2012年8月31日金曜日

嫉妬という感情(1)

photo credit: greenfaerietree via photo pin cc

「嫉妬」という感情を共感的コミュニケーションでどのように扱えばいいか、ずっとかんがえつづけている。
前提として、ひとことで「嫉妬」といっても、いくつかの定義があることを確認しておきたい。
私のかんがえでは、大きくふたつに分けられるような気がする。

ひとつは境遇や物質的なものが原因で起こる嫉妬。
自分が持っていないものを人が持っていたり、自分がそうありたいという境遇を人が手にいれていたりするのを見たとき。

もうひとつは異性がからんでいるときの嫉妬。
自分の好きな人、恋人、パートナーが、別の人と仲良くしたりしたときにムラムラした気分になるときの嫉妬。

まずは前者の嫉妬についてかんがえてみる。
たとえば、私は旅行——とくに海外旅行をながらくしていなくて、海外旅行をしたいなあと思っていながらできていない現実がある。
それなのに、毎年のように——ときには年に何度も海外旅行をしている人を見ると、嫉妬を覚える。
そのときの自分の感情の動きはどうなんだろう。

自分は(事情があって)海外旅行に行きたくても行けないのに、その人はたやすく行けている。
「うらやましい」という感情と同時に「不平等だ」という思いもあるようだ。
海外旅行に行くためには、お金も必要だし、時間も必要だ。
自分はこんなに努力しているのに、お金も時間もない。
それに比べてあの人はそんなに努力していないのに、海外旅行にしょっちゅう行っている。
不平等だ、というかんがえ。

これを整理するためには、まず自分のニーズをかんがえてみる必要があるだろう。
つまり、自分に共感すること、セルフエンパシー。

だれかが海外旅行に行っていることをうらやましいと思うとき、自分のニーズはなんだろう。
自分も海外旅行に行きたいと思っている。
海外旅行に行くことによって満たされる自分のニーズは?

私の場合、海外旅行に行くことによって、なにかあたらしい作品を作りたいという表現のニーズがある。
楽しみのニーズもあるかもしれない。
日常から離れることによる発見や創造性のニーズもある。
なにものにも縛られずに旅行することの、自由や独立や空間のニーズもある。
こういったことが、現在は満たされていないことの悲しさ。

それを満たせている人を見ることで、うらやましい、自分もそうあればいいのにということから起こる嫉妬、ということだろう。
このとき、ニーズを満たせている人と、満たせていない自分を比較することでは、不幸な感情しか起こらないということをまず確認したい。
自分が不幸になる最短手段は、他人と自分を比較することだ。
ではどうすればいいか。

他人と自分を比較することをやめて、自分のニーズを大切にすること。
私のニーズは表現、楽しみ、発見、創造性、自由、独立、空間といったものだった。
それを満たすために、いま、なにができるか。
そのことに集中してみる。
不思議に嫉妬の感情は消えていく。

嫉妬の感情ではなく、自分のニーズを満たしたいという動きが起これば、もうなにも問題はない。
ただ行動するのみだ。

音読日めくり8月31日:チェスタートン「青玉《サファイア》の十字架」(直木三十五・訳)

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、チェスタートン「青玉《サファイア》の十字架」(直木三十五・訳)です。

スケッチは、垣根のあいだから顔を出した猫です。
蔵出しです。

2012年8月30日木曜日

批判してくる相手にどう対処するか

photo credit: Rufus Gefangenen via photo pin cc

なにか表現をすると、かならずそれに対して批判をしてくる人と向き合うことになる。
それは知らない人かもしれないし、ときには親しい友人や家族であることもある。

表現というのは、朗読やダンスや演劇といったものではなくても、日常的な行為にもある。
たとえば、料理をする。
それを出して食べてもらう。
「いまいち塩気が足りないよね」
などというジャッジをくだされることはよくあることだろう。

朗読やダンスや演劇、あるいはブログを書くというような意識的な表現については、さらに批判がはっきりと出てくる。
自分がよいと思って表現したものとか、楽しかったライブの映像記録を公開したりしたとき、思いがけず批判的なリアクションを受けてしまうことがある。
そういった反応をおそれて萎縮し、表現することをやめてしまったり、気にやんで心の病になってしまったりすることがどれほど多いことか、私はずっと見続けてきたし、私もまたそのような批判にさらされつづけてきた人間だ。
それはとても悲しいことだし、多くの可能性の芽がつまれて残念でもあった。

自分にとっては斬新な表現だと信じてやっていたことが、「古くさいよ」と批判されたとする。
そんなとき、どう対処すればいいだろうか。
まずは自分の感情とニーズを確認する。
自分は斬新に表現することについてのニーズと喜びがあり、それを実行できたという満足がある。
が、それにたいして思いがけず、批判的なリアクションがあった。
自分の意図と行為がうまく伝わらなかったことについて、まずは自分を悼むことだ。

つぎに、相手のニーズを推測する。
これはいつものプロセスだ。
相手はどんなことを大切にしていて、このような批判をしてきたのだろうか。
おそらくこちらの表現が相手のニーズをたまたま満たすことができなくて、批判をしてきたのだろう。

それについては残念ではあるけれど、大切なのは、こちらは相手のニーズを満たす義務はない、ということだ。
批判してくる相手を前にすると、つい、なんとかしなければ、と思ってしまうことがある。
とくに声の大きい人や、怒りの感情をあらわにしてくる人を前にすると、そのように思ってしまう。
相手のニーズをなんとか満たすために、自分ができることはないかとかんがえてしまうのだ。

そんな必要はまったくない。
相手のニーズを満たすことができるのは、こちらではなく、当の相手しかいない。
こちらがなんとかしようとかんがえなくてよい。
こちらはこちらのニーズを満たすことだけをかんがえていればよい。

批判されたら、そうなんですね、あなたのニーズを満たせなくて残念でしたね、と共感的に受け止めつつ、自分のニーズを満たすことができたかどうかだけをかんがえる。
どんな人から批判されようがどうしようが、自分は自分のニーズを満たすことだけをかんがえればいいのだ。
それが正直に、誠実に表現する、ということだ。

Scrivenerという物書きには極めつけのソフト

私は書くことが仕事でもあるが、それ以前に「書いていることは呼吸することとおなじであり、書いていないと死んでしまう種類の人間」でもある。
職業的ライターは仕事の注文がないと書かないし、注文がないときはできるだけ体力をセーブし、注文が来たときに備えて無駄な動きはしない。
小説家は仕事の注文があろうがなかろうが、毎日、ヒマさえあれば書きつづけている。
体力をセーブするなんてことはかんがえもしない。
そういう種類の人間なのだ。

人に会っているほかはたいていコンピューターに向かっているので、メールや音声・動画編集のほかは、文字を書いている。
ブログ記事、日記、本、詩、小説、いろいろなものを書きちらしている。
こういう人間にとって、膨大に蓄積していくさまざまな種類のテキストファイルをどのように整理するか、というのは重大な問題である。

これまでにさまざまなワープロソフト、エディター、アウトラインプロセッサ、その他書き物系のアプリを使いこんできたが、それぞれ一長一短で妥協しながらなんとかやってきた、という感じだ。
最近ではJeditというエディターに落ち着いていたが、これは単品エディターなので、ファイル管理はできない。
エディターとしては優秀で、Macのソフトなのに縦書きにも対応していて、具合がいい。

けっこう使いなれていたのだが、雑多な大量の文書ファイルをどう整理するかについての解決にはならない。
結局、文書ファイルのためのフォルダーを作り、その中に「小説」「詩」「エッセイ」「ブログ」「日記」などの下層フォルダを作り、そこに文書ファイルを放りこんでおく、というやり方に落ち着いていた。
しかしこれだと問題があり、たとえばブログに掲載したエッセイはどのフォルダに入れるんだ、ということになる。
適当に分類して放りこんでしまうのだが、あとで探すときにめんどくさい。

できれば自分が書いたものは全部おなじアプリ内で閲覧できるようにしておきたい。
なかにはあとで電子書籍にまとめようと思って書いているものもあるので、そういったひとまとまりの「本」としてあとで改訂できるようにもしておきたい。
一時、MacJournalというアプリを使っていて、これはけっこう重宝していたのだが(いまでもたまに使っている)、なんとなくインターフェースが気に入らなくて、疎遠になってしまった。

そんなところへ、最近、強力なアプリの存在を知った。
それがこの「Scrivener」だ。
英語バージョンだが、日本語も問題なく使える。
どうやらブックライターのために機能を特化させているらしいのだ。

テキストの断片の管理はもちろん、アウトライン・プロセッサや、コルクボードというちょっとしたメモを貼りつけておいて参照する機能もある。
コルクボードのメモをいれかえると、それに対応したテキストの断片もいれかわったりする。
書いているテキストの資料として画像や文書、動画などをぽんぽんと放りこんでおいて、いつでも参照できる。

実はこの記事もScrivenerを使って書いている。
左側に表示されている「Binder」というカラムのなかに「執筆中」というフォルダを作って、書きかけのものやこれから書きたいものはそこに適当にタイトルをつけて文書を作っておく。
ここにどんなことを書くのか、アイディアメモのようなものもコルクボードに書きつけておくこともできて、それはしかし本文には影響しない。
どんどん書いていって、完成したら、ブログにアップすると同時に、記事は別のプロジェクトにドラッグしておく。
ときどきそのプロジェクトを開いて、アウトラインモードで順番を入れ替えたり、書き直したりして、ある程度まとまってきたら電子書籍にすることもできるだろう。
長い文書を途中で分割して、別々の文書にするなんてことも、簡単にできる。

大変使いやすい。
App Store からダウンロード購入もできるが、メーカーサイトからは1か月間無料で試用できるバージョンもダウンロードできるので、まずはそれでじっくり試してみるほうがいいだろう。

音読日めくり8月30日:田山花袋「朝」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、田山花袋「朝」です。

スケッチは観葉植物のエバーグリーンの葉っぱです。
これはネムノキを改良して作られた、最近人気の観葉植物で、細かい葉っぱに特徴があります。
条件がいいと花も咲きます。

2012年8月29日水曜日

焼きナスとキュウリの冷製パスタ

これ、いろいろバリエーションが考えられる。
そもそも、夏野菜を細かく刻んで、だし醤油で合えるだけの山形の郷土料理「だし」にも似ている。

【材料】1人分
・スパゲティ(カッペリーニなどの細めのもの)……80グラム
・ナス……2~3個
・キュウリ……半分
・にんにく……ひとかけ
・オリーブオイル、塩、コショウ、粉チーズ

ナスはオーブントースターや魚焼きグリルなどでよく焼き、水につけて冷やしてから、皮をむく。
適当な大きさに切って、ボウルに入れる。
キュウリは3mm角くらいに細かく切って、ボウルに入れる。
にんにくはみじん切りにして、ボウルに入れる。
そこにオリーブオイル(大さじ1よりやや多め)、塩、コショウを加え、よく混ぜる。

スパゲティをゆであげ、水でさらしたあと、氷水で締める。
皿にとって、ボウルの材料を盛る。
粉チーズをふりかけて、いただく。

キュウリはズッキーニでもよい。
というより、ズッキーニのほうがいいかも。
ほかにバジルやトマト、タマネギなどを加えてもいいだろう。

音読日めくり8月29日:種田山頭火『四国遍路日記』

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、種田山頭火『四国遍路日記』です。

私が履いている靴は飾り気のないシンプルなものばかりですが、朗読や音読の勉強にやってくる若い人のなかにはとても派手なスニーカーを履いてくる人がいます。
そういうとき、写真を撮らせてもらって、あとでスケッチに起こすのです。
靴の写真を撮っているおじさんの図というのは、自分でもどこか危ない感じがしますけど。

2012年8月28日火曜日

梅丘テイクファイブ・ライブ(13)彼は眠らない

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
ライブ最後となる13番めの演目は、水城ゆう作「彼は眠らない」。
出演者全員での朗読です。

原作はこちらで読めます。

11月には梅丘音楽祭が開催されます。
げろきょはそれにも出演予定です。
また、その前の10月には横浜のホッチポッチ・ミュージックフェスティバルへも招聘されています。
12月末には明大前の〈キッド・アイラック・ホール〉で公演もあります。
みなさん、直接現代朗読をご覧になってください。
映像で見るのとはまったく違ったものが伝わることと思います。


梅丘テイクファイブ・ライブ(12)カリンバマン

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
12番めの演目は、水城ゆう作「カリンバマン」。
朗読はきゃたおかまゆみ。
自然発生的に「イエィ」というかけ声が客席から起こって、みなさんノリノリです。
全体を通してもそうですが、現代朗読のエンタテインメントとしての側面を存分に出したパフォーマンスとなりました。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(11)ある夏の日のレポーター

