2019年11月30日土曜日

ラストステージ/事象の地平線@渋谷が無事に終了

書きたいことがたくさんありすぎてまったく整理ができていないんだけど、とりあえずは終了報告。
これで東京での私のライブステージの予定は終了。
あとは同タイトルだけどダンスではなく朗読者ふたりとやる名古屋公演(12月12日)を残すのみ。

そうそう、もうひとつ、12月15日に知立市で開催される知立演劇フェスティバルに出演する小林佐椰伽ちゃんのサポートで、ピアノ演奏をすることになっている。
これがライブステージの年内最後。

今回の渋谷公演については、名古屋から映画作家の伊藤くんとその友人のヨシキくんが撮影に来てくれたし、私も記録映像を撮った。
たくさんの方が来てくれて、口頭でも紙でも、オンラインのメッセージでも、感想をいっぱいいただいている。
紙の感想は終演後、みなさんが黙々と書いてくれたもので、文字もあれば絵もある。
これらはおいおい整理して、また紹介していきたい。

この公演のために書きおろしたテキスト作品もあるし、事前に、あるいは公演中に、そして公演後に、いろいろとかんがえたこともあって、それも書きのこしておきたいと思っている。

出演者である矢澤実穂さんと野々宮卯妙はもちろんのこと、この公演を手伝ってくれたみなさん、お客さんとして寒いなか足を運んでくれたみなさん、来れなかったけれど応援してくれたみなさん、すべてのかたに感謝している。
たくさんのことが満たされた幸せな身体感のなかで、いまこれを書いている。

2019年11月29日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(15))

放射線の照射治療が終わって1か月後の検査(造影剤CTおよび内視鏡)の結果を聞くためと、定期的な診察のために、消化器外科と診療放射線科のそれぞれの担当医と会ってきた。

まずは検査結果。
食道内に突出・露出していたガン組織は、放射線照射の効果が出て、ほとんど消滅している。
組織検査もおこなったが、悪性組織は見られなかった。
放射線で撲滅に成功したようだ。
これがよいニュース。

放射線が届きにくい胃の下部、小腸から骨盤に近い腎臓のあるあたりにかけての大動脈にそって、もともとあった小さなリンパ節への転移が、大きさ、数ともに増大している。
これは転移がさらに広がっている可能性をしめすもので、肺や肝臓など他の臓器への転移がいつ起こっても不思議ではない。

標準治療としては、まずは抗ガン剤治療がかんがえられるが、それとて根治は難しく、延命措置にはちがいない。
抗ガン剤がどうしてもいやな場合は、下部のリンパ節のみを狙った放射線照射治療をふたたびおこなうことも可能だが、前回同様の25回以上の連続治療が必要で、それなりの副作用もあるし、またほかの場所の転移が見つかればイタチごっこのような治療になることもありうる。

さてどうしますか、しばらくかんがえますか、ということで、2週間ほどの猶予をいただいてきた。
といっても、私の方針は決まっている。
いま現在の体調と活力を維持し、できればそれを増大できるような方法をとりながらの日常生活を送り、延命のためだけの治療はおこなわない。
そのときが来たときには、なるべく人に迷惑をかけず、だれかの手をわずらわせない方法で、静かに去る。
それまでにやれること、やりたいことは、まだまだたくさんあるし、限られているとはいえ時間がまったくないわけではないことがありがたい。

今夜はこのために帰国スケジュールを作ってくれたオーストラリア在住の矢澤実穂さんと、いつも私を支え助けてくれている野々宮卯妙との3人で、渋谷でライブ公演をおこなう。
これが実現にいたったというのはじつにありがたいことだ。
また思いがけず多くの方においでいただけるようで、心から感謝している。
いまの私のすべてを表現できればと、わくわくした気持ちでいっぱいだ。

■売れっ子ピアノ教師になる

福井の実家に戻った——文字どおり都落ち?——私は、しばらくぶらぶらしていたが、やがてなにか仕事をしなきゃ、と思った。
両親の家は私が小学一年のときに建てたもので、なかなかしっかりした一戸建てだった(いまでもしっかりしている)。
母屋の奥に日本家屋の離れを増築していて、かなり広い家だった。

隣家は角地になっていて、もともとはちいさな電気屋、のちに化粧品や手芸用品を扱う店になったのだが、私が帰省したころにはその店は街なかのショッピングセンター内に移転して、空き家になっていた。
両親は私が帰省したのをきっかけに、その角地の土地と家を購入した。

両親の家にくらべるとかなり安普請の、しかも店舗として増築したり、つぎはぎに手をいれたりしていて、はっきりいってボロ家だったが、まあ住めないことはなかった。
もともとその家にも一家四人が暮らし、店舗も経営していたのだ、安普請とはいえちゃんと住める家だった。

私はその家に住むことにして、1階部分を広く改装した。
そこに妹と私が使っていたアップライトのピアノを運びこみ、ピアノ教室をやることにした。

最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったが、子どもだけでなく、大人も教えますよ、クラシックではなくポピュラーやジャズピアノも教えますよ、といいふらしていたら、成人の生徒が増えてきた。

成人の生徒といえば、福井市内の楽器屋でも大人のためのピアノレッスンをやることになり、楽器屋が宣伝してくれたこともあって、生徒が一気に増えた。
ふつうのサラリーマンやOL、学生、高校生、主婦、あるいはリタイアした年配の人など、さまざまな人たちが、さまざまなジャンルの音楽を学びにやってきた。
これはなかなか楽しかった。

またちいさな街だったが私以外にも教室をやっているピアノ教師が何人かいて、全員女性だったが、教師たちのグループを作っていた。
グループを作っていると、合同の発表会をやったり、生徒の都合で教室を行き来させたり、なにかとつごうがよかったのだ。
私もそのグループにはいらないかと誘われた。
よろこんで参加させてもらったのだが、結婚、出産、育児など、さまざまな理由で教えられなくなった生徒を私の教室に回してもらったりして、こちらでもまた生徒が急に増えた。

車で1時間以上かかる山間部の村で、週に一回、ピアノレッスンに通っている先生がいたのだが、その仕事も女性にはきついということで、私が引き受けることになった。
ちいさな村だったが、その分父兄は教育熱心で、1日で20人くらい、つぎつぎと個人レッスンをこなす仕事だった。

そんなわけで、私のピアノの生徒はあっという間に30人とか40人というボリュームになり、急に忙しくなっていった。

2019年11月28日木曜日

親密な者からの命令やアドバイスの強要に対処する

とくにステージⅣのガンであることがわかったときから(またそれを開示したときから)、さまざまな人からさまざまな情報やアドバイスが寄せられた。
またそれは現在進行形でもある(いまもたくさん個人メッセージをいただく)。

ガンでなくても、普通に生活していれば、人は家族や友人からさまざまなアドバイスをもらったり、ときには命令されたり、なにかを強要されることはある。

私の場合、
「すぐに○○という医者に行け」
「○○という治療法を受けろ」
「これを食べろ、あれは食べるな」
など、いろいろな指示を個別に受けた。
オープンなメッセージやコメントでいってくる者もいるが、たいていはメールやダイレクトメッセージなど、個人的に直接いってくる場合がほとんどだ。

そんなとき、こちらの気持ちはとても揺れる。
不安をあおられるような気になることもある。
そのことで相手に怒りを覚えることもある。
「ほうっといてくれ」
というわけだ。

私は自分の自主性を大事にしている。
自分自身の選択を大事にしている。
自由や平和を望んでいる。
情報や手助けが必要なときは、こちらからそうお願いするよ。
それを土足で踏みにじられるような気がして、気持ちが激しく揺れ動くのだ。

命令という強い語形でなくても、こちらの気持ちをおもんぱかった、気遣いに満ちたやんわりとしたメッセージが送られてくることもある。
しかしそこには結局、
「こうしたほうがいいよ」
という、強要の感じがひそんでいることが多い。

しかしそういう人たちにもなんらかのニーズがある。
まずは私のことを心配してくれている。
なんとか役に立ちたいと思ってくれている。

関係が私と近ければ近いほど、親しければ親しいほど、私に向けられるメッセージは強いものになりがちだ。
たとえば家族、たとえば親友、たとえば同僚、たとえば同級生。
そこに上下関係がふくまれていたりすると、さらに強要感はつよくなりがちだ。
家族でも親や曾祖父など年上・目上の人。
職場だったら上司や雇用主、客先など。

こちらの役に立ちたいと思う気持ちが、さらに走って、たんなる自己表現や自分の意見の押しつけになってしまう人もいる。

そんなとき、こちらはどうすればいいだろう。

まずは自分と相手を切りはなすこと。
自分には自分の大切にしていることがあり、また相手にも相手の大切にしていることがある、ということを再確認し、自分自身にまず立ちもどる。
自分が大切にしていることをあらためて把握しなおす。
上に書いたような自主性、選択、自由、平和といったようなニーズ(価値観)だ。

相手もなにかを大切にしている。
なにを大切にしているのだろうか。
こちらに命令したり、強い調子でアドバイスしたり、気遣いたっぷりに有用だと思っている情報をお腹いっぱいになるくらいたくさんくれたりする、そのニーズはなんだろうか。
それを想像してみる。
相手にも相手のニーズがあるのだ。

ありがたいことではないか。
こんなにも心配してくれる人がいる。
こんなにも私の役に立ちたいと思っている人たちがいる。
それに感謝しつつ、自分は自分の揺るぎない立ち位置を確認し、落ち着く必要がある。

必要ならば助けを求めることもできるし、情報を受け取ることもできる。
しかしそれは、こちらが落ち着きを取りもどし、ゆとりをもって自分の選択ができるようになってからだ。
まずは、
「心配してくれてありがとう」
と伝えよう。
そして自分の揺るぎない選択肢を確認しよう。
選択に迷うときは信頼できる相手にそれを伝え、自分自身の選択にたどりつくための手助けをお願いすればいい。

結局のところ、私もあなたも自分の人生を生きているのだ。
いまこの瞬間という自分の時間を、自分で選びとって生きているのだ。

2019年11月27日水曜日

ピアノ七十二候:小雪/朔風払葉(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小雪の次候(59候)「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月26日火曜日

音読トレーナー資格取得のための絶好のチャンス

ここ何年か、毎月、練馬区のある高齢者介護施設に、音読ケアワークにボランティアで通っている。
今回は私が所用で参加できなかったのだが、音読療法士と音読トレーナーがふたり行ってくれたので、安心して自分の用事をすませることができた。

