2011年10月31日月曜日

朗読や音楽における成熟したオーディエンスとは

 内田樹氏が書いた「さよならアメリカ、さよなら中国」というブログ記事に、資本主義についてのわかりやすく書かれていたのがおもしろく、紹介します。

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資本主義は「勝つもの」がいれば、「負けるもの」がいるゼロサムゲームである。
この勝ち負けの振れ幅が大きいほど「どかんと儲ける」チャンスも「奈落に落ちこむ」リスクも増える。
だから、資本主義者たちは「振れ幅」をどうふやすかに腐心する。
シーソーと同じである。
ある一点に荷重をかければ、反対側は跳ね上がる。
どこでもいいのである。ある一点に金が集まるように仕向ける。
「金が集まるところ」に人々は群がり、さらに金が集まる。
集まった金をがさっと熊手で浚って、「仕掛けたやつ」は逃げ出す。
あとには「そこにゆけば金が儲かる」と思って群がってきた人間たちの呆け顔が残される。
その繰り返しである。
このマネーゲームが順調に進むためには、消費者たちはできるだけ未成熟であることが望ましい。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
だから、資本主義は消費者の成熟を好まない。
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 なるほど。
 私はふと、朗読や音楽のリスナー(オーディエンス)のことを考えました。資本主義、つまり商品経済においては、オーディエンスもまた成熟してもらっては困るかもしれません。CDやDVD、あるいはネットコンテンツ、ライブチケットといったものが、集中的に売れるためには、オーディエンスが未成熟であり、均一の価値観でおしなべられていることが必要だということになります。
 だから、テレビは消費者をよりバカにしようとがんばるし、音楽業界も多種多様な音楽を売るのではなく均質な音楽を大量に流してオーディエンスの成熟をはばもうとするのでしょう。
 オーディエンスが多種多様な価値観を持つまだに成熟し、その購買行動が予測不能になっていけば、資本主義者はとても困ります。
 私たち表現する者は、まさにそれに対する戦いを生きているといってもいいかもしれません。

 また、資本主義社会における人の消費行動について、TPPを引き合いに出して書かれています。

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TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
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 これを表現の場でのチケット料金にあてはめるとどうなるでしょうか。
 一円でも安いチケットのほうがいい、と考えるオーディエンスは、その表現が衰退しても構わないと考える可能性があるということになります。その表現を衰退させない、応援したいと考えているオーディエンスは、一円でも安いほうがいいとは考えませんね、きっと。少しくらい高くても観に行きたい、と考えるでしょう。
 自分のことに引きつけて考えると、それは納得できます。
 逆にいえば、表現者は自分のパフォーマンスの場を成立させるための料金について、一円でも安く、などとは考えないほうがいいということになります。自分が表現をつづけていくためにどの程度のお金が必要なのか、そのための価格設定を堂々とすればいいのかもしれません。
 表現作品や表現の場と、商品経済・資本主義経済を切りはなして考えたほうがいいというの、私がいつも主張していることですが、表現ばかりでなく我々の社会構造そのものにもそのような考え方が必要な時代になってきたように思います。

朗読者・榊原忠美氏による「沈黙の朗読」レポート

 先週土曜日に名古屋〈あうん〉でおこなわれた「沈黙の朗読」の公演レポートは、すでに私もこちらに書きましたが、朗読の出演者である榊原忠美氏も自身のブログで書いてくれているので、一部を紹介します。

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ピアノとクラリネットと照明と私の朗読が交錯する空間に立ち会われました。どんな感想が出ているのか解りませんが、話を聞かせていただいた方は、本人を前にしていますから「悪かった」とは言えないでしょうが、「楽しめたわ」なんて言葉が飛び出していました。まあ、まずまずといったところでしょうか?観客を100%満足させられませんから、その半分、いや三分の一でも、「おっ」と思って下されば良しというところです。そう思うと出演者も照明方も楽しかったのですから、その気持ちが伝播したと思う事にいます。
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 全文はこちらからどうぞ。