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
11番めの演目は、水城ゆう作「ある夏の日のレポーター」。
朗読は野々宮卯妙と山田みぞれのふたり。
このライブ全体がそうでしたが、このパフォーマンスも現代朗読表現のなかでもエンタテインメント性を打ち出したものとなっています。

原作はこちらで読めます。


音読日めくり8月28日:太宰治「親という二字」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、太宰治「親という二字」です。

新作描きおろしです。
羽根木の家の縁側の外に植えたゴーヤのグリーンカーテンを描いてみました。
いやいや、これはなかなか大変。
写実的に描いたのではないんですが、鉛筆で全体を描き、一枚一枚葉っぱの色を塗り、また濃淡をつけ、と時間がかかりました。

2012年8月27日月曜日

梅丘テイクファイブ・ライブ(10)蛍

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
10番めの演目は、水城ゆう作「蛍」。
朗読はフジサワのひとり読み
なぜかチャイナドレスを着たフジサワが、楽しげに読んでます。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(9)セカンドステージ

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
9番めの演目は、水城ゆう作「セカンドステージ」。
全員出演です。
作品タイトルどおり、ここからがセカンドステージでした。

出演者は左から、照井数男、なお、山田みぞれ、きゃたおかまゆみ、フジサワ、佐藤ピリカ、野々宮卯妙。
演奏は水城ゆう。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(8)迷信

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
8番めの演目は、水城ゆう作「迷信」。
朗読は野々宮卯妙。

ファーストステージの最後の演目です。
今回の演目のなかでは比較的オーソドックスなスタイルでの朗読といえます。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(7)ゼータ関数

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
7番めの演目は、水城ゆう作「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」。
朗読は佐藤ピリカと照井数男。

原作を見ればわかると思いますが、図形詩です。
交互に読んでいる文章がだんだん長くなっていきます。
そこにピアノの即興がからみます。
文章が長くなるにつれ、3人のコミュニケーションが深化していきます。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(6)布団たたき

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
6番めの演目は、水城ゆう作「布団たたき」。
朗読はなお。
たたかれる布団の役で照井数男も登場。なんのこっちゃ。

自転車をこぐような動きをまじえながら読んでいます。
自転車の「てん」のときだけ、客席にいたげろきょメンバーが声を合わせて参加してます。
これも身体表現を取り入れた朗読です。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(5)自転車をこぐ

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
5番めの演目は、水城ゆう作「自転車をこぐ」。
朗読は佐藤ピリカ。
自転車をこぐような動きをまじえながら読んでいます。
自転車の「てん」のときだけ、客席にいたげろきょメンバーが声を合わせて参加してます。
これも身体表現を取り入れた朗読です。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(4)いちめんの菜の花

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
4番めの演目は、山村暮鳥作「いちめんの菜の花」。
本当は「純銀もざいく」というタイトルです。
朗読はきゃたおかまゆみ、フジサワ、そして佐藤ピリカ。
きゃたおかとフジサワのふたりによる「挨拶朗読」にピリカが強引に割ってはいるという、日常的な身体性を朗読パフォーマンスに持ちこんだ表現です。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(3)Depth

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
3番めの演目は、水城ゆう作「Depth」。
朗読は照井数男。
ライブ猛者の数学者朗読者はさすがの貫禄です。余裕です。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(2)愚かな男の話

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
2番めの演目は、岡本かの子作「愚かな男の話」。
朗読は山田みぞれ、助演(?)はなお。
緊縛朗読?
しかもみぞれちゃんは大胆にも水着姿。

原作はこちらで読めます。


梅丘テイクファイブ・ライブ(1)温室

現代朗読協会が初めて梅丘のライブバー〈テイクファイブ〉で朗読ライブをおこないました。
この日の演目は全部で13作品。
すべて「いまここ」の私たちの気持ちと身体性を大切にした、即興性の強いライブとなりました。

その最初の演目は、水城ゆう作「温室」の3人朗読。
なお、野々宮卯妙、きゃたおかまゆみの3人が、実はテキストに対する難しい挑戦をしています。
そもそもテキストの難度が高いのです。

しかし同時に、ビジュアルでもチャイナ、浴衣、アフリカンと挑戦をみずから楽しみながらおこなってくれました。

原作はこちらで読めます。

音読日めくり8月27日:竹久夢二「秘密」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、竹久夢二「秘密」です。

蔵出しです。
青いししとうと赤いししとうです。赤唐辛子ではありません。
ししとうは赤くなってしまうとまずくなりますね。

2012年8月26日日曜日

会期延長!「音読日めくり」スケッチ展@下北沢・音倉

こちらでご案内していた下北沢〈Com.Cafe 音倉〉での「日めくりスケッチ展」の会期延長が決まった。
2週間延長で、9月9日(日)までとなった。見逃している方、暑くてめんどうだった方、ぜひおいでください。

このスケッチ展で置いてあるポストカードが好評で、先日持っていった寄せ絵(?)のカードはすぐになくなってしまった。
また作って新作も含めて持っていきたい。

絵のほうも売れているようなのだ。
ありがたい。
こちらもいくつか新作に入れ替えたいと思っている。

音読日めくり8月26日:高村光太郎『智恵子抄』より「あどけない話」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、高村光太郎『智恵子抄』より「あどけない話」です。

蔵出しです。
洗濯物が干してある小さな庭の風景です。

2012年8月25日土曜日

三鷹〈Sonido〉の下見、テキスト表現ゼミ

ドラムの今竹さんが見つけてきた店。
10月3日(水)夜、ここで音楽と朗読のライブをやることになったので、その下見に行ってきた。

羽根木からは京王井の頭線で吉祥寺まで行き、中央線でひと駅で三鷹に着く。
近い。
30分かからない。
今竹さんから店の様子を少しだけ聞いていて、なんだか特徴があるらしい。
今日、たまたま別件で打ち合わせに来ることになっていた月海ちゃんが興味を示して、いっしょに行くというので、野々宮、月海、あとでかっしーも合流して、昼間のセッションに行ってみる。

三鷹駅から徒歩2分の、超便利な立地。
ビルの3階にある、ごく普通のマンションの一室。
そして中も、店というより、普通の家の居間みたい。
かなりユニーク。
とくに防音もしていないらしく、階段をのぼっていったら演奏する音がじゃんじゃん聞こえてきた。

入ったら今竹さんはすでに来られていて、ホスト役のピアニスト・田崎さんを中心にすでに演奏が始まっていた。
ピアノ、ベース、ドラムス、アルトサックス、テナーサックスというクインテット構成。
スタンダードナンバーのジャズを演奏している。

とりあえず席につき、ドリンクをオーダーして、拝聴する。
曲の合間に、田崎さんが私たちのパートをヒアリング。
私はピアノ、野々宮は朗読、と答えるが、朗読などというパートはジャズにはない。
しかし、おもしろがってもらえたようで、あとでやらせてもらうことになった。
下見のはずだったが、まあ半分は予想していたこととはいえ、いきなりやることになるとは。
しかも、私はまずスタンダードナンバーでのコンボ演奏かららしい。

田崎さんが私と交代し、今竹さんがドラムにはいった。
今竹さんからなにかスタンダードナンバーを、ということで、超定番の「枯葉」をやることにして、テナーに人に参加してもらって、カルテットで。
普通に演奏する。

それにしても、ジャズのスタンダードのカルテット演奏なんて、すごいひさしぶりだ。
やってみるとわかるが、リズムもコード進行も決まっている曲の演奏なんて、すごく窮屈な感じがする。
しかもジャズのアドリブ回しの形式もあって、もはやこれは伝統芸能に近い、という思いをあらたにして、おもしろかった。

野々宮が加わって、いつものフリー朗読セッションへ。
曲目、というかテキストは私の「アンダーグラウンド」。
いやいや、楽しい。
なんでもありのフリーセッション。
野々宮はあまり調子がよくなかったとのことだったが、今竹さんともスリリングなコミュニケーションを楽しめた。

終わってみると、ほかの方たちはちょっとぽかーんとした感じ。
田崎さんは大変おもしろがってくれて、絶賛だった。


後ろに用事があったので、まだセッション中だったが、15時にお先に失礼させていただく。
16時前、羽根木帰着。
16時に羽根木の家を自主映画の撮影で使いたいという人が、庭の片付けに来るはずだったのだが、少し遅れるとの連絡があった。

18時から夜ゼミ(テキスト表現ゼミ)。
今日はあらたに参加する人がなぜか集中して、約10名の参加となった。
テキスト表現ゼミでこれだけ集まったのは初めてかもしれない。

新人が多いので、表現の原点を意識しながら進めてみる。
新人の佐藤くんが、なんのきっかけか忘れたが、毎日おからを自分で調理して食べている、という話を聞いて、びっくりした。
彼のスリムの原因はそれだったのか。

ふなっちの能登土産のひっぱり餅をいただく。
あい子さんの差し入れのプラムをいただく。

横浜のホッチポッチ・ミュージックフェスティバルにげろきょが出ます

サブタイトルに「世界ごちゃまぜ音楽祭」とついている。
なので、音楽のお祭りなんだけど、なぜか現代朗読も出ることになった。
事務局からある日メールがとどいて、YouTubeを拝見してぜひ出演を依頼したく、といわれた。
ほかにもダンスもあるらしい。

けっこう大きなお祭りで、開催日は10月21日(日)丸一日だけなのだが、横浜市街の全8会場で82組が出演するらしい。
そのうちの1組として現代朗読協会が出演する。

私たちの会場は横浜地方裁判所前で、オープンスベースだ。
持ち時間は30分もないくらいだが、オープンなのであまり長い演目はそもそも難しい。
そういう場所でも成立する朗読というと、げろきょならではのパフォーマンスのガツンと強烈なやつを持っていきたくなる。

出演メンバーはすでに決まっていて、山田みぞれ、唐ひづる、佐藤ピリカ、まぁや、野々宮卯妙、トコロてん、きゃたおかまゆみ、福豆豆子、そして音楽演奏が私。
出番は午後1時半すぎくらい。

まだ先のことだが、みなさん遊びに来てください。
終わったら中華街にくりだして遊ぶ予定。

音読日めくり8月25日:鈴木三重吉「かたつむり」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、鈴木三重吉「かたつむり」です。

蔵出しです。
キリギリスかウマオイか、夏の終わりというか、秋の虫です。
まだまだ暑いですが、夏の虫はちゃんといなくなって、秋の虫がちゃんと出てきます。

2012年8月24日金曜日

梅丘〈テイクファイブ〉ライブは超楽しかった

今日のライブの模様はYouTubeにupしようと思う。
来れなかった人に今日のライブの楽しさの一端を少しでも味わってもらいたい。
それほど楽しかった。

11月に梅丘音楽祭というものを実現しようとしている人たちがいて、そのうちのひとり・矢郷さんから「朗読もどう?」と声をかけていただいたのが、今日のライブのきっかけだ。
矢郷恵子さんはトランジション世田谷・茶沢会の中核メンバーの矢郷桃ちゃんのお母さんで、女性活動家として大変パワフルな方だ。

矢郷さんの紹介で〈テイクファイブ〉に行ったところ、音楽祭の前にまずは店で一度ライブをやりませんか、という話が、あれよあれよと決まってしまった。
それが今日のライブ。

げろきょメンバーに声をかけたら、7名が出演してくれることになった。
ほかにもお客さんで来てくれるという人も。
演目を決めて、例によってほとんどリハーサルらしいリハーサルもなしに、今日を迎えた。

午後、羽根木の家に来てくれたメンバーと、最小限のリハーサル。
今日、始めて合わせる演目もある。
といっても、暑くて、あとはだらだら休むのみ。

午後6時前、羽根木の家を出て、羽根木公園を抜けて梅丘まで歩いて行く。
6時すぎに現場入り。
出演者はみんな「派手な衣装」を着てきている。
衣装の指示はとくになかったが、なんとなく「派手な」感じでということになっていたので、チャイナあり、水着あり、アフリカンあり、浴衣ありの、見た目もすごいことになっている。

7時すぎ、お客さんもやってきて、げろきょメンバーも来てくれたし、それ以外の方も来てくれて、けっこうにぎやかな感じ。
7時半、ライブスタート。
今日のセットリストはこんな感じ。

【1st stage】
1. 「温室」なお、野々宮卯妙、KAT
2. 「愚かな男の話」山田みぞれ 岡本かの子・作
3. 「Depth」照井数男
4. 「挨拶朗読:いちめんのなのはな」フジサワ、KAT 山村暮鳥・作
5. 「自転車をこぐ」佐藤ピリカ
6. 「ふとんたたき」なお
7. 「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」照井数男、佐藤ピリカ
8. 「迷信」野々宮卯妙