音読療法協会は2011年に組織化され、以来、活動をつづけてきた。
私もファウンダーとして養成講座や活動に積極的に参加してきたが、健康上の理由で中心的な活動からは離れるようになっている。
さいわい、音読療法士や音読トレーナーが協力してくれて、持続的な活動や普及活動に力を貸してくれている。

また、今年は「音読療法」が商標として登録された。
私たちの専任活動としてさらに積極的に展開され、多くの人の役に立つことを願っている。

音読療法は簡単な方法をもちいて、だれでも自分の健康に寄与したり、介護予防を心ろがけたりできるが、それを伝えたり、ファシリテートする人になることもできる。
そのための「音読トレーナー」という資格を協会では出している。

音読トレーナー資格を取得するためには、養成講座を受講する必要がある。
定期開催はおこなっていないが、受講希望者がある程度集まれば開催する。
これまでは私がメイン講師として開催してきたが、音読療法士や音読トレーナーのメンバーが充実してきたのと、私の健康上の理由とで、今回開催する今年最後の養成講座をもって、私はメイン講師を引退させていただくことにしている。

12月5日から7日まで開催する、私のメイン講師最後の音読トレーナー養成講座に、音読療法に興味を持っている方、それを伝えたいと思っている方、多くの方の健康や介護予防に寄与したいと思っている方は、ぜひ積極的に参加してみてほしい。

今回の音読トレーナー養成講座の詳細とお申し込みはこちらから。

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(14))

咳と息切れと腰痛と、ときには微熱が1か月近く全然おさまらないので、病院に電話をかけて診療放射線科の担当医に臨時に診てもらうことになった。
血液検査とレントゲン撮影。

検査結果は「異常なし」。
肺炎の「影」もなく、しつこい咳はおそらく、治りがわるい気管支炎だろうとのこと。
免疫力や回復力が低下しているのは事実。
しかし、肺炎ではないとしたら、ちょっと動くと息切れしてしまう「酸欠感」の理由がよくわからない。
まあ、体力回復を待ってみるか。

血液検査では「炎症」の値が赤になっているが、極端な数値ではなく、長引く気管支炎によるものだろうとのことだ。
腰痛もおそらく、これに関連している。
もともと腰痛持ちではないので、あまり心配はしていない。
痛み止めがよく効いているのと、眠くなったりだるくなったりという副作用が出ないので、つづけて処方してもらうことにした。

いずれにしても、なんらかの悪性のものではなくて安心した。
なるべく静かにして、身体を冷やさず、充分に栄養をとり、自然な回復を待つことにしよう。

■京都撤退

バンドマンの仕事がほとんどなくなってしまった私は、生活費にも困窮しはじめていた。
家賃が滞納しはじめて、引っ越しをかんがえなければならなくなってきた。
そのとき私は、市街地の北のはずれにある岩倉地区に住んでいたのだが、かなり贅沢に買いそろえた演奏機材を置けるだけの余裕がある、広々とした部屋を借りていて、家賃もかなり高かったのだ。

引っ越すとなると、京都にいること自体がなんとなくいやになってしまった。
京都という街は学生には大変寛容で、適度な刺激や歴史もあり居心地のいい場所だが、社会人として住みつづけるとなるといろいろ面倒なこともある。
社会的慣習もややこしく、なじむには相当の忍耐が必要だ。
もともとフリー体質の私にとって、京都という風土に自分をなじませるのはきつい面があった。

いったん「京都がいやだ」と思いはじめてしまうと、もうすぐにでも逃げだしたくなった。
私はいったん、福井の実家に「撤退」することにした。
両親もまだ健在で、私の「帰郷」を歓迎してくれた。
それはそうだろう、京都の大学に行ったはいいが、卒業もせずにバーテンダーだのバンドマンだの、わけのわからない風来坊のような将来の見通しもたたない生活をしていたのだ、親にとっては大きな気がかりだったにちがいない。

いったん決めたら、早かった。
ほとんど仕事もなく、切れて困る人間関係もなかった私は、さっさと引っ越しの手配をして、福井の実家に戻った。
1982年の秋だったと記憶している。

2019年11月25日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(13))

昨日は吉祥寺の老舗ライブハウス〈曼荼羅〉でのオープンマイクに、ゼミ生たちと参加してきた。
曼荼羅のオープンマイクは何度か参加したことがあるのだが、今日はゼミ生のかなえさんが初参加、そしてライブ初体験だった。

かなえさんは今年の8月くらいから現代朗読ゼミに参加していて、毎回とても熱心に通ってきているほか、個人レッスンにもときどきやってくる。
その甲斐あって、めきめきと現代朗読の手法を身につけ、いきいきとした朗読表現ができるようになりつつある。

さらにいきいきさを表現するには、ライブパフォーマンスほどいい練習の場はない。
ライブというのは、自分自身もふくめてなにが起こるかわからない、予測できない、偶有性に満ちた時間の連続だ。
あらかじめなにかを準備したり、たくらんだりしても、うまくいかない。
自分を開き、予測できない場で本来の能力を発揮できる訓練が必要になる。

それは私にとってもおなじことで、いまこの瞬間を生き、表現するということにほかならない。
年齢、性別、健康状態、すべて関係ない。
その人の「いま」があらわれるし、また自分自身もそれを楽しめるかどうかということだ。

かなえさんの朗読といっしょに、私もピアノの即興演奏で共演した。
私も楽しかったし、なによりかなえさん自身が楽しんでおられるのだ伝わってきて、うれしかった。

もうひと組の野々宮卯妙とゼミ生ユウキのデュオ朗読もおもしろかった。
ふたりで異なる詩を同時進行で朗読するという、コンテンポラリーな演出のパフォーマンスだった。
これも現代朗読という手法の成果で、私はステージにいなかったが、私のテキストと演出を彼女らが体現しているのを感じて、とても満たされた気持ちでうれしく聴いていた。

6月にステージⅣの食道ガンが見つかって、11月の末にまだこのようないきいきとした活動の現場にいられるということが、私にはとても大切であり、またありがたいことでもある。

■生まれて初めて小説を書きあげる

原稿用紙を前にして、まず書いてみようと思ったのは中学のときからハマったSF小説だった。
どうせ書くなら、自分が読みたいと思っているようなものを書いてみたかった。
そのころ私は、SFはいったん卒業して、翻訳もののミステリーや冒険小説をたくさん読んでいた。
SFに冒険小説の要素を合体させたらどうだろう。

あらすじをかんがえはじめた。
骨子は冒険小説だが、舞台となるのは宇宙だ。
地球以外の惑星の話がいい。
特殊な環境の惑星がいい。

フランク・ハーバートの『デューン砂の惑星』という大長編SFがあって、夢中になって読んだことがある。
砂丘惑星の話だ。
ならば、陸地がひとつもない海洋惑星の話はどうだろう。

舞台設定とストーリー、登場人物のあらましが決まると、原稿用紙に向かって一気に書きはじめた。
そのころ、SF小説は娯楽文学として隆盛をほこっていて、SF専門の雑誌もいくつかあった。
それらには新人賞があって、たいてい短編小説を定期的に募集していた。
私もそれに応募しようと書きはじめた。

しかし、書き進めるにしたがって、規定の枚数にはとてもおさまらず、どんどん長くなってしまった。
たいてい新人賞の短編の規定枚数は、原稿用紙50枚とか、多くても100枚までだった。
私は100枚をはるかに超えて、200枚以上になっていった。

なにしろヒマである。
一日中書きすすめて、たぶん1週間くらいで200枚くらい書きすすめてしまった。
近所の文房具屋に頻繁に行っては、コクヨの原稿用紙を買いたした。

完成したとき、小説は230枚くらいになっていた。
どの応募規定にも合わなかった。
しかたがないので、新人賞に応募するのはやめて、編集部に直接投稿することにした。
話の内容から、なんとなく早川書房の『SFマガジン』ではないなと思った。
徳間書店の『SFアドベンチャー』がよさそうだ、誌名も誌名だし。

というわけで、編集部宛に原稿を送りつけた。
新人賞の規定にならって、原稿の末尾に簡単な自分の経歴と住所、連絡先を書いておいた。

それっきり、私はその原稿のことを忘れてしまったのだ。

2019年11月24日日曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(12))

できるだけ安静にしてすごしているのに、肺炎の咳と息切れがいっこうに改善しないばかりか、ときにはひどく咳こむこともあって、いやな感じだ。
食事のあとに咳がひどくなることが多く、なんとなくの印象だが味の濃い食事——とくに醤油を使った料理——をとると喘息に近いような咳の発作が起こることがあって、肺炎とは関係のないアレルギー症状のようなものかとも思ったりした。
しかし、あれこれ試してみたり、観察してみても、食事との因果関係がよくわからない。

夜の食事のときに発作が起こることが多く、夜になって部屋が寒くなったり、寒い場所にいたりして、身体が冷えるとそうなるのかもしれないとも思う。
しかし、暖かくしているときでも発作が起こることがある。

医師の友人から「放射線性肺臓炎」ということばを聴いて、受診することをすすめられたので、診療放射線科の担当医に診察を申し込んでみようかとも思っている。
木曜日にもともと診察の予定が入っているのだが、金曜日と土曜日に公演の本番があるので、早めに診てもらったほうがよさそうだ。
今日は日曜日で病院の外来は休みなので、明日、週明け月曜日に早めに連絡して、行ってこよう。

■バンドマンの仕事がなくなる

1980年ごろに全国的にカラオケマシン(当時はさまざまな呼称があって、たとえばハチトラなどといった)が爆発的に普及していった。
京都も例外ではなく、最初はバンドを雇えないちいさなスナックからはじまって、しだいにクラブやバンドマンがいるような大きな店にもカラオケマシンが浸透していった。
それにつれて、人件費のかかるバンドマンはクビになっていった。
とくにペーペーの、店とのコネもない、客もついていないような若手バンドマンは、あっという間に仕事がなくなっていった。
つまり、私のようなバンドマンのことだ。

私もハコがなくなったり、単発の仕事もすくなくなっていった。
ある日、ハコではいっていた店に行ってみたら、シャッターが降りていて、閉店の張り紙がしてあった。
あちこち問い合わせてみたが、どうやらオーナーは雲隠れしてしまったようだった。
その店からは数か月分のギャラが未払いのまま取りはぐれてしまった。
かなりの痛手だった。

