2011年7月31日日曜日

現代朗読基礎講座、終了

今日で今期6回シリーズの現代朗読基礎講座が終わった。つまり6回め。
ひとり、体調不良で残念ながら最終日に参加できなかったが、見学者が2名とゼミ生のシマムラが見学および手伝いでの参加。
今日は最終回なので、各人がそれぞれ決めた作品を朗読発表してもらう。それをビデオで録画して、あとでみんなで鑑賞した。
作品は短いものばかり。『吾輩は猫である』や『草枕』の冒頭部分、宮澤賢治や中原中也の詩、古文など。それぞれが基礎講座で学習したことを反映しようとがんばっていた。
たった6回の基礎講座なので、すばらしいクオリティの朗読になることは難しいが、なにかを「作り上げる」「たくらむ」「準備する」という方向性ではない、朗読者の本来のありようのままの、共感的で共時的な表現の方向性は、全員がしっかりと見せてくれて、私としては非常にうれしかった。たった6回なのにこれだけの皆さんの成長を見ることができるのは、本当に幸せなことだ。

このあと、私がピアノを演奏して、皆さんとそれぞれ「共演」もさせていただいた。これもすばらしい経験で、私にとっては宝物のような時間だった。
この場で起こっていることがまるで奇跡のようなことであることを、はたして何人が知っているだろうか。できればより多くの人に知ってもらいたいと思うのだが、まだまだ商業主義がはびこっているこの世の中では難しいことだ。
しかし、本当の意味で「生きたい」と思っている人は、一度見学においでください。

講座修了後、残ったシマムラとまじめな話をする。生きること、表現すること、お金を稼ぐこと、常識的な幸せとされること、などなど。
そのあと、naoさんが来て、今度はげろきょ(現代朗読協会)の運営のことについて気遣いをいただいた話をする。とてもうれしく、ありがたい。

次期現代朗読基礎講座は、9月10日スタートです。
詳細はこちら

朗読の時間

ライブや公演において、どのような朗読作品を選ぶかについて、みなさんけっこう苦労されているようだ。
とくに苦労するのは、その「時間」だ。
長さ、あるいは、短さ、といってもいい。
そもそも文学作品は、最初から朗読されるときの時間を考慮して書かれてはいない。雑誌や本に掲載するために字数を制限されることはあっても、朗読原稿としては(ほとんど)書かれない。まちまちな長さの作品のなかから、時間軸の制約がある朗読表現のための原稿を選ばなければならない。
著作権が消滅した作品を勝手に都合よく改変して読んでしまう人もいる。しかしそれはやはり、いくら亡くなっているとはいえ、著者に対する敬意がなさすぎるといえる。といっても、長すぎる作品をそのまま朗読するわけにはいかないことが多い。
私の場合、作品をやむなくカットすることはあるが、読む部分についてはできるだけ手を加えず、ある集合でまとめて読んだりカットしたりするようにしている。できるだけ文章の手触りをそのまま残した形で朗読したいからだ。つまり、素材はなるべく細切れにしない。

朗読するには何分くらいがちょうどいいのか、と問われることがある。
朗読表現に「ちょうどいい」時間などない、というのが私の考えだ。
あらかじめちょうどいい時間など設定することはできない代わりに、どのような朗読をおこないたいのか、という表現者側の心づもりがある。それを抜きにして、朗読の時間の長短を決めることはできない。詩のようにズバッと一瞬で通りすぎるように読みたいこともあるだろうし、数十分、場合によっては一時間を超えるような長尺朗読に取りくみたいこともあるだろう。狙いによって長さは変わってくる。当然のことだ。

朗読者は自分とオーディエンスが共有する時間のことを考える。それは自分の内側と外側を同時に見る作業となる。音と時間に対するとぎすまされた感覚が必要になる。ある作品をどのくらいの時間で読むのか。この作品とこの空間でどのようなクオリティの表現をおこなうのか。
常々くりかえしいっていることだが、朗読とは空間と時間軸を表現者とオーディエンスが共有することで成り立つ表現行為である。つまり朗読者は、空間と時間に対する繊細な感受性を持つことが望ましい。待ち合わせ時間に平気で遅刻するような朗読者は私には考えられない。
朗読者に限らず、音楽家、ダンサー、俳優、こういった時間と空間を用いるパフォーマーはすべてそうだろう。一流といわれるパフォーマーで時間にルーズな人を私は見たことがない。すべてのパフォーマンスは、その時間にその場に立つことでスタートするのだ。

「15分くらいがちょうどいい朗読時間だろう」みたいな考えで朗読作品を選ぶのは、まったくもって残念なことだといわざるをえない。
私たちはひとしく「死に向かう病」を生きている。時間は表現者の上にもオーディエンスの上にもひとしく流れる。

手乗りインコと子猫

猫も好きですが、小鳥も大好きです。中学生の時分、小鳥をたくさん飼ってました。十姉妹、文鳥、セキセイインコ、その他いろいろ。
このインコはボタンインコでしょうか。眠っているふわふわの子猫を枕にして、自分も昼寝しようというのでしょうか。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

2011年7月30日土曜日

なぜ「朗読はライブ」なのか

「朗読はライブだ!」というワークショップを2009年から現代朗読協会でおこなっていて、それが来週スタートのシリーズで第8期となる。なぜ「朗読はライブ」なのかと、ということと、このシリーズで私たちが学んだことを少し書き流しておきたい。

日本には古くから「語り芸」がさまざまにあり、朗読も当然その系譜の延長線上にあるものだろうと考えていたことがある。
語り部、能や狂言、謡、琵琶語り、歌舞伎、文楽、落語、講談、伝統芸能やそうでないものも含め、たくさんの語り芸が古来から存在する。これらはいずれも「ライブ」だ。語り手とお客さんの間でリアルタイムにパフォーマンスとしておこなわれる。現代日本でおこなわれている朗読会が、どうやらにその系譜には属していないのではないか、と思うようになったのは、つい最近のことだ。
では現代日本でおこなわれている朗読、朗読会、朗読ライブはどこから来ているのか。
大正・昭和初期から普及したラジオ放送および、戦後普及したテレビ放送などの「放送技術」がそのルーツになっていると考える。その証拠に朗読教室はほとんどどれも放送技術を教える。

すでに確立されている伝統や技術や特定個人および団体が提唱するノウハウに「のっとらない」方法での、コンテンポラリーな身体表現としての「現代朗読」を私は提唱しているが、考え方としてはむしろ、「語り芸」の系譜に近い。つまり、身体性、呼吸、ライブ性を重視する。
2009年にスタートした「朗読はライブだ!」ワークショップ、略して「ライブWS」は、これまでに7シリーズやってきた。いずれも全6回のワークショップを通じて参加者全員でひとつの朗読パフォーマンスを作りあげ、最後にひと前で発表するという様式だ。
ライブ発表はさまざまな場所、さまざまなシチュエーションでやってきたし、参加者の数もまちまちだった。数人のときもあれば、10人以上のこともあった。スタジオを借りたり、ライブハウスを借りたり、現代朗読協会の羽根木の家の座敷でやったり。
東松原のレストラン〈スピリット・ブラザーズ〉でやったときは、オーナーの人見さんの協力で養護施設の子どもたちを招待して、おいしい食事とともに朗読を楽しんでもらったりもした。
演目もさまざまだった。朗読というとひとりで読むイメージがあるが、何人かで作るのも楽しい。
また、複数でひとつの作品を作りあげる過程で、朗読者はさまざまな身体性や、自分が未知だった声を獲得していくことも、発見のひとつだった。

朗読はとかく、口まわりと頭の中だけ、そして閉じられた感覚でおこなわれてしまうことがあるのだが、ライブではそれはつまらない。
全身を使い、感覚を開き、共演者やオーディエンスとコミュニケートしながら、空間と時間の共有のなかでひとつの表現作品を作っていくのだ。実際にやってみた者でなければ、その喜びはわからないかもしれない。
ライブWSも次期でなんと8回めとなる。今回の最終ライブは10月に下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉を予定している。今回はどのような作品が生まれるのだろうか。私も楽しみだ。
詳細はこちら

椅子の上の毛布にもたれて猫リラックス

自分ちの猫を描こうとすると、どうしても「美化」してしまいますね。かわいく描きすぎました、はい。
しかし、「体感」としてはこのくらいかわいい、ということで。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

2011年7月29日金曜日

小松左京さんが亡くなった

多くの方は映画にもなったベストセラー小説『日本沈没』で記憶しておられるだろう。私ももちろん夢中になって読んだが、私にはそれ以上の特別な思いがある。
小学校6年生に図書館で『世界SF文学全集』を発見したのをきっかけに、中学生のときは内外のSF小説に夢中になり、手当たりしだいに読みあさった。最初はおもに海外の作家のものが多く、とくにハインライン、アシモフ、ブラッドベリ、フレデリック・ブラウンといったものを読んでいたのだが、そのうち早川書房の『SFマガジン』を読むようになったのをきっかけに、日本の作家のものも読むようになった。そのなかでも小松左京さんの作品は私にとって特別だった。
処女長編の『日本アパッチ族』を皮切りに、超能力者の戦いを描いた『エスパイ』、新型細菌による人類滅亡の危機を描いた『復活の日』、いまだに名作中の名作として時々読み返すこともある『果てしなき流れの果てに』、それらに加えて「日本女シリーズ」などの数多くの短編など、いずれも夢中になって読みふけったものだ。いずれの作品も何度も読み返しているし、なかにはノートに書き写したりして小説の書き方をまねたような作品もある。原稿用紙の使い方も、書き写すことで自然に身につけた。

その後も高校、大学と進んでも私は小説を書きつづけ、大学をやめてバンドマンになったときも習作を書きつづけていた。25歳のときに書いた中編小説が編集者の目にとまり、29歳のときに徳間書店から長編小説を出版し、作家としてデビューした。処女長編は『疾れ風、咆えろ嵐』という冒険SF小説で、これも小松左京さんがいなくてはありえない作品だった。
晴れてSF作家の仲間入りをした私は、その年の大阪で開催された日本SF大会というものに編集者に連れられて出席し、あこがれのSF作家の実物に会うことができました。私がアイドルとして読んでいた作家たちがそこにはずらりといた。筒井康隆さん、いまはなき星新一さん、眉村卓さん。そして小松左京さんにも紹介してもらうことができた。自分がその場にいることに大きな幸福を感じたものだ。

いまは私も商業出版の世界から距離を置き、書くものもずいぶん変わってしまったが、それでもSFマインドは常に持っているつもりだ。今年も朗読作品として上演する予定になっている「繭世界」も「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき」も、見ようによってはSFといえるかもしれない。
小松左京さんのご冥福を心からお祈りしたい。

「KOTOHOGU! 〜言祝ぐ東北」で言祝いできた

昨夜は武蔵小山のライブカフェ〈アゲイン〉での朗読ライブ「言祝ぐ東北」に行ってきた。
主催はげろきょの仲間・唐ひづる。ゲスト朗読で野々宮卯妙も出演。私は少しだけピアノ演奏で助っ人。
しゃちほこばった堅苦しいライブではなく、お客さんに飲んだり食べたりしてもらいながら、トーク混じりの気楽なライブで、大変楽しかった。お客さんのノリもよかった。
とはいえ、しっかりとメッセージも込められていて、最後はいろいろな思いが伝わったのではないだろうか。