【 2nd stage】
1. 「セカンド・ステージ」全員(男:なお、女:照井数男)
2. 「蛍」フジサワ
3. 「ある夏の日のレポーター」山田みぞれ、野々宮卯妙
4. 「Kalimba Man」KAT
5. 「彼は眠らない」全員

作が明記していないのは、すべて水城ゆう作品。
ひとり朗読あり、ふたり朗読あり、三人朗読あり、おおぜい朗読あり、色ものあり、シリアスなものありで、現代朗読のコンビネーションとバラエティをあますところなく表現できたライブとなったような気がする。

そして今回はエンタテインメントとしての朗読寄りだったかもしれない。
それはなにより、出演者が楽しんだという意味において。
そしてそれは、ひいてはオーディエンスも楽しんでくれることになる。

先日のキッズ公演もそうだったが、このテイクファイブ・ライブもそうだ。
このところ、今後のげろきょの指針となる重要なパフォーマンスがつづけざまにおこなわれているように感じる。

梅丘ライブバー〈テイクファイブ〉朗読ライブのお知らせ

梅丘にあるライブカフェ&バー〈テイクファイブ〉で初の音楽と朗読のライブをおこないます。

◎日時 2012年8月24日(金)19:30-22:00
◎場所 世田谷・梅丘〈テイクファイブ〉
◎料金 ドリンクオーダーのみ(投げ銭制)

◎出演 朗読:山田みぞれ、なお、片岡まゆみ、佐藤ピリカ、フジサワ、野々宮卯妙
演奏:水城ゆう

予約は必要ありません。
ライブは二部構成。1回めが19時半スタート、2回めは21時スタートの予定です。

現代朗読は音楽ライブのように、あるいはダンスを観るように味わっていただけます。
飲み食いしながら、ライブ前後、あるいはライブ中にも、出演者とのコミュニケーションをお楽しみください。

音読日めくり8月24日:島崎藤村「朝飯」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、島崎藤村「朝飯」です。

蔵出しです。
いろいろな色のミシンの糸巻きがならんだ、小さな棚です。こういうものを眺めるのは好きですね、なぜか。

2012年8月23日木曜日

北陸の実家から東京戻り、夏休み時期のフライト

帰省最終日。
朝から魚をいただく。
軽く塩した鯖、フグの一夜干し(たぶんクサフグ)、ゴーヤとツナとタマネギのサラダ、カボチャとシシトウのみそ汁、オクラの胡麻和え、キュウリとミョウガとワカメの酢の物、玄米。

えちぜん鉄道と空港バスで小松空港へ。
えちぜん鉄道の福井駅では恐竜の馬鹿げた作り物がベンチに座っている。
これも経済目的なのだろうと思うと、悲しくなる。
ヒトって悲しいね。

小松空港では戦闘機がビュンビュン飛んでいて、まるで航空ショーのようだ。
ひょっとして航空ショーが近いのかな。
その練習なのかもしれない。
いっぱい燃料を使うんだろうなと思いつつ、私だって飛行機を使って行ったり来たりしている。
今年20回めのフライトで東京に戻る。

夏休みの終わりの機内は、家族連れや子どもが多く、それに混じって苦虫をかみつぶしたようなビジネスマンもいて、ほぼ満席。
天気がよくて、空と地上の様子がくっきりと見えたので、私はご機嫌。
写真をいっぱい撮る。
前の座席の3年生くらいの男の子と競い合うように。

明日は梅丘〈テイクファイブ〉のライブ。
日中は羽根木の家でリハーサルだけど、暑いだろうなあ。
テキトーにやらなきゃ、夜までもたないかも。

現代朗読基礎講座でこんなことを話した(3/3)

(以下、質疑応答のなかでの返答部分のみ)

年齢に逆らって、筋力の衰えにある程度抵抗することはできるってことだよね。つまり訓練すればするだけ筋力は回復するんです。だから必要性があるんですね。
トレーニングしない人は、だんだん可動域がせまくなって、こんだけの表現しかできないおじいさんかおばあさんになってしまう。これ頑張ってればつくし。矍鑠としたじじいになりたいと私は思うんですけどね(笑)


姿勢も自分のコントロールなので、自分のコアマッスル、姿勢筋をなるべくしっかりしておきたい。疲れて姿勢が変わってしまうと表現は変わってしまいます。


呼吸筋を鍛えることで、安定的な朗読もできるし、安定的な朗読もできるってことは不安定な朗読はいつでもできるんだから、表現の幅が広がるよね。
それから呼吸法によって姿勢筋も鍛えることができます。姿勢筋の鍛え方もやりますけど、呼吸法自体でもう結構姿勢筋を鍛えることになる。
呼吸っていうのは普段無意識にやってるじゃないですか。でも、意識的にすることもできるでしょ? つまり無意識と意識の交差点なんですよ、呼吸法ってのは。

人間の身体の中には、自分で意識的に動かせるものと意識的に動かせないものがあります。
例えば筋肉で言えば随意筋肉と不随意筋肉。神経で言えば、随意神経系と不随意神経系ってのがある。
で、交差点になってる呼吸は両方にアクセスできる利点があるんです。神経系で言えば、不随意神経系ってのは自律神経のことなんですけど、自分で交感神経をいま活発にしようとか、副交感神経をちょっと活性化しようとかいうのは、意図的にできないんです。でも、唯一呼吸を使えば、そのコントロールが少しできるんですね。
我々は交感神経ばっかり働かせている生活を送っているので、いつも不安になったり、落ち着かなかったり、イライラしたりしがちなんですね。夜寝られなくなったり、便秘がちになったり、あるいは下痢気味になったり、体の不調を訴える人が多いです。それはもう自律神経の不調ってことが原因ですね。そういうときに交感神経ではなくて、副交感神経をしっかり働かせてやる、つまりストレスを解消していくための神経、休息の神経、鎮静のための神経、これをしっかり働かせられる呼吸法が有効なんですね。
みなさんも呼吸法をやってもらうことで、副産物としてとっても落ち着いたメンタルを作ることにも役に立ちます。毎日が、楽しくなる。
それからマインドフル。「今ここに私がいて、安全に落ち着いてこうして居られるんだ」という意識です。訓練しだいでいつでもそこに戻ってこれることができる。それは、ストレスフルな現代生活を生きるための、ストレスマネージメントとしてのスキルにも繋がります。ぜひ活用してください。


映画とか演劇とかダンスとか音楽とかいろんなジャンルの現代表現がありますね。
どのジャンルも20世紀の文化の中で発展し、発達してきて、いろんな工夫がされてきた。
最終的に一番とんがったところっていうか、まだだれもやってない未開拓の分野ってのはどのジャンルもほとんどなくなってきてる。誰が何をやっても、「これってあの人がやってるのと同じだよね」とか、手法としてね。特に、コンテンポラリーって手法が取り入れられてきたわけですね、20世紀には。現代芸術がね。
コンテンポラリーももはややり尽くされていてコンテンポラリーそのものがコンテンポラリーっぽいよねって感じになっちゃっている。一つの型になっちゃってる。
コンテンポラリーダンスなんかも何をどうやっても自由にやってもいいはずなのに、「コンテンポラリーっぽい」というくくりがある。
現代音楽/コンテンポラリーミュージックもそうだよね。現代音楽っぽい感じ。ようするに行き詰まってるんですよ。
ところがね、唯一ね、コンテンポラリーがまだないジャンルがあるんです。それが朗読なんですよ(笑)。
我々、今、色んなことを試行錯誤でやってるけど、何をやっても誰もやったことないことばかりなんですよ、これが。楽しくてしようがない。


人間の耳は驚くべき潜在能力を持っているんです、実は。でも我々はそれを全然使っていないで生活してるわけ、毎日。
全盲の人たちの聴覚能力ってすごいじゃないですか? でも、あの人たちはもともと聴覚能力がすごいんではなくて、目が見えないからやむを得ず聴覚能力を上げて生活しているんです。我々目が見えるから聴覚能力をさぼらして生活してるんです。でも、聴覚能力をサボらせずにしっかり使えるようになっていけば、耳の解像度が上がっていけば、全盲の人となんら変わらず聴覚を活かすことはできます。


身体を動かすことと、読んだり聴いたりするって処理系が別々になってるんですよ。特に現代人はね。これ、でも、おんなじ処理系でやりたいんです。やれるんです。身体を動かすことと、声を出すこと、聞こえてくること、全部同じ軸の中で処理していく。全部連動している。ホントは連動してるんですよ。

読むって行為は大脳皮質の働きが多いんですね。大脳皮質で意味を理解して言葉を作って、それを舌の動きとかそういうのを司っている小脳とかそういうところに伝えるわけです。でも身体の動きってのはダイレクトに小脳が司ってる。
歩いたりするときに頭の中でいちいち考えないでしょ? 歩き方とか、自動的にやってるわけです。それをコントロールしようと思うと、大脳から小脳に一回命令を伝えるわけです。そこが繋がっていなくてスムーズにいかないとバラバラになっちゃうんです。

身体の動きと、しゃべりと、聞くことと。これはもう練習しかないんです。
人間の耳という聞くためのセンサーは、ただ情報を受け入れるってことができるんですけど、でも我々は大脳が発達しちゃってるから何か音が入ってくるとそれをどういう音かって意味づけしようとするわけ。「セミがないてる。アブラゼミだ」とか思うわけです。セミの音そのものを聞いていない。アブラゼミが鳴いてると思ってしまう。カラスが鳴いてると思ってしまう。そうではなくて、ただ音を受け入れてそれで反応していけるっていう、そういう反応体としての精度を上げていけば、表現者としてすごいことになる。


我々、体が低い時は小さい声っていう意味を与えちゃってるのね。
この時に大きな声でもホントは別に関係ない。そういう習慣で意味付けられたことが身体に染み込んじゃってるんで、こう縮こまって大きい声出すってのにすごい抵抗があったりするんですけど。ホントはできるんですよね。


聴覚ってのは受動的な感覚なので、実は音は普段から全部聴いてる。だけど、いちいち注意を向けていたら日常生活に都合が悪いので、聞かない習慣を、聞こえないことにしている習慣をもってしまっているだけなんですね。でも表現するときは実はそれ全部聞きたいんですよ。
逆の考え方もあるけどね。集中して何にも聞こえないようにしてこれだけやるっていう。それは面白くないですね。外のものを全部受け入れてどんどんそれが変化していく。それが生きた表現。


なにか表現を受け取った時に、感想を求められた時に、友達のライブとか行くと、「ねぇどうだった?」って聞かれて、当たり障りのないことしか言えないんですけど、そういうときに自分のなかを見て、こんな気持ちだった、とか、こんなこと思い出した、とか言ってあげると、たぶん喜んでもらえると思いますね。受け取ってもらえたって感じがすると思うんですよね。つまり評価をするんではなくて、自分の中で起こったことを伝える。
評価っていうのは、上手だったとか良かったとか自分の外側にある基準に当てはめて、それで判断するってことですね。そんなのはどうでもよくて自分の中で起こったことを伝える。つまり「全部受け取りましたよ。私の中でこんなことが起こりましたよ」と伝える。それの練習です。


心がけてほしいのが「マインドフル」ってことなんですよ。「今ここにいる自分の状態」いろんなこと思い浮かべたり、考えるのではなくて、「今ここにいる自分の状態」や、まわりから聞こえてくること、見えるものそれに意識を向けてもらいたい。できれば、「マインドフルノート」みたいなのをつけてもらうといいんだけど、そういうときに色んなことに気づくんですよね。ほんの些細なことなんですけど。そういうのをちょっと自分でメモったり、あるいは気づいたことを覚えておいたりして、二週間後かな? またこの講座がありますけど、「マインドフルになってみたらこんなことに気づきました」っていくつかでいいんで教えて欲しいんですね。
それと朗読はこのエチュード本に限らず、皆さん好きなものを読んでみてください。どんなものでもいいからね。読んでいる過程で、こんなことにぶつかったとか自分はこうしてみたいとか色々出てくると思うんで、そういうことに対してみんなで解決していくということもやっていきたいと思います。

「だし」という名前の強度……じゃなくて郷土料理

山形・尾花沢の夏の郷土料理とのことで、JALの機内誌に紹介されていたやつをちょいとアレンジしてみた。

【材料】1人前
・夏野菜いろいろ……適当な分量
・ご飯……1杯
・醤油

粘りを出すために、オクラは必須。
ひょっとして納豆を入れてもいいかも。
今回は入れずに、オクラ、キュウリ、ナス、ミョウガ、青じそ、タマネギを適当な分量、すべて3mm以下のみじん切りにする。
といっても、適当な大きさで、ザクザクトントンとなるべく細かく刻んでいくだけ。