そんなふうにして演奏の仕事がどんどんなくなっていった私は、とたんにヒマを持てあますようになった。
バーのマスターからはバーテンダーに復帰するようにしきりに誘われたが、もともとアルバイトと割り切ってはじめた仕事だったので復帰する気にはなれなかった。
復帰していたら、いまとはまったくちがう人生を歩んでいたかもしれない。
自分でいうのもなんだが、私にはおそらく、バーテンダーとしての素質がけっこうあったようなのだ。

バンドマンというのはもともと、昼間はヒマだ。
それが夜もヒマになってしまった。
ヒマにまかせて、私は本ばかり読んでいたが、ある日ふと思いついて、小説でも書いてみるかと原稿用紙を買ってきた。
コクヨの学生用400字詰め原稿用紙だった。

2019年11月23日土曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(11))

■最後の検査ふたつ

放射線治療後、約1か月たって、検査をふたつ受けた。
11月19日に造影剤を入れてのCT検査。
翌20日に内視鏡検査。

造影剤の検査はこれで3度めで、慣れているといえば慣れている。
静脈から造影剤を注入すると、すぐに全身の血管がカッと熱くなる。
それが気持ちわるいが、痛みはなく、がまんできる。

内視鏡検査は最初に近所の町医者で食道ガンが見つかったときを含めて、これで4度めとなる。
何度も受けたいものではない。
2度めの検査では、生まれて初めてパニック症状に近いものを経験し、3度めの検査でそのことを告げたら(がん研有明病院だった)、配慮してくれて鎮静剤を打っての検査となった。
それが楽だったので、今回もお願いして鎮静剤を使ってもらったのだが、今回は(薬の種類が違ったのか)まったく効かなかった。
苦しかった。
30分くらいの検査が3時間くらいに感じた。

へとへとに消耗したが、ともかく検査は終わった。
これでしばらく検査はなし。
来週、外科と放射線科のそれぞれの担当医の診察があり、検査結果を聞くことになっている。

■来年のイベント予定は入れられないが……

15年以上いっしょに活動している語人(ストーリーテラー)小林佐椰伽ちゃんと、先週末、イベントに出演してきた。
このイベントの日程は夏前には決まっていたが、私のガンが発覚して、その進行や治療方針について医師から聞いたとき、ひょっとして11月のこのイベントに出演できるかどうかわからないかもしれないと思った。
そこでその旨を佐椰伽ちゃんのお母さんやイベントの担当者に伝えておいたのだが、幸い(肺炎以外は)体調は移動したりピアノを弾くには充分快調で、無事に終えることができた。

そのあと、さらに別のイベントの話が進んでいたらしく、今日は「来年の5月なんだけど」という連絡があった。
三重県菰野町のホールでの語りイベントの依頼だということだ。
さすがに5月の状況は見えない。
先日のイベントが無事に終わってほっとしているくらいなのだ、佐椰伽ちゃんのイベントのほかに、体調がよいことをいいことに福井県立病院でのピアノコンサートもおこなったし、11月末にはダンスと朗読との3人公演「ラストステージ/事象の地平線」と、パープルリボン・コンサートというものにも出演することになっている。
さらに、名古屋でも3人公演をやることになり、名古屋版の「ラストステージ/事象の地平線」の開催が決まっている。

やりすぎだと思うが、年内はなんとか活動できるだろうと読んでいる。
が、年明けには、とくにライブイベントの予定は入れていない。
ましてや5月とか……自分がどのような状況にあるのか読めない。

しかし、佐椰伽ちゃんのお母さんから「ではお断りしますね」といわれたときに、ちょっと待てと思った。
私が参加できないだけで、佐椰伽ちゃんの語りは町民の方から求められているのだ。
ほかに朗読の野々宮卯妙にも参加してもらいたいという要望もあった。
では、私が直接参加できなくても、サポートすることはできるのではないか。

たとえばだれかピアニストを頼んで、佐椰伽ちゃんの語りや朗読との共演をお願いする。
私にできる指導や演出や楽曲があれば提供すればいいし、私も参加できるようなリハーサルを早めにやってもらえれば協力はできそうだ。
だから、5月のイベントは受けてもらうように伝えた。

出かけていって演奏したり、話したり、交流したり、といったイベントの予定は入れにくいが、それ以外にできること、やりたいことはまだまだたくさんある。
たとえば、いまこれを書いているように、ものを書くこと、執筆すること。
音楽を製作すること。
みなさんと交流することだって、オンラインならいながらにしてできると思うし、来ていただく分には(時間にもよるが)いまのところ差しつかえはない。
げんに現代朗読ゼミや個人レッスン、オーディオブックの収録などはおこなっているし、続行できる。

まだまだ伝えきれていないことが残っていて、たとえばNVCをベースにした共感手帳術や共感文章講座なども、コンテンツ化しきれていないし、オンラインでの勉強会はもうすこしつづけて開催できるだろう。

体調管理に留意してできるだけ伝えていきたいと思っているので、いましばらくお付き合いいただきたい。

■京都のお話はお休み

バンドマン生活の途中まで書いた京都でのお話は、今回はお休みさせていただく。
次回、また。

2019年11月22日金曜日

ピアノ七十二候:小雪/虹蔵不見(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小雪の初候(58候)「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月19日火曜日

いよいよラストステージ、残席わずか

まだテキストが完成してないけど(汗)。

オーストラリア在住の矢澤実穂さんが私とライブ公演をやりたいと、帰国予定を作ってくれたのは、私のガンが見つかったこの夏のことだ。
NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)と深く関わる身体表現(ダンス)をされている実穂さんとは、これまでに何度か共演させてもらった。
とくに昨年は国立の〈アグレアブル・ミュゼ〉で現代朗読の野々宮と3人で公演を行なって、楽しかった。

今回も野々宮卯妙を入れて3人でやることになった。
会場は渋谷総合文化センター大和田。
すでにたくさんの方から参加予約をいただいていて、ありがたい。

これまでは即興表現を重視してほぼリハーサルなしに行なってきたのだが、今回は少しはリハーサルをやろうということになった。
朗読テキストは新作の書き下ろし。
現時点で完成していないが、明後日のリハーサルまでには書き上がっている(はず)。
テキストのタイトルは「イベントホライズン」。
ブラックホール、事象の地平線、相対性理論、量子論などのSF的タームを扱いつつ、ガン、生と死、記憶、現在・過去・未来など人の日常の風景を織りこんだ(自分でいうのもなんだけど)意欲作である。
これを野々宮卯妙がどう読み、矢澤実穂がどう踊るか。

またこの公演「ラストステージ」は渋谷公演のあと、名古屋でも上演することになっている。
名古屋では矢澤実穂のかわりに榊原忠美という稀代の役者を迎え、ふたり朗読による先鋭的な表現になるだろう。
名古屋は昼夜2回公演を予定している。

渋谷公演のほうは残席に余裕がなくなってきている。
あまり広い会場ではなく、動いたり踊ったりするスペースも確保したいので、受付を締め切る場合もありうる。
ご参加いただけそうな方はお早めに予約いただけるとありがたい。


11月29日:ラストステージ/事象の地平線(ダンス・朗読・ピアノ)@渋谷
2019年11月29日(金)午後7時から、渋谷区文化総合センター大和田にて矢澤実穂(ダンス)、野々宮卯妙(朗読)、水城ゆう(即興ピアノ)の3人による公演をおこないます。テキストもこの日のための新作書き下ろし、水城ゆう渾身のラストステージです。

12月12日:ラストステージ/事象の地平線@名古屋栄
渋谷に続き12/12名古屋で昼夜2公演決定! 盟友にして名優・榊原忠美を迎えてエッジを超えろ! ほか、野々宮卯妙(朗読)、水城ゆう(テキスト/即興ピアノ)の3人による先鋭的な表現。

2019年11月18日月曜日

これぞコンテンポラリー朗読!

11月24日に吉祥寺〈曼荼羅〉のオープンマイクにまた出演しよう、ということで、野々宮卯妙とゼミ生ユウキでそれぞれ計2組でエントリーしていた。
昨日の朗読ゼミでその話をしていたら、もうひとりのゼミ生かなえさんも「出たら?」という話になった。
野々宮とユウキは以前から、デュオ朗読(ふたりで朗読する)をやってみたいといっていたので、この機会にふたりひと組で出ることにして、かなえさんは私のピアノと組んで初ライブにチャレンジしてみることになった。

野々宮とユウキのデュオ朗読でなにを読むか。
ユウキはすでに私のちょっと古い詩「とぼとぼと」を読むことが決まっていた。
それをとりあえず読んでもらっているときに、突然私のなかに金子光晴の詩が降りてきた。
そちらを野々宮に読んでもらってはどうか。
しかも、同時に。
詩の文言とは関係なく音楽的にコミュニケートをおこないながら、かけあいで。

詩の長さはすこしちがうが、野々宮に構成を作ってもらって、タイミングを調整した。
それをふたりで読んでもらったら、これがまあおもしろいのなんのって。
まさにコンテンポラリーアートとしての現代朗読であり、通常の意味を伝える朗読とはまったく違う先鋭的なおもしろさが生まれた。
このおもしろさをどのくらいの人にわかってもらえるだろうか。

以前から主張していることだが、さまざまなアート表現の分野のなかで朗読だけがコンテンポラリーを追求していない、未開拓ジャンルだ。
おもしろいのに、なぜここが手つかずになっているのか私には理解できない。
ならば私たちがやればいいのだ。

ということで、24日の曼荼羅オープンマイクでは、現代朗読の骨頂ともいえるコンテンポラリー朗読を目撃できるはずだ。
残念ながら著作権の関係でYouTubeには流せないので、直接聴きに来ていただきたい。


11月24日:臨時朗読ゼミ(水城ゼミ)
ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで臨時の現代朗読ゼミを開催します。身体表現あるいは音楽としての朗読を楽しみましょう。11月24(日)17時から約2時間。

YouTube:福井県立病院秋のピアノコンサート抜粋

2019年11月13日。
3か月に1度のペースで7年前から開催してきた福井県立病院でのソロピアノコンサートの抜粋です。
ステージⅣの食道ガンが見つかってから、このコンサートで演奏できるのかどうか気がかりでしたが、無事に終えることができ、また多く方が聴いてくれ、励ましをいただきました。

あとは渋谷と名古屋栄での公演「ラストステージ/事象の地平線」に向けて体調を整えていきます。

映像はこちら
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月17日日曜日

ピアノ七十二候:立冬/金盞香(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の末候(57候)「金盞香(きんせんかさく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月16日土曜日

