なにかを表現したいのに、なにをしていいのかわからない、もやもやとわだかまっているばかりでなかなか具体的な行動に踏み出せない、という人はたくさんいます。
こういう人がおちいりやすい考えとして、
「締切りがないから書けない」
「日程が決まってないから練習できない」
というものがあります。
こういう人は往々にして、表現者はもともとなにか表現したいことがあって、それを時間的制約や枠組みのなかで組み立てていくことで表現行為が完結する、と考えているようなところがあります。
実際にはどうなんでしょう。表現をしている人はなにか表現したいことがあるから表現しているのでしょうか。ひょっとして彼らは自分のなかになにも表現したいものが見つからなくても、とにかく表現行為を実行しているだけかもしれません。それはたぶん、やむにやまれぬ衝動に突き動かされているんでしょう。そして表現してから初めて、「自分はこういうことを表現したかったのか」と後から発見するのです。
こんなことをいえるのも、私がそうだからです。
人間の表現のステージには二段階ある、と私はいつもいっています。ファーストステージとセカンドステージです。
ファーストステージは自分自身のなかにもともとある衝動によっておこなわれる表現の段階のこと。
幼い子どもがだれかにいわれなくても自然に歌ったり絵を描いたりするように、人には根源的な表現衝動があります。大人にだってあります。表現のタネのようなものです。それを私は「純粋表現」と呼んでいます。これは人が人としてあるためにすべての人が持っているものです。人は社会的動物であり、他者とよりよい質でつながりたいという欲求が持っていることに由来します。そのために人は自分を熱心に表現し、また他者の表現を熱心に受け取るのです。
しかし、この「純粋さ」はいつまでも放っておかれません。
幼い子どもが絵を描く。するとそれを見た大人が、
「あら、この絵、上手ね」
といいます。すると子どもは、自分が絵を描いたり歌をうたったりすることで大人が喜んでくれるのだ、ということを発見するわけです。そしてそこから自分の外側に向けての表現の発信、すなわちセカンドステージが始まります。
セカンドステージでの表現欲求は、いわば学習された欲求です。人からほめられたとか、評価されたとか、報酬をもらったとか、だれかとつながりを持てた、など、後天的に学んだ「表現したい」という気持ちです。
小説を書く場合でいえば、最初はまずひとりで妄想をめぐらせて、ときにはおもしろいことを思いついてひとりでクスクス笑ったり、エッチな場面を想像してニヤニヤしたりするわけです。これはだれもが経験のあることでしょう。また子どものときにおもちゃを使って勝手なストーリーを作って遊んだりした記憶はだれにでもあることだと思います。
人というのはストーリーを作って遊ぶ動物なのです。世界を言葉で理解すると同時に、社会構造や自分の行動規範をストーリーを使って理解するからです。ストーリーを作って遊ぶというのは、人の成長過程に必要なことです。それは大人になっても変わりません。
この段階では、ストーリーはまだファーストステージの上にあります。これを文字に書きおこして人に読んでもらおうという段階に進むとき、それはセカンドステージに進むことになります。
このセカンドステージでは、妄想を作品化するための技術が必要になります。また締切りがないと書けないといった自分に課した外的制約も、戦略として用いられます。朝起きてすぐに書いたほうがいいとか、いや自分は夜に書いたほうが興が乗る、といったことも戦略のひとつです。
冒頭ではできるだけ説明をはぶき、いきなりストーリーが動いているところから書きはじめよ、などというテクニックも、セカンドステージの戦略です。
しかし、もっとも大切なのはファーストステージの純粋表現から生まれてくるイメージです。それをそのまま外に向けたいのです。
もちろん人に読ませるわけですから、ある程度の技術と戦略は用いますが、その用い方をまちがえるとつまらないことになります。
たとえば、読者におもねるあまり余計な説明をだらだらと書いてしまったり、あるいは「こう書けばウケるかな」などと計算してしまったり、売らんがための媚びるような内容になってしまったり、といったことです。これらはすべて「外部評価」を気にするあまりやってしまうことです。
人が外部評価を気にするのは、自分をよく見せたいからです。うまいと思われたい、おもしろい人だと思われたい。その気持ちは、人から好かれたい、愛してほしいという欲求に由来します。それが高じすぎると「見て見て」だの「かまってかまって」だの、うっとおしいことになります。人の気を引くために過激な行動に出る人もいます。動物を殺したり、女子高生に切りかかったり。
セカンドステージにおいても外部評価を手放す。ただ作品をそこに提示する。人の評価を気にしない。結果としてさまざまなことをいわれるだろうけれど、それによって一喜一憂するのではなく、自分の表現を通していろいろな形で人とつながることができたことをただ味わえばいいのです。それが本来の目的だったのですから。
蛇足ですが、たとえ相手からけなされたとしても、相手が激怒したとしても、それはあなたとつながったことの表明の形のひとつですよ。それをも喜びをもって受け取れるはずです。