してみたとき、あらたな可能性が浮かびあがってくる。
テキストで共感的な交流がまったくできない、ということは、ないのではないか。

このところ私がみなさんと試みて、大きな成果をあげている、「なにかを書くことによって自己共感を深める」というワークで、上記の可能性が私のなかでふくらんできた。
自己共感だけでなく、他者共感も試みることができるし、相互共感もありうるかもしれない。
その際、リアルタイムでリッチな交流とはかなり異なるアプローチが必要だろうと思う。
とはいえ、共感的コミュニケーションの核心的な原理をはずすわけでは、もちろんない。

こんなことをかんがえはじめて、ひさしぶりにかなりわくわくしている。
共感的コミュニケーションという体系のなかで、まだあまり手をつけられていないテキストコミュニケーションの原野に、ざっくりと冒険の舵を向けてみようと思っている。

2017年12月7日木曜日

最近のこと、母の葬儀など

昨年末に脳内出血で倒れた母は、手術、リハビリと入院生活を今年の5月まですごし、その後高齢者介護施設(特別養護老人ホーム)に入所していた。
最初のころは元気に歩いたり、食事もしていたのだが、しだいに弱ってきて、寝たきりになり、話もしにくくなってきた。
脳機能障害と、2回の切除を経て再発・転移したガンの進行が思ったより早かったのだ。

ここ数か月はかなり弱ってきて、食事がまったくできなくなって点滴でしのいでいた。
11月末には呼吸が不安定になることがあって、「そろそろ」という声が医師や介護職員から出ていたので、私もそれなりに覚悟していた。

12月1日の早朝に連絡があり、こちらに連絡する間もなく息を引きとったという。
そのまま車に乗って実家にもどった。
すでに遺体は葬儀屋によって自宅に運ばれ、座敷に安置されていた。

身内と隣近所だけに知らせ、ごく簡素に通夜と葬儀をおこなった。
それでも思ったより多くの人が来てくれて、いずれも母と親しかった人たちばかりで、心からのお別れをしにきた人ばかりだった。
僧侶が何人も来て頼みもしないお経をあげるようなことはなく、静かに親しい者だけでお別れした。

お通夜の夜、おいでいただいたみなさんにはそこそこにお引き取りいただいて、私は母とふたりだけで座敷で寝た。
ものいわぬ母とゆっくりすごせたのはありがたかった。

母とはここ数年、私にとっては「和解」とも感じられる共感的な対話を積みかさねることができていて、私もうれしかったが、母も喜んでくれていたとしたらいいなあと思っている。
別に仲が悪かったわけではないけれど、ふつうの親子にありがちな表面的でパターン化された会話やつながりしかなかったのだが、母が車の運転で事故を起こしたことをきっかけに、共感的な対話を試みたのが、私にとってはつながりのチャレンジだったし、それがよかった。

母を見送ったいま、私は寂しさを感じるけれど、安らかさもあって、母もそうであったらいいなと願っている。

東京にいったんもどってきて、今週は共感週間ともいうような共感カフェや文章講座のイベントがつづいているが、母とのつながりを取りもどした私の経験をだれかとシェアする機会があるといいなと思う。
もちろん母のこと、母とのことについては、あらためて書きのこしてみたいとはかんがえている。
それが私の供養だから。

2017年12月4日月曜日

YouTube:ピアノ即興アレンジ演奏「ふるさと」@福井県立病院

2017年10月に福井県立病院のエントランスホールで「秋のコンサート」の模様から、iPhoneで撮影した記録映像の一部を抜粋してお送りします。
唱歌「ふるさと」の即興アレンジ演奏です。
作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一です。


映像はこちら

2017年11月30日木曜日

メールやSNSメッセージで共感は可能か

しばしば標題のような質問を受ける。

しばらく前までは、言下に、
「無理です」
と断定していた。
人と人のコミュニケーションというものは、表面的に交わされている「ことば」など言語情報のほかに、表情や反応、姿勢、息遣い、視線、声のトーンやリズムといった、非常にリッチな情報を交換していて、しかもそれらのほとんどは無意識のうちに処理されている。
それに比べ、メールやメッセージなどによるテキストコミュニケーションは、リッチな情報がほとんど抜け落ちた、言語情報のみによるかなり貧相(プア)な交流といわざるをえない。

共感的コミュニケーションにおける人と人の共感のやりとりは、無意識下の処理を含むリッチな交流で、とてもテキストの交換のみでおこなえるようなものではない、たいていは失敗する、というのが、容易に想像できることだし、また経験的にもそういえる。
実際にメールでやりとりして、こちらの意図がまったく伝わらなかったり、思いもよらない反応が相手から返ってきて、絶望的な気分になった経験を持っている人は多いのではないだろうか。
だから、テキストで共感はできない、といわれているし、私もそう思っていた。