秋から冬へ、北陸から知立へ

今回の北陸帰省のメインイベントである福井県立病院のピアノコンサートを終え、昨日は勝山市、大野市、和泉村、白鳥町、郡上市、関市、美濃市などを経由して、名古屋から豊橋、知立に移動。
和泉村では最後の紅葉が美しく、晩秋の最後の風景だった。
まもなく雪景色となるだろう。

今日は知立のホテルで目覚めた。
快晴。
秋晴れというより、日本列島は冬型の気圧配置になっていて、日本海側は曇り、太平洋側は快晴の冬晴れ。
北海道は降雪になっていて、北陸もまもなく初雪が降るだろう。

6月にステージⅣの食道ガンが見つかってからもうすぐ半年がたとうとしている。
11月に予定されていたいくつかのイベントにとどこおりなく参加できるかどうか心配だったが、いまのところ元気に活動できている。
うっかりして軽い肺炎にかかり長引いているが、活動できないほどではない。
今日はこのあと、語人佐椰伽ちゃんとイベントに参加して、語りのピアノ演奏サポートをおこなう。

すでにインフルエンザの流行が報道されている。
この冬をどう乗りきるか、体調維持と体力回復について真剣にかんがえておきたい。

さて、イベントのリハーサルが終わって、控え室でこれを書いているところ。
もうすぐ出番。
楽しみましょう。

2019年11月15日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(10))

■肺炎はつらい

いまから思えば放射線照射による免疫低下を油断していたのだ。
先月の終わりに「ちょっと風邪ぎみかな」と感じるような咳とかるい体調不良があった。
そのときに気づけばよかったのに、ひどい熱も出ず、咳もひどくならないようすに安心して、名古屋でのイベントなど詰めこんだスケジュールをそのままこなしていた。

肺炎は10年ちょっと前に一度やっている。
そのときはマイコプラズマ肺炎という感染症で、今回は感染症ではないかもしれないが、思いかえせばそっくりの症状だ。
階段の上り下りなどちょっと動くと息切れする、常時微熱がある、空咳が止まらない。
完治するのにたっぷり1か月以上かかった記憶がある。

今回もすでに半月以上たっているが、完治にはまだしばらくかかるだろう。
熱はほとんどないが、まだ咳が出て、身体を動かすとすぐに息切れする。
なるべく安静にしているしかない。
気になるのは、そのあいだまったく運動ができないので、体力・筋力がどんどん低下していってるだろうということだ。
肺炎が完治したら体力回復につとめたいが、いつからそれができるのか、どれくらいの強度でやれるのか、以前のような体調にもどれるのか、わからない。

ともかく、免疫力が落ちているのはまちがいないので、肺炎だけでなく、これからの季節は風邪やインフルエンザなどの感染に充分に気をつけよう。
月末には渋谷での公演「ラストステージ」、大塚での「ピンクリボン・コンサート」、12月にはいると名古屋での公演「ラストステージ」2回、公開レッスン講座などが控えている。

■バンドマン生活にはいるも……

バーテンダーのアルバイトは足かけ3年ぐらいやっていた。
私はこの店のカウンターの内側で多くのことを学んだ。
酒の知識や作り方だけでなく、仕事にたいする合理的な考え方、さまざまな人々とのコミュニケーションや音楽のこと、夜の世界のこと……

お客との付き合いも、アルバイトなので気楽で、カウンター越しだけでなくプライベートなものができた。
とくにバンドマンたちとは、いわゆる外タレのコンサートにいっしょに行ったり、草野球をやったり、交流が深まった。

バンドマンは「ハコ」と呼ばれる、毎日決まった店で演奏する仕事のほかに、宴会や結婚式、記念パーティーや行事など臨時で演奏に出かける仕事があった。
金銭的に率がよく、バンドマンにとっては歓迎なのだが、ハコの仕事とかちあうことがしばしばあった。
そういうときはハコの仕事に「トラ(エキストラ)」と呼ばれる代理のバンドマンを頼み、自分はお金のいい仕事のほうに行く。

代理を頼まれるバンドマンは、まだ駆け出しの、ハコの仕事を持っていないペーペーの者だった。
私も最初はそうやって、トラの仕事のをちょくちょく頼まれるようになった。

バーテンダーの仕事で酔客とのコミュニケーションにも慣れていた私は、トラで行った店でもかわいがられ、やがて自分のハコを持つことになった。
それを機にバーテンダーのアルバイトはやめ(時々頼まれてカウンターにはいることはあった)、本格的にバンドマン生活をスタートさせた。

22歳から23歳にかけてくらいのときで、西暦でいうと1980年前後。
なぜこんなことを書くかというと、そのころにちょうど水商売の世界をあるテクノロジーが急速に席巻しはじめたからだ。
それはカラオケマシーンといった。

2019年11月14日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(9))

福井県立病院でのピアノコンサートが終わった。
肺炎が全快していなくてやや心配だったのだが、無事に演奏を終えることができた。

このコンサートは、毎回、演奏時間はちょうど1時間。
だいたい10曲くらい演奏する。
マイクが用意されているので、曲と曲のあいだにちょっとだけトークしながらではあるけれど、1時間つづけてピアノを演奏するというのはちょっとした体力勝負。
今回は咳と腰痛が気がかりだった。

腰痛はよく効く痛み止めをあらかじめ飲んで対処。
咳はマスクをしていればほとんど出ないが、まだ咳こむこともある。
マスクをしたまま演奏はできないので(できないことはないだろうが)、演奏の最中に咳こまないか心配だったが、不思議なことに演奏中はまったく咳が出なかった。
どういうことなんだろう。
トークのときはちょっと出そうになった。

今回は私の中学校のときの担任だった先生が夫妻で来られることになっていた。
前回のコンサートのときに、それが地元の新聞に割合大きな記事に出て、それを読んだ先生から連絡があったのだ。
長年やっているこのコンサートのことを知らなかったけれど(大変失礼しました)、今回聴きに行くし、せっかくだからみんなで歌える曲も弾いてくれ、歌詞カードは用意するから、ということになっていた。

事務局のはからいで、コンサートの冒頭で先生にご挨拶をいただいた。
はからいもご挨拶もありがたいことである。

そのあと演奏。
即興からはいって、そのままいつものように季節の唱歌から。
「赤とんぼ」「旅愁」「里の秋」「ロンドンデリーの歌」など。

毎回かならず聴きに来てくれる人、初めて来てくれた人、たまたまコンサートに出くわした人や通りすがりの人など、用意された席が満席になっている。
先生のほかに、同級生も来てくれた。
小学校からの同級生だ。
最初、だれだかわからなかった。
しばらくしたら、記憶の底から名前が浮かびあがってきた。

お花や差し入れをたくさんいただく。
恐縮する。
私とおなじようにガンと付き合っている人もいる。
いつも来てくれて、ネットでもやりとりしている方が、私と血のつながったまたいとこを連れてきてくれた。
あまり付き合いのない母方の縁戚で、母や祖母と同様、手先が器用で、縫い物などの手作業が得意、暖かい親近感をおぼえる。

最後に先生が用意してくれた歌詞カードをみなさんに配って、いっしょに歌をうたう。
これまでにないことだった。

終わってから、前回も取材してくれた地元の新聞の記者の女の子(と呼びたくなる若い女性)にまた取材してもらった。
名残りおしくもみなさんとお別れしたあとは、先生夫妻と同級生といっしょにカフェでコーヒーをいただきながらお話しした。
もう85歳になられる先生から私の身体のことを気遣ってもらって、とてもありがたくも恐縮する。

今回のこのコンサートが無事に終わってよかった。
私にとってひとつの区切りと思っていた。
次回また、という声をみなさんからいただきながら、その予定はまだいれていない。
3か月後にまたここに帰ってこれるのかどうか、演奏ができる状態なのかどうか、私としてもそれは希望していることではあるけれど、この先どうなるか、どうなっているかは、神様のみぞ知る。

■アルバイトでバーテンダーになる

教材の配達のアルバイトをしていたときに、おなじアルバイトをしていたちょっと年齢が上の学生とジャズの話になった。
お互いにジャズが好きだということで、
「いい店があるんで飲みに行く?」
と誘われた。
ちょうど20歳くらいのときだ。

ひょこひょこと付いて行ったのが、祇園にある〈バードランド〉というジャズバーだった。
カウンターが10席、奥にグランドピアノ、ピアノのまわりにも6席がある。
カウンターの背後には見たこともない世界の酒がずらりとならんでいて、モダンジャズが流れていた。
その前に白いバーコートを着たマスターとバーテンダーの若者が立って、てきぱきとカクテルを作ったりして立ち働いていた。

私の知らない世界だった。
ちょうどバーテンダーのアルバイトを募集していて、それは配達のバイトよりも時給がだいぶよかったのと、客がいないときは店のピアノを好きなように弾いていいという条件が魅力的で、すぐに私はそこで働くことになった。

夕方4時半に店にはいって、掃除や仕込み、買い出しなどの準備をする。
着替えて6時開店、夜中の2時まで営業。
客が引けてから片付けて、午前3時くらいに上がり。

営業時間が遅い店だったので、0時をすぎると近所の店で仕事を終えた水商売関係の人たちがやってきた。
そのなかにはバンドマンもいた。
また、毎晩、午後8時になるとピアニストがやってきて、1ステージ30分の演奏を30分の休憩をはさんで4回やる。
そのピアニストの仲間もやってきた。
学生でまだ若いアルバイトバーテンだった私は、客からも関係者からもかわいがられた。

私がピアノがすこし弾けるとわかると、いろいろ教えてくれたりした。
といっても、弟子にするとかそういうのではない。
ジャズっぽく聞こえるコツとか、リズムの取りかたとか、断片的なテクニックをちょこちょこと教えてもらった。

そうやって私はアルバイトバーテンダーからすこしずつバンドマンの世界へと引きよせられていった。

2019年11月13日水曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(8))

北陸の実家に帰省している。
晩秋の、最後のスコンと晴れあがった日で、こういう日は経験的にあと何日もないだろうと思う。
数日前は雷が鳴って、雨が激しく降った。
普通、この時期の雷は、このあたりでは「雪起こし」といって、雪が降る前兆とされている。
が、雪は降らなかった。
気温もまだ暖かい。