足の裏を意識することで変わること

 こまきみらい塾の現代朗読講座は、先週も定員いっぱいの40名のご参加をいただき、盛況でした。けっこう冷えこんだ日だったんですが、教室は皆さんの熱気でムンムンしてました。
 その講座で質問が出ました。
「なぜ足の裏を意識するんですか」
 私はいつも、朗読をするときには「足の裏を意識するといいですよ」というアドバイスをしているのです。
 見ているとわかりますが、朗読をしている人はたいてい、本に書かれている文字とそれを見ている眼、動かしている口、そして頭の中に自分の意識が集中しています。実際には朗読はほかに、耳も使うし、呼吸や姿勢も使います。ようするに身体全部を使っているのです。でも、なにかを読もうとすると、そのことを忘れてしまいます。
 自分の身体がここにあって、その全部を使って表現する、ということを思い出すためには、足の裏を意識するのがもっとも簡単な方法なのです。つまり、頭や口からもっとも遠い身体の場所に意識を向けることで、身体全体のことを思い出すことができるのです。
 これはマインドフルネスのひとつの方法です。すべての表現には、そしてイキイキと生きていくためには、このマインドフルネスが大変有効です。

2011年10月30日日曜日

名古屋→福井、実家

名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」公演を終え、栄のホテル泊。このホテルはバラさんが取ってくれたものですが、定宿にしていた丸の内のホテルより少しだけクオリティがいいのです。部屋が少し広くて、ベッドがかなり広い。シングルだけど、セミダブル。
 そして朝食がいいのです。バイキング形式だが、おにぎり、味噌汁、ほかにいろいろ和食を中心としたおかずがあって、なによりそこで作っている人の姿が見える厨房があります。おばちゃんだけど。
 次からはここを定宿にしようかなあ。料金も500円くらいしか変わらないし。アクセスもいいし。

 ベッドが広いので、とてもよく眠れます。昨日も一昨日も熟睡して、朝、目がさめたときには、ここがどこなのか一瞬思いだせないほどでした。
 この熟睡ベッドについて、杪ちゃんから強烈な失敗談を聞いたんですが、あまりに強烈すぎてここには書けません。
 今朝は8時にフロントに集合ということで、降りてみたら、バラさん、杪ちゃん、坂野さんと、すでに全員集合。みんな元気です。
 チェックアウトして、バラさんの車で名古屋駅まで送ってもらいました。

米原経由で北陸本線、福井へ。えちぜん鉄道を乗りついで、実家へ。
 肺がんの手術をして、退院したばかりの母が駅まで迎えに来てくれました。車の運転は支障がないそうです。顔色もよく元気そうです。が、リンパ腺への転移があって、その治療が来週から始まるということで、ちょっと心配です。
 母ももう78歳なので、これまで親不孝ばかり重ねてきた長男息子としては、せめて気持ちだけでも孝行したいものです。
 それはともかく、やはり北陸は寒い。秋というより、もう初冬ですね。紅葉はまだ本格的ではありませんが。

名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」公演

昨日は名古屋〈あうん〉での「沈黙の朗読」の公演でした。
 早朝からバラさん、杪ちゃんといっしょに〈あうん〉へ。会場と照明のセッティングのためです。
 劇団クセックから助っ人として樋口くんと柴田くん、今回の公演の制作の優美さんと知り合いのようへいくんがすでに来ていました。
バラさんの指示で、舞台になる背後のガラス窓の外側にある塀の上に黒い板を張り巡らせて、向こう側の住宅街が見えないように目隠しをするという、大掛かりな作業が樋口くんに任されました。一方、杪ちゃんも照明機材のセッティング。とても朗読公演とは思えない大掛かりなものです。
 私が使うアップライトのピアノも窓際に移動。それ以外に私自身はたいしてやることはないので、少し手伝ったり邪魔したりするだけ。

優美さんがけっこうおいしい弁当を調達してきてくれて、昼食。
 午後にはクラリネットの坂野さんも到着したので、ライブの段取りのきっかけの打ち合わせ。どこでピアノが入って、どこがクラリネットが入る、といった、ごくおおまかなきっかけを決めますが、あとはすべて即興演奏。バラさんは照明との兼ね合いがあるので、立ち位置などは確認しますが、それもほとんど即興。照明も即興。
 あらかじめ作り込み、準備し、決められたとおりのことをなぞってやる、というようなことを、我々はもはややりたくないんですね。なぜなら、お客さんも空間も時間も私たち自身のコンディションも気持ちも、すべて変化のなかにあり、「いまここ」に誠実に向かい合っていくしかないからです。