それにしても唐ひづるの軽妙なトークと自由自在な朗読は、本当にすばらしかった。東北弁の朗読も楽しかった。それにどちらかというと重厚な野々宮がからみ、化学反応を起こしていた。私のピアノなどまったく邪魔なくらいで、本当によい朗読は余計な音は不要なのだと実感した。
おふたりさん、お疲れさまでした。

げろきょのメンバーもたくさん来てくれた。
終わってから、商店街の居酒屋で、丸さん、小梅さん、小梨さん、野々宮と軽く飲み会。雷が光り、雨が降り出したなかを、丸さんの車で送ってもらって帰る。丸さん、いつもありがとう。

雑な鳥かごに入りこんだ猫

芝居かなにかの小道具でしょうか。雑な手作りの針金の鳥かごのようなフレームにさっそく入りこんで遊んでいます。
なにを見てるんでしょう。造花がポイントになってますね。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

2011年7月28日木曜日

朗読ライブ「KOTOHOGU! ~言祝ぐ東北」のお知らせ(7/28)

◎日時 2011年7月28日(木) 19:30開宴/開場18:30
◎場所 武蔵小山〈LiveCafe again〉
◎料金 1,500円 ドリンクチャージは含まれませんが、
南部せんべいか何か付いてきます。

ろーどく:唐ひづる ゲストろーどく:野々宮卯妙
ピアノ演奏:水城ゆう

Live Café Again
〒142-0062 品川区小山3-27-3
ペットサウンズ・ビル B1F
03-5879-2251

ご予約、お待ちしております。
私か出演者のいづれかにお申し付けください。

以下、主催の唐ひづるによるこのライブに寄せる熱い思い。
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kotohoguって、ローマ字で書いたら、「東北」に見えました
とーほぐってひらがな書いたら、ことほぐに見えました
だって私、なまってるから、「とーほぐ」なんだもーん


上京して○○年、すまして標準語を話してきた。
高校の時、国語教師が「津軽弁はフランス語に似て聞こえる」という話をしていたが、まったくパッソのCMがそれだったのには笑えた

まだ田舎に家があったとき、帰省時、新幹線から在来線に乗り換えた瞬間、
スイッチが切り替わり、脳内を方言モードに戻していた。
これを切り替えそびれると、一瞬車内の言語が異国語のように聞こえたものだ。
いまはきばって標準語を話していないので、スイッチ不要。
いつでもぐずらぐずらと言語が流動する。


子供の頃は函館から東北までが世界全てだった。
テレビに悲惨な状況が映される。
あの映像は、世界が失われたかのようにショッキングだった。
胸が締め付けられる。

でも、東北に限らずだけど、みんなその命をみっちり生きている。

東北=悲惨、可哀想って図式は、イヤだ。

涙を流す以外に何ができる

いっかいの主婦に、募金以外に何ができる
何にもできないけど、
「東北いいよいとしいよ」って、
素敵なことを、みんなとシェアしたい。
楽しくてかっこいい東北をみんなと感じたい。

東京近辺にいる青森出身のみんなと思いを共有したいし、
他県の方にはきっと新鮮な面白さだと思います。

長々と東北を語ってしまいましたが、
もちろん、標準語の朗読もやりますよ
そしてもちろん、お笑かしもあります

水城ゆうの即興ジャズピアノ、野々宮卯妙のただものではないロードクも
聴きごたえバッチリ、おみ足を運ばれる価値ありですよん

2011年7月27日水曜日

丸い籠のなかの猫

窓際に置いた藤の丸籠を、自分で倒してはいっています。お気に入りの場所のようです。
首にぶらさげたのは赤十字マークがついた迷子カプセルですが、はからずもワンポイントになってますね。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

熱中授業「テキスト表現ゼミ」より(3)

現代朗読協会「羽根木の家」で4月からおこなわれているテキスト表現ゼミでは、毎回、楽しく白熱した合評会と講義がおこなわれています。
7月24日(日)に開かれた最新のゼミの模様を、抜粋して何回かに分けてお送りしましたが、その最終回です。
奥田くんの作品についての講評、指導の様子です。時代小説の書き方、よい時代小説とは、すぐれた作家の資質とは、どうやって読者を作品の中に導いていくのか、といった話。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」があらたにスタートすることになりました。
興味のある方はこちらをご覧ください。

ケロログ「RadioU」で配信中。

2011年7月26日火曜日

熱中授業「テキスト表現ゼミ」より(2)

現代朗読協会「羽根木の家」で4月からおこなわれているテキスト表現ゼミでは、毎回、楽しく白熱した合評会と講義がおこなわれています。
7月24日(日)に開かれた最新のゼミの模様を、抜粋して何回かに分けてお送りします。
2回めは参加者のふなっち、照井数男、奥田くんの作品についての講評、指導の様子です。「小説において「主人公」とは、読者に「視点=物語を見るためのカメラ」を提供するための「装置」である」みたいな話、とか。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」があらたにスタートすることになりました。
興味のある方はこちらをご覧ください。

ケロログ「RadioU」で配信中。

電気メーターと木を登る黒猫

古い家の壁に取りつけられた古びた電気の計測メーター。その前にひょろひょろした木が一本生えていて、黒猫がそこを登っています。
どこへ行こうというんでしょう。ただ遊んでいるだけなのかもしれませんが。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。オープニングイベントとして朗読ライブもおこないます。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

2011年7月25日月曜日

熱中授業「テキスト表現ゼミ」より(1)

現代朗読協会「羽根木の家」で4月からおこなわれているテキスト表現ゼミでは、毎回、楽しく白熱した合評会と講義がおこなわれています。
7月24日(日)に開かれた最新のゼミの模様を、抜粋して何回かに分けてお送りします。
1回めは参加者のふなっちの作品についての講評、指導の様子です。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」があらたにスタートすることになりました。
興味のある方はこちらをご覧ください。

ケロログ「RadioU」で配信中。

幻のエレンディラの写真

名古屋IMYホールのピアノ。ヤマハ製。
とてもいい感じに鳴ってくれました。よいピアノです。

そのピアノの横で演技するエレンディラ役の柴田真佑。
がんばりました。

スクリーンの背後でエロティックな演技。
影を効果的に使う練習中。
手前はお婆さん役の可児良友と、語り手の榊原忠美。

2011年7月24日日曜日

Mac OS-X Lion を MacBook Air と Pro に導入した

しばらく様子見しようかと思ったのだが、けっこう対応できるソフトが多いようなので、思いきって導入してみることにした。
まずはAirのほうに。
Lionは App Store でダウンロード販売していて、2,600円という低価格。
App Store を開き、ぽちっ。すぐにダウンロードが始まったが、サイズがでかいらしくけっこう時間がかかった。

ダウンロードが終わったら、そのままインストール。15分くらいで終了。
リスタートして、画面が変わった。と思いきや、ほとんど変わらない。本当にLionで起動したのかどうか、リンゴマークから確かめてみたほどだ。
画面の設定などはのそのまま引きつがれるので、パッと見はほとんど変わらない。
もちろん、変わったところもある。

触ってみて一番とまどったのは、トラックパッドのスクロール動作だ。マルチタッチが強化されているのだが、二本指でのスクロールはこれまでと同様。ただし、動きが逆。
これまでは二本指で下へスライドさせれば、画面は上へスクロールされたのだが、Lionは逆。画面も下にスクロールする。つまり、iPhoneやiPadと同様の動きに統一したわけだ。
これはしばらく慣れるのに時間がかかりそうだ。なにしろずっとそうやっていた動きが、真逆になるのだから。

しかし、トラックパッド全体の動作はきびきびと、正確になったような気がする。マウスが不要になるかもしれない。
いまのところ、マウスなしでしばらく使ってみているが、不都合は感じない。
マルチタッチでできることも増えた。
3本指での左右スワイプでページ間を移動できたり、下スワイプでExposéできたり。
4本指でつまむようにすると、Launchpadというものが起動する。このLaunchpadもLionのあたらしい機能だ。私はあまり使うことはないだろうが。

Mission Control という機能も新しい。
3本指で上にスワイプすると、スペーシズとExposéを合わせたような画面になる。これはけっこう使いやすい。
あと、大変便利なのが、電源を切るときに「再ログイン時にウインドウを再度開く」かどうかを聞かれることだ。イエスにすると、次に電源を入れるとき、電源切断時に立ちあがっていたウインドウが自動的に立ちあがる。つまり、スリープと同じような動作になる。もっとも、ゼロから立ちあげなおすので、メモリなどはリフレッシュされている。内蔵ドライブがSSDなので、スリープとあまり変わらない速さで立ちあがる。

ほかにもいろいろな新機能があるのだろうが、まだ全然わからない。
しかし、動作がきびきびしているような感じなので、思いきってProのほうにも導入してみた。
いまのところ、とくに不都合はない。動かないソフトも、メイン使用のものではない。
もう少し使いこんでみよう。

がんばれミズキ

この夏から秋にかけての私がらみのイベントです。興味がない方はスキップしてください。

朗読ライブ「KOTOHOGU! 〜言祝ぐ東北」
 7月28日(木)19:30〜 @武蔵小山ライブカフェ〈アゲイン〉

唐ひづる主催、野々宮卯妙ゲスト出演、私はピアノで参加のライブ。
唐ひづるのトーホク朗読ほか、おもしろコンテンポラリー朗読が盛りだくさん。涼みがてら一杯飲みに来て、朗読を楽しんでください。
あ、もう今週だ。

稲葉佳子展「夏に舞う」にて朗読
 8月7日(日)17:30〜 @一宮市三岸節子記念美術館

私は出演しませんが、このために朗読作品「繭世界」を提供しました。観に行きます。
朗読は榊原忠美氏と清水睦子さん。

朗読ライブ「猫のうた」
 8月9日(火)13:30〜 @下北沢〈Com.Cafe 音倉〉

猫絵の展示のオープニングイベントとしておこなわれます。
猫にまつわる文学作品などの朗読でいろいろな趣向をこらします。
出演はまりも、野々宮卯妙、唐ひづる、まぁや、瀬尾明日香、そして私のピアノです。

猫のスケッチ展「猫のうた」
 8月9日(火)〜28日(日) @下北沢〈Com.Cafe 音倉〉

私が描きためてきた猫のスケッチばかり30点くらいを、音倉の壁面ギャラリースペースをお借りして展示します。
お昼のカフェタイムに昼食やお茶ついでにお立ち寄りください。

◎板倉克行スペシャルナイト参戦
 8月30日(火)20:00〜 @新宿ピットイン

フリージャズピアニストの巨匠・板倉克行さんのライブに、げろきょメンバーが参戦します。
板倉さんのメンバーのほかに、げろきょからは野々宮卯妙、照井数男、大阪から窪田涼子、そして私。
どうなることやらまったく予測がつきません。

ほかには、げろきょの「朗読はライブだ!」ワークショップの第8期が8月6日からスタートします。
8月の体験講座は8月13日です。
9月10日からは現代朗読基礎講座の次クールが始まります。
10月14日からは隔週で「こまきみらい塾」の講師を勤めます。全5回シリーズです。

名古屋から東京へ、OS-X Lion、月あかりの森打ち上げパーティー

昨日、名古屋から東京に戻った。
名古屋ではバラさんと昼をご一緒する約束をしていたので、午前中、バラさんが仕事をしている間、加藤珈琲店でコーヒーを飲んで待機。今日はペルーのソル・デ・アンデスというコーヒーをいただいた。すっきりしていながらコクがあっておいしかった。