今日は福井県立病院に行って長年定期的に開催してきたピアノコンサートで演奏してくる。
今月はこのコンサートと、今週末に語人・小林佐椰伽ちゃんのイベントでの語りのサポート演奏と、月末のパープルリボンコンサートがある。
これらは私の食道ガンが見つかる前から決まっていた。
ガンが見つかったとき、治療や体調の変化が読めなくて、11月のこれらのイベントに常態で参加できるのかどうかわからなかった。
なので、みなさんにはあらかじめ、健康状態が読めないこと、ひょっとして演奏ができなくなることもありうることなどを伝えた。
すべてのみなさんがそのことを理解し、受け入れてくれて、暖かく私の体調維持を祈り、はげましてくれた。

そしていま、11月になって、まだピアノが以前と同様に——ひょっとしてより前へと進みながら——演奏できそうなことがわかって、大変ありがたく、うれしく感じている。
オーストラリア在住のNVC仲間である矢澤実穂さんからは、共演する機会を作りたいと急遽帰国して、ダンスと朗読とピアノによる公演を渋谷でおこなうことにもなった。
こちらも体調が許すイベントとなるだろう。

化学療法による抗ガン剤治療を受けず、放射線照射治療を選択したことが(私にとっては)大きい。
ガンが見つかって以降も、検査や治療のための通院に時間を取られたほかは、それまでとほぼ変わりなく活動をつづけられている。
書くこと、演奏すること、みなさんと交流して伝えたり、いっしょにワークしたり、演出したり、出演したり、映像を撮ったり、編集したり、音楽を作ったり。

予想がはずれたこともある。
放射線治療の副作用が意外に大きかった。
治療中は食欲不振や体重減少、倦怠感が強く、武術の稽古をふくむ運動はほぼできなかった。
治療が終わってからは、おそらく免疫力の低下によるものだと思うが、かるい肺炎にかかって苦しかった。
それはいまもつづいているが、幸いなことに回復途上にあって、まだ完調とまではいかないが、もうしばらくすれば元にもどるのではないかと予想している。

この秋の季節、空気、太陽、雲、風景を楽しみ、コンサートで演奏し、みなさんと交流すること。
一日一日、一瞬一瞬が尊く、輝きに満ちている。
これをあなたにどれだけ伝えることができるか、私はいまそのことに関心を注いでいる

■ろくでもない学生時代

長くなってきたので、このへん——京都で下宿をはじめたころ——の話はざっくりとはしょる。
1年間浪人生活を送ったが、受験勉強はまったくせず、再受験すらまじめに取り組まなかった。
というのは、受験日に京都には珍しくかなりの積雪があり、歩いて行ける受験会場まで行くのがおっくうだったからだ。

再受験におっくうだった理由がもうひとつある。
さすがに2年めの受験では、親に泣いて頼まれたということもあって志望校一本に絞ることはせず、国立大の前に私大をいくつか受けていた。
そのなかで同志社大学の商学部に合格していて(たぶん受験科目に理系の数学があったからだ)、それで安心してしまったというのがある。

私の最大の関心は、親元を離れて京都に住みつづけられるかどうかだった。
当時付き合っていた彼女が京都に住んでいたこともある。

そんなわけで、私は同志社大学生となり、京都に住みつづけ、学校にはまったく行かずにいろいろなアルバイトをしながらライブハウスをめぐったり、琵琶湖までヨットを乗りに行ったり(貸しヨット屋でアルバイトもしていた)、女の子と遊んだり……ようするに遊び暮らしていた。
いまからかんがえても、ろくでもない学生であった。

そんななかで、その後の私の人生を大きく決定づける仕事(アルバイト)に出会うことになる。
いまの私はその仕事の経験からはじまったといっていい。

2019年11月12日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(7))

■小説を原稿用紙に書き移す

そのころ——高校生のころ——からなんとなく、鑑賞者の立場から「作り手」側の視点を意識するようになっていったと思う。
音楽にしても小説にしても、
「これはどのように作られているのか」
ということに興味を持つようになっていったのだ。

最初に興味を持ったのは音楽だった。
ブラスバンド部に一時的にでも所属していた経験が、吹奏楽団や交響楽団の全体のサウンドがどのような「パート」の組み合わせでできているのかに興味を向けることになったのかもしれない。
ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲や、ビバルディの弦楽曲のスコア(総譜)の縮刷版を買ってきて、レコードを聴きながらそれを読むことがおもしろかった。
多くの楽器やパートが複雑にからみあって壮大な、あるいは繊細なサウンドを織りあげている、その作曲家の技に魅了された。

小説もそうで、「どのように書かれているか」に興味が向かった。
あるとき、まるごと1本、小説を原稿用紙に書きうつしてみようと思った。
といっても、長編小説だと大変なので、短編小説だ。
たしか、小松左京のとても文学的な短編シリーズの「日本女シリーズ」の一篇だったように記憶している。
それを頭から丸ごと、原稿用紙に、改行、字下げ、ルビ、句読点をふくめ、そっくりそのまま書きうつしてみた。

原稿用紙にして80枚とか100枚とか、そんな分量だったと思う。
ちょっと色っぽいシーンもあったりして、楽しんで書きうつした。
この経験はのちに自分が小説を書くようになって、大変役のたった。

■大学受験に失敗する

畑正憲やコンラート・ローレンツの随筆、日高敏高、今西錦司らの動物の本に強い影響を受けた私は、進学進路を京大の理学部動物学科しかないと決めていた。
子どものころから小動物が好きだったし、熱帯や亜熱帯でのフィールドワークにぜひ行ってみたい、自分もそんな研究をしてみたいと思っていた。
高校の進学コースも理系だったので、理学部を受験するのは不自然ではなかった。

大学受験をするもうひとつの——というより最大の目的は、親から離れてひとり暮らしをしたい、ということだった。
私の両親はよく子どもをかわいがってくれて、いまとなっては私も感謝をしているが、とにかく過干渉だった。
教育熱心で、しかしそれは小学校くらいまでは許せるが、中高生になり独立心が生まれてくると、親の過干渉はうっとおしさしかなかった。

高校生くらいになると徹底的に反抗し、親がしろといったことは自分がやりたいことであったとしても意地でもやらない、してはならないということをわざとやる、というような態度を取った。
受験も京大一本ですべりめもなし、本人は絶対受かるつもりでいた。

しかし、結果はあえなく不合格。
数学で大きなミスをやらかし、合格点に足りなかったのだった。

浪人することになったのだが、とにかく親元を離れたかった私はへりくつをつけて京都にある駿河台予備校に通うことになった。
親も「勉強してくれるなら」とあきらめたのだろう、その選択をしぶしぶ受け入れた。

予備校にも入学試験があり、それも失敗するかとドキドキだったが、なんとかパスして、京都に下宿することになった。
駿河台予備校はそのころ、出町柳の近くにあった。
予備校の斡旋でいくつか下宿先を探して、東山二条・岡崎にある学生下宿に決まった。

とにかく親から離れるのがうれしくて、また田舎から出てきた若輩者には誘惑が山ほどあり、受験勉強どころではない生活が4月からうきうきとはじまったのだった。

■京都で下宿生活

私が下宿した東山二条・岡崎という立地は、かなり魅力的・誘惑的だった。
近くに平安神宮、東山動物園、京都市立美術館、京都会館などが集まっている。
二条通りを西に歩いて鴨川を渡れば、商業的メインストリートといってもいい河原町通りがすぐだ。
河原町を南に下れば、三条、四条と繁華街に出られるし、北に上がれば京都御所や同志社大学のわきを通って下鴨神社がある。

二条より一本北側の丸太町通りもいろいろな店があって、とくにライブハウスが魅力的だった。
4月に下宿生活がスタートして何日めかの夜、私は生まれて初めて、ジャズのライブハウスというものに行ってみた。

明日は福井県立病院ピアノコンサート

2012年10月から3か月おきにつづけてきたこのピアノコンサートも、満7年となった。
今回が最後となるかもしれない、というつもりで準備してきたが、体調はまずまず。
先月末から空咳と微熱があって、最初は風邪をひいたのかと思っていたが、診察を受けたら軽い肺炎とのことで、明日のコンサートに支障が出ないか懸念していた。
幸い回復しつつあって、熱もなく、残っていた咳はだいぶおさまってきている。
ただ、肺炎の影響なのかどうかわからないが、腰痛が出ていて、痛み止めを飲まないとかなりきつい。
まあ、痛み止めはよく効いているけど。

福井県立病院でのピアノコンサートは明日で28回めとなるはずだ。
コンサートホールやイベントホールではなく、病院のエントランスホールという開かれた空間での演奏だ。
ピアノの前にオーディエンス用の椅子がならべられているが、そのまわりはいつもの病院の空間。
受付があり、自動チェックイン機や精算機があり、案内所があり、待合所があり、長いエスカレーターは上の階へとつづいている。

エントランスは吹き抜きになっていて、上の階からも演奏を聴くことができる。
上の階にはレストランや休憩スペースがあり。
大きな病院で、病床数は正確には知らないが1000床くらいあると聞いている。

ピアノ演奏がはじまると、用意されたオーディエンス用の椅子にすわって聴く人もいれば、通りがかりに立ちどまって聴いてくれる人もいる。
受付の事務のみなさんも聴いてくれているだろうし、上の階から顔を出して聴いている人もいる。
最初から最後までずっと聴いている人もいれば、ちょっとだけ立ちよってすぐに去っていくような人もいる。
このようなオープンな空間で演奏する機会は、そう多くない。
私もそういった人々のようすを感じながら、それに応じて演奏も変化していく。

この数年は毎回かならず、わざわざ聴きに来てくれる人も増えてきた。
コンサートの日程を病院に電話で確かめて、その日に足を運んでくれるのだ。
知り合いもいれば、まったく交流のなかった人もいる。
最近はFacebookなどでコンサートの日以外にも交流している人もいる。
明日はどんな人が来てくれるだろうか。
楽しみなのだ。

明日は私の中学校のときの先生がご夫婦で来てくれることになっている。
私の活動を知った先生が、それならぜひ参加のみなさんも一緒に歌をうたう機会を作ってはどうか、と発案してくれた。
明日はみなさんもよく知っている歌の歌詞をプリントしたものを配って、みんなで歌えるようにしてくれるという。

3か月後は来年の2月になる。
そのとき私の体調はどうなんだろう。
また演奏できるのかどうかまったくわからないけれど、できればまた行って、みなさんの前で演奏できるといいなとは思っている。
そのためにどのように毎日を大切にすごすことができるか、自分自身に問いながらすごしていきたい。

ピアノ七十二候:立冬/地始凍(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の次候(56候)「地始凍(ちはじめてこおる)」をイメージして演奏しています。

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2019年11月11日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(6))