刻んだ野菜はボウルに入れ、醤油をひとまわしかける。
好みの味付けに加減して。
尾花沢ではダシ醤油を使うらしいが、普通の濃口醤油でも全然かまわないと思う。
ボウルのなかでよくかき混ぜて、粘りを出す。
粘らないとご飯にからみにくい。

ご飯にそれをのっけて、ハフハフといただく。
ご飯は熱いほうがいい。
納豆や玉子を加えてもきっとおいしい。

現代朗読基礎講座でこんなことを話した(2/3)

基礎講座ではどんなことをやるのか?
現代朗読の3本柱みたいなのを考えてます。
ひとつめは、身体のことです。
私たちは身体を使って表現します。朗読ってのは口先だけじゃないよ。口を動かすだけじゃ、とても表現できないんで、身体全体のことを考えます。
口のことと同じくらい、指先やつま先のこともかんがえてほしい。
変な話だけど、お尻の穴が「キュッ」と締まっている時と、ゆるんでいるときとでは表現が変わるのよ。何で変わるかわかる?
演技指導でやらないですかね?「骨盤底筋群」の話。
骨盤底筋群ってのがあって、お尻の穴をキュッと締めると骨盤底筋群が緊張するわけですけど、この骨盤底筋群ってのは腹膜の一番上にある横隔膜と連動してます。骨盤底筋群と横隔膜のあいだに内蔵がまさまってて、横隔膜は呼吸をする時に上下しますよね。これが連動してるんですよ、ゆるやかに。事実としてあります。みなさんもやってみればわかります。
こういうふうに身体のこともやります。呼吸法もやります。それから「コアマッスル」。姿勢筋をなるべくきちんと作っていきたい。
身体そのものに対する意識を高めていきたい。自分の身体についての客観的で緻密な感受性をもっていきたいということです。

そして二番めは頭の中の話ですね。脳みそ。本を読むわけですからね。ここにどんなことが書かれているかとか、それをイメージしたり、あるいは自分が何を考えているかよくわからない自分のこともちょっと感じ取れるようにする。自分の無意識の世界からどうやって反応を取り出すことができるのか。
無意識の世界ってのは自分で意識できないんだけど、でも無意識で何が起こってるか知る方法はないことはないんです。
つまり、自分の反射反応を使うのね。ぽんと音が聞こえた。無意識に反応しちゃうこと、それをうまく顕在化できれば、それは非常に豊かな表現になってくる。
頭の中で「私はこう読もう。あー読もう」っていってるうちは、全然どうってことないんです。それは。全くつまらないです。だってそんなこと誰でも考えられることなんだもの。でも今カラスの声が聞こえた時に「こんなふうに読んじゃった」ってなったとき、見てる人も「この人次どう読むの?」っていうすごいスリルを味わえるんですね。


最後はコミュニケーション。感受性といいかえてもいいです。
コミュニケーションというのは感受性を働かせることですからね。
神経ですよね、感受性ってのはね。人間の神経……センサーの働きですね。
我々は身体の外から色んなものを受け取っています。西洋医学的に言うと、聴覚とか視覚とかそういうもので言い表しちゃうんだけど、もっと総合的に働いてるようなんですね、センサーというのは。

最近読んだ本だけど、ある人がメキシコだかの未開の民族と暮らしていたと。そこはもう文明から隔絶された場所なんだけど、でも文明も少し入りつつあるというところで、その人たちといっしょに暮らしてるんだけど、暑いんで日中はみんな川の中に首まで浸かって涼んでいるんだって。その人もこう入ってたのよ一緒にみんなと。突然、一人がバッって川から出て走り出すわけ、ほかの人もバーって走り出すのよ。何が起こったんだ? って見に行くと、近くに飛行場があるんだけど。文明がきてるからね。一応飛行機だけで来れるんだけど、そこに行くのよ、みんな。なんでそんなとこに行ったんだろうと思うと、15分くらい経って飛行機が来るんだ。
飛行機が来ることがわかるのよ、音もなにも聞こえないうちからね。それだけのセンサーを我々は持ってるんですよ、実は。
でも、文明が発達してそんな必要がないから眠らせちゃってるだけで、実は持ってるんですよ。

昔の剣豪がね、「殺気!」とかいうのあるじゃん? あれ別に嘘じゃないと思うよ。
そのセンサーが働かせられるようになると、コミュニケーションの世界ですからね。例えば、朗読をしている時に自分のセンサーが働き出すと、お客さんひとりひとりの状態がわかる。こっちの人は寝てる、こっちの人はすごい食いついて聞いてくれてる。自分はきちんと集中して読んでるんだよ。でも、周りの様子がクリアにわかるようになる。
これも練習します。これ、重要です。つまり表現というのはコミュニケーション。こうやってるときに周りのみんながわかる。ここに居る人が何かを読むことによって、あちら側で何かが起こっているんです。その起こっていることが返ってきてるのね、ホントは。もうホントに微細な信号として返ってきてるわけですよ。それを受け止めて、この人たちはこういうふうに受け取ってくれてるんだっていう中でまた表現が進んでいったり、変わっていったりする。
まさに表現はコミュニケーションそのものなんですね。
そのために感受性をみがいて、使いたい。


(技術的なことが書いてある紙を配って)こういうのは、発音発声の技術です。日本語の。
その技術を高めていくことを専門にやってる人達がアナウンサーとかナレーターという職業の人たちです。そういう人たちは、日本語の発音発声技術を獲得して、人前で明瞭に美しく、意味を伝えるという仕事をしてますね。情報伝達としての声を使うということをしてます。
でも私たちは、意味伝達をするわけではなくて、表現においてこの技術をどう使うかって話です。日本語がすごく綺麗に、100%近く美しい、正確な発音発声ができるようになったときに、それだけを使って朗読をするのはつまらないよね?
美しく流暢な朗読だけです、それは。ただ、アナウンサーが意味伝達のために読んでるのと同じ。でも、自分は表現するためにやっているので、その技術のどのくらいの部分を使うのかっていう選択肢になるわけです。
「ここは正確に伝えよう。ここはちょっとゆるくほとんどわからないくらいにモゴモゴいっちゃおう」とか。でも、この技術の幅がないと、選択肢の幅が狭くなっちゃうので、技術もやります。
技術を獲得すること自体は目的じゃないです。技術を獲得することで自分の表現の幅を広げる、可動域を広げるということが目的です。
そう思ったら、滑舌練習も楽しいと思いませんか?

「完成度」を目指すプラクティスはどれも無意味なのか

photo credit: Thomas Hawk via photo pin cc

という質問コメントをもらった。
昨日書きこんだ「現代朗読基礎講座でこんなことを話した(1/3)」に対するコメントだ。

私が、
「よく、演劇なんかで稽古のあとでダメだしってのをやるんですけど、あれはホントにろくなことないです。何一つ生産性がないです、あれは」
としゃべっていることに対する質問で、質問者は完成度の高い、間断ない反復努力を積み重ねて作りあげられていく芸術表現に対して、とても深い敬意と尊重の念を持っていて、それを大事にしておられるのだろうと思う。
最初にことわっておくが、私もそういうことをないがしろにしているわけではない。私も伝統的な芸術に対する尊重と尊敬の念はある。
そもそも私自身が長い反復努力が必要なピアノ演奏技術を習得してきた人間なので、完成度をめざすプラクティスを必要とする芸術表現があることまで否定するつもりはまったくない。

とことわっておいた上で、質問にこたえたい。
質問はこのようなものだ。

------------
「完成度」を目指すプラクティスはどれも無意味と言うことになりますか。
例えば、ボリショイバレエが昨日までの伝統を一歩でも超えようと、緊張感のなかでバレリーナも裏方も三位一体となってステージを作り上げるのは、愚かな行為でしょうか。そこでもダメだしは無意味と?
------------

最初から前提が違っているのだが、私が「ダメだし」という行為に生産性がないといっているのは、現代朗読という現場においてである。
つまり、現代芸術表現=コンテンポラリーアートを作る場において、ダメだしという手法は無意味だといっているのだ。
そもそも、コンテンポラリーはある一定の完成されたイメージをめざして作りあげられるものではないし、表現者をオーディエンスよりすぐれた存在として誇示するためのものでもない。
ねらっていたものではないものもどんどん出てきてしまう、多分に偶有性をもった一個の生命体としての人間がおこなう表現行為を、正直に誠実にオーディエンスの前に提示し、共感的なコミュニケーションを成立させることが目的なのだ。

「子どもの無垢な絵や歌は文句なく素敵と思いますけど、それは、その歌や絵の完成度ではなく、子どもの「存在」そのものを捉えているからだと思います」

そのとおりだ。
私たちは自分の「存在そのもの」を提示したいのだ。
となると、完成度という言葉は別の角度からとらえられなければならない。

質問者は「存在への共感」と「現象への感動」は別物である、と指摘しているが、私も同感だ。
ただし、現代朗読では「現象への感動」をめざすことはしない。
最初からなにか作り上げられ、企まれたものをめざすことはしない。
結果としてそうなることはありうるが、それを目的とはしない、ということだ。
私たちは存在そのものの不安定と偶然性のなかで、それをありのまま受け入れ、尊重しながら、誠実に表現をおこなっていく。

「何かを見たあと、うわーっホンットーに詰まらんかった!と思うことってありますよ。こんなもんさらしてナメとんのかー!ってこと」

質問者は人になにかを見せたり与えたりするとき、心をこめてきちんと準備し、誠意を持ってあたることをとても大切にしているんだね?
でも、私たちもおなじことだよ。
誠実・誠意であることの方法と考え方が違うだけで。

感情の話をしているけれど、
「そういうとき、感情丸出しにそう叫ぶことは無意味でしょうか。喜怒哀楽は穏やかに表現しなくてはいけないものでしょうか」
そんなことは私はひとこともいっていない。
むしろ逆でしょう。

私たちは自分の感情をとても大事にしている。
いまこの瞬間、自分がどのように読みたいか、そのことをあらかじめたくらんで準備しない、という態度を取る。
ある現象をあらかじめ準備してねらわらない。
「完成度」は結果であって、目的ではない、ということだ。
なにしろ、私たち人間は、いまこの瞬間にでも激情にかられて叫びだしたくなるかもしれないのだから。
そしてそれをすべて引き受けていくこともまた、私たちの方法なのだ。

音読日めくり8月23日:三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』です。

蔵出しです。
丸椅子の上に置かれた黄色いブリキの水差しです。

2012年8月22日水曜日

現代朗読基礎講座でこんなことを話した(1/3)

現在、すでにスタートしている全6回完結の現代朗読基礎講座で、受講生でゼミ生のひとりが私の話したこと(レコーダーで録音してあった記録)を文字で起こしてくれた。
大変ありがたく、私自身にとっても有意義なものだ。
このことに時間と労力をさいてくれたことに感謝する。
また、現代朗読の講座やワークショップ、ゼミなどでどんなことをやっているのか興味がある方にも、参考にしていただけるのではないかと思う。


【2012年8月9日基礎講座文字起こし】(1/3)

現代朗読協会全体がそうなんですけど、参加者の皆さん一人一人のニーズを大事にして、その人のやりたいこととか大切に思っていることをお互いに共有しながら進めていくという形をとっています。
この基礎講座もそういうふうにやっていきたいと思ってます。


嬉しい、感動する、楽しい、あるいは、悲しい、辛い、苦しい、どんな感情でも必ずその人がなにを大切にしているかという、その部分から来るんですね。
ニーズって言いますけど。
自分のなかにある感情とニーズを大事に扱っていくことで非常に感受性が豊かになってくる。
英語で言うとempathyって言うんですけど、自分を大事にすること、自分に共感をしていくということが、大人になるとだんだん苦手になってくるんですね。
自分の感情を無視する習慣ができてくるんです。
そうすると自分のニーズ、自分自身を大事にしない。

すごく疲れてるとか、あまりやる気がないのに、無理やり仕事行かなきゃという義務感だけで行ったり、会いたくもない人に会ったり、やりたくないことを無理にやったり、ホントはこっちのこれをやりたいと思ってるのに、今はやめとこうあっちを片付けなきゃって思ったり、社会の中で効率とか経済性とかそういうものを重視するように教育されていくわけです。
自分の感情とか自分のニーズをどんどん蔑ろにするように習慣付けられていくと、大人になればなるほど感動は薄れていく。でも、それはもともとあるものなんでもう一回取り戻すことは難しくない。

現代朗読の中では、常に自分の「今ここにいる感覚」を大事にしていきます。
それはまさに自分のニーズを大事にしていくということなんです。マインドフルになっていく。マインドフルという言葉はこれから何度も出てくると思いますけど、マインドフルになっていけば行くほどいろんなことに気づいたり、感動したりするようになります。
子供の時はもう完全にマインドフルですよ! 今ここっていう瞬間しかない。だから何をしても面白い。何をしても……まぁ逆にいえば悲しいこともある。
色んな感情が流れているんですね。我々大人だってそうなんですよ。
でもそれを見ないふりしている。本当は自分の心の中でいろんなことが起こってます。
今この瞬間も嵐のようにいろんな感情が渦巻いてる。
ただ、見ないふりをする習慣を身につけてしまっているだけです。