新幹線で東京へ。
台風通過後の先日来の涼しさがまだ残っていて、すごしやすい。が、湿度は高そうだ。渋谷の乗り換えで、相変わらず人が多く、東京を実感。5分おきに出ている電車に駆けこむ人々。街のにおい(くさい)。

羽根木の家に戻ってから、MacBook Air にさっそく Mac OS-X の新バージョン「Lion」をインストールする作業。
それとは別に、MacBook Pro のほうで iOS 5 のデベロッパー用最新バージョンのインストール作業も。
そして、MacBook Pro にも勢いでLionをインストールしてしまった。タッチパッドのスクロールの動作がこれまでと真逆なのでかなりとまどう。そのうち慣れるのだろうが。

夕方からさいかち一家と丸さんが来て、公演「月あかりの森」の打ち上げパーティー。お酒と食べ物をたくさん持ちこんでくれた。にぎやかに打ち上げをする。たくさん話もできた。何度もお礼をいわれて恐縮してしまう。お役に立てて、そしてよい公演ができてよかった。
丸さんはかたわらでとしえさんのパソコンの修理。これがなかなかやっかいなようで、結局お持ち帰りとなってしまった。

2011年7月23日土曜日

公演「レクイエム・幻のエレンディラ」@名古屋IMYホールのレポート

(写真は後日あらためて)
昨日は朝10時にIMYホールに行く。
すでに昨日の仕込みの手直しが始まっていた。深澤さんが来て、出演組も昨日のリハーサルの部分的な「返し」をいくらかおこなう。私もピアノを入れるところ、入れないところなど、いくつか確認。とはいえ、曲は伊藤さやかが歌うメインテーマ曲を除いてすべて即興。
昼食をはさんで、午後もいくらか確認。
客席ができた。70席をならべる。けっこうぎっしりな感じだ。しかし、これがあとで大変なことになってしまった。

午後3時ごろから「ゲネプロ」。これは私が演出だったら決してやらないことだ。当然、げろきょでもやらない。しかし、音楽コンサートでも演劇でも、ごく普通に自然にやっている。この手順には大いに疑問があるのだが、ここは私もひとりの出演者なので、おとなしく従う。
考えてみると、だれかの主宰・演出のもと、私とバラさんがいっしょに出演者として参加するというのは、ひょっとしてこれが初めてのことかもしれない。

開場まで少しのんびりする。椅子を並べて仮眠したり。
18時半、開場。お客さんが続々とやってくる。すぐに、来客数の読みが甘かったことが判明する。急遽、椅子を出して、客席を増やす。それでも、続々とやってくる。舞台監督のチョコくんが走りまわって、お客さんに席を移動してもらったり、パーティションを動かして客席を増やしたりする。
なんとか100席になった。それが開演時にはぎっしり満席になった。遅れて来た人はたぶん立ち見だったのだろう。
位里ちゃんや、クセックの神宮寺さんも来てくれた。設っちゃんも。

19時、ほぼ時間どおり開演。
客電落とし、暗転から、私も板付き。つまり、ピアノに座る。
「死体」のバラさんがよみがえり、そのモノローグからスタート。ピアノがからみ、やがて物語へと入っていく。
役者4人は「朗読劇」ということで読み本を手に持ってはいるが、表現はまったく演劇であり、クセックである。クセック以外の何ものでもない。そこがおもしろいのだが。
ただし、そこに私の即興ピアノが入る。私はクセックの枠組を強く意識しながら、そこに「説明的」であることを極力排した音で枠組を壊そうと切りこむ。
バラさんは当然、軽々と反応して演劇の枠を超えてくるのだが、他の3人も昨日のリハーサルから私の音を聴いてくれていたので、徐々に反応してくる。とくに樋口くんはわざわざピアノのところまで来て、挑発的な声でこちらに仕掛けてきたりした。
こういったことはお客さんにはどのように見えていたのだろうか。

メキシコで亡くなった加藤登さんの訳されたガルシア=マルケスのテキストと、実弟の明さんの音響、そして詰めかけてくれたたくさんのお客さん、スタッフ、出演者が非常な集中のなかで濃密な65分がすぎた。
終わってから長い拍手をいただきながら、カーテンコールはなし。そのかわり、控え室にささやかな交流パーティーの場を設け、そちらで歓談。ただしスタッフは撤収準備。私はパーティーのほうに参加させてもらう。
加藤登さんのご家族、友人、同級生の方々も交え、短い時間だったがよい偲ぶ会であった。私もいくらかなりともお力になれてよかった。

9時半にはすべての撤収が終わり、北村ふみさんが予約してくれた近所の洋風居酒屋に関係者一同移動して、打ち上げ。
そういえば、今回の公演の成功はふみさんがいなければありえなかった。こまごまと心使いをしてもらって、大変ありがたかった。ふみさんとはウェルバ・アクトゥスの活動で知り合ったのだが、今回もこういう形で関われたことにあらためて感謝。
打ち上げでは設っちゃんや、東京から駆けつけてくれた野々宮や、理子さんや、王者館の稽古後に駆けつけたくぼりょなどとも話がはずんだ。大変楽しい打ち上げであった。
0時前、樋口くんの車でバラさんともどもホテルまで送ってもらい、解散。眠りについた記憶がないほど、ぐっすり眠った。

2011年7月22日金曜日

北陸⇒名古屋「エレンディラ」リハーサル

台風の裾先をすり抜けて北陸へ飛び、2日滞在。その後台風は進路を南へ大きくそらしていった。
急に涼しくなったなかを、昨日、名古屋へ移動。千種のIMYホールでおこなわれる公演「レクイエム・幻のエレンディラ」のリハーサルのために会場入り。
すでにスタッフ、出演者ともに会場入りしていて、ピアノの調律も終わっていた。
ここのピアノはすでに一度お相手ずみ。2008年にカルメン・マキさんと詩と音楽のコンサートをここでやっている。あのときは記録的な豪雨に見舞われて、コンサートのあと帰れなくなった人がおおぜいいた。私たちはなにも知らずに打ち上げ会場でのんきに飲んでいたのだが。
ここのピアノはとても美人だ。キータッチは特別軽快というわけではないのだが、高音は抜けがよく繊細で、低音は重厚で迫力がある。黒鍵は艶消しでざらつきのあるタイプ。メーカーはヤマハ。
昨日のリハーサルでは様子を見ながらさぐっていたのだが、今日の本番では思い切り楽しませてもらおう。

会場はホールとはいうものの、多目的ホールなので、演劇的に使おうとすると照明機材や装置の吊りこみ、作りこみが必要だ。午前中からずっとやっていたらしい。
ステージの準備があらかた終わったのが、午後5時。そこからようやくリハーサルが始まった。
ガルシア=マルケスの「幻のエレンディラ」を朗読劇にしたものだが、朗読というより演劇的要素のほうが強い。役者は全員クセックACTから。演出もかつてクセックで演出と制作をやっていた深澤さん。
あと、声だけの出演として伊藤さやかが録音で出演。これは深澤さんが作詞、私が作曲した曲を、伊藤さやかがアカペラで歌ったもので、それを流しながら、私がピアノでからむという趣向だ。これはこれでおもしろい効果が出そうだ。

ウェルバ・アクトゥスのファンキーとデザイナーの伊藤さんが来てくれた。明日の本番には来れないということで、わざわざ見に来てくれたのだ。
午後9時前にリハーサルを終え、近所の洋風居酒屋でビール。早起きだったので、やたらと眠い。
11時にお開きとなったあと、出演の柴田くんの車でホテルまで送ってもらう。

2011年7月20日水曜日

人はどうやって作家や詩人になるのか

「作家」といっても美術や音楽、演劇などの世界にも名乗る人がある。ここでは話をわかりやすくするため、文章を書く人に限定しておく。「作家養成塾」もテキスト限定だ。
作家はどうやって作家になるのか。
世間が「彼は作家だ」と認めるとき、そこにはどのような評価が働いているのか。
「作家で食えている」
「著書がある」
「ある程度知名度がある」
その他、テレビに出たことがあるだの、週刊誌で連載を持っているだの、大衆的な評価基準もあるかもしれない。これらを満たせば満たすほど、「作家として世間で認められている」ということになる。
あくまでもすべて「外部評価」である。

ここで私は疑問を提示しておきたい。
作家という職業は、外部評価を気にしながらおこなうようなものなのか、と。

そのとおりである、という人もいるだろう。食うためには、一定以上売れる作品を書くためには、世間の評判や動きを気にしないで書くなんてことはありえない、と。
しかし、それは本当の作家のありようなのだろうか、と私は思うのだ。
そもそもなぜ作家はものを書くのだろう。

作家には、いや、ものを書く人にはふたとおりのタイプがある。

1. 自分の内的衝動からやむにやまれず書くタイプ
2. 人に評価されたくて書くタイプ

ふたとおりに分類してはみたものの、賢明な方はすぐに気づくであろう。ものを書くのはもともと「1.」の衝動から始まっている。衝動というと大げさだが、子どもが絵を描いたり歌をうたったりするのとおなじ「楽しい」からすべては始まるのだ。
あなたはもう忘れたかしら。あなたが文字を書けるようになって、ノートを自分の字と言葉で埋めていくことがとてつもなく楽しかったことがあったことを。
すべての作家は「1.」からスタートする。
しかるのちに、「2.」になっていく人もいれば「1.」にとどまりつづける人もいる。
私はちょっと特殊な例で、もちろん「1.」からスタートしたのだが、途中で「2.」へと転向し、ふたたび「1.」へと戻って、現在もそこにとどまりつづけている人間である。
あなたはどちらのタイプになりたいのか。

ライターという職業がある。
彼らは注文が来てはじめて仕事をする。つまり、文章を書く。注文がなければ、余計な文章を書いたりはしない(ふつう)。しかるべき時にそなえてエネルギーを温存している。
作家という人種は、本来、注文があろうがなかろうが、やむにやまれず文章を書きつづけるのだ。書かなければいられないのだ。書くことそのものが生きることなのだ。多くの絵描きや音楽家がそうであるように。
まれに売れっ子作家になってしまったり、食うために書きつづけなければならなくなったりした者は、注文をやたらと受けて注文に追われて書いているように見えることもある。それをまた自慢げにひけらかしたりもする。とてもあわれで、寂しい人たちだ。真の内的衝動を押し殺し、自分の魂をマーケット経済に売り渡して生きている。

話をもどすが、人がものを書く、ものを書いて自分を表現したい/だれかに伝えたい、という内的衝動は、やむにやまれぬものであり、苦しいことでもあるがしびれるほどの喜びでもあり、そしてそれは「外部評価」とはまったく関係のないことである。
自分が世間から作家だと見られているかどうかなんて、書いている本人にはまったく関係のないことであり、彼はただ好きなことを好きなように書くだけなのだ。
外部評価を気にしだし、
「こうやったら受けるだろうか」
「この話で泣かしてやろう」
「ベストセラーをねらってやる」
などということを考えはじめた瞬間から、彼は真の作家ではなくなり、たんなる商人になる。
自分が書いた作品が人に受け入れられるか、売れるか、受けるかは、たんなる結果であり、作家自身の内面や資質とはなんの関係もない。
作家であれ、詩人であれ、その人がそれたらしめるのは、その人のメンタリティでしかなく、世間の評判や外部評価はまったく関係のないことなのだ。

という考えのもと、オンライン「次世代作家養成塾」では「本当の作家」を生みだすべく、文章表現の原理の深淵にまでダイブしていこうと思っている。

オンライン「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。すでに申し込み受付が始まっています。一ヶ月の無料お試し期間があります。

2011年7月19日火曜日

自分を伝えるための文章を書く方法

現代生活では、そしてとくにケータイやネットが普及した近年は、文章(テキスト)を書くことでなにかを伝える、自分を伝える、ということがとても多くなった。メール、ツイッター、ブログ、企画書。
また、電子出版やケータイ小説でだれもが自分の表現作品を発表できるようになった時代でもある。小説や詩や評論、旅行記などは、自分のブログで簡単に発表できるし、投稿サイトもある。また、電子出版サイトを使えば、商品として売ることもできる。
そんな時代において、書く人は文章の書き方をどこで学ぶのだろう。学校で? 職場で? カルチャーセンターで? それとも見よう見まねで?