 大掛かりな目張りの工事が終わり、エンディングで使う布と吊り革の仕掛けもできて、出だしのリハーサルと、エンディングのリハーサル。
 エンディングはけっこう細かな段取りを決めたんですが、これが本番ではまったく機能せず、予測不能の事態に。まあ、これもいつものことです。この緊張感がたまりません。

 午後6時半からお客さんが来はじめ、7時の開演時間には40名くらいの方で店はほぼいっぱいに。中高年の方、とくに女性が多いです。
 女性が多いのは東京でのげろきょ公演も同じですが、年齢層が高いのは名古屋の特徴でしょうか。というより、東京のげろきょ公演の年齢層が低いことのほうが特徴的といったほうがいいかもしれません。
 さて、始めようとして、ピアノにつき、暗転になったとき、止めておくといったはずの換気扇がまだ回っていることに気づきました。なにしろ「沈黙の朗読」ですから、なるべく音がするものは減らしておきたいのです。そこで、暗転になっていたにもかかわらず、ピアノを離れ、換気扇を止めてもらうべくスタッフのところに走りました。ついでに、これも回すのを忘れていた記録用のビデオカメラのスイッチもオン。
 気をとりなおして再スタート。
 バラさんの朗読に、すかさずピアノとクラリネットがからみ、70分一本勝負の即興パフォーマンスの始まりです。
 70分間も集中力を持続させるというのは、出演者も大変ですが、お客さんも大変です。とくに年輩の方は大変だったかもしれません。それでもだれひとり席を立つ人もなく、最後まで聴いてくださいました。そして最後には大きな拍手をいただくことができました。ありがたったです。

 ライブは終わりましたが、〈あうん〉のイベントはまだつづきます。この公演は食事とセットになっているので、半分以上のお客さんが食事のために残ります。
 スタッフと出演者は照明機材などをそそくさと片付け、途中から出演者を優先してもらってお客さんの席にまぎれいっしょに食事をさせていただきました。〈あうん〉の食事はオーナーの有馬さんがみずから作っておられて、オーガニックでとてもおいしいのです。そしてお客さんの声を直接聞かせてもらえる貴重な機会でもあります。
途中で私にピアノ演奏のリクエストがはいりました。
 まさかリクエストがあるとは予想していなかったので、さて困った。
 結局、秋の曲ということで「夕焼け小焼けの赤とんぼ」をアレンジして演奏。これ、来月の音倉のランチタイムコンサートでも弾いてみようかな。
 演奏が終わったらびっくりするくらいたくさんの拍手をいただき、アンコールという声までかかりました。もう一曲だけ、ということで、ジャズのスタンダードを弾いて、ようやく終わりにさせてもらいました。

 お客さんが全員帰ってから、有馬さんを交えスタッフだけで飲み会。
 今回もいろいろ起きたハプニングやらサプライズやらについて大笑いしながらみんなで夜中まだ語りあったのでした。
 いやいや、みなさん、お疲れさまでした。

演出家への最高の報酬とは

 私のところへ毎月、何人もの人が朗読を習いに来ます。とはいえ、私自身は朗読者ではありません。まったく朗読はやりません。そのかわり、演出の立場で多くの人の朗読を聴き、アドバイスをしたりいっしょに考えたりします。
 現代朗読協会の体験講座や基礎講座、あるいはライブワークショップ、それらの見学としてやってくるのは、まったく朗読経験のない人か、あっても従来の朗読に行き詰まってなにか突破口はないものかと模索している人がほとんどです。
 みんな緊張して、難しい顔をして来られます。
 その人たちも、現代朗読の考え方にふれ、実際にやってみていくにつれ、しだいに表情がほぐれ、笑顔になってきます。現代朗読には「これをやってはいけない」「こうしなきゃいけない」というものが一切ないからです。むしろ、意識的にせよ無意識的にせよ、身につけてしまった思いこみや癖を自覚し、それを「やめていく」ことに重点が置かれます。
 ほかの朗読講座や朗読グループから来られた人の多くが、
「いつもいわれていることと真逆だ」
 とびっくりします。
 たとえば、
「しっかり声を張りましょう」
「お腹から声を出しましょう」
「文章の意味が変わらないように、間合いを取る場所はしっかり決めておきましょう」
 というようなことをいわれるそうですが、現代朗読ではそんなことはやりません。むしろそのような「恣意的」な行動を「やめていく」ことに重きを置きます。こういった恣意的なことを多くの人が無意識に思いこんで、「やってしまっている」のです。とくに朗読経験の長い人ほどそういう傾向があります。
 思いこみや癖を自覚し、それをやめていくにつれ、そこには驚くほど自由な表現が広がっていることに、たいていの人は気づきます。そしてその瞬間、笑顔になるのです。
「朗読ってこんなに自由だったんだ」
「こんなに楽しかっんだ」
「目からうろこが落ちました」
 こういった感想が出てきます。その瞬間、私は演出家として「報われた」と思うのです。
 私がおこなうのは、ある人を何者かに「作りあげる」ことではなく、ある人を本来その人があるがままの輝かしいオリジナルの姿に連れ戻すことなのです。それができたとき、その人は自由を取りもどし、自分をあるがままに表現する子どものときとおなじ楽しさを再発見するのです。
 それがかなったときの笑顔が、演出家としての私にとって最高の報酬です。