ステージでイキイキと表現をするために、常にお互いにイキイキ存在するために、現代朗読協会では運営と表現のベースに「共感的コミュニケーション」というのを使っています。
これはお互いのニーズ、大切にしているもの、それをお互いに尊重しあうことですね。
別にそれでお互いに好きになれとかそういう話ではないですよ。
仲良しクラブになれという意味でもないですよ。
ただただ、そのつながりの質を大事にする。
この人はなにを大事にしてるんだろう、ということに繋がっていく。
そういう考え方をします。表現においても場の進め方においても。

この考え方の中に、「自分がやりたくないことは何一つやらないでいい」というものがあります。
自分のニーズに繋がっていないことをやるとそれは不幸を招きます。自分の不幸を招くばかりではなく周りの人にも不幸をもたらします。
実はこれ結構深い考え方なんですけど、おいおいわかっていただく必要がある。

こういうと、何もやらなくてもいいの? って思ってしまうんです。
「じゃあ掃除もしなくいいし、仕事もしなくていいし、お金稼ぐの嫌だ」って。やりたくないって。思うでしょ? そういう浅い考えではない。もっと深く考えていきます。
例えば朝、「仕事行くの嫌だ」と、しょっちゅう思うじゃないですか?
その仕事に行きたくないっていう自分のニーズはなんだろう?
とまず考えるわけです。つまり気楽さのニーズであったり、今ダラダラしていたい、休みたい、休息が必要だというニーズがあって、それに逆らって仕事行くのはすごく嫌だと思ってるんだけど、でも、気楽さ・休息のニーズよりもっと大事なニーズはないだろうか。
例えば自分の生活を安全に快適に続けていくためのニーズ。毎日美味しいご飯が食べられる、お金に困らないとか、そういうことのニーズを大事にしてるからやっぱり仕事に行こう、というところにもう一回接続し直せたら、ちょっと気楽さのニーズもあるけど生活の持続性のニーズの方が今は大事だなと思える。仕事に行きたくなるんです。自然にね。
でも、やっぱり仕事より気楽さや休息のニーズが絶対強いよねって思ってしまったら、それは仕事を休むか、やめるしかない。常に自分の本当のニーズにつながっていく。

ここでもそうですよ。色んなことをやっていきますけど、やりたくないことは何一つやらないでください。自分がやりたいと思ったことだけやってください。
これからエチュードとかいろいろやっていくと思いますけど、「これはやりたくないな。なんか知らないけどやりたくない」と思ったときはそう仰ってください。遠慮なく。無理にやらなくていいですよ。
でも、やらなくていいんだけど、私はそのやりたくないというそのニーズをできれば聞かせていただきたいなって思いますね。それもしゃべりたくないって時はしゃべらなくていいですけど。
これがベースになってるので、覚えていてください。


共感的コミュニケーションの心がけですが、誰かがしゃべっている時にはその人が完全にしゃべりたいことをしゃべり終わるまで聞いてあげましょう。途中で遮られると、話を聞いてもらえなかったってくすぶるんですね。そういう状態は誰ひとり無いようにしたい。みんな言いたいことは全て言える。
表現もそうですよね。全部させてあげましょう。全部受け取りたい。その人がやってる表現を、完全に受け取りたいんですよ。

基礎講座のエチュードの中に、表現の受け取り方のエチュードっていうのがあります。
我々、朗読を観に行ったり、芝居を観に行ったり、映画を観たりするでしょ? そのあと何をするかというと、「つまんなかったよね」とか必ず「ジャッジメント」を下そうとします。
それはつまらないことなんですよ。自分にとっても何の役にも立たないし、相手にとっても何の役にも立ちません。
じゃあどうすればいいかというと、それを完全に受け止めるんですね。判断せずにね。共感をするということです。共感をしながら受け止めていくということの練習をします。
現代朗読のライブの稽古でも、ダメ出しというのは一切やらないです。よく、演劇なんかで稽古のあとでダメだしってのをやるんですけど、あれはホントにろくなことないです。何一つ生産性がないです、あれは。
よく皆さんから、朗読やってても「私の悪いところ指摘してください」と言われるんですけど、そんなことはしません。悪いことなど何一つないという考え方をします。失敗した、噛んだ。読み違えた。それも「読み違えたというパフォーマンス」として受け止める練習をする。その人はありのまま読み違えたわけですから、じゃあ読み違えたあとどういうふうに表現が変わっていく? それを楽しめばいいわけです。
音楽聴きに行く時でも、例えばクラリネットの音が裏返ったとします。それを普通は「失敗した」というわけですよ。でも、それだって人間のやることだから、失敗ということではなくて「裏返ってしまったということそのものを受け止めればいい」という考え方なんですね。
それだって面白いじゃないですか、あの人裏返ったっていう時に、その人の姿がバンドの中で、そこだけ「ポッ」と明かりがついたように生きた存在として見えるんですね。
あー失敗したんだ、あの人どう思ってるかな? とこう生きてくるわけですよ。集団のシステムの中から初めて生きた存在としてその人が見えてくる。
なので私たちも失敗を恐れないで、それも自分の失敗……失敗というか自分が予定していなかったことが起きても、それも自分の生きている証拠だろう、生きているということの偶有性の中で起こってくることなので、それも大事に受け止めていきましょう、それを失敗だと言って自分を蔑ろにして傷つけるのはやめましょうという考え方ですね。

平均寿命と健康寿命

photo credit: zilverbat. via photo pin cc

げろきょ仲間の日榮さんのブログに興味深いデータが紹介されていた。
詳しくは日榮さんのブログを読んでもらうとして、かいつまんで紹介すると、2011年の日本人の平均寿命は、男性79.44年、女性85.90年と発表されたとのこと。
それぞれ約80歳と約86歳か。
もっと男女差があると思っていたんだけど、意外になかった。
それでも6年ある。

日本人女性の平均寿命は26年連続世界一だったのだが、香港の女性に抜かれ2位になったそうだ。
日本人の寿命の減少は東日本大震災が大きな原因と見られているらしい。

私がおもしいと思ったのは、初めて聞く「健康寿命」という言葉。
介護を受けたり病気で寝たきりになったりせず、日常生活に制限なく自立して生活できる年齢のことだ。
男が約70歳、女が約74歳。

平均寿命と合わせてかんがえると、介護を受けたり寝たきりになって生活する期間が、男は約10年、女は約12年。
これはいやだなあ。
私としてはできるだけ介護を受けたり、寝たきりになったりせずに死期を迎えたいものだ。

そのためにはやはり音読療法!
音読療法は介護予防に最適の療法だと思う。
ちなみに今週末8月26日は羽根木の家で2級ボイスセラピスト講座を開催します。
詳細はこちら

「恨み」という感情の扱いかた

photo credit: Funky64 (www.lucarossato.com) via photo pin cc

夏は怪談である。
恨みを買って呪われると恐ろしいことが起こるというのが怪談の定石だが、えい、そんな話をしようと思って書きはじめたのではない。

私はあまり人を「恨む」という感情がないほうだと思うが、恨むという感情そのもののことは理解しているつもりだ。
自分ではそのつもりがないのに、知らずに人の恨みを買ってしまうというようなことが、だれにでも起こる。
もちろんわざわざ恨まれたくてそのような行動をしたわけではないのだが、結果的に恨まれてしまう、ということがある。

この「恨み」という感情についてかんがえてみたい。
「恨み」は「悲しみ」と「痛み」に裏打ちされた「怒り」の表現である。
こちらがなにかしたことが、思いがけず相手のニーズをふみにじり、結果的に悲しみと痛みを引きおこし、怒りとなって発露する。
ときにははっきりとした形として発露することなく、相手のなかにブスブスといつまでもくすぶったり、陰湿な形でこちらに間接的に降りかかってくることもある。
やっかいな感情だ。

こちらを恨んでいる相手は、こちらを理解し受け入れる気もないし、エネミーイメージでとらえている(敵視している)のでそもそも一個の感情とニーズを持った人間として見てくれない。
そういう相手とどう付き合っていけばいいのか。

これはもう、そういう相手にも「共感を送りつづける」しかないのだ。
これは相手とつながろうというよりも、自分を守るためである。
自分を恨んでいる相手もまた自分とおなじ感情とニーズを持った人間であり、こちらからは敵視することなく共感を送りつづけることで、恨まれている自分にもまた自己共感していくプロセスを確保する。

自分を敵視している相手にたいして、こちらを敵視しないように変えるのはとても難しいし、現実的には不可能に近いといっていい(経験がある人ならわかるだろう)。
もし変えられるものがあるとしたら、こちら側の態度だ。
たいてい敵視されてしまったとき、あきらめのなかで相手との関係を絶って身を引き、暗い窪みにうずくまるのがせいぜいだ。
そうではなく、こちらの態度を変えることで、相手との関係性をひょっとしたら変えることができるかもしれない。

こちらの態度を変えるというのは、あきらめて引っこむのではなく、相手に共感を送りつづけることだ。
もっとも、共感を送りつづけるために相手に直接コンタクトする必要はない。
離れた場所からでも、相手に声がとどかない場所からでも、共感を送ることはできる。
自分のなかで相手にたいする共感を送りつづけるだけだ。

敵視されている相手に恐怖を持っていても、離れて安全だと感じられる場所からなら、落ち着いて共感を送ることができる。
だれかに共感を送るというのは「その人の感情とニーズを推測しつづける」ということだ。
それ以上のものではない。
ただこれだけのことで「自分が」変わる。
こちらが変われば、相手との関係性も変わる。

ただしこれは、もうひとつの前提を大事にした上での話だ。
それは、相手に共感する前に、自分に共感しておく、ということだ。
だれかから恨まれたとき、悲しみや恐れや不安を抱いている自分の感情を見つめ、自分のニーズにしっかりとつながっておく。
自分のケアをした上でないと、相手にたいする共感もうまくいかない。

もうひとつコツがあるとしたら、自分の事情を説明しない、ということだ。
相手が恨んでしまった原因がこちら側にあって、それが誤解だったり、こちらが意図しないことであったりして、それを説明しようとしてもたぶんうまくいかない。
相手がこちらを敵視しているかぎり、こちらのいうことに耳を貸すことはないからだ。

もし直接コンタクトする機会がおとずれたら、実際に相手に共感的な言葉をむけてみる。
「きみが私に怒りをおぼえているのは、きみの○○のニーズが損なわれたせいかな?」
相手の状態にもよるが、ひょっとしたらそれに返事をくれるかもしれない。
くれなくても落胆する必要はない。
それでも確実に関係性は変化しているはずだから。

自分を恨んでいる相手にも共感を送りつづけられるなら、薄暗い窪みに身を沈ませておびえることもない。

ゴーヤとツナのサラダ

か・な・り・おいしかったんで、紹介する。
簡単で、すぐ作れる。

【材料】1人分
・ゴーヤ……大きさにもよるけれど3分の1本くらい
・ツナ……小1缶
・タマネギ……4分の1個
・マヨネーズ、酢、塩、黒コショウ

ゴーヤは縦二つに切り、内側の種と白いスポンジみたいな部分をスプーンでよくこそげおとし、小口から薄くスライスしておく。
水にさらす必要はない。
タマネギも薄くスライスしておく。
紫タマネギだと彩りがいいけれど、普通のタマネギでもよし。

ボウルにゴーヤとタマネギを入れ、ツナも汁ごといれる。
マヨネーズ大さじ1杯くらい、酢と塩とコショウを少々加えたら、全部混ぜあわせて、できあがり。
器に盛ったら、ボウルを洗って、終わり。

音読日めくり8月22日:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『あのときの王子くん』(大久保ゆう・訳)

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『あのときの王子くん』(大久保ゆう・訳)です。

蔵出しです。
帽子掛けにかかった女性の夏の帽子のスケッチです。

2012年8月21日火曜日

県立病院、ピアノコンサート決定、蕎麦

午前中、母といっしょに肺ガンの術後検査の結果を担当医から聞くため、福井県立病院に行く。
ここには高校の同級生の辰巳くんも勤務していて、科は違うがなにかあればいつでも声をかけてというようなことをいってもらった。
その言葉をもらっただけで心強いことこの上ない。

担当医からのインフォームド・コンセントはとても丁寧でわかりやすいもので、お互いのニーズをしっかり確認して、今後の方針を決めることができた。
当面は再手術はなし。
しかし、検査は定期的にしっかりとつづける、ということで。