私は文章の書き方など人から習うものではないと思っている。
変なことを習ったり、生半可な文章作法を聞きかじったせいで、魅力的な文章を書けなくなっている人もいる。
例えば「起承転結」という言葉がある。文章を書くときの構成を考える方法だが、これはいつ、だれが提唱したルールなのかわからないが、相当古いことは確かだろう。このような怪しい方法論を金科玉条のように教えたり、あるいは教えられて信じこんで守っている人が驚くほど多い。
あなたは大丈夫ですか?
あるいは、自分の言葉で書いていると思いこんでいるのに、実はすべてどこかで読んだり聞いたりして覚えた「定型的」で「慣用的」な文字列だったりする。たとえば、絶望した様子をあらわすのに、
「彼は天を仰いだ」
といったような表現。そういったものを無意識に使ってしまう。

また、私たちは自分が思っている以上に、後天的に身につけ、覚えてきた「無意識のルール」に縛られている。「こうしなければならない」「こうしてはいけない」といった無意識の働きが、文章をひどく定型的でつまらなくしている。
テキスト表現ゼミや次世代作家養成塾では、文章の「書き方」を教えるのではなく、むしろ身についてしまった「書き方」をいかに自覚し、やめていくことができるかを考える。
そう、これはとても難しい作業だ。現代人はそういうことにはあまり慣れていない。しかし、それが見つかったとき、そこにはすばらしい「書き手」が誕生するのだ。これはすでに実証済みだ。

オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。すでに申し込み受付が始まっています。一ヶ月の無料お試し期間があります。

2011年7月18日月曜日

テキスト表現ゼミ秀作選「夏休み」

毎週日曜日の夜、羽根木の家でおこなっている「テキスト表現ゼミ」の習作から秀作を不定期に紹介していくシリーズ。
今回は倉橋彩子の作品。テーマは「夏休み」。

実はこの作品は、最近の倉橋彩子作品とはちょっと趣が違う。
最近の倉橋彩子は、独特のリズムを持った語り口で豊かなイメージの導入を提示することが多いのだが、この作品は完結に説明を省いて、シーンで構成されている。余計な説明はなにもない。
語り口が少し出ているのは、
「ミカの目が半目になり、なつくような、そしてちょっと拗ねるような目線をアイに送った」
この部分くらいだろうか。
「セミがこれでもかと力の限りに鳴いている」
「終業式の日にわすれた傘をぶんぶん振り回しながら歩いて」
「暑くて仕方ないが、鼻歌は越冬つばめなので、ひゅるりひゅるりとつぶやいて」
身体感覚からしか出てこない描写。青春のズキンとする1シーンを切り取って、読者に肉迫する。

【夏休み】
「ねぇ、カキ氷食べて帰ろうよ〜」
 ミカが下敷きで顔を仰いでいる。窓の外ではセミがこれでもかと力の限りに鳴いている。
「アー、だめ。今日はお母さんと出かける用事あるからダッシュで帰んなきゃ。」
「えー、登校日で久しぶりに会ったのに、すぐ帰っちゃうの〜?」
「家近いんだからいつでも会えるじゃん。じゃ、またね。」
 アイが机の間をぬって颯爽と教室を出て行った。
 ミカの目が半目になり、なつくような、そしてちょっと拗ねるような目線をアイに送った。

 ミカは、終業式の日にわすれた傘をぶんぶん振り回しながら歩いていた。
 暑くて仕方ないが、鼻歌は越冬つばめなので、ひゅるりひゅるりとつぶやいている。
「靴の紐ほどけてるよ」
「え、」
 ミカが自分のスニーカーをみると、右足の紐が確かにほどけていた。
 傘を地面に置いて、靴の紐を結びなおす。手がかすかに震える。
 その間、クラスメイトの井上君は立ち止まっていた。
 ミカが顔を上げて振り向くと、よく陽に焼けた顔から、正面を見据えていた視線がミカの方に向けられた。
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※羽根木の家に直接来られない方のために、オンライン版の講座を開催することになりました。
 名付けてオンライン版「次世代作家養成塾」。
 問い合わせ・お申し込みはこちらから。

テキスト表現ゼミ秀作選「献血」

毎週日曜日の夜、羽根木の家でおこなっている「テキスト表現ゼミ」の習作から秀作を不定期に紹介していくシリーズ。
今回は久保りかの作品。テーマは「献血」。

久保りかは文章表現というものをかなり「わかって」いる人だろう。
そもそも、「わかる」とはなにか、ということだが、ここでいう「わかる」とは、自分の感触としてどのように書けば、読み手にどんなものが伝わるか、ということが直感的に推察できる、という程度の定義にしておく。ちょっと曖昧だけど。
これは作家のセンスとしてかなり重要な部分だが(商業的にはね)、しかし、まったくなくてもかまわない部分でもある(非商業的にはね)。ただし、そのセンスがあるとないとでは、文章の手触りはまったく変わってくる。
テキスト表現ゼミのメンバーでいえば、ふなっちやかっしーがそのセンスをまったくかまわずに書けるタイプで、三木義一や久保りかが読み手に伝わる感触のセンスを持っている人だ(ざっくりいえばね)。

この作品は奇妙な、そしてどこなくエロティックな身体感覚が魅力の作品だ。それはおそらく、久保りかの身体感覚そのものなのだろう(私は直接存じあげないけれど)。
私からアドバイスをひとつするとすれば、
「前田さんは、しゃべらない」
という書きだしではなく、
「訪問先は、古いマンションの一階の一室だった」
ここから書けなかったか、ということだ。

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  献血  久保りか

前田さんは、しゃべらない。
無口というより無表情だし、意図的にしゃべってくれない、気がする。
介護福祉士という仕事を選んだ動機が想像できない……と、運転席の横顔を見つつ思った。
私は、訪問ケアのアルバイトをしている。
企業が運営しているもので、難しいケアは資格を持った社員がしてくれる。
今日は、前田さんと二人きりだ。

訪問先は、古いマンションの一階の一室だった。
前田さんは、仕事用の笑顔を作って、話しかけている。
「マリさんこんにちは」
マリさんは、椅子に座って、金色の杖をついていた。
声はか細いけれど、表情は優しげだ。
こう綺麗にされているのなら、入浴介護はなしだろう。
仕事としては、楽そうだ。
だけれど、訪問介護が必要な独居老人、というにはなんだか妙だった。
第一に、部屋が殺風景で、家具だけが豪奢で浮いている。
第二に、マリさんは随分とおきれいだったのである。
銀髪がくるりと巻かれていて、フリルのワンピースに、金のアクセサリー。
いい所の奥様だったのだろうか。
マリさんは、私と目が合うと微笑んでくれた。
「お手玉しましょうよ」
言いながら綺麗なお手玉を取り出した。
前田さんは他の仕事があるのだろうけど、立ち上がり出て行ってしまった。

「あなたは、そちらにお座りなさいな」
指された椅子も、布張りの美しいものだった。
お手玉を受け取ると、マリさんはやってみせて、とせがんだ。
私は満面の笑みを浮かべながら、三つ、両手でひょいひょいと投げて受ける。
マリさんの反応を伺おうとした途端、指に痛みが走った。
「いたっ!」
声を上げてお手玉を落とす。
後から考えたら、お手玉に針が仕込まれていたのだと思うけれど、すぐに、考える暇もないようなことが起こった。
マリさんは、私の手をグイと引っ張ると、口に入れたのである。

細い悲鳴をあげるが、思いのほか力は強い。
ここで私が力任せに引いたら、マリさんが転倒する。
咄嗟に固まると、マリさんは、ちゅうと音を立てた。
血の出た指を吸っているのだ。
目を見開いて、小鼻を広げて、一心不乱に吸っている。
舐めているのでも、噛んでいるのでもない。
痛くは、なかった。

身を献ずる精神で、というのは理解していたけど、まさか血まで献ずることになるなんて。
(だから献血っていうのか)
子どもの頃、怪我をした場所に口をつけて、血を吸ったことがある。
「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる吸血鬼が、ワイングラスで飲んでいたのが、おいしそうに見えたからだ。
よく怪我をするものだから、吸う機会には事欠かなかったけれど、そのたびにおいしいものではないと思った。
(吸われる側のことは、考えなかったな)
食い込む指が、痛い。
「マリさん、おいしい……?」
マリさんはうっとりとまぶたを閉じて、答えてくれなかった。
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※羽根木の家に直接来られない方のために、オンライン版の講座を開催することになりました。
 名付けてオンライン版「次世代作家養成塾」。
 問い合わせ・お申し込みはこちらから。

テキスト表現ゼミとオンライン版「次世代作家養成塾」

昨日は、午後、現代朗読基礎講座。夜はテキスト表現ゼミ。
テキストゼミは参加者が少しずつ増えてきて、昨日は初参加のりかさんと、来月から参加のあいこさんも参加。
今回の課題は「親指」。
毎回、私がテキトーに決めたお題を持ちかえって、一週間で500字または1000字の短文を書いてきてもらう。文章の種類はなんでもよく、ストーリー、スケッチ、エッセイ、詩、なんでもありだ。テーマと字数の制約だけがある。
参加者にはひとりずつ、書いてきたものを読みあげてもらい、講評したり、課題を見つけて解説したりいっしょに考えたりする。

昨日はまず、ふなっちの作品。どこともわからない部族の成人儀礼を描いたもので、まったくもってわけのわからない、不思議な作品。
ふなっちは自分の無意識のなかに潜んでいるわけのわからないものを、身体性とともにストーリーとして取りだす方法を発見した。それだけでおもしろい書き手の道は半分以上保証されたようなものだ。毎回、彼がどんなストーリーを持ちこんでくれるのか、楽しみでしようがない。
もっとも、わけのわからないものをただだらだらと書きつけただけでは、「人に読ませる」
ことを前提にした「作品」とはならない。昨日はそれについて少し解説してみた。

つづいておくだくん。
彼はもともと、そつのない文章を書ける人だ。今回も、そのまま商業作品として通用しそうな、完成されたショートストーリーを書いてきた。しかし、私たちは商業作品をめざしているのではなく、自分を表現するためのテキストの方法を見つけようとしているのだ。文章からおくだくんそのものが立ち現れてくるような作品がほしい。
彼にはもうひとふんばり、踏みこんでチャレンジしてみてほしい。

初回から参加しているさいこさん。
出だしから彼女の匂いが立ちのぼってくる。彼女はたしかに、自分の語り口を見つけた。ここ何回かの作品をいくつかならべて、その冒頭だけ読みあげてみると、そのことははっきりわかるだろう。
そして今回は、ファンタジー作品に挑戦してきた。これも不思議な作品で、彼女独自の世界が現れかけている。すばらしいファンタジー作家の誕生が予感される。