■繰り返し聴く、繰り返し読む

結果的には、ピアノレッスンとブラスバンド部をやめたことで私は好き勝手に音楽を楽しむ自由を手にいれたといえるかもしれない。
中学、高校と、私は弾きたい曲の楽譜を買ってきては我流で練習し、難しい部分はすっとばしたり、勝手に簡素にアレンジしたりして演奏を楽しんでいた。

その間に父のオーディオ機材もグレードアップして、家の居間には立派なステレオセットがやってきた。
レコードを聴くことはもちろん、FMラジオの高音質な放送を聴けるようにもなった。
また、これは高校になってからかもしれないが、カセットデッキが導入され、レコードやラジオ放送を録音して何度も繰り返して聴けるようになった。

これは私にとって大きなことだった。
音楽にしても本にしても、気にいったものを何度も繰り返し聴いたり読んだりする。
子どものころはだれもが、気にいった絵本を親にねだって何度も読んでもらったりするものだが、その繰り返しが学生時代までつづいていたのは、私の大きな影響を残したと思う。

本も乱読といってもいいくらいたくさんむさぼり読んだが、たくさんの本を読むと同時に何冊かの気にいったものを繰り返し読みつづけてもいた。
SFではロバート・ハインラインが気にいって、ほとんど読破すると同時に、とくに気にいった話は何度もリピートした。
アシモフの『銀河帝国の興亡』(ファウンデーションの話)も気にいっていた。
日本の作家でも小松左京や半村良の小説をリピートした。

高校生くらいになるとだいぶ難解なものにも手を出すようになって、安部公房の小説も繰り返して読んだ。
両親の本棚にならんでいた文学全集も端から順に読んだ。
とくに海外の翻訳ものは大好きで、一時はヘルマン・ヘッセにどはまりしていた。

小説だけでなく、旅行ものや動物もののノンフィクションもたくさん読んだ。
日本では畑正憲の一連の作品、海外ではコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』など、あげだしたらキリがない。

■ジャズを発見する

高校生になってしばらくしてから、NHKFMに「ジャズフラッシュ」という週一の番組を発見した。
ジャズという音楽との出会いだった。
田舎にはもちろん、ジャズ喫茶などないし、あったとしても高校生の身分ではそんなところに出入りもできない。

生演奏というものにもほとんど接したことがなかったくらいだ。
中学生のとき、市民会館にNHK交響楽団がやってきたことがあって、そのときはじめて生のオーケストラの音を聴いた。
レコードで聴くのとまったく違う音色におどろいたり、楽団員のズボンや上着の裾がてかてかとすり切れて光っているのを見たりした。

ジャズは衝撃的で、それまで私が接してきたどの音楽とも違っていた。
最初は王道どおり、ビバップやモダンジャズの演奏をエアチェックしながら必死に追いかけていたが、曲名も演奏者もたくさんありすぎてとても覚えきれない。
ジャズという音楽の全貌を一度に全部把握しようとしたのが無茶だった。

途方に暮れていたある日、おなじジャズ番組からそれまでとまったく違う感じのサウンドが流れてきて、耳を奪われた。
それはウェザーリポートというグループで、いまでいうフュージョン、当時は電気ジャズだのクロスオーバーといわれていたサウンドだった。
「これがおなじジャズ?」

びっくりした私は、さっそくウェザーリポートを追いかけはじめた。
自分でも耳コピしてピアノでまねしてみたりした。
しかし、いかんせん複雑なバンド音楽をピアノ一台でコピーすることは難しい。
それならと、ピアノソロの演奏を探してコピーしてみた。
マル・ウォルドロンなどの大変暗い曲をコピーした記憶がある。

それが私のジャズ演奏のまねごとの最初だった。
それからはいろんなスタイルの演奏をまねしてピアノで練習したが、すべて我流だった。
学校にもジャズを聴く同級生はひとりもいなかった。

じつは小説の書き方も、ちょうどおなじころに私は「まねごと」をしていたのだった。

YouTube:現代朗読ゼミの冒頭の座学から

2019年11月9日。
現代朗読ゼミの最初に、初参加の人がいたこともあって、すこし座学をおこないました。
その抜粋ですが、ここではこんな話をしています。

表現のわかりやすさ/わかりにくさについての話。
表現の場における非言語的情報交換の想像以上の豊かさについて。
現代朗読がめざす(練習する)豊かな世界について。
自分の内側の情報と外側の情報を統合するフロー状態を練習する。

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2019年11月10日日曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(5))

■せせこましい年功序列がいやになる

当時の中学校——いまから50年近く前のことだ——というのは、とくに田舎はそうだったと思うのだが、年功序列式の先輩・後輩関係がやかましかった。
生まれたのがほんの1年しか違わないのに——人によっては数日しか違わないということもある——学年が1年違うだけで先輩・後輩とうるさく、形式的な礼儀を重んじることを強要された。
それが私には嫌でいやでしかたがなかった。

ブラスバンド部も例外ではなかった。
ひとりでは作れない大きなサウンドを、自分もその一部になってみんなで作るのは楽しかったが、音楽とは関係のないところで儀礼的なことをうるさく強要され、また教師からも強圧的な態度で接せられるのが、本当に不快だった。

先にも書いたように、私はそのころ、学校活動とはべつに読書に夢中になっていた。
とくに同級生や先輩など、学校というせまい世界での人づきあいの必要性を、まったく感じていなかった。
友だちは何人かいたけれど、べつにいなくても不自由はないと思っていた。

ブラスバンド部での活動がすぐに嫌になってしまった。
音楽だって、ピアノレッスンはやめたけれど、家にはピアノがあって——学校にもあった——好きな曲を好きなように弾くことができた。
強要されて不自由なパートを四角く演奏する活動をつづける必要性を、まったく感じなくなってしまった。

学年が変わるのを待たずに、私は退部届けを部長に出した。
つよく慰留されたが、私の気持ちはもうすっかりブラスバンドから離れてしまっていた。

■音楽の先生と英語の先生にかわいがられた

当時の私は反抗心がかなり芽生えていたようで、先輩・後輩関係だけでなく、教師にたいしても一種の「権力者」だという認識があって、とくに理不尽に強権的だと感じる教師にはかなり反抗的な態度をとっていたようだ。
最近になって当時の学校関係者から聞いたことだが、いまだに私のことを忌み嫌っている教師や同級生がいるらしい。

それはそうかもしれない、と思う。
読書好きのおかげだったといまでは思われるが、当時の私はとくに勉強などしなくてもかなりいい成績だった。
授業中は反抗的な態度を取ることがあり、試験勉強もろくにしないのに、成績だけはいいというのは、秩序を重んじる教師にとってはかなり扱いづらい存在だったろうと思う。

しかし、私のことをおもしろがっている教師もいた。
たとえば、音楽の先生もそのひとりだった。
とても優しい先生だったので、反抗的な私にたいしても強権的な態度を取れなかっただけかもしれないが、ピアノが弾ける私を合唱部のピアノ伴奏をやってみないかと誘ってくれた。

合唱部は全員が女性徒で、べつに女性合唱部というわけではなかったが、「男が女といっしょに合唱なんて」という変な風潮が当時の田舎町にはあって、男子生徒はひとりも参加していなかった。
そこに私ひとり、ただしピアノ伴奏者として参加することになった。

これはなかなか楽しかった。
おなじ集団表現でも、私はひとり、別枠といっていいポジションにいて、そのポジションが居心地よかったのだ。
私の伴奏も部員や指導の先生に好評で、歓迎されたのもよかった。
そしてなにより、変な先輩・後輩という序列があまりなかった。

その先生は何年か前に、自宅で転んで怪我をして入院したことがきっかけで認知症をわずらい、急に弱って亡くなってしまった。

音楽の先生以外に、私を1年生のときだけ受け持ってくれた英語の先生がいた。
とても気概があり、教師でありながら平等や反権力の意識が強く、過激な言動にびっくりさせられることもあったし、私も厳しくしかられることが多かった。
しかし、彼女の論理は私には納得できるもので、しかられたとしても理不尽を感じることはなかった。

その先生とはいまだに付き合いがつづいていて、もうかなり高齢だけれどいまだに市民運動に積極的に参加されていたりして、たまに私がたずねていくと歓待してくれて話がはずむ。

2019年11月9日土曜日

オーディオブックの演出、移動は延期

ゼミ生の矢澤ちゃんからもらった果実のドリンクジェル、おいしい。
ありがとう。

昨日は矢澤ちゃんの朗読を聴かせてもらって、すこし演出と修正。
作品がたまったので、後日オーディオブックとして収録する予定。
あたらしいオーディオインターフェースも来たので、収録体制は万全、のはず。

今日はこれから朗読ゼミ。
ゼミ後、北陸に向かおうかと思っていたけど、咳と腰痛がまだだいぶ残っているのと、午後から夜にかけて体調が低下する傾向が気になるのとで、延期。
午後はゆっくりしよう。


いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(4))

■長引く肺炎のなか朗読レッスン

昨日は朗読の個人レッスンをおこなった。
このところ、軽度の肺炎にかかっていて、それが長引いている。

肺炎というのは、かかったことがある人にはよくわかると思うが、けっこうやっかいだ。
最初は空咳が出たり微熱があったりして、風邪をひきかけているのかと思った。
が、風邪のように気管支の炎症ではなく、咳はもっと奥のほうから痰《たん》も痛みもなく起こる。
息苦しさがあって、大きく息を吸いこむと、むせかえるように咳が出る。
だから大きく息を吸えない。

運動するとすぐに息切れする。
ゆっくり歩く分にはいいのだが、急ぎ足で歩いたりすると息切れして苦しくなる。
階段の上り下りもゆっくりしかできない。
ましてや駆けたり、筋トレしたりなんてことはできない。

そんな状態が十日近くつづいていて、なるべく安静にして回復をはかっているのだが、なかなかよくならず、長引いている。
出かけることを控えているが、個人レッスンなら人が来てくれるので負担も少ない。
そして不思議なことに、朗読のことをやっているときは、グループワークでも個人演出でもあまり疲れを感じないのだ。

私は社会的には職業を問われれば、小説家であり、ピアニストといえるが、これほどまで朗読が好きになり、朗読と関わるようになったのには、ちゃんと理由がある。
私自身は朗読はやらないというのにだ。
つまり、私が自分で本を読み、表現行為としてひと前ではおこなわない。
私が朗読に関してやるのは、朗読のためのテキストを書き、朗読者のトレーニング指導を行ない、朗読演出をし、時には採集的なライブやステージで同じ共演者という立場でピアノやキーボードなどの楽器を演奏することはある。
私がそんな風に朗読とかかわっているというと時々おどろかれることがあるのだが、ここにいたったその筋道をいま書いているのだ。