ここの病院のロビーというか、外来受付のところには、グランドピアノが置いてある。
時々、ピアニストや歌手やアンサンブルの人が来て、音楽コンサートをやるらしい。
母がお世話になっていることだし、私もここで弾かせてもらって、患者さんや職員の方たちに少しはお役に立てないかなと思い、そのことをツイートしたら、さっそく辰巳くんが目をとめてくれて、すぐに事務の担当の人につないでくれた。

家に帰ってから担当の人から電話がかかってきて、さっそく10月にピアノのコンサートをやることが決まった。
話が早い!
たぶん、童謡や唱歌など、日本のなつかしいメロディを私なりにアレンジした曲を演奏することになるだろう。
いまから楽しみだ。

夕方、蕎麦を打って、天ぷらといっしょにいただく。
いつものように、大根のおろし汁に薄口醤油を割っただけのつゆとネギだけで。
蕎麦はうまいなあ。

ネットでdisられたときはどうすればいいか

photo credit: avriette via photo pin cc

「ネット(FacebookだのTwitterだの)に呑まれないために」という記事を書いたら、さっそく、「具体的にどんな手順でやっているのか知りたい」という反応をいただいた。
じゃあ、ってんで、ネットを自分の名前で検索して私を攻撃するいやな書きこみはないか探してみた。
あった。

「この水城ゆうってのも怪しいな」
とか、
「この人のプロフィールが商業作家のわりに妙にうさんくさく見えるのには同意だ」
と、けっしてうれしくない書きこみがされている。
URLはこちら

どういう人が書きこんだのかはわからない。
いずれも匿名だ。
このように、ネットではいきなりだれとも知れない人から突然攻撃されたり、不快な書きこみをされることがよくある。
知人からだってあるかもしれない。

こういうときにどうしたらいいか。
私がおこなう具体的な手順を書いてみる。


経緯はこうだ。
私の知り合いの書き手が、ある出版社が主催している文章コンテストのようなものに作品を応募したところ、受賞はしなかったものの、そこの編集者からコンタクトがあり、もっと書いてみませんかとすすめられた、という話を聞いて、ひょっとしてこれはよくある自費出版系の勧誘ビジネスではないかと思ったので、ちょっと注意をうながした、というものだ。

Twitterでの書きこみだったのだが、私のその書きこみをとらえて、上記の「この水城ゆうってのも怪しいな」というリアクションが出てきたらしい(私もいまのいままでこういう書きこみがあるとは知らなかったが)。
この人はつづけて、このようにも書いている。
「自費出版の斡旋でもやってるのか?本当に良心的なとこは駄文に出版などすすめない」

もちろん私は自費出版の斡旋などやっていないが、こういう書きこみを見て嫌な気分になったのはたしかだ。
まずその自分の気持ちに「共感」していくことが、最初の手順となる。


私が最初にするのは、自分の気持ちを存分に爆発させること。
だれかにあたるのではなく、自分のなかで正直に処理する。
「くそ、この野郎、おれのことを知りもしないくせに、匿名であることをいいことに無責任なことをほざきやがって。ひとのために役に立てればいいと思って書いたことをこんな悪意でとられて、おれって本当にかわいそう」

存分にぶちまける。
自分のなかで。

少し落ち着いたら、自分の感情をできるだけ客観的に見る。
書きだしてみるのもいいだろう。
ここで現れている私の気持ちは「怒り」と「悲しみ」だ。
この感情はどこから来るものだろうか。
と、自分のニーズを推察する。

感情はどんなものであれ、自分のニーズが損なわれた、あるいは満たされたときに現れる。
今回の場合はなにかが損なわれて怒りと悲しみの感情が現れたのだ。
なにが損なわれたんだろう。

「自分が正しく理解されること」
「受け入れられること」
「誠実・正当であること」
これらのニーズがふみにじられた気がして、私は怒りと悲しみにとらわれたのだ。
それがわかったら、そこなわれた自分のニーズのことを思い、充分に自分を悼んでやる。

「自分の誠実さや正当性を理解してもらえなかった、受け入れてもらえなかった、そのことで怒りを覚え、悲しんでいるんだね。よしよし」
てな感じ。
それができたら、今度は相手のニーズを推測する。

私のことを「怪しい」と書いたこの人は、おそらく、ネットや世間にあふれる詐欺まがいの商法や人物に憎しみを抱いているのだろう。
私もそういう人間のひとりだと思ってしまったのだろう。
この人にはきっと、誠実さ、信頼、安全などのニーズがあるのだろう。
それを損なわれた気がして、このような書きこみをしたのかもしれない。

この推察はあたっていないかもしれない。
しかし、「相手のニーズを推察する」という「私の行為」に意味がある。
この人にもニーズがあるということに思いいたったとき、私はこの人をもう憎むのではなく、この人も自分のニーズを大事にしているおなじひとりの人間なのだ、という気持ちになれる。
その上で、もし必要なら、このメッセージに対して自分とこの人のニーズを満たすための行動が取れないか(ここではレスポンスを書きこむということになるが/そんなことは私はしないけど)、じっくりかんがえみる。

ここまでのプロセスで、私は自分自身がずいぶん落ち着き、冷静さを取りもどしていることを感じる。
ゆっくり紙に書き出してやってみるとだれでもできる方法なので、ネットの書きこみでなにかかっかしてしまった人がいたら、一度試してみるとよいと思う。

TODOリストに優先順位をつけてはいけない

photo credit: anselm23 via photo pin cc

先日、TODOリストに自分のニーズを書きくわえて「やらねば」を「やりたい」に変化させる方法を書いた。
http://juicylab.blogspot.com/2012/08/blog-post_17.html

いくつか反応があって、そのなかにTODOリストに優先度を設定して片付けようと努力している、というものがあった。
かんがえてみれば私もかつてそのようにしていた。
そして多くの方がそのようにしているだろう。
これは実はTODOリストを処理する上であまり効果がない方法なのだ。

「やるべきこと」に優先順位をつけて、優先度の高い順から片付けていく、というかんがえかたは、実は効率主義のかんがえかたであって、つまり資本主義・成長経済のなかで作られたかんがえかただといえる。
私はそこから「降りる」ことで自分の人生の幸せを取り戻したいと思っている。

TODOリストは自分のニーズ(価値観といいかえてもいい)を大事にするためのリストなので、そのひとつひとつに優先度をつける必要はない。
優先度をつけると、優先順位が高いものは自分にとって価値が高いもの、低いものは価値が低いもの、という「判断/評価」が加わってしまって、自分のニーズをおろそかにすることになってしまう。

TODOリストの扱いは刻一刻と変化するものであって、リストとニーズをながめていまこの瞬間、自分はどのニーズを大切にしたいと思っているのか、じっくりと自分のなかを見つめてみることが必要だ。
そして自分のニーズとつながることができたとき、それを満たすために積極的な行動に移せる。

TODOリストがいつまでも短くならないのは、自分のニーズにつながっていないから、つまり自分を大切に扱えていないからだろう。
優先順位という考え方は、自分の外側にある判断基準をあてはめて作っているものだから、優先順位をつけたとき一瞬安心したような気がするけれど、それは自分を大切に扱うことにはならない。

TODOリストは優先度で扱うのではなく、いまこの瞬間自分が大切にしていることはなにか、というニーズを満たす喜びで扱えるようになると、人生は幸せなものになるだろう。

音読日めくり8月21日:武笠《むかさ》三《さん》「案山子」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、武笠《むかさ》三《さん》「案山子」です。

新作スケッチを描きための時間がないまま、北陸の実家に帰省中です。絵を描く道具がなく、スキャナーもないので、新作をあきらめて以前描いたものを出すことにしました。
数日「蔵出し」がつづきます。
今日は鉛筆で描いた、重なって遊んでいる2匹の子猫のスケッチです。

2012年8月20日月曜日

地方の方にも朗読の楽しさを知ってもらいたい

東京には現代朗読があるからいいとして(笑)、私がいろいろ見聞きした結果、地方の朗読文化状況には問題がある、と感じている。
これまで私は講師や公演、ボランティアなどでいろいろな地域に出かけていった。
また、現代朗読協会にもさまざまな地方から講座を受けに来る人がいる。
北は北海道から南は九州まで(沖縄はまだいないけど)、行ったり来てもらったりしている。

地方都市にも朗読教室はあるけれど、基本的に人口が少ないせいで、ひとつの街に教室は多くはない。
カルチャーセンターや個人主催の教室が中心になっているが、教室が少ないということは講師も少ないということになる。

講師はたいてい、自分の方法で教えるため、その街の朗読はその講師の方法でしか学べない、ということになる。
小さな街だと朗読教室がひとつしかなく、講師もひとりということが実際にある。
そうなると、その街の朗読文化はその講師ひとりが握っていることになる(いいかたは悪いが)。

もしその講師のやり方や考え方に共感できないとしても、ほかに習いに行く場所がないので、朗読を「無理につづけるか、やめるか」という選択しかないことになってしまう。
これは大変不幸なことだ。

そういう地方の方々にも、従来の朗読とはまったく違う、自由で楽しい現代朗読を知ってもらいたいと思っている。
以下、こんな方法がある、という提案。

(1) まずは現代朗読を体験してみる

理想的には一度直接東京までおいでいただいて、体験講座なりゼミ見学なり、実際に受けてみられるのがいい。
それが難しいという方は、Google+のHangoutというシステムを使って、ネットで講座に参加してもらうか、個人セッションを受けていただく。
これはビデオチャットという方法で、直接会うことには及ばないが、いながらにして現代朗読に触れることができる。

(2) 講師を呼ぶ

何人か有志をつのって、私をその街へ呼んでいただく。
交通費が出ればよろこんで行きます。
遠方で宿泊が必要な場合は、宿泊費もお願いするけれど、安いビジネスホテルで充分です。
私がそちらに行っておこなうのは、現代朗読を体験してもらうワークショップである。

(3) 活動を継続する

最初のワークショップで現代朗読について知ることができたら、あとは自分たちで継続的に集まって活動していける。
現代朗読はエチュードを練習していくことで身につけることができるので、エチュード本を参考にしながら何人かで継続的に練習し、またときには自分たちでライブを実施してみるのもいいだろう。

(4) 継続的にHangoutでゼミに参加する

全員でなくてもキーパーソンがひとり、代表してHangoutでゼミに参加することで、自分たちがやっていることをこちらにフィードバックしたり、次にやることにヒントを得たり、アドバイスをもらったりできる。

(5) たまにまた講師を呼ぶ

継続的な活動の場へ喜んでうかがいたい。
またワークショップをやったり、ライブをやったりするのもいいですね。

実はすでにこのような経緯で活動を始めてくれている人がいる。
徳島のたるとさんがそうで、彼女が中心になってエチュードをやったり、ライブ活動をつづけていこうとしてくれている。
全面的に応援している。
興味を持った方は気楽にコンタクトください。

現代朗読基礎講座第一回の音声記録を文字起こししたもの

げろきょのゼミ生のひとりが、現代朗読基礎講座の第一回の音声記録を文字起こししてくれた。
で、自己紹介とか雑談とかやりとりの部分は起こさなくていいよっていったんだけど、すでに作業を始めていて、最初のほうは全部まじめに起こしてくれていた。
せっかくなので、多少手を入れたものを少しだけ紹介したいと思う。
こんな雰囲気でやっている、ということで。

(自己紹介をかねて基礎講座に参加したきっかけや自分の背景について簡単に、というお願いからスタート。水城は「水」と表記)

A:自分が朗読する人として朗読者として、どういう個性とか特徴とかを持っているかってことを自分の中で整理して自分を観察したいと思いました。これはこの基礎講座を受けるときに心がけていこうと思うことです。

水:基礎講座では現代朗読の考え方をみなさんに「あまねく伝えたい」っていう私のニーズがあるんですよ。で、できれば基礎講座をやれる人を育てていきたいなっていう。

A:講師をってことですか?

水:現代朗読の方法が少しずつ世間に認知され始めてて、「朗読ってこんなに楽しいんだ」って思っていただけることがどんどん増えてきてます。特に東京以外に地方からやって来る人が増えてきてるんですよ。地方はやっぱり人口が少ないってこともあって、朗読教室とかあると「その方法しかない」みたいなことになります。東京はまだ色々ありますよね? 朗読といってもいろんな形式でやってる人がいるんですけど、地方はそういう事が起きにくくて。で、地方に行ったり、地方の人が来てやったりするとすごい喜んでくれるんですよ。そういう地方なんかにも講師を派遣していけたらなぁと思ってるんですけど、私一人じゃ手に負えないんで、どうですかね?(笑)

A:そうですね。ゆくゆくは(笑)。ずっと自己流だったんで、自己じゃない物を取り入れようと……ちょっと一発自分をよーく知ろうと

B:こちらの現代朗読協会に六月から入会しまして、先日あった公演にも出演させていただきました。今回……たぶん基礎って名前がついてますけど、この講座は多分普段やってるゼミとそんなに変わらないことをやっているんだろうなと気持ちでいるので、だから、普段週一回ゼミの方に行ってるんですけど、まぁ回数が増えるからより羞恥心とか抜けるかなって気持ちできました。よろしくお願いします。

水:普段のゼミとは違うよぉ(笑)

B:え? ちゃんと六回完結型なんですか?