初参加のりかさん。
先週来られたときは、
「身体性を意識して書く? わけがわかりません」
と、かなり混乱しておられたようだったが、いざやってみたら、思いがけずすらすら1000字書けたという。なるほど、楽しい作品ができてきた。
文章には不思議なことに、それを書いた人の人柄がにじみ出す。りかさんの人柄が出ていて、とてもよかった。

かっしー。
すごい作品ができてきた。小説でもない、エッセイでもない、詩でもない。なんと呼べばわからないが、たしかに彼にしか書けない作品だ。
感覚的なことをものすごく客観的に描写して、まるで数学の証明問題のように最後まで持っていかれた。まいった。彼のこれまでの最高傑作に違いない。

最後はひさしぶりにテキストエチュードをみんなで。
今回の課題は「比喩表現」。
「この夏の暑さは~みたいだ」という比喩表現を書きなさい、というエチュード。簡単なエチュードだと思ったのだが、実際に書いてもらうと、ほとんどが「比喩表現」というものを理解していないことがわかった。こりゃびっくり。
解説する。比喩表現とはなにか。なぜ比喩表現が有効なのか。比喩表現が読者にもたらすものはなんなのか。

昨日も充実したゼミであった。
ところで、羽根木の家に来られない方のために、オンライン版の講座を開催することになった。
名付けてオンライン版「次世代作家養成塾」。
詳細についてはあらためて流すが、とりあえずこちらにも詳しく掲載してあるので、興味のある方は見てみてください。もう参加受付もおこなっています。

猫トイレの空き箱で遊ぶ子猫

羽根木の家にはムイという名のお嬢さん猫がいます。
彼女がまだ小さかったころ、ほかの子猫と同様、段ボールで遊ぶのが大好きで、その写真をたくさん撮りました。そこからスケッチを起こしています。
段ボールで遊ぶのはいまでも好きですけどね。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

2011年7月17日日曜日

壁の排水口から顔を出す子猫

雨水を排水するための土管の口から子猫が顔を出しています。どこから入ったんでしょう。
向こう側はひょっとしてすぐ近くに入口があるのかもしれませんね。曲がりくねった排水管をくぐってきたとは思えません。
壁には長年のシミの模様がありますが、彩色してみました。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

世の中には私物化していいものと悪いものがある

貴重な文化財といっても過言ではない「本郷館」の取り壊しが迫っている。
本郷館の詳細については、以下のウェブサイトを参照のこと。

 ウィキペディア
 本郷館プロジェクト
 本郷館を考える会オフィシャルサイト

1905年に建造された日本最古の木造三階建て下宿で、漱石の『三四郎』などにも本郷館を思わせるような下宿が出てくるし、蒋介石が住んでいたり、林芙美子が東洋大学の学生と同棲していたこともあるなど、学術的、文化的な価値ははかりしれない。
これがやがて取り壊されるという。あと2週間ほど。

取り壊しに至った経緯については、上記サイトに詳しいのでここでははぶくが、住人や本郷館を愛する人たちによる反対運動がここ何年かずっと続けられていた。
署名が集められ、私もそれに参加した。約3,000人の署名が集まった。
にもかかわらず、住人の強制立ち退きが始まり、取り壊しが強行されるらしい。
署名を集めていた人の話によれば、署名を拒否する理由として、
「個人所有の建物なんでしょう? それを他人がどうこういえない」
というものが多かったという。
たしかにそのとおりで、現行の法律でも所有者が取り壊すと決めた物件に対してそれを差し止めることはできない。
しかし、はたしてそれでいいのだろうか、と私は思う。

この場合、たしかに本郷館という建物とその土地は、所有者のものであり、法的にはそれを好きなように処分していいことになっている。
しかし、本郷館という物件には「公共性」があるのではないだろうか、と私は思うのだ。

個人や企業などの所有物でも、公共性が強いものはたくさんある。
たとえば、街のなかに存在する巨樹。人々がいこい、雨宿りしたり、子どもを遊ばせたりするような巨樹がたくさんある。それらはだれかが所有していたとしても、ある日いきなり伐採されたら困ったり悲しんだりする人は多い。そういう物件は、公共性を抜きにしては考えられないと思うのだ。
所有者は法律の文言だけではなく、公共性のことも考慮するべきできないのか。

公共性が必要なものは建物だけではない。
たとえば電気。これはたしかに民間企業から我々がお金を出して買っているものだが、たんなる「商品」ではない。共有財産の側面がたしかにある。電気を作るのをみんなで支え、インフラを整備し、社会全体が快適になるように協力している。
貧乏になって電気料金が払えなくなったとき、いきなり電気を止められたりすると生死に関わる。電気を「提供してやっている」という「公共理念」のない会社だと、電気代を払えない者の電気はただちに止めてしまうだろう。げんにいまの日本の電気会社はすべてそうだ。
公共理念というのは、社会にはお金持ちも貧乏人も、妊婦もお年寄りも障碍者もいるけれど、みんなで支え合って暮らしていこう、という考えが共有されていなければ、みじめなことになる。

公共理念は建物や文化財についても、おなじことがいえる。
本郷館はたしかに個人の所有物ではあるけれど、社会全体の財産でもある。所有者も含め社会全体で文化価値の高い財産を守っていこう、という意識が公共理念ではないだろうか。本郷館の所有者が、「この物件は自分の私物なので好きなように処分してもかまわない」と思っているのだとしたら、まことに公共理念のない、民度の低い人だといわざるをえない。
ゴッホの絵を高額で落札した金持ちが、それを私物として自分の書斎に飾り、だれにも見せずひとりでにやにやしていたとしたら、どうだろう。その文化資産はだれも価値を享受できなくなってしまう。
それとおなじことが、本郷館の取り壊しで起きようとしている。
本郷館は個人の所有物ではあるかもしれないけれど、私物ではないのだ、ということを私は訴えておきたい。

「レクイエム・幻のエレンディラ」朗読劇のお知らせ(名古屋)

7月22日に名古屋で加藤登氏の追悼公演がおこなわれます。
私も音楽・ピアノ演奏で参加します。そのお知らせです。

◎日時 2011年7月22日(金) 19:00開演
◎場所 IMYホール(名古屋・千種)
◎料金 2,500円

原作=ガルシア・マルケス
訳=加藤登
構成・演出=深澤伸友
出演 ピアノ 水城ゆう   
朗読  榊原忠美、可児良友、樋口大介、柴田真祐  

劇団クセックACTのウェブサイトから予約申し込みができます。

2011年7月16日土曜日

このブログを「好きなサイト」に入れてくれている人のブログ

加藤位里から教えてもらった。私のことを「好きなサイト」に入れてくれている人(うれしいな)のブログがあるというので、さっそく見に行った。
「saecotta's blog」というブログ。
気持ちのいいスケッチを不定期に掲載されておられて、見ていて楽しい。
この方、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉にも、名古屋の〈あうん〉にもライブを見にきていただいたらしい。とするとデリヘイとのライブだな。
名古屋の方のようだ。
来週、名古屋に行きますよ〜。
これからもよろしく。

2011年7月15日金曜日

東京乾電池アトリエ公演「授業」を観た

下北沢にある劇団「東京乾電池」(ボスは柄本明さん)のアトリエ公演に行ってきた。
アトリエは柄本さんの自宅の地下にあるもので、こじんまりしているが、アトリエであると同時に小劇場の風情もあって、よか。
公演はイヨネスクの「授業」という演目で、これは1960年だか61年だかにパリで初演され、今日現在にいたるまでパリではまだ毎日公演がつづけられているという名作。それを柄本明さんが東京乾電池の味つけで上演した。

主役の先生役はもちろん柄本明さんだが、相手役の女生徒役をわれらが石村みかが務めるというので、げろきょからも大挙して観劇に出かけた。
この芝居のキモは、シャイでもじもじと小声と猫背で出てくる教師と、元気でかなり不思議ちゃんな女生徒が、序盤から不気味な爆発の予感をにおわせつつ、中盤から予感どおり一気に爆発し、怒濤のようなセリフと暴力が吹き荒れていく展開にある。
さすがに柄本さん。そこはベテランらしく、恐ろしいほどに過剰なセリフを絨毯爆撃のように石村みかと観客に浴びせたおし、圧倒する。もはやセリフはなにをいっているのかすらわからず、もしわかったとしてもどうせ理不尽で不条理なへりくつであり、もともとイヨネスクがストーリー性やセリフの意味性を排除し役者の存在そのものを浮き立たせるために作った脚本であるのは明らかで、そのとおり、狭いステージをところ狭しと動きまわる柄本明と、「歯が痛い、歯が痛い」と訴えつづける石村みかの身体性が、強烈なまでに観客の前に投げだされるのだった。

最初に登場する際の柄本さんの芝居が、明らかに中盤以降との強烈な対比を狙ったものであってやや記号的だ、とか、石村みかはもっとすんごい身体性を持っているんだぞそのポテンシャルをあまり出しきれていない、とか、いくつか惜しいと感じた点はあったけれど、「狭いよーお尻痛いよー腰も痛いよー」という劣悪な観客環境にも関わらず最後まで集中を切らすことなく観ることができたのは、さすがであった。
楽しませていただきましたよ、柄本さん、石村みかさん。

2011年7月13日水曜日

コロンビア独立記念パーティーのお知らせ

詩人で「国境なきアーティスト」の主宰者のエクトル・シエラさんから案内をいただいたので、掲載します。

「今日のみずきさん」をご存知?

あいぶんこのウェブサイトのトップページに「今日のみずきさん」というコーナーがあり、そこにほぼ毎日、500字程度のコラムを書いている。
たいてい、午前中の早い時間に書いて、そのまま送信する。「はりがみ屋」というシステムを使っていて、特定のメールアドレスに送信するとそれがサイトに反映される仕組みだ。
これを平日は毎日、できるときは土日祝日も更新することにしている。
新しいものを送信すると、前日のものは上書きされて消えてしまう。なので、バックナンバーをさかのぼって読むというわけにはいかない。この感じが気にいっている。
読みのがした方はあきらめていただいて、最新のものだけ読んでいただくことになる。ナンバリングもしていないので、何回めかもサイトではわからない。
もちろん、自分の手元には原稿を保存してあるので、何回めかはわかっている。
今日更新したもので66回めだった。
3月7日から始めて、その直後、震災があり、しばらく中断した後、3月終わりから再開した。
毎日、朝起きてから、パッと思いついたことを即興的に500字書きあげる。ほとんど推敲せずに(たまに誤字脱字があるのもそのせい)そのまま送信する。このライブ感は、ツイッターにも似ている。
ほぼ毎日更新しているので、よかったら読んでみてください。
「今日のみずきさん」はこちらで読めます。

2011年7月12日火曜日

人を責めない、ダメ出ししない、反省しない、突っ込まない

昨日、ツイッターでなにげなくつぶやいたら、大変多くの人からリツイートやらリプライをいただいたので、ブログにも転載しておく。
一部書き直してます。

なにか失敗をしたとき、一番痛いのは自分自身なのに、さらに外から責められると大変つらい。なので、私は人の失敗を責めない。
責めてもなにもいいことは起こらない。
これはパフォーマンスにおいても同じことだ。
失敗はすでに終わっていることであり、いまこの瞬間にこそ意識を向けることが大切なのだ。
「人を責めない」というと、大変寛容な人のように思われるかもしれないが、これは「寛容」という言葉とは別の次元の話だ。人のパフォーマンスのクオリティをあげるためには、という話なのだ。