でも、ちょっと待て。
本当にそうなのだろうか。

私は子どものころから本が好きで、さまざまな本をたくさん読んできた。
北陸の山間部という田舎に生まれ育ったので、世界を知るには本は貴重な情報源だった。
その読書体験――テキスト体験を振り返って、それがプアな体験だったとはとうてい思えない。
むしろ非常にリッチな時間だったと、いまでも感じている。
子どものころのテキスト体験がなかったら、いまの私はいまとはまったく別の人間になっていただろう。
そのことはあまり想像したくない。

ことばだけのテキスト情報は、たしかにそれ以外のリッチな情報が抜けおちているが、だからといって読む者に豊かな経験や感覚を喚起させないとはいえない。
ようするに、どう書くか、どう読むか、ということなのではないだろうか。

最初からテキストだけのやりとりでは共感はむずかしい、とあきらめてしまうのではなく、テキストの可能性を共感的コミュニケーションの観点から洗いなおすことで、あらたなコミュニケーションが見えてくるかもしれない、と私は希望を持っている。
というのも、最近の共感文章講座でおこなっているいくつかのワークで、テキストを用いた共感交流の可能性が見えてきたからだ。

だれかが書いた文章を読むとき、私たちはついつい、そこに「なにが」書かれているかを読みとろうとする。
そこに書かれている「情報」に注目する。
そういうふうに読む習性が身についているからだ。
その習性はおそらく、教育や社会性のなかで成長とともに訓練して、あるいは強制されて身につけてきたものだろう。

いったんその習性を手放し、「なにが」書かれているか、ではなく、「どう」書かれているかに注目して文章を読んだときに見えてくるものはどういうものだろうか。
実際にワークで経験したことだが、だれかが書いた文章にはさまざまな感情やニーズが込められている。
それが意識的に書かれていることもあれば、ほとんどの場合は書き手も無意識に書いていることが多い。
しかし、それは文章からある程度読み取ることができる。

人が話したり行動したりするとき、そこには豊かな感情があらわれ、またその奥にはニーズが息づいているように、書かれた文章のなかには感情がこめられ、それはさまざまなニーズにもとづいている。
それを受けとり、フィードバックを返していくことで、これまでとは異なったテキストコミュニケーションができるかもしれない。

また、自分が書くときにもそのことを意識する。
自分のニーズや感情をつかまえ、そこから離れないままなにかを書くとき、それはどんな文章表現になるだろうか。
このことは、実はある程度実験ずみだ。
そこに大きな可能性と楽しさがあることは、すでに実証ずみだ。
そこで起こっていることを、もうすこし整理し、系統だてて説明したり、だれもが練習できるようにしてみたいと、私はいまかんがえているところだ。

12月3日:自己共感を用いた文章表現WS
水城ゆう( mizuki-u.com )が長年つちかってきた文章術、指導法に加えて、共感的コミュニケーションにもとづいた共感のプロセスも取りいれたユニークな方法を練習します。オンライン参加も可。

YouTube:ことばではなく自然な態度が共感をもたらす

だれかに共感するとき、どのように聴けばいいのか、相槌はどうすればいいのか、どのような質問がふさわしいのか、どんなことをいってもいいのか、あるいはいってはいけないのか、など、コミュニケーション・スキルとしてテクニックを気にする人がいます。
しかし、もしそれらを身につけたとしても、残念ながらあまり役に立ちません。
本当に役に立つのは、相手に興味を持つ、相手のニーズに目を向け尊重する、相手を思いやる、その「態度」もしくは「姿勢」そのものです。
それがこちらにあるとき、どのようなことばを使っても相手につながることができます。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

映像はこちら

2017年11月29日水曜日

YouTube:共感とは自分につながるお手伝いをすること

共感的コミュニケーションの解説をしながら、感情とニーズに注目することで相手につながる実践をおこなっている記録映像です。
「共感する」という行為は、話を聴いている相手が自分のニーズに気づき、自分自身につながるお手伝いをすることだ、ということがわかるかと思います。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

映像はこちら

2017年11月28日火曜日

YouTube:自分の喜びから人の役に立つことの重要性

だれかの役に立ちたい、貢献したい、という気持ちはだれにでもあるものですが、それが勝ちすぎると相手にもプレッシャーを与えてしまいます。
自分が喜びをもって貢献したいと思っているとき、相手は「ありがとう」という気持ちになりますが、そうではなく「やらなきゃ」と思って無理をしているときは、相手は「申し訳ない」という気持ちにさせられてしまいます。

岐阜各務原のカフェ〈花寧香〉で開催した共感カフェで水城が話したことを、抜粋して紹介します。

映像はこちら