水:もちろんですよ。ビシバシやりますよ(笑)

B:なんか滑舌の練習とかですか?

水:もちろんですよ(笑)

D:えーっとゼミってビシバシじゃないんですか?

水:ユルユルですね(笑)

G:ゼミの時間帯にもよるような気がする…

水:時間帯にもよるよね。そうね、集まる人によってね。現代朗読協会全体がそうなんですけど、特にゼミは皆さん一人一人のニーズを大事にしようってことで、その人のやりたいこととか大事にしてることを皆さんでお互いに共有しながら進めていくって形をとってて、ここでも実はそういうふうにやっていきたいと思ってます。でも、一応基礎講座なんで、なんとなくあるのよ、これとこれはやりたいというのが。滑舌も含めてね。

B:滑舌苦手(笑)

水:滑舌苦手なんだ? でも楽しいよ。滑舌の練習。自分の体を知るという練習ですからね。

C:はい。○○と申します。唯一男性になりました。前回もそうだったんですね

水:前回もそうでしたっけ? 前回のライブ?

C:ライブワークショップの6回シリーズでしたっけ(あの時は冬だったと思います)に参加をしまして、で、朗読ってホントに面白いものだなっていうふうにそこで目覚めたというか、次も参加したいと思っていて、確か5月にあの、またライブワークショップのなんかあったんですけど、それが確か土曜日でほとんど仕事が入っていたので、申込みますよと言いながら申し込めなかったということがあって、次の機会がないかな、と思っていたらちょうどこの講座があるのでぜひ参加しようという形で申し込んだっていうことです。えーとあとは自己紹介的には、前回のワークショップでも申しましたけど、福岡の出身で東京に住んで七年目、単身赴任でこちらに来てまして
ちなみに、今日家族がこちらに遊びに来るんですけど(笑)

水:あーそうですかー

C:息子だけ置いて娘と嫁さんとふたりで花火大会に

水:え? どこ?

C:東京の花火大会で、晴海の。

水:すごい人じゃない?

C:ただなんか今日雨みたいですね。中止になったらヤバイって。今勝どきに住んでますので……

D:近い!

C:すごい反応ですね(笑)

D:目の前で見られるじゃないかって! わざわざ見に行かなくても。

C:そうですね。まぁマンションからは見えないですけど、ちょっと歩けば見れる。今日は楽しいことがふたつあって、これと、家族が来るというので、まぁ仕事でストレスが溜まる日々を送ってますので(笑)。この場は非常に癒される場というか、安心できる場というところがあってホントはゼミ生になりたいなって思うんですけど、なかなかそのゼミに参加できる時間が取れないなってところもあってですね。できる限り接点をもちたいなってところがあってやってます。あの時冬だったんでここ締め切ってたんですけど、こういう感じもすごくいいですね。網戸があって、自然の風が入ってきて。オヤジの田舎の家がこんな感じだったんでなんか少し懐かしいなっていうこの空間を味わうために来てるという感じです。よろしくお願いします。

水:ライブワークショップのライブ発表は、Cさんたちがやったときはここでやったんですけど、こないだは明大前のホール借りてやったんですよね。ちょっと大掛かりに。ゼミ生も一緒に出てすごい賑やかなライブでしたよ。

E:わたしは今年の三月にこちらの朗読体験教室で初めて参加させていただきまして、ボイスセラピストというそちらの方の講座も取らせていただきました。その時に音読、文を読んだりするのもやるので、本を読むのも触れていきたいなというのもあって、その機会にゼミ生にもなったのでいろいろとこちらの方に参加させていただきたいと思いまして本日来ました。あとはちょっと最近思ったんですけど、心が硬いというか、感動することがなくなってきたなってちょっと毎日の生活で思うようになって、もうちょっと心を柔らかくというか、なんか十代の時もっと色んなことを感じてたかなって思って、そういう心もちょっと……感情豊かにしたいなと思っています。
よろしくお願いします。

水:感情豊かになりたい。なかなか難しいテーマですね。

E:はい。なんかあんまり感動のアレがないなって、テレビとか見ててもこんなに人が感動してる時にそんなに感動することってあるかなって、ちょっと思っちゃって。

水:感動するってのはどういうことでしょうね? 人はどういうときに感動するんでしょうね?

E:そうですね……なんかホントにホントに嬉しいなんかこう何も考えずに嬉しいと思ったりとか、悲しいとか何も思わずにその感情が沸き起こるっていうか……そういう時なのかなぁ?

水:人がなにか感情が出てくる、嬉しい、感動する、楽しい、あるいは、悲しい、辛い、苦しい、どんな感情でも必ずその人がなにを大事にしているかってことのその部分から来るんですね。ニーズって言いますけど。まぁおいおいやっていきましょう。これ結構大事なことなんで。その自分の感情とニーズってもの、自分の中にあるそれを丁寧に扱っていくことで非常に感受性が豊かになってくる。英語で言うとempathyっていうんですけど、自分を大事にすること、自分に共感をしていくってことが大人になるとだんだん無視するようになってくるんですね。自分の感情を無視するっていう習慣ができてくるんですね。そうすると自分のニーズ、自分を大事にしない。すごい疲れてる、すごい今やる気がないのに無理やり仕事行かなきゃって無理やり行ったり、会いたくない人にあったりやりたくないことを無理やりやっていったり、ホントはこれやりたいって思ってるのに、今はやめとこうこれ片付けなきゃって思ったり。効率とか経済性とかそういうものを重視するように教育されていくわけですよね。社会の中で。自分の感情とか自分のニーズってものをどんどん蔑ろにするように習慣付けられていくと、大人になればなるほど感動とかそういうものは薄れていく。でも、それはもともと持ってるものなんでもう一回取り戻すことは別に難しくない。現代朗読では朗読するとき、常に自分の「今ここにいる感覚」ってことを大事にしてくんで、それはまさに自分のニーズを大事にしてくってことなんです。マインドフルになっていく。マインドフルって言葉何度も出てくると思いますけど、マインドフルになっていけば行くほどいろんなことに気づいたり、感動したりするようになりますから。子供の時はもうマインドフルですよ! 今ここっていう瞬間。だから何しても面白い。何しても……逆にいえば悲しいこともあるし。色んな感情が流れているんですね。我々だってホントはそうなんですよ。自分の心の中でいろんなことが起こってます。今この瞬間も嵐のようにいろんな感情が渦巻いてる。ただ、見ないふりをする習慣を身につけてしまっている。まぁおいおいやりましょう。

F:6月の体験で来て、すごい面白いなと思って、今回基礎講座始めさせていただこうと思いました。わたしは今普通にお勤めをしながら自主映画を作ってます。子供の頃から絵を書いたり漫画書いたりとかそういうのはすごい好きだったんですけど、映像の方とかはあんまりむしろやってなくて全然だったんですけどちょっときっかけがあって、普通に就職しちゃってからはそれこそ仕事はすごい忙しくって、何も感じなくなる日々の究極までちょっと行っちゃって、たぶんなんか一回ちょっと壊れちゃったりとか、そういうところまでいって、もうなんかいいやって気に逆になって。それで前の仕事もやめて、なんかそこをきっかけにして自分がさっき今まさにみずきさんがおっしゃったんですけど、私それからホントに自分のやりたいことしかできなくなっちゃって。それでお仕事も変わって、ほんとに自分のやってみたいことってなんだろう、と思ったときに「映像やってみたい」と思って、映像の学校に仕事しながら行ってたんですね。そこは卒業したんですけども、自分で脚本を書いたり監督をしたり、監督がメインなんですけど、仲間と一緒に学校の時のOB会みたいなのがあるんですけど、そこの仲間と一緒に自主映画を撮ってます。

(以下、略)

羽田、小松、イカそうめん

今日は早朝から北陸の実家へ移動。
下北沢、渋谷、品川、羽田空港と電車を乗り継ぎ、小松空港までフライト。
飛行機の窓からは東京の街なみや富士山、御岳山、白山などがくっきりと見えて、景色を堪能した。

実家に帰る途中、魚屋に寄って、日本海で採れたてのスルメイカ一杯98円也を買ってきて、イカそうめんにおろして食べる。
甘くておいしい。
イカの耳と足とワタを取り分けておいたので、これは夕方にでもワタ煮にして、ビールといっしょにグビッといくか。

帰省中はまとまって時間が取れるので、書き物仕事や勉強にいいのだが、こちらは食べ物がおいしいのでちょっとした夏休み気分でもある。
明日は母親の肺ガンの術後検査の結果を聞きに県立病院まで行かなければならないのだが。

こちらも気温33度から34度くらいあって暑いが、おなじ気温の東京とは全然ちがう。
悲しいことに実家のある福井には住みたいとは思わないが、東京だって住むにはかなりつらいわな。

音読日めくり8月20日:坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌」です。

メキシコの古い雨請い人形の置物です。
よく見ると不気味なんだけど、なんとなく日本の土偶にも通じる雰囲気があります。

2012年8月19日日曜日

励まされたことふたつ:音読日めくりについてのうれしい反響

ご存知のとおり、今年の2月13日にスタートした「音読日めくり」というサイトを毎日更新しつづけ、これまで一日も欠かしたことがなかった。
これは想像できないかもしれないが、実際にやってみるとかなり厳しい作業である。
これまで何度も、いや、ほとんど毎日のように、中断したくなった。
それでもまだ続けられているのは、少ないながらも毎日のように読んでくれている方がいて、その中にはそれをわざわざ音声化してブログに毎日流してくれている方までいらっしゃるからだ。

そんな方のひとりから、こんなメッセージをいただいた。
この方は私よりずっと年配で、しかも身体が不自由で車椅子の生活を送っておられる。
プライバシーに配慮して、原文をすこし変えさせていただいた。

------------
昨日老人ホームのショートステイから帰り、お風呂へ入れてもらって夫と久しぶりにゆっくり昼食。ショートステイに行く前に頼まれていた音訳仕事を期限までに完成したので緊張感がなくなったせいか月をみると早く天国にいきたいと思う。しかし友人に急げば地獄しか空いていないと威かされている。
痛みの強い時や身体の思うように動かせないときは「天国へ行きたい」が口癖になり子供たちに叱られている。でも音読日めくりがあるので大丈夫。毎日のテキストの全編、青空文庫よりコピーしてあるのを音訳してHPに掲載をすること目標にすれば、口癖治るかな)^o^(
------------

私はこれを目にして、涙が出た。
私のような者が毎日、ただだらだらと続けることだけを目標にいいかげんに書いているものが、だれかの生きるよすがになっている。
ただこのことだけでも、私がやっていることの意味をいただいたような気がして、感謝にたえないと同時に、つづけていくことの励みになる。


もうひとつ。
私とは比べものにならないほど真剣に毎日絵に取り組んでおられるある方が、現在下北沢〈Com.Cafe 音倉〉で開催している私のスケッチ展に来ていただいたらしい。
先ほどメールをいただいた。
それにはこんなことが書かれていた。

------------
水城さん、こんばんは。毎日、暑いですね。
今日の午後、音倉の「日めくりスケッチ展」観に行って来ました。
音倉は初めてでしたが、天窓から入る光とか、とても清々しい場所で、とても気に入りました。
水城さん! スケッチ、すごく良かったです。色も、線も、一期一会の感動に溢れていて…。エッジの効いた線、透明感のある揺れるような色彩! 何点か一緒の額装も、ライブ感があって気に入りました。
画題も、「SB山椒」みたいな、トホホ感のあるものから、いろんな葉っぱ、様々な花とか、自由で とても良かったです。
どんなふうに描いているのか、お話したいことも沢山ありました。

音読日めくり6月、購入しました。こちらも、とても いいですね! 6月を買った理由は、憧れの人でもある、長谷川時雨の文章が載っていたからです。面白い文章ですね〜!