私の嫌いな言葉に、
「ダメ出し」
「反省」
「突っ込み」
というものがある。いずれも、人のパフォーマンス・クオリティを高めるのになんの役にも立たないからだ。
ダメ出しや反省を乗りこえなけれぱ進歩がない、と思っている人が多いようだが、そんなことはない。反省を重視し、失敗をしないためにあらかじめなにか準備しておこうという姿勢は、守りであって、個人の能力を最大限に発揮することにはつながらない。
いまからおこなうこと、いま現在、この瞬間におこなっていることに集中することで、人のパフォーマンスは飛躍的にのびていく。反省はそれを邪魔することはあっても、助けにはならない。

2011年7月11日月曜日

驚き連続の朗読ライブパーティーが終わった

現代朗読協会「羽根木の家」で2011年7月9日におこなわれた朗読ライブパーティー。エアコンもない古民家の座敷で猛暑のなかおこなわれたイベントだったが、出演者も観客も驚くほど集中して、クオリティの高い演目が数多く上演されました。
その模様について、出演者のひとりだったnaoさんと、また途中から野々宮卯妙も加わって、振り返ってみました。
また、naoさんが朗読した「初霜」という演目の裏話についても、びっくりするような話を聞きました。

ケロログ「RadioU」で配信中。

ライブパーティー追記

昨日書いたレポートは水城の自分用セットリストを見ながら書いてたので、演目に抜けがあった。
8演目に加えて、「7.」と「8.」の間にもう一演目あったのだった。
正しくは以下のとおり。

7. 水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
8. 水城ゆう「青い空、白い雲」
 まぁや&瀬尾明日香
9. 夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

「青い空、白い雲」はゼミ生でライブワークショップにも参加していたまぁやと瀬尾明日香によるふたり読みで、ライブ直前になって急遽やることが決まったもの。
分かち読みや同時読みで構成されたものだが、あまりガチガチには決めごとはなかったとのこと。コミュニケーションのなかでストーリーが展開していくのが気持ちよかった。部分的に「問いかけと返答」のような読み方の工夫もあった。

朝ゼミ、現代朗読基礎講座、テキスト表現ゼミ

昨日は朝ゼミ、現代朗読基礎講座、テキスト表現ゼミの3連チャンだった。
日曜日だったが、珍しくまりもちゃんが顔を出してくれて、朝からゆるーくお勉強。土曜日の朗読ライブのビデオ鑑賞会をやろうと思ったのだが、ここでハプニング。夜のうちにコンピューターに取りこんでおいたはずの映像が、開始20分くらいのところで途切れていて、取り込みに失敗していることが判明。どうやらSDカードのデータが壊れているらしい。
丸さんが別件で来たので、SDカードの修復をお願いして試みてもらったが、失敗。カード自体の物理エラーっぽい。
非常に残念ながら、土曜日のライブは幻のライブとなってしまった。リアルタイムで見た人は大変ラッキーであった。ま、そもそもライブというのはそういうものである。と割り切ることにする。

午後の基礎講座は、ひとり読みを中心に、暑さにもめげずにみっちりとやる。
みなさん、ちょっとしたアドバイスのたびにどんどん読みが変化していくのがおもしろい。

夜はテキスト表現ゼミ。
見学の方がひとりいらしたので、テキスト表現についての基本的な考え方をいろいろと話す。
今回のテーマは「冷蔵庫」だった。
このところ、このブログでの秀作紹介をさぼっていたので、また再開しよう。

2011年7月10日日曜日

感動の羽根木朗読ライブパーティー

昨日7月9日(土)の午後3時から、羽根木の家で朗読ライブパーティーをおこなった。
「朗読はライブだ!」ワークショップ参加の4名を中心に、ほかにもゼミ生など何人かに参加してもらって、お座敷ライブを開催した。

まずびっくりしたのは、3時から始まって、終わったのは5時だった。たっぷり2時間、やっていた。
そして、暑かった。気温は35度を超えていた。羽根木の家にはエアコンなどもちろんない。
そんな条件のなか、お客さんと出演者が一体となり、2時間という時間をまったく感じないほどお互いに集中して、数々の演目が上演された。
終わってからも、さまざまな感想をいただいた。
音楽ライブや芝居をたくさん観に行っている人たちから、ダントツにおもしろかった、すばらしかったという感想をいただいた。今日になってもまだ感動が続いている、という話をゼミ生からも聞いた。
私はずっとピアノに張りついて、いわば出ずっぱりの状態だったのだが、まったく苦にならなかった。楽しくてしかたがなかった。

昨日の演目を書いておく。

1. 夏目漱石「夢十夜」より「第三夜」の群読パフォーマンス
山田正美、まぁや、瀬尾明日香、玻瑠あつこ
2. 菊池寛「形」
瀬尾明日香
3. 宮澤賢治「いちょうの実」
山田みぞれ
4. 水城ゆう「階段」
玻瑠あつこ
5. 怪談「皿屋敷」
まぁや
6. 太宰治「女生徒」より
嶋村美希子、照井数男
7. 水城ゆう「初霜」
しまだなおこ
8. 夏目漱石「蛇」
野々宮卯妙

「1.」は大変息の合った、すぐれたパフォーマンスだった。私からも再演希望。
「2.」はテキストを読んでもらえばわかると思うが、人の「形」が相手にどのような影響を与えるのかを書いた時代もの。それを瀬尾ちゃんがファンシーなワンピースを着て読み、途中でそれを脱いでお客さんに「形」とは何か、という命題を付きつける斬新な二重構造のパフォーマンスで表現。
「3.」は今回のワークショップが初朗読のみぞれさんが、なにも飾らない、なにもたくらまない、無垢な朗読で全員を魅了した。
「4.」は大阪弁をところどころで交えたり、別の出演者をからませたり、小道具にクイックルワイパーを使ったりと、アイディアいっぱい、動きいっぱいの「楽しい怪談」となった。
「5.」は定番の古い怪談を、なんとゴスロリファッションで決めたまぁやが、これもまぁやからのリクエストで音楽もゴシック調のオルガンサウンドで付けて、日本ではなく西洋風のテイストで上演して、斬新きわまりなかった。
「6.」は若手ふたりによる、もはやユニットとして(くやしいけれど)息の合った観のあるパフォーマンスを、照井くんによれば「いいふうにでたらめにやれた」という目の離せないスリリングに見せてくれた。
「7.」は14歳の少女の思春期の複雑な心情を描いた作品だが、中学生の娘さんの制服をこっそり借りだしてきて着込んだなおさんが、動きまわるほどに時間をさかのぼって14歳にタイムスリップし、思春期の心情を吐露する朗読を痛々しく表現してくれたのがすばらしかった。
「8.」はバロック朗読第一人者が重厚に歪んだ朗読をスタートしたと思いきや、途中から自由自在にピアノとのガチンコセッションを繰り広げ、その実力を存分に見てつけてくれた最高クオリティのパフォーマンスであった。

残念ながら、ビデオカメラの不調で、その記録は残っていない。
来場いただいた方の目には焼きついていることだろう。ライブとはそういうものだ。
これらの演目は、もう少し観客にとってよい条件で再演できないか、と思っている。現時点で、私と出演のみんなとこの日の観客による、最高傑作だからだ。

国際ブックフェア、電子出版、文具、雑貨

先週の金曜日、7月8日。
名古屋泊から東京にもどり、その足で東京ビッグサイトでおこなわれている国際ブックフェアに行く。
年々、ブックフェアの会場面積は縮小されていく。その代わり、電子出版関連の面積が拡大していき、にぎわっていく。10年前はブックフェアのほんの片隅に小さなブースが数社あっただけだったが。
また、IT教育ソリューションというフェアも開かれていて、こちらも大にぎわいだった。一見、学校の先生という感じのおじさんがほとんど。

会場で月海ちゃんにひさしぶりに会う。5年ぶりくらいだろうか。なんにも変わっていなくてびっくりしたが、向こうからは「おじいちゃんになった」といわれた。
近況など聞き、元気でやっているみたいで少し安心する。
いっしょに別会場の文具フェアやら雑貨フェアやらをざっと見る。こちらはこちらでおもしろかった。
そうこうするうちに「蛍の光」が流れてきた。足が棒になった。

帰りに渋谷東急の伊東屋に寄り、文具会場で気になっていた「SHOT NOTE」というiPhoneと連動して使う手帳を買ってみた。

幻のエレンディラのリハーサルに名古屋に行く

先週の木曜日、七夕の日の7月7日は、名古屋に行ってきた。
東京は連日の猛暑が続いているが、名古屋は雨降りで、覚悟していたわりには涼しくて助かった。

22日の夜、千種のIMYホールで行なわれる公演「レクイエム・幻のエレンディラ」の打ち合わせとリハーサルのためで、公演は昨年メキシコで客死したスペイン文学者の加藤登氏の追悼公演としておこなわれる。
加藤氏は、2009年、2010年の両年とも、ウェルバ・アクトゥス公演で音響をやっていただいた加藤明氏の実兄で、そういう関係もあって深澤氏が主催、演出をする。テキストは加藤登氏が翻訳したガルシア=マルケスの小説をベースにしている。
私は今回は演出も脚本も関わらず、音楽とピアノ演奏で参加する。オリジナル曲を一曲作って、歌を伊藤さやかに歌ってもらい、それを音響的に本番中に流す(本人は不在)。そこに私がピアノの生演奏でからむ、という趣向。
基本的には朗読劇で、朗読はクセックの榊原忠美氏のほか、役者が3名。あと私のピアノだが、最後の歌曲以外は全曲即興的オリジナル演奏でからむことになっている。

加藤さんに車で名古屋駅まで迎えに来てもらい、午後3時に劇団クセックのアトリエへ。まずは音響関係の打ち合わせ。深澤さんも加わる。
全体の進行も確認する。
午後6時すぎ、スタッフとして手伝ってもらうことになっているふみさん、コギソさん、ゆみさんらもやってきた。バラさんやクセックの役者も揃って、リハーサルスタート。
いちおう朗読劇ということになっているのだが、私以外はほぼ全員が演劇畑の人なので、リハーサルも演劇的な方法で進められていく。つまり、動きやきっかけが細かく決められていく。
朗読の場合、いや私がやっている現代朗読の場合は、動きやきっかけは最後まで決めることはない。キャストも最後まで決めない。だれもがどのようにでも読め、どのようにでも動けるようにすることが稽古だといっていい。なので、演劇的方法が窮屈でしかたがない。
とはいえ、私は音楽担当で、ある程度自由を許されているので、基本的には好きなようにやらせてもらうつもりだ。

午後10時すぎ、丸の内のホテル近くの〈世界の山ちゃん〉で飲み会。
そのままホテル泊。

次世代オーディオブック・リーダー養成講座受講生募集(第12期) 

オーディオブック制作のアイ文庫では、長く聴き継がれるハイクオリティのオーディオブックの制作と、唯一無二の表現者としての読み手の育成をおこなっています。
七月の開催で、当養成講座は第12期となります。
日程の都合がつかない方は、個人セッションも受け付けていますので、気軽にお問い合わせください。

主催:アイ文庫
協力:ことのは出版
現代朗読協会

★次世代オーディオブック・リーダー養成講座
声優/ナレーター/朗読者のためのステップアップ講座
申込みはこちら

【概要】

オーディオブックの読みや収録についてのノウハウとトレーニング法を一日で集中講義します。
その後1~2か月のトレーニング期間をおいて最終オーディション(収録)をおこないます。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。