2011年10月29日土曜日

小牧経由、名古屋に来ています

 小牧経由、名古屋に来ています。
 小牧ではこまきみらい塾で現代朗読講座をやりました。二週間ぶり二回めです。今回も定員いっぱいの40名の方が参加して、まあすごい熱気です。身体と言葉をつないでいくエチュードや、朗読の身体を意識するエチュードをやってもらったので、きっといまごろ筋肉痛でしょう。朗読講座に行って筋肉痛になるなんて、とみなさんは笑っておられましたが。
 私も名古屋のホテルではぐっすり眠り、朝は一瞬、ここがどこだかわからなかったほどです。こういうのはひさしぶりです。
 ホテルの朝食では、埼玉から来て2週間も名古屋に滞在している、という若者と少し話をしました。なんでも、大学や電力会社に、水流実験のための設備を納入している会社の仕事で来ている、とのことでした。私もテレビで見たことがありますが、水路に波を起こして津波の実験をしたり、水流を作り出していろいろなことを調べたり、といった実験設備ですね。東日本大震災があったので、いま、注目されているのだ、といってました。
 なるほどねー。
 さて、今夜はライブレストラン〈あうん〉で「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」のライブです。朗読は榊原忠美、クラリネットの坂野嘉彦、照明の杪谷直仁、そして私という、黄金のおっさんカルテットで臨みます。

2011年10月28日金曜日

だれでも簡単に不幸になれる方法

 だれでも簡単に不幸になれる方法を教えてあげましょう。
 それは「他人と自分を比較すること」です。
 私のところにはたくさんの人が朗読の勉強にやってきますが、最初はみなさんたいてい不幸です。なぜなら「自分は人より朗読が下手」と思っているから。人と比較して、下手と思いこんでいるんですね。たいてい「自分なんか」と思っています。
 その上手/下手という基準は、世間が作りあげた外部評価であり、おおむね技術的な面しか見ていません。しかし、朗読もそうですが、表現には「技術的な側面」のほかに「オリジナリティ」という、より重要な側面もあることを忘れてはいけません。
 だれもが他には代え難い固有の身体と精神を持っています。それは「差異」こそあれ、比較して優劣をつけられるものではありません。このオリジナリティを別のオリジナリティ、つまり他人に伝えることこそ、表現の本質です。それなのに、往々にして人々は、自分と他人を比較して、優劣をつけようとします。自分のほうが他の人より下手だと思いこんで、勝手に不幸になっています。
 そうではなくて、技術的には下手だけど、自分にしかないオリジナリティを表現する喜びを持てたとき、人は幸福になります。自分を伝える喜びのなかで幸せを感じます。そして技術をさらに磨き、表現のクオリティをあげていく努力もまた、喜びをもって取り組めるようになります。
 自分の幸せは、人と比較することではなく、自分のなかに見つけるしかありません。自分が自分であり、いまここにいる自分のありようが生き生きとしていること。このことにしか幸福はありません。金持ちになるとか、なにか目的をとげるとか、人より上手になるとか、そういうことのなかには幸福はありません。いまここにある人生の課程そのものを楽しめること、それが幸福な生き方だと思います。