久し振りの下北沢、天気も良く、ぶらぶらして楽しみました。帰りにブックカフェ槐多に寄って、今、帰るところです。
楽しみました。ありがとうございます。水城さん、また お会いしましょう。
------------

もちろんです、またお会いしましょう。
そして、絵のお話をたくさんしたいです。

うれしいことふたつ:サポートされることの喜び

人はだれもが、だれかをサポートすることと、だれかからサポートされることの望みと喜びを持っている。
それを満たされない、あるいは一方しか満たされないとき、だれかとのつながりを感じることができずに孤独になる。
これは損得勘定ではないし、どちらかが多い/少ないという問題でもない。

人は生まれていらい、親やまわりの人にサポートされて成長する。
やがて大人になると、だれかをサポートできるようになり、まただれかをサポートしたくなる。
その気持ちが欠乏している人がもしいたとしたら、成長過程に問題があったといわざるをえないだろう。
実際にそういう人はいる。


私はどちらかというと、人をサポートするチャンスが多い立場であり、またそのことを喜びとしている者だが、もちろんサポートされることも大変うれしい。

現代朗読協会では多くのゼミや講座を担当している。
毎回、たくさんのことを話したり、お互いに聴き合ったりする。
体験講座や基礎講座では、現代朗読とはなにか、ということについて、毎回アプローチを変えて繰り返し話す。
そこには私が蓄積してきた膨大な情報がこめられているのだが、これを書き残しておきたいとずっと思いつづけてきた。
実際、いくつかのことはこのブログやあちこちに書いたりもしてきた。
講座をやるたびに、これもあれも書き残しておきたい、ということが口から出てくるのだが、なかなかその時間が取れない。
やむなく、せめて講座の音声記録くらいは残しておこうと、毎回レコーダーをまわしている。

この音声記録を文字起こしして、構成/校正すれば、そのまま現代朗読についてそのエッセンスを言語化したテキストになるのではないかと思うのだが、その時間を作るのはむずかしい。
そこで、ゼミ生におずおずとだれか手伝ってくれないかとたずねたところ、2名のゼミ生が名乗りをあげてくれた。
まあそのうれしかったこと。
自分がこんなにうれしがるとは、我ながらびっくりした。


もうひとつ。
音読療法協会の銀座教室を担当してくれている菜穂子さんが、ボイスセラピストとして自分の家族に対しておこなった音読ケアの丁寧なレポートをブログにアップしてくれた。
私は音読療法の真性さをとても大事にしていて、それをひとりでも多くの人に知ってもらいたいと思っているので、こういうサポートはとてもうれしいし、菜穂子さんもまた音読療法の真性さを大事にしてくれていることを感じられてありがたいのだ。
ボイスセラピストたちがもっと活躍して、たくさんのレポートが毎日のように読める日が来ることが私の望みだ。
つまりそれは、ストレスマネジメントを身につけ、毎日をマインドフルにイキイキと生きる人が増えてくれる、ということだから。

次回の2級ボイスセラピスト講座は、1週間後、羽根木の家でおこなわれます。
詳細はこちら

土曜げろきょデー/日曜「ソーラーエネルギー」シンポジウム

昨日は朝から基礎講座、昼ゼミ、夜ゼミと、土曜日恒例のげろきょデーだった。
基礎講座は今期2回めだったのだが、先週の体験講座で現代朗読に興味を持ってくれた人が途中からでも参加したいということで、2人加わった。
ともに男性。
1人はゼミ生にもなった。

雷雨のなか、ひさしぶりに涼しい羽根木の家で講座を終えた。
昼食をはさんで、昼ゼミ。
エチュードをやったり、じっくり読んだり、聴いたり。
共感的な聴き方のエチュードとして、「色あてのエチュード」というのをやっているのだが、これがなかなかおもしろい。
人の身体性と感受性の不思議をまざまざと見ることができる。


夜はテキスト表現ゼミ。
月海ちゃんが明日誕生日だということで、卯妙さんがキッシュを作ってくれて、みんなでお祝いしながらいただく。
作品提出が少なく、時間の余裕があったので、ここでもエチュードをやってみた。
読者を想定するエチュードだが、思ったようにうまくいかなかった。
ま、そういうこともある。


今日は昼に北沢タウンホールに行き、トランジション世田谷・茶沢会も主催の1団体に加わっている「世田谷発・市民が広げるソーラーエネルギー」というシンポジウムを手伝う。
ゲストに保坂区長や、ドイツのソーラーエネルギーの普及活動が広まっている街・エアランゲンから来られた物理学者のマーティン・フントハウゼンさんらを招いて開催された。

会場にははいりきれないほどの聴衆が詰めかけて、熱気むんむん。
ちょっと会場が狭かったかも。
それにしても、自然エネルギーに対するみなさんの関心の高さがうかがえて、興味深かった。
そうそう、私はビデオをまわしたり写真を撮ったりして、映像記録のお手伝いをしたのだった。


明日は北陸帰省。
東京は暑い日々がつづくらしいが、北陸もきっと暑いだろう。
もっとも、東京ほどでないことはわかっているので、ちょっとした避暑的な帰省かな。
仕事がたくさんはかどりそう。

音読日めくり8月19日:堺利彦「婦人の天職」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、堺利彦「婦人の天職」です。

台所にあった、ひねて芽が少し出てしまったショウガを描いてみました。
芽が出たけれど、まだ料理に使えるはずです。

2012年8月18日土曜日

ネット(FacebookだのTwitterだの)に呑まれないために

ケータイ電話やインターネットが普及しはじめてからそうだけれど、とくに最近のFacebookだのTwitterだのmixiだのソーシャルメディアが爆発的に普及するにともなって、四六時中ネットのことばかり気になってケータイやスマートフォンが手放せない、という人が増えている。
その一方で、反動なのだが、ネットとのつながりをすっぱりと切ってしまってストレスがなくなった、と苦しく喜んでいる人もいたりする。
どちらにしても、あまりにネットに振り回されすぎている。


私もネットはかなり使うほうで、パソコンは常時ネットに接続しているし、iPhoneもいつも手元に置いている。
私がネットを利用するようになったのはかなり古く、1985年のニフティサーブのサービススタートの直前、いわゆるパソコン通信と呼ばれていた時代で、インターネットはまだ存在しなかった(もう30年近く前だ)。

パソコン通信にはかなりはまり、いまの人が「ネットにはまっている」という状態とかなり近い感じで、病的にのめりこんでしまっていた時期もあった。
多くの犠牲を払ったわけだが、得るものも少なくなかった。


現在はネットとの距離のコントロールはうまくできていると思う。
私がつかんだコツは、こうだ。

自分がネットで書く文章は、どんなつまらないささいなつぶやきであっても、全世界の人が読むのだ、という意識をもって流す。
それにたいするレスポンスに一喜一憂しない。
とくに知人からのレスポンスに過剰に反応しない。

反応があったときは、その内容よりも、その反応がどのようなニーズにもとずいて発せられたものなのかを推測する。

人の書きこみを読むときも同様。
情報を得るためのサイトはともかく、知人のTwitterやFacebookの書きこみを読むときも、そのメッセージがどのようなニーズにもとずいて書かれたのかを推測する。

もしレスポンスをするなら、内容にダイレクトに反応することなく、ニーズを推察しながら書きこむ。
常に相手のニーズを推察する習慣を身につけることで、ネット情報に対する客観性を身につけることができる。
客観性というのは、目の前の事象が世界のなかでどのような位置づけにあり、重大なことなのか、ささいなことなのか、自分自身の判断基準を冷静に持てる、ということにつながっている。

音読日めくり8月18日:齋藤茂吉「支流」

「音読日めくり」を更新しました。
今日の音読日めくりは、齋藤茂吉「支流」です。

友人が「いっしょに食べましょう」といって持ってきたブルーベリータルトを描いてみました。
ご飯もそうですが、こういう「かたまり」的なものは描くのは難しいのです。

映画「ドラゴン・タトゥーの女」

スウェーデンの作家、スティーグ・ラーソンの原作を映画化したもので、原作小説が英語に翻訳され、世界的ベストセラーになった。
その時点で読む気はまったく失せていたのだが、ネットに出ている映画評のいくつかが気になって、観てみようと思った。

一番気になった映画評の言葉は「世界観がすばらしい」というものだった。
映画のストーリーにはあまり関心がない。
しかし、「世界観」ということになると話がちがう。
つまりそれは映画の「感触」の話であり、商品よりもより表現に近い話になる。

監督はデヴィッド・フィンチャー。
「エイリアン3」「ファイト・クラブ」「パニック・ルーム」などを観ている。
このなかでは「ファイト・クラブ」がもっとも印象に残っている。

主役はダニエル・クレイグ。
タトゥーの女役はルーニー・マーラ。
この映画でアカデミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされた。

最初はふたつの一見関係のないエピソードが交互に語られ、しかしこれはどこかで交差するんだろうという予感を思わせる作りになっていて、実際にそのとおりなんだけど、緊迫感があって引きつけられる。
そしてやはりふたつのエピソードというか人物はひとつになり、一気に謎解きへと進んでいく。

本当はこのあたりからの後半が山場であるはずが、なぜかおもしろくなくなる。
結局はコンピューターを駆使したハッカーが問題解決をしちゃう話じゃないか、とか、エンディングはいくらなんでも都合がよすぎるんじゃないか、その割にはそのことを気にした脚本がアンハッピーエンドに無理やり持っていった感じがして、後味はよろしくない。

「世界観がすばらしい」という感想はどこから出てくるんだろう。
私にはよくわからなかった。
ただ、やたらと濡れ場が出てきたり、ハードなSMチックなシーンや残虐シーンはてんこ盛りで、そういうのが好みの人にはうれしいかもしれない。


2012年8月17日金曜日

現時点でのタスクを「やりたいこと」として全部書きだす

手帳を重たいフランクリン・プランナーにもどして約2か月がたった。
知らない人のために解説しておくと、フランクリン・プランナーというのはようするにシステム手帳なのだが、有名なファイロファックスやノックスブレインなど一般的なものとはサイズが微妙にちがう。
たとえば私が使っているコンパクトサイズは、バイブルサイズに近いが、ページの幅が微妙に広い。
この広さが意外に使いやすかったりする。

それだけではなくて、フランクリン・プランナーは独自のライフハックの考え方を提供していて、本も出ているし、セミナーもたくさん開催している。
私はそんなものには出たことはないが、本は読んだことがある。
もっとも、私は本のとおりに使っているのではなく、自分が長年使いこんできたオリジナルな使い方をしていて、いまのところうまくいっている。

フランクリンにはコンパクトサイズのほかに、ポケットとクラシックというサイズがある。
私にはポケットは小さすぎるし、クラシックは大きすぎる。
私のまわりであまり使っている人を見たことがないのだが、最近、音読療法の銀座教室のオペレーションをやってくれている菜穂子さんが使っているのを見て、親近感がわくと同時に、自分もなんとなく励まされてせっせと使っている。


いま私が取りくんでいる「自分プロジェクト」をひとつ紹介したい。
システム手帳を使っている人は、やらなければいけないことが入ってきたり思いついたりすると「TODO」欄にどんどん書きこんでいくだろう。
それは処理されないままだとどんどんたまっていって、膨大なリストになってしまう。
そうならないようにせっせと片付けてチェックをいれたり、消したりするのだが、TODOリストが長くなってくるとなんとなくプレッシャーを覚えはじめる。
それを見るだけで気が重くなって、かえって仕事が進まなくなったりする。

私にもそんな経験があるので、TODOリストの扱い方に工夫をするようになった。
まず、やらなければならないこと、やりたいことをすべてTODOリストに書きだしてしまう。
小さなことも大きなことも、すべて、思いつくかぎり、リストに上から順に書きくわえていく。
順番はどうでもいい。
重要度もこの時点ではかんがえない。
ただ順番にリストを書きくわえていくだけだ。

これだけだとこのリストはただ「ながめるだけで気が重くなるリスト」にすぎない。
ここからがひと工夫。
人がなにかをしたい/しなければならないと思うとき、そこには必ず満たしたいニーズがある。
たとえば、
「いらない戸棚を粗大ゴミとして出す」
という項目があったとする。

粗大ゴミのシールをもらってきて、指定日に所定の場所に出すわけだが、かなり面倒な作業だ。
しかし、この作業は自分のなんのニーズを満たすのだろうか。
生活の快適さのニーズ?
生活空間の確保のニーズ?
秩序のニーズ?

自分のニーズを見つけたら、それをリストの項目の横に書きくわえる。
そうやって片っ端からニーズを書きくわえていき、ニーズ付きのTODOリストを完成させる。

完成したら面倒でも、それを一個ずつ別のベージまたはリストに転記する。
上の例だと、
「快適さと秩序のニーズのためにいらない戸棚を粗大ゴミとして出す」
というふうに。
するとこのリストは「やらなければならないことリスト」から「やりたいことリスト」へと変わる。

このリストをながめると、さて今日は自分のどんなニーズを満たせるかな、と積極的な気持ちになれて、TODOリストを片付けるのが楽しくなる。
実に簡単で、まるで子どもだましのようだが、嘘だと思うなら一度試してみるといい。