【詳細】

(1)集中講座

以下の日程で開催される一日集中講義を受講していただきます。
とても居心地のいい世田谷の築76年の古民家で、一日じっくり学んでいただきます。

日時:2011年7月18日(月/海の日)10:00~17:00
場所:羽根木の家(世田谷区/京王井の頭線新代田駅からゆっくり歩いて4分)
受講料:33,000円

(2)トレーニング

収録用の作品を選び、(1)の内容の習得と(3)にむけての1~2か月間のトレーニング期間を設けます。
期間中は、メールによる指導と面談(またはスカイプ、希望者のみ)で習得状況をチェックします。質問等も自由です。
理解度や技術レベルによっては現代朗読協会のワークショップに参加していだくこともあります(参加費免除)。

(3)オーディション

アイ文庫のスタジオにて収録をおこないます。
収録後、数日以内に合否を決定します。
合格者は、ことのは出版(株)のオーディオブックリーダーとして登録され、商業コンテンツの収録に備えていただきます。
すでに一期生から四期生が実際の収録をおこなったり、収録の準備をはじめています。

【本講座の特徴】

オーディオブックリーダー(朗読者)は、ナレーターでもアナウンサーでもなく、声優でもない、新しい声のジャンルです。
オーディオブックの朗読にチャレンジしてみたいと思っている人が多いなか、その読みや収録についてのノウハウをしっかりとアドバイスしてくれる場所はそう多くありません。
そんななかで、アイ文庫は、今後も長くネットコンテンツとして流通していくに耐えるクオリティを持ったオーディオブックの制作とリーダーの育成にあたっています。
単なる音読コンテンツではなく、「朗読作品」としてのオーディオブックを読める人を育てることが目的です。

文芸朗読、詩曲集、教科書朗読、英語朗読などで業界随一のクオリティと実績を持つアイ文庫のオーディオブック・ディレクターが指導にあたります。
ただ読むだけではない、情報伝達のみにとどまらない、「表現」の域にまで踏みこんだクオリティの高いオーディオブック収録ができるハイレベルなリーダー(朗読者)の育成をめざします。数多くの実践的なノウハウを盛りこんだプログラムで予定しています。

アイ文庫のツイッターも参考にしてください。

2011年7月9日土曜日

ピアニストは MacBook Air を持ってリハーサルに行く

名古屋まで公演の打ち合わせとリハーサルに行ってきた。
公演では私がC7サイズのグランドピアノを演奏するのだが、リハーサル会場は別会場で、そこにグランドピアノはおろか、スタンドピアノも電子ピアノすらない。が、主催者の要望でなにか音が出るものを持ってきてほしいというので、MacBook Air と、iPhoneをはめ込んで使うためのAKAIのキーボードを持っていくことにした。
このキーボードはiPhoneをはめこまなくても、MacBookにUSBでつなげば、そのままmidiキーボードとして使うことができる。MacBook Air に MainStage を立ちあげて、それをAKAIのキーボードで鳴らそうというわけだ。
もちろん、iPhoneをはめ込んで、iPhoneアプリのソフトシンセや音源を鳴らしてもいいのだが。

外に出す音そのものは、MacBook Air 11インチの内蔵スピーカーではしょぼすぎるので、外付けの携帯スピーカーを持っていった。
ALTECの単三電池4本で動くやつで、まあまあの音質と音量がある。なにより畳むと平たい四角い携帯しやすい形になるので、重宝している。
が、今回はラインアウトをリハーサル会場にあったPAに直接突っ込めたので、スピーカーは不要となった。

このように、音楽をやる人間にとって機材が少なく、軽くなるというのは、本当にありがたいことなのだ。
その分、別の荷物を増やすことができる。本とか、着替えとか。
今回は荷物を増やさずに、リュックサックひとつで一泊旅行となった。

2011年7月6日水曜日

木柵の梁を渡ろうとしている子猫

ひょいと渡るつもりが、意外に大変で、足がすくんでしまったんでしょうか。手足がぷるぷるしている感じです。目も必死です。
木枠の立体感を出すのに苦労しました。

この絵を含む猫スケッチ展を開催することになりました。

◎展示会期 2011年8月9日(火)〜28日(日)
◎場所 下北沢・Com.Cafe 音倉
カフェタイム 12:00〜15:30 ライブタイム 18:30-22:00 月曜定休
※詳細はこちら

夏の週末の午後、フレッシュな朗読ライブで涼みましょう

今週末の土曜日、7月9日は、午後3時から現代朗読協会「羽根木の家」で朗読ライブパーティーが開かれる。
無料です。どなたもお越しいただけます。
演目と出演者が揃ったので、内容をお知らせします。開催事項の詳細については、こちらのお知らせをご覧ください。

現代朗読協会では不定期に朗読ライブを開催してきたが、だいたいは「朗読はライブだ!」ワークショップの修了に合わせての開催だった。
これまでにライブワークショップは全7期おこなわれてきて、今回の朗読ライブに参加するのはその第7期のメンバーだ。
今期は参加者が4人と少なめだが、その分、濃い内容となったかもしれない。これまで10名以上の参加者があったときは、下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉を借りてやったこともある。また、東松原のレストラン〈スピリット・ブラザーズ〉で養護施設の子どもたちを招いてやったこともある。
今回は羽根木の家の座敷での気楽なライブパーティーとなる。

演目と出演者を紹介しておく。

◎夏目漱石「夢十夜」より「第三夜」の群読パフォーマンス
 山田正美、まぁや、瀬尾明日香、玻瑠あつこ
◎菊池寛「形」
 瀬尾明日香
◎宮澤賢治「いちょうの実」
 山田正美
◎水城ゆう「階段」
 玻瑠あつこ
◎怪談「皿屋敷」
 まぁや
◎太宰治「女生徒」より
 嶋村美希子、照井数男
◎水城ゆう「初霜」
 しまだなおこ
◎夏目漱石「蛇」
 野々宮卯妙

いずれも現代朗読を身につけたフレッシュな朗読者であり、型にはまった朗読を排した現代朗読ならではのフレッシュなパフォーマンスとなるだろう。
皆さんのお越しをお待ちしております。

2011年7月5日火曜日

どや! 最強最速のSSD化&64bitカーネル起動のMacBookPro

たくさん苦労したが、現時点でこれ以上はない、という MacBook Pro 15インチに育てあげた。仕事もさくさく、といきたい。

・内蔵HDD(500GB/7200rpm)をSSD256GBに換装
・光学ドライブを抜いてそこに内蔵HDDを換装
・めったに使わない光学ドライブは外付けに

この顛末については、こちらの記事をごらんください。
ただし、その後、人に頼まれたものを換装したりして、その過程で私の内蔵HDDとSSDの容量は別のものになっている。
そして、さらなら野望を。
なんだかよくわからないが、64bitカーネルで起動するとさらに最強になるらしい。
通常は32bitで起動している。が、アプリケーションなどでもよく「64bit完全対応」などとうたっているものを見る。なにやらいいものらしい。
調べてみると、MacBookProを64bitで起動するするには、起動時に「6」と「4」の数字を同時に押しつづけるとのこと。
やってみたら、たしかに64bitで起動した。確認は、ターミナルで、

ioreg -l -p IODeviceTree | grep firmware-abi

と入力する。
もっとも、起動するたびにいちいち数字キーを押しつづけるのも面倒だ。
「32- or 64-bit Kernel Startup Mode Selector」というフリーウェアがあるので、それを使うのが便利だ。
私の場合、エラーが出たのだが、なぜだか結果的にはうまく64bitカーネルで起動できるようになった。
ターミナルコマンドでも恒常的に64bitカーネルで起動できるようにする方法はあるようだ。これはAppleのサポートサイトに掲載されている。

さて、速くなったのか。
ベンチマークをやっているサイトがあって、読んでみると、通常のアプリケーションレベルの処理ではさほど速度に違いは見られないが、ディスクへの読み書きなど、データの出し入れではっきりと速いことがわかる。これはたぶん、SSDの能力も最高に発揮することになるのだろう。
うれしい。

トランジション世田谷・茶沢会の説明会に参加した

昨夜、羽根木の家でトランジション世田谷・茶沢会のメンバーのhiloさんと桃さんが中心になって説明会が開かれ、初めての人も含め10人くらいが参加した。私も初めてだった。
そもそも「トランジションタウン(TT) ← これ、泣いてる顔文字じゃないよ」という言葉を聞いたのは、hiloさんからだった。

トランジションタウンとは、ひとことでいえば、「持続可能な社会」をめざす運動なのだが、これまでにもそういったものはいくつかあった。
たとえば、「エコビレッジ」というものがあります。これは、経済至上主義、グローバリズム、マス社会といったものから逃げだし、より小さな、思いやりのある、人間らしいコミュニティを作ろうというもので、都会を逃げだした人たちが田舎のほうで自給自足の生活を始めたり、コミュニティを作ったりしている。
沖縄や北海道、信州の山奥にそういうコミュニティを作って生活している人たちが、けっこうたくさんいる。
トランジションタウンも似たような考え方をベースにしてはいるものの、大きな違いがある。それは「いま住んでいる街でゆっくりと移行していこう」というものだ。つまり、別の場所に行ってあらたなコミュニティを作るのではなく、いまここにいる場所を変えていこう、というのだ。
そしてより重要なのは(と私は思っている)、なにより、まずは自分たちの意識を変えていこう、内なるトランジションから始めるのだ、という考え方がおもしろい。

昨日集まった方たちはじつに個性豊かな、しかし穏やかな、話好きの人たちで、説明会のあと飲食会になったのだが、とてもなごやかで楽しい雰囲気となった。とても初対面の人がまじっているとは思えなかった。
ちょっと驚いたのは、生活スタイルを変えていきたいと思って勉強を始めてはいたが、まわりにはそういう人がいなくてずっと孤独に勉強しつづけてきた、あるいは孤独に子育てをしてきた、という人がいたことだ。
私は現代朗読協会のみんなといつもいっしょにいるので、だれともつながっていない、どのコミュニティにも属していない孤独な人がいるというのは、頭ではわかっていたが、実際にそういう人がやってくるのを見て驚いた。トランジションタウンの会に参加できて、本当にほっとした顔をされているように見えた。
このような、自分の生活を大切にしながら、ゆるやかな社会全体を変えていこう、そのための勉強をみんなでやっていこう、というコミュニティがもっともっと増えてくるとおもしろい、と思う。

2011年7月4日月曜日

身体で読む、紙の上で考える

昨日・日曜日は朝から朝ゼミ、午後は現代朗読基礎講座の今期2回め、夜はテキスト表現ゼミとつづいた。
ゼミも基礎講座も、朗読表現における身体の使い方や、マインドフルネスと反応反射を使った無意識領域の表現表出のことなど、相変わらず世間一般の朗読講座とは「真逆」の内容でやる。何度でも繰り返し、表現の本質に立ち返りながら、その上で細部も詰めていく。

テキスト表現ゼミは相変わらずおもしろかった。
なにがおもしろいといって、参加者の書くもののクオリティがどんどんあがっていき、毎回どんなおもしろい作品が出てくるのか楽しみなのだ。
今回もすぐれた作品、意表をつく作品など、いくつか出てきた。