こまきみらい塾と名古屋「沈黙の朗読」に行きます

 今日はまた、愛知県小牧市の「こまきみらい塾」での現代朗読講座に出かけます。2週間おきに全部で5回のシリーズです。今日はその2回めです。
 前回の初回では、定員40名のところ、定員いっぱいの方々に来ていただいて、盛況でした。かなり大変でしたが。
 いやいや、そんなことをいってはいけません。大勢の方に現代朗読の魅力と神髄をお伝えする機会をいただけたことに感謝したいと思います。
 今回はこまきみらい塾の翌日、名古屋の〈あうん〉というライブレストランで、「沈黙の朗読」という朗読セッションをおこないます。これは3年前に東京・中野の〈plan-B〉というスペースで初演し、昨年、名古屋の芸術劇場で再演した演目で、名古屋とおなじの朗読・榊原忠美と、クラリネット・坂野嘉彦というメンバーでやります。気心の知れた演者と、なじみのある演目を、時間と空間を違えて今回はどうなることやら、と期待しながら臨むというのは、悪くない気分です。
 こんなふうに、東京を軸にしながらも、いろいろな場所に出かけて話したり、演じたりする機会をいただけているというのは、本当にうれしく、ありがたいものです。
 小牧と名古屋のみなさん。お会いするのを楽しみにしてます!

2011年10月27日木曜日

げろきょ祭りリハーサルいくつかつづく

 いよいよげろきょ祭り「しもきた奇譚」が来週に迫ってきて、リハーサルがつづいています。
 演目が全部で11。出演者が総勢22名。
 まさに「祭り」です。
 すべて従来の朗読とは一線を画した現代朗読として、自由でのびのびとした演目ですが、とくに「コンテンポラリー」の要素が強い演目がいくつかあります。実験的な要素があり、これは私と演者も苦労しながら取りくんでいます。それについて、ちょっと紹介しておきたいと思います。

 まずは先の日曜日にリハーサルをした、鎌田絽未(かまたろみ)による太宰治「待つ」のコンテンポラリー朗読。
 音楽とのかけあい。音楽が流れるときは朗読は静寂に。朗読が流れるときには音楽は静寂に。という入れ子のパフォーマンスなど、いくつかのアイディアが盛りこまれています。これがけっこう難易度が高くて、苦労してます。本番ではどうなりますやら。

嶋村美希子と照井数男のパフォーマンス。これも「コンテンポラリー度」が高い朗読です。昨日、今日と、つづけてリハーサルをしました。
 とくに嶋村美希子にやってもらう私のオリジナルテキストは、テキストではなく朗読者の「身体性」を際立たせるための仕掛けで、いわば「肉体朗読」とでもいうべきもの。23歳の朗読者の身体性を、健全でありながらいかに危ういアンバランスを内包しているかを体現してもらうために使うパフォーマンスです。
照井数男の独特の身体リズムも、みもの。

 まぁやと瀬尾明日香がふたりでやる新美南吉の「二匹の蛙」もくせ物。
 昨日、初めてリハーサルをしたんですが、かわいらしく、また爆笑ものでありながら、ところどころセクシーでもあるという、なんとも形容しがたい味わいのパフォーマンスとなっています。たわいない、しかし実は深い意味にも取れる新美南吉の童話を、フリースタイルでやってくれます。

 今朝は朝ゼミメンバーによる宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の最終リハーサルでした。総勢7名。
 これは群読シナリオがあってある程度段取りが決められていますが、こちらも現代朗読として最終的に個々の身体性と「いまここ」の即興性にゆだねられます。
 朝ゼミは固定メンバーによって何か月も稽古を積み重ねているので、大変クオリティの高いパフォーマンスが期待できます。私も音楽演奏のアイディアを、今日のリハーサルでしっかりと練りあげました。