■ブラスバンド部にはいる

中学校に入ってピアノのレッスンに行くのはやめてしまったけれど、音楽が嫌いになったわけではない。
とはいえ、中学生になったばかりの男の子の音楽知識や経験なんてたかが知れている。いまのようにネットに音楽が溢れかえっていて、どこでも自由に好きな曲を聴ける時代ではなかった。

私の音楽体験と知識は、まずはピアノレッスンで自分が練習していた初歩のクラシック音楽——とくにピアノ曲。
それからテレビやラジオから流れてくる流行歌やポップスなど、ランダムで雑多な音楽。
学校の音楽の時間に歌ったり、レコード鑑賞で聴いたクラシック音楽やフォーク音楽。
そういったところだった。

ほかには小学校でも中学校でも、学校では定期的に放送で流れる音楽がいくつかあって、繰り返し強制的に聞かされるために耳にこびりついてしまった。
運動会に流れるマーチなどの勇ましい音楽もそうだ。

私はマーチ(行進曲)がけっこう好きで、中学校にはいるとブラスバンド部がそれを練習して演奏するということを知った。
それまで集団で音楽をやることがなかった私は、そのことも興味がひかれたのかもしれない。
ピアノレッスンはやめたけれど、音楽に興味をうしなったわけではなかった私は、中学生になるとブラスバンド部に入部した。
パートは花形のトランペットの端くれだった。

まずは毎日、マウスピースをくわえて音出しの練習をした。
入部したての1年生だけが体育館の外にならばされてマウスピースをくわえ、ブーブー音出しの練習をえんえんとやらされるのには閉口したけれど、音が鳴らないことにははじまらない。
どんな楽器でもそうだが、入門のときにはかならずある程度の(ばかみたいな)反復練習が必要になる。
ピアノの練習でそれには慣れていた。

ある程度音が出るようになると、パート練習にはいる。
ブラスバンドのなかでもトランペットはメロディラインを高らかに演奏する花形パートだったが、全員がメロディを吹くわけではない。
トランペットパートもさらに3パートくらいに分かれていて、その一番底部のメロディとはかけはなれた部分を受け持つ第3パートを、1年生はまずやらされる。
第3パートの音は、メロディ的には変な感じだが、3パート全員が合わさるとちゃんとハーモニーを作るようにできている。
自分が吹く音がハーモニーの一部になっていて、全体のハーモニーができあがるのは、なかなか楽しい経験だった。

私は楽譜が読めたので、音が出るようになるとすぐにパート譜を演奏できるようになった。
同期の1年生がほかにも数人いたが、みんな楽譜を読むのが苦手だったので、彼らに教えてやったりもした。
私はブラスバンド部のなかに(一瞬だけ)自分の居場所を感じて、しばらくは楽しく部活動にいそしんでいた。

ところがそれも1年を待たずして終わりを告げることになる。

2019年11月8日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(3))

■ピアノを習う

ところで、中学生の私は読書しかしてなかったわけではない。音楽も好きで、しかし小学3年のときから習いはじめたピアノは、中学入学と同時にやめてしまっていた。

両親——とくに父は音楽好きで、当時は珍しい電気蓄音機を持っていたくらいだ。
田舎町にも楽器屋があって、ブラスバンドや音楽の時間に使うさまざまな楽器を売っていたが、当時はピアノを購入する家が増えはじめていた。
ヤマハやカワイ、スズキなどのメーカーが音楽教室を全国的に展開し、ピアノを個人家庭に売りこみはじめていたのだ。

音楽好きの両親がそれを見逃すはずはなく、四歳になったばかりの私の妹が近所の音楽教室に通うことになった。
通いはじめてしばらくすると、私の家にアップライトのピアノがやってきた。

私が三年生になる直前に、
「ピアノを習いたいか?」
と聞かれて、妹とおなじ音楽教室ではなく、ピアノの個人レッスンに通うことになった。
ただし条件があって、それは毎日、かならず最低30分は練習すること。
最初のころはそれでも楽しかった。
昔ながらの、バイエルやハノンを使ったレッスンで、楽譜はすぐに読めるようになって、レッスンはどんどん進んだ。
毎日の練習が成果をあげ、一年足らずのうちにバイエルは全部終わってしまって、四年生になる前にはブルグミュラーの組曲に取りかかった。

バイエル練習曲とはちがって、ブルグミュラーはいまでも弾いて楽しいようなちゃんと音楽になっている曲集で、だんだん難しくなっていったがこれもどんどん進んだ。
半年ほどでブルグミュラーも終え、チェルニー練習曲やソナチネ曲集を弾くようになっていた。

■ピアノを習うのをやめる

年に一回、ピアノ教室の発表会が市民会館のホールであった。
三年生のときはプログラムの最初のほうで小さな子どもたちにまじって発表したが、五年生になるころには中学生の女の子にまじってプログラムの後ろのほうでモーツァルトのソナタを弾いた。
ピアノ教室は私以外のほぼ全員が女の子で、かなり目立ったことだろう。
子どものころはそんなふうに目立つこともかえっておもしろく、喜んで教室に通っていた。

が、六年生になるとなんとなく心境に変化がおとずれた。
当時の田舎社会の風潮というのもあったかもしれない、男の子がひとり、女の子にまじってピアノレッスンに通っていることを時々揶揄されるようになり、私もなんとなく恥ずかしさを感じはじめていた。

そう感じはじめるとにわかにピアノレッスンに行きたくなくなり、練習もやらなくなってしまった。
中学にはいるのと入れ替わりに、ピアノレッスンをやめさせてくれと、泣かんばかりに両親に頼んで、なんとかやめさせてもらった。
そのころにはベートーベンのソナタやドビュッシーの難曲なども弾きこなすようになっていたので、私がピアノをやめることはかなり残念だったろうと思う。

このあとが不思議だったのだが、私がいまだにこうやって自由にピアノ演奏を楽しみ、また即興ピアノで朗読など他ジャンルとの共演をするという独自のスタイルを獲得できたのは、このときにピアノレッスンをやめられたことが大きなきっかけとなっていることに間違いない。

2019年11月7日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(2))

■旺文社の文学文庫

中学生になったとき、私がよく本を読むようになったことを喜んだ両親が、大きなプレゼントをしてくれた。
旺文社の文庫本サイズの50冊セット文学全集だ。
文庫本といっても、表紙はすべてハードカバーで、デザインも薄緑色に統一されていて、揃っている感があった。
しかも50冊がちょうどおさまるミニ本棚もついていた。

これはあと50冊を加えて全100冊セットになっていて、後日、買いそろえてもらった記憶がある。

両親の本棚にある文学全集は旧仮名遣いが混じっていたり、文字が細かかったりと、中学生にはまだハードルが高かったので、この旺文社のシリーズはうれしかった。
このシリーズで日本も世界もいっしょくたに、代表的な文学作品をたいてい読んだ。
ルナールの『にんじん』とか好きだったし、ドストエフスキーとかスタンダールとか、夏目漱石の『坊っちゃん』や『猫』もこれで読んだ。

■SF小説にハマる

中学生のころはやたらと本ばかり読んでいた記憶がある。
学校の図書館にももちろんたくさん蔵書があって、なかでもジュニア向けの世界SF選集にハマった。
いまとなってはまったく思い出せない無名の作家のものもたくさんまじっていたが、有名どころもあった。
日本人作家では、当時ジュブナイルをたくさん書いていた眉村卓の作品などがあったように思う。

眉村氏はつい先日、お亡くなりになった。
ご冥福をお祈りする。

図書館のSF選集をきっかけに、SF小説のおもしろさにどっぷりとひたる日々がやってきた。
世間ではSF小説というとまだまだキワモノ扱いだったし、両親も私がSFを読むことはあまり歓迎しなかった。
しかし、おもしろいものはしかたがない。
『SFマガジン』という月刊の文芸雑誌が早川書房から出ているのを知って、近所の書店で定期購読を申しこんだ。

これが私にとって、「いま現在」動いている、最新の文芸の世界(SFという限られたジャンルではあったけれど)の情報に接する、最初の機会となった。
田舎の中学生にとっては画期的なことだった。

■北陸の山間部の田舎町

田舎といってもどのくらいの田舎なのか、説明しておかねばならない。
私が生まれ育ったのは福井県勝山市という町で、市とはいっても現在は人口が2万3千人をまもなく切ろうかというところだ。
県庁所在地の福井市から電車で小一時間、車でも3、40分、九頭竜川にそって山間部へとはいっていく。
九頭竜川中流域の河岸段丘によってできた盆地で、四方を山に囲まれている。
天気がいいと白山山系が見える。

さらに奥へと進めば、大野市、和泉村をすぎて、岐阜県の白鳥へと抜ける。
その先は飛驒や美濃地方へとつながる。
かつては交通の要所だったようだが、いまはさびれてしまって、高速道路も通っていない(長らく工事中ではある)。

そんな町でも、私が子どもの頃は何軒か本屋があった。
もちろんいまのように流通が発達してはいないので、ほしい本があれば本屋に注文する。
うまくすれば二、三週間でとどく。
通常は一か月くらい待たされる。
そのくらい、都市部との情報遅延や格差があったということだ。

そんな田舎のどん詰まりのような町で、私は毎月届けられる『SFマガジン』という現在進行形の文芸情報をむさぼるように読みあさっていた。

ピアノ七十二候:立冬/山茶始開(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の初候(55候)「山茶始開(つばきはじめてひらく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
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2019年11月6日水曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(1))

■やりたいことは全部やる

今日でステージⅣのガン告知を受けてから118日め、4か月となる。
抗ガン剤による標準的治療は受けないことにし、放射線照射による治療を選択し、その治療も先月終わった。
経過を見る検査はまだ終わっておらず、ガンやリンパ節への転移がどのようになったのかはわからない。

しかし、この間、私の活動はほぼ平常と変わりなく——というよりより濃密に、集中してやれている。
治療中の体調不良や、治療後も若干肺炎ぎみで発熱してたりするんだけど、寝たきりというわけでもない。
延命治療にあてていたらひょっとしてこの時間が失われた可能性もあるわけで、いまもこの瞬間を大切に、活力をもっていられるということが、なによりありがたく貴重なことだと感じている。