終わりのほうで、みんなが使っているノートや手帳を教えてもらった。
私も手帳は好きなのだが、それぞれ手書きのノートや手帳を使っているのが興味深い。そんなところから、紙の上で思考する、という話になる。
次回のゼミのテーマは「冷蔵庫」で、テーマに沿って文章を書いてきてもらうのだが、その際に、紙の上で思考する実験を各自してもらうようにリクエストした。どうなるか楽しみだ。

下北沢で「猫のうた」ライブと展示をおこないます

詳細は後日あらためてお知らせしますが、日時と内容のあらましが決まったので、速報を出しておきます。

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて、8月9日(火)から28日(日)まで、私の猫の絵の展示をさせていただくことが決まりました。
音倉は店の壁面がギャラリースペースとなっていて、これまでにもいろいろな方が絵や写真の展示をされています。
今回は私の猫の絵ばかり20数点を展示します。

このオープニング日に合わせて、猫にちなんだ朗読ライブを音倉でおこないます。
開演は13:30です。
音倉ライブでの通常のチャージ料金2,500円と、ドリンク代500円をお願いします。
出演はいまのところ、まりも、野々宮卯妙、まぁや、瀬尾明日香、唐ひづるが決まっています。
猫を題材にした詩や小説などの文学作品の朗読とピアノ演奏を楽しんでいただければ、と思っています。

母猫に埋もれて顔を出す子猫

ちょっとわかりにくいですが、まわりは母猫の毛です。くるまれていたところを、ひょいと顔を出したところです。
顔アップの猫絵はあまり描いたことがないので、ちょっと苦労しました。

◆絵を額装して販売しています◆
ご購入はこちらから。

2011年7月3日日曜日

たぬき模様の猫

身体は普通ですが、顔の模様が独特ですね。
色使いの調子が出てきました。一見淡い色合いですが、けっこうたくさんの色種を使ってます。面倒だけど、きれいにしあがると楽しいです。

◆絵を額装して販売しています◆
ご購入はこちらから。

おなじものを見つめる二匹の子猫

子猫が二匹、折り重なって、舗道の敷石の上にいます。
なにか同じものを見ているようです。目つきが鋭いのは、強く興味をひかれる対象があるんでしょうね。
色使いを割合減らして、シンプルにしてみました。うまくいったように思います。

◆絵を額装して販売しています◆
ご購入はこちらから。

現代朗読は朗読界の異端児なのか? いやそうではない

昨日の午後は「朗読はライブだ!」ワークショップ第七期の5回めだった。いよいよ今週末の土曜日は朗読ライブ本番だ。

昨日は見学の方がふたり見えた。
おひとりは、もう朗読を10年以上習っているというベテランの方だが、げろきょのワークショップでやっていることを見て、
「朗読教室で習っていたことと真逆!」
とびっくりされていた。
なにが真逆かというと、げろきょでは自分の外側になにか基準を作って、それらしく読もうとすることを注意深く排除する。例えば6歳の子どものセリフが出てきたとき、「6歳の子どもらしく」読もうとはしない。
その理由については、先日の日記「朗読でのセリフの扱い」のなかで書いたし、Podcast「RadioU」のなかでもそのときのゼミの模様をそのまま採録している。
簡単にいえば、外部から与えられたある典型(=記号化されたもの)をなぞろうとすると、自分自身が消えてしまうし、その表現はだれもが似通った薄っぺらなものになってしまう、という考え方だ。
世間一般の朗読教室では、その逆で、「らしく」やることを求められるという。子どもらしく、お年寄りらしく、紳士らしく。あるいは文章そのものも漱石らしく、芥川らしく、時代小説らしく、童話らしく、といった具合に。その「なぞる方法」をこと細かに教えられる。
なるほど。真逆である。

もうひとりの方はずっと音楽をやってこられて、朗読は一度もやったことがない。が、ちょっと興味を持ったので、一度見学に、と来られたのだった。
最初から最後まで目を丸くしておられた。
朗読がまさかこんな風に自由な表現とは知らなかった、こういう表現は初めて見た、というのだ。いや、それはげろきょだけですから。
しかし、朗読からあらゆる「足枷」をはずし、表現本来の自由で奥深い楽しみを追求している現代朗読が、異端であるとは思っていない。むしろ本質であるとすら思っている。

今期のライブワークショップのレギュラーメンバーは4人とコンパクトだが、この4人による夏目漱石の「夢十夜・第三夜」は非常におもしろく仕上がってきている。
彼らのほかに、ゼミ生も何人か参加して、今週末の7月9日(土)午後3時から、羽根木の家で朗読ライブが開催される。
無料で、どなたも観覧できます。どうぞお越しください。詳細はこちら

2011年7月2日土曜日

ライフハック:節電の夏の過ごし方

ま、あくまで、私の場合、ということで、勤めておられるような方には通用しないかもしれませんが。
「ライフハック」は割合好きで、自分でも『水城式情報整理術』なんて本まで出したことがあるほどだ。
時間の使い方、手帳の使いこなし、GTD、睡眠法、健康法など、いろいろな方法を試してきたし、その手の本があるとすぐ読みたくなる。
今日は時間の使い方について、自分のメモも兼ねて書いておきたい。

これまで私はエアコンのある家に住んでいたが、今年の夏は羽根木のエアコンのない家ですごさなければならない。ちょうど世間は節電をしいられているので、気持ち的には悪くない。
とはいえ、連日30度を超え、へたすると35度以上になるような猛暑では、いくら緑に囲まれた古民家環境といっても、暑いことは暑い。
汗をかくので、扇風機を回せばなんとかすごせるし、時々水シャワーを浴びて身体を冷やすのも有効だ。が、日中はさすがにボーッとする。仕事どころではない。
私の仕事は、ひとりで家にいるときはものを書いたり、音楽を作ったり、コンテンツを編集したり、といったことなので、暑さがこうじると仕事にならない。
そこで、対策を考えた。

まず、デスクワークは午前中にすませることにする。昼前くらいまではなんとか涼しくすごすことができそうだからだ。
仕事時間を確保するために、なるべく早起きしたい。できれば空が明るくなる午前4時くらいには起きてしまいたいものだ。
窓を開け放して網戸だけで寝ているので、朝方になると鳥やカラスの声、新聞配達のバイクの音などがけっこううるさく、目がさめてしまうこともあるので、早起きはその対策にもなる。
もっとも、その分、夜は早く寝なければ睡眠不足になる。

ここでひとつ、考え方の転換をする。
睡眠時間をまとめて6、7時間確保しようとすると、午前4時起きなら、夜9時か10時までには寝てしまわなければならないことになる。が、東京の生活はなにかと夜が遅く、なかなかそういうわけにはいかない。だから、
「できれば午後10時までには眠るけれど、無理なときは遅くなってもかまわない。そのかわり、4時か、遅くとも5時起きは確保する」
という方針でいくことにした。
で、睡眠不足になったら、昼寝で乗りきる。
昼寝の10分は夜寝の1時間に相当する、などといわれている。なるほど、そういう感じがすることはある。ちょっと眠って、起きるときにはしんどいが、すぐにすっきりとする。寝すぎると逆につらい。5分か10分、長くても15分くらいの昼寝が大変有効だ。
勤め人もこの程度の時間なら、昼休みなどにうたた寝にあてることはできるのではないか。

午前中はデスクワークをして、暑い午後は昼寝、外出、プール、頭をあまり使わないこと、などにあてる。
夜はできるだけ予定はいれない。
といっても、私は現代朗読ゼミをやっているので、週に3日くらいは夜にも予定がはいっている。また、ライブや公演を見にいったり、人と会う約束がはいってきたりして、すべての夜をあけておくわけにはいかない。
それでも、できるだけ予定はいれない。そして、絵を描いたり、ビールを飲んだり、好きなことをやって、9時すぎには早々に寝てしまう。
節電にもいい。

元々早起きは好きだし、得意だ。午前中のほうが確実に仕事がはかどることは、すでに経験ずみだ。
今夏はこういうライフスタイルでいこうと思う。これがうまくいくようなら、秋以降もつづけたい。

2011年7月1日金曜日

ファミレスにて(いま現在進行形)

「なに食べようかなあ」
「お腹ぺこぺこー」
「あたしもー。なにしよっかなー」
「冷やし中華にしようかな」
「あ、それいいねー」
「でも、パフェも食べたいんだよね」
「あたしもパフェ食べたい。パフェ、おいしいよねー」
「でも、やっぱ冷やし中華かな」
「冷やし中華だよねー。暑いもんね。あたしも冷やし中華にしよっかなー」
「パフェも捨てがたいんだよね。迷うなー」
「悩むー。カレーにしよっかなー」
「いきなり?」
「直前に変更するタイプ」
「カレーもいいよねー。暑いときにはカレーだよねー」
「だよねー。でもやっぱ冷やし中華にしよっかなー」
「どうしよう。迷うよねー。パフェも捨てがたいし」
「パフェもいいよねー。悩むー」
「お腹ぺこぺこー」
「あたしもー」
最初に戻り、ループ。

私は「悩む」とか「迷う」とかいう自分の態度にどことなく罪悪感を覚えていて、それはおそらく「男の子」として教育されてきたどこかで獲得してしまったものだと思うのだが、つい最近まで女性たちが「悩む」「迷う」ことそのものを「楽しんでいる」ということにまったく気づかなかった。おろかであった。
上記の会話はそのまま隣の席の若い女性ふたりの会話を逐語で書きうつしたものだが、ほとんど内容に意味はない。迷っていることを楽しみ、その楽しみを共有し、共感している、その状況そのものに意味があるようだ。
私には無理。

朗読でのセリフの扱い、朗読と演劇の違い、レクイエム収録

昨日は朝ゼミと昼ゼミがあった。
朝ゼミには、名古屋から小林サヤ佳ちゃんが来て、いま練習中の民話を語って聞かせてくれた。ゼミ生たちも大いに感動。得るところも多かった模様。
後半は、みんなでオーディオブック収録のために読みこんでいる宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を、役割を割り振って分読。ここで問題になったのは、朗読における「せりふ」と「キャラクター」の扱い方。例えば小熊が登場するのだが、だれもが「小熊らしく」読もうとしてしまう。それでいいのか。
自分の外側に「小熊」というある一定のイメージのキャラクターを設定してそれを目指すのでは、だれもがおなじ表現にとらわれてしまう。そうではなくて、自分の内側に表現の出発点を見つけていくべきではないのか、という話。演じることと朗読すること、演劇と朗読の最大の違いの話などもする。

昼は新代田のピピカレーへ。大勢なのでどうかと思ったが、うまい具合に席があいているというので、総勢8人で行く。

午後は昼ゼミ。
ゼミ生になってまだ日が浅いかおるさんに、自由な読みについていろいろとエチュードをやってもらう。音楽を使ったり。
その後、野々宮から、以前のようにもっと読解をしっかりやったほうがいいのではないか、という提案がある。たしかに最近は身体の使い方のことばかり注目してしまっていたかもしれない。まりもちゃんが朝ゼミの読解の課題を取りまとめてくれることになった。
ついでに、まりもちゃんが8月2日にほぼ決定の「猫朗読ライブ」に出演してくれることになった。

伊藤さやかが来て、名古屋で今月おこなう公演「幻のエレンディラ」のためのヴォーカル収録。
「レクイエム」というオリジナル曲なのだが、作曲に丸二日。そして収録もけっこう手こずった。1時間くらいで終わる予定が、4時間くらいかかってしまった。公演自体は一回きり、1時間くらいのもの。
公演詳細はこちら