2011年12月31日土曜日

音楽家や著者はこれからどうやって生きていけばいいのか

CD、DVD、書籍など、知的生産物としてのコンテンツがまったく売れなくなっているといわれています。それは業界にとって悲鳴に近い論調です。
 実際、私も音楽やオーディオブック、書籍などのコンテンツビジネスの世界でずっと生きてきて、そのことを肌で痛感しています。制作者はどんどん廃業に追いこまれ、出版社もバタバタと倒れています。
 たとえば音楽制作の現場でいえば、かつては高額なスタジオを好きなだけ押さえ、プレイヤーもオーケストラを筆頭に好きなだけ使えましたし、プロモーションにもふんだんにお金を使えました。が、いまやプロモーション費用はぎりぎりまで抑えられ、プレイヤーやスタジオも使えないので、CDを出そうというアーティストは自宅に何日もこもってコンピューター相手に音を作っているありさまです。
 これはプロのアーティストもそうなのです。
 その姿だけ見るとまったくかつてのアマチュアミュージシャンとおなじで、インディーズCDを作っているのと変わりありません。プロとアマチュアの差がなくなってきている、というより、プロがどんどん追いこまれているといったほうがいいでしょう。
 つまり、マーケットが極端に縮小しているのです。
 小説家を含む書籍の著者もおなじです。書籍印税だけで生活できるのはほんのひと握りで、あとは学者などほかに本業を持っている者が専門分野でものを書いて出版しているにすぎません。
 その一方で、音楽を聴く人、本を読む人が少なくなっているのかといえば、そんなことはありません。音楽はかつて以上によく聴かれているし、映像もたくさん見られているし、活字もたくさん読まれているのです。ただ、コンテンツの収益構造が旧態依然としていて、一次制作者のもとへお金が流れなくなっているだけの話です。

 レコード会社にしても出版社にしても、古い商習慣のなかにあぐらをかきながら「売れない、売れない」を連発し、その怠惰のツケを一次制作者に払わせています。
 一次制作者とは、つまり、音楽家であり、著者であるわけで、彼らの生活はどんどん困窮し追いつめられていきますが、レコード会社や出版社の社員は給料をもらっているのでとくに困りません。会社がつぶれてしまえば困るのかもしれませんが、とりあえずは会社がある限り毎月決まった給料がはいってきます。だから、危機感にかられて現状をなんとかしようという意識は、一次制作者に比べて極めて低いといえるでしょう。とくに、これらの会社を経営している管理職や重役以上の人々は、まったくなにも困っていないので、むしろ現状維持でいいのです。本当は現状維持どころではない事態が進行しているんですけどね。

 音楽にしても映像にしてもテキストにしても、コンテンツから制作費(および制作者の生活費)を回収するにはどうしたらいいか、という話です。
 私はこれまでのビジネスモデルではもう無理だとかんがえています。というより、このモデルは耐用年数をすぎています。賞味期限切れなのです。
 どういうビジネスモデルかというと、コンテンツを大量にコピーして消費者に売りつけ、そのあがりをみんなで分けよう、というものです。一次制作者は10パーセント前後の「印税」もしくはロイヤリティという形で分け前を受け取ります。これは、消費者がコンテンツに対してお金を支払ってくれる、そしてそれが単なるコピー製品であるのに大量に買ってもらえる、ということを前提としたものです。
 しかし、マーケットに出回るコンテンツはたんなるコピーなのでいくらでも複製できるし、複製が増えれば増えるほど価値は下がります。つまり、コンテンツは売れれば売れるほど、作られれば作られるほど、価格が限りなくゼロに近づいていく商品だともいえます。
 商品として大きな矛盾を抱えているといわざるをえません。
 では、一次制作者はこれからどうやって生活していけばいいのでしょう。

 もちろんこのビジネスルールから離脱するのです。資本主義経済のシステムから離脱して、別の枠組みをみずから作ればいいのです。
 そのあたらしい枠組みを作るためのツールは、すでに全員が持っています。あとはそのツールを使いこなし、またみずからの表現クオリティを高める努力を惜しまず、またそのスキルを惜しげもなく他者や次世代へと伝えていく精神を持つだけです。
 音楽家や著者にとって、必要なことは、レコード会社や出版社に依存して作品を流通させることではなく、リスナーや読者に作品を届けることです。これまではレコード会社や出版社が流通ルートを使ってその役目をになってきたわけですが、ネットが発達した現代においてはもはや流通ルートは必ずしも必要ありません。流通を通すことなく、直接ユーザーに作品を届けることは可能です。流通にマージンを取られることもなく、作り手からユーザーへとダイレクトに作品を渡すことができるようになりました。
 これは同時に、作り手とユーザーが直接つながれるということでもあります。
 また、CDや書籍を作る方法も、個人の手のなかに充分に落ちてきています。コンテンツ制作はもはや資本に頼らずとも、個人がいくらでもできるのです。音楽でいえば、音楽制作環境は恐ろしく安価になりましたし、ソフトも充実しています。出版も電子書籍ならすぐにでも作って売ることができます。紙の本もオンデマンドのサービスがいろいろと出てきています。
 このような状況でプロとアマチュアを分けるものがあるとすれば、コンテンツのクオリティしかありません。つまり内容のよさ。

 デジタルコンテンツはコピー商品ですから、それだけで生活するのは難しいかもしれません。無料、もしくは非常に安価でなければ、ユーザーは手に取ってくれないでしょう。
 では、アーティストはどこで生活ベースを確保すればいいのか、ということになります。
 これまでアーティストは自分の「独自性」を確保することで、他コンテンツとの差別化をはかろうとしてきました。それは技術的な部分を含みます。そしてその技術は人に知られないようにしてきました。が、この情報化社会において技術的独自性はもはや意味がありません。どんな複雑な、人にまねができないような技術を駆使したところで、それはすぐに知られ、コピーされます。
 アーティストはその部分に力を注ぐのではなく、自分自身のオリジナリティ、つまり身体性と感受性を表現することで、独自性を持てばいいのです。その方法はまた、デジタル技術ではなく、まちがいなく身体と結びついたアナログ技術です。音楽でいえばライブ演奏であり、書籍でいえば思想であり文体であり、つまり生活そのものでしょう。
 そしてもっとも重要なことは、それらの行為をすべて社会に開示することです。学びたいという人があれば、広く受け入れることです。私塾をやってもいいでしょう。生徒を取ってもいいでしょう。メールマガジンを発行してもいいでしょう。とにかく、これまで閉じられがちだったアーティスト個人の世界を、積極的に社会に向かって開示し、社会と関わり、社会活動に参加していくことで、時間を超えた贈与をおこなっていく。その必要性のなかで生活ベースを作っていけばいいのです。
 すでにそのような活動を始めているアーティストがいくらかいます。意識しているかどうかはわかりませんが、こういったアーティストが次世代をになっていくのだろうと思います。
私もそうありたいと考えています。