というわけで、執筆、朗読、動画編集、ライブパフォーマンス活動、講座やワークショップと、やりたいことは全部やっている。

あまり私のことを知らない人からは、よく、
「結局なにが本業なんですか?」
と訊かれることが多い。
これまでも小説や本を書き、ピアノを演奏したり音楽を作ったり、また現代朗読協会を立ちあげ朗読演出をやったり、音読療法協会を作って音読療法の啓蒙普及活動をおこなったりしてきた。
よく知らない人から見ればつかみどころがないのも無理はないかもしれない。

自分自身の整理もかねて、私がこれまでやってきたこと、その経過やいきさつについて、すこし振り返っておこうと思っている。
もちろん、大げさな自叙伝のようなものを書くつもりはまったくなくて、ざっくりした個人史——すこしくわしいプロフィール——のようなものを書きのこしておこうという意図だ。
お付き合いいただければ幸い。

■小説をたくさん読んだ子ども時代

職業小説家として商業出版社から長編小説が出版されたのは29歳のときだったが、小説はもっと前から書いていた。

私の父は高校教師で、田舎のインテリといってもいいかもしれなかったが、人物的にはインテリという感じではなく、むしろバンカラな人づきあいの多い人間だった。
教え子をはじめ、同僚や地域住民など、父を慕う人は多かった。
母のほうが知的好奇心が強かったかもしれない。
本棚にずらりとならんでいた世界文学全集や日本文学全集、夏目漱石全集、芥川龍之介全集、島崎藤村全集、伊藤整全集、ほかにもあったかもしれない揃いの文学書は、ものを書くための下地として大いに役立った。

もちろん子どものころはそんなものを読めるはずもなく、ただ本棚にならんでいるのをながめていただけだが、本に親しむ環境にあったことはたしかだ。
だから、小学5年生のときだったと思うが、大風邪をひいてしばらく学校を休んだときに、父が近所の貸本屋で子どもにも読めるような小説本をまとめて借りてきたことがきっかけで、それ以来小説に大はまりしてしまった。

父が借りてきたのは江戸川乱歩の少年探偵団のシリーズや、吉川英治の宮本武蔵だった。

もっと小さいころからもたくさん本を読むようになっていた。
とくに隣家に住んでいた私より3つくらいの年上の、耳の不自由なお兄さんが、子どものための読み物をたくさん持っていて、それをちょくちょく貸してもらっていた。
隣家も高校教師の家で、障害を持つ息子のためにたくさんの本を買いあたえていたのだと思う。
子ども向けの冒険ものとか、ファンタジーとか、童話が多かった。
イソップの童話やシンデレラや人魚姫、かぐや姫などの日本の昔話などは、隣家から借りてきてたくさん読んでいた。

YouTube:新規購入したローランドのオーディオインターフェースRubix24

オーディオブック(朗読)やヴォーカル、ピアノ演奏収録、音楽製作などのために、オーディオインターフェースを新規に購入しました。
MacのあたらしいOS Catalina の64bitモードにも対応しているとのことで。
その開封からテスト使用までをVLOGで。

映像はこちら
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2019年11月5日火曜日

YouTube:即興ピアノはどうやって弾き、練習するのか、のレッスン

2019年11月1日。
名古屋でおこなった現代朗読群読ワークショップの合間に、水城ゆうがおこなっている即興ピアノの演奏について質問があったので、ピアノを弾きながら解説してみました。
即興ピアノの演奏法、またその練習のやりかた、そして朗読など別ジャンルの表現との共演方法など。

12月13日には朗読表現の公開個人レッスンをおこないますが、即興ピアノなど音楽との共演に興味がある朗読者が対象です。
定員10名と限られていますので、お早めに申し込みください。
詳細はこちら

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2019年11月4日月曜日

コラムとエッセイの違い(ひよめき塾)、肺炎?

昨夜はひよめき塾を開催。
月洛ちゃんとまりりんが春野亭に直接参加、ほかはオンラインで。
10人くらい?

月洛ちゃんからいつもちょっとしたお菓子の差し入れをもらうんだけど、これがなにげにおいしくてうれしい。
体調低下中の身にはありがたい。

塾冒頭で取りあげた作品がエッセイ(随筆)のような内容だったんだけど、そこから話がコラムとエッセイの違いになった。
もちろんきっぱりと別々のものとして分けることはできなくて、グラデーションのように境界線は曖昧だが、書き手の意識の違いがそこにはある。
ライターなのか作家なのか。
ひよめき塾は作家を育てる場だ。

ひよめき塾は定員オーバーで参加者の新規募集はしていないが、共感文章講座は水城ゼミの一環として継続参加ができるので、興味がある人はまずそちらに参加してみてほしい。

名古屋のワークショップでは調子がよくて、かなりがんばれたのだが、その翌日からまた風邪気味がぶりかえして低調。
そもそも風邪なのか?

ずっと空咳が出ていて、風邪の特徴の上部気管支の炎症ではないような気がする。
もっと奥のほう、ひょっとして肺のほうに炎症があるような……
というのも、かつてマイコプラズマ肺炎に感染したことがあって、そのときの感じにちょっと似ているからだ。
熱はあまりないくせに、咳が出て、ちょっと歩いたりするだけで息切れする。
慢性的な酸素不足の感じがある。

いやな感じなので、明日は病院に行ってくるか。
これもガンまたは放射線治療の副作用なのか。

BCCKSに発注していた『事象の地平線 末期ガンをサーフする』の紙本が刷りあがって届いた。
さっそく知り合い何人かから注文をいただいた。
ありがとう。
ひょっとして急いで増刷をかけなければならないかな。

新刊紙本『事象の地平線 末期ガンをサーフする』が刷りあがりました

新刊『事象の地平線 末期ガンをサーフする』の紙本が刷りあがってきました。
オンデマンドの印刷物なのでやや割高になっています。
アマゾンKindleではすでに電子ブックとして配信中ですので、スマホなどで手軽に読みたい方はそちらをご利用ください。

ちなみに、紙本をご購入いただいた方にはもれなく、電子ブックデータを差し上げています。
ご希望の方は購入時にお知らせください。

価格は1,000円です(税込)。
郵送の場合は送料180円が別途必要です。

購入はこちらから。

Kindle本はこちらからどうぞ。

YouTube:野々宮卯妙朗読「夢十夜・第二夜」@吉祥寺〈曼荼羅〉

2019年11月3日。
吉祥寺のライブハウス〈曼荼羅〉でおこなわれたオープンマイクイベントに、朗読とピアノで参加してきました。

朗読はテキストが決まっていますが、どのように読むのかは即興性を大事にする現代朗読のアプローチ法を使っています。
またピアノ演奏は完全即興です。
その模様を全編、編集なしでお送りします。

 テキスト 夏目漱石『夢十夜』より「第二夜」
 朗読   野々宮卯妙
 ピアノ  水城ゆう

映像はこちら
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2019年11月3日日曜日

現代朗読の群読パフォーマンス@名古屋ワークショップ

2019年11月1日、金曜日。
早朝に国立を出て東京駅へ。
新幹線の往復チケットと宿泊付きのプランをとってもらったので、こだまのグリーン車でゆったりと名古屋に向かう。
名古屋栄のナディアパーク内にある練習スタジオで、現代朗読の群読パフォーマンスのワークショップとその映画撮影のために。

東京からは野々宮卯妙とユウキが同行。
シートをくるっとまわしてボックス席にして、修学旅行みたいだ。

名古屋での現代朗読ワークショップは本当は先月で終了するはずだった。
ところが、映画を撮ってくれている伊藤くんと、参加のみなさんからの強い要望があり、またうまく会場を取ってもらえたというのもあって、もう1回やれることになった。
前回は日中がワークショップ、夜は朗読コンサートだったが、今回は日中も夜もワークショップ。
昼しか来れない人、夜しか来れない人、通しで参加できる人、そんな条件のなかでの群読パフォーマンス作りとなった。

11時すぎ、名古屋到着。
栄へ移動。
ユウキがまだ名古屋名物味噌煮込みうどんを食べたことがないというので、山本屋本店へ。
私もひさしぶり。
こってりと腹ごしらえをする。

13時、会場の練習スタジオ入り。
すでに撮影の伊藤くんとヨシキくん、世話人の生惠さんが来ていた。
前回世話人だったシローさんは、今回は残念ながら不参加だったのだが、顔を出してくれていたようだ。
入れ違いで残念。
大阪から窪田涼子が会いに来てくれていた。

13時半、午後の部がスタート。
参加者は10数人。
前半は基礎トレーニングをしっかりやったあと、後半は群読パフォーマンスを撮影をまじえながらいくつかトライできた。
前回も参加してくれた人、天白での毎月のワークショップに参加してくれていた人、初参加の人、そして10年近く前に名古屋でおこなった公演に参加してくれた人がひさしぶりに顔を出してくれたりと、さまざまな顔ぶれがあった。

カメラを追いかけたり、ピアノのなかに全員が顔を突っこんだりと、変なパフォーマンスをやってもらったけれど、楽しんでもらえたようだったし、なにより私が楽しかった。

小休憩をはさんで、夜の部が19時からスタート。
午後の部から引きつづき参加する人と、夜の部のみの参加の人がいて、午後の部よりやや人数が増えただろうか。
群読パフォーマンスとしてはボリュームが出たが、時間的制約があってうまくできるかどうか自信がなかった。
みなさんの協力と集中力と、のりのりの意欲のおかげで、短時間におもしろいパフォーマンスが仕上がり、撮影もうまくできたようだ。

今年の春ごろから天白の生惠さん宅〈アロマファン〉で毎月つづけてきた現代朗読のワークショップを踏まえておこなった先月と今回の会、大変密度の濃い、充実したものになったと感じている。
現代朗読の群読表現作品としても、おもしろいものがいくつか仕上がった。
映像作品としてどのようなものになるのか、とても楽しみにしている。


ところで、ワークショップは終了したが、来月12月はやはりおなじ場所で、名古屋の俳優で朗読者である盟友・榊原忠美と、現代朗読・野々宮卯妙、私による三つ巴の朗読公演をおこなうことが決まった。
12日(木)夜にスタジオを押さえたので、ぜひおいでいただきたい。
またその翌日には、朗読の個人レッスンを公開でおこなうことになっている。
私の個人演出を受けてみたい人、即興ピアノとの共演にトライしてみたい人など、撮影や作品公開もオーケーなので、参加してみてほしい。
詳細は近日中に公開します。

2019年11月2日土曜日

ピアノ七十二候:霜降/楓蔦黄(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
霜降の末候(54候)「楓蔦黄(もみじつたきばむ)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
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