 これらの成果は11月3日のげろきょ祭り「しもきた奇譚」で存分に発揮されます。
 皆さんのお越しをお待ちしてます。詳細はこちら

これからは好きなことしかやりません・宣言

 表現についての話。
 私だけではないと思いたいですが、自分が過去に作ってきた作品や行為を振り返ると、すべて消去してリセットしたい気分になることがよくあります。
 いいようにかんがえれば、それだけ「成長した」という解釈もありうるわけですが、客観的にいってやはり出来の悪い作品やパフォーマンスが累々と横たわっているわけです。これは消しようもありません。
 しかし、ふと気づいたのです。このように自分の過去作品を恥じるというのは、つまり自分にたいして「評価」をくだしているわけです。
 いつも私は朗読ゼミやテキスト表現ゼミで口を酸っぱくして「評価を手放せ」といっています。それなのに、自分自身ではそれができていない。まったくこれは矛盾しています。
 というわけで、自分自身に対する評価もばっさりと手放すことにしました。問題は、どうやれば評価を手放すことができるか、です。
 自分がプロ、あるいはその道の専門家だと思っているから、外部評価や自己評価をあてはめてしまうことに気づきます。プロ/専門家というのは、それがお金が稼げるか、どれだけ多くの人から評価されているか、売れているか、人を集められるか、素人と比べて技術力がどれだけあるのか、といった点で評価されますし、また自分でも評価します。この基準を捨てないかぎり、評価を手放すことはできません。
 そこで、プロ/専門家であるという意識を捨てればいいのだ、ということに気づきました。そもそも、プロ/アマチュアという区分をするのはナンセンスだといつもいっているではありませんか。
 人にはプロ/アマチュアの区分はナンセンスだ、評価を手放せ、といっているくせに、自分のこととなると棚上げしていたのはまったくお粗末な話です。私は自分では、小説や詩などテキスト表現のプロ、音楽製作や演奏のプロだと思っていました。しかし、それらの行為にたいしていつもやりなおしたい気分に陥るくらいなら、最初からプロだと自負/自称しなければいいわけです。最初から初心者とおなじ気持ちでなにごとにも向かえばいいのです。
 そうかんがえるととたんにあらゆることが楽になりました。気持ちが楽になるばかりではなく、創作が楽しくなります。小説書きもピアノ演奏も趣味だと思えばいいのです。自分の好きなことを好きなようにしか書かないし、好きなようにしか演奏しない。なぜなら趣味だから。趣味だから自己評価もしなければ、他人の評価も気にならない。ほめてもらえればうれしいけれど、けなされても気にならない。だって好きでやってることだから。
 よく考えてみれば、私がテキスト表現において提唱している「純粋表現衝動」は、この「好き」のなかにしかないのかもしれません。ここから出発しなければ本物の表現はできないのです。
 これまでにも、そしていまも、いろいろな作品をけなされたり、演奏をこきおろされたりして傷ついてきましが、これからは気にすることはありません。なにしろ好きでやってきただけのことですから。そしてこれからも純粋に「好き」でやっていきたいと思います。ええ、そうです、もう好きなことしかやりませんよ。
 表現の話でした。

楽しい家事

 先日、家事を楽しくやることについて書きましたが、自分自身でもマインドフルネスに気をつけてすごすうちに、いろいろなことがさらに楽しく感じるようになりました。秋だというのに。
 というのも、私はずっと秋が苦手だったんですね。寒いのが苦手で、それはいまも変わらないんですが、これから寒くなる季節かと思うと気分が滅入ってしまうことが多かったんです。が、マインドフルネスのおかげでそれも少し変化が起きたようです。
 毎朝、起きるとすぐに、布団をたたんで押し入れにしまいます。以前はそんなことも億劫に思っていたものですが、このところ布団をしまう動作そのものに傾注して、しまったあとの気持ちよさを味わっています。
 布団をしまったら、猫の餌と水やり。餌入れと水入れは毎日かならず洗ってやるので、もしそのときにシンクに洗い物が残っていたら、それもついでに片付けます。汚れていればついでに磨いてピカピカにします。
 それから、猫のトイレの始末。曜日によってはゴミ出し。それから自分の朝ご飯の準備。
 毎日やることですが、やらなければ困ります。猫も困るし、自分自身だって困ります。どうせ毎日やることなら、集中して、自分自身を全部使って、できれば楽しみながらやりたい。楽しんで生きる。この世からおさらばするその瞬間まで楽しんですごしたいですね。

2011年10月26日水曜日

体験講座参加の方が書いてくれた体験記

 前回の現代朗読体験講座に参加された方(高校の演劇部の先生)が自身のブログで体験記を書いてくれてます。
 こちら
 ありがとうございます。
 なお、次回の体験講座は11月12日(土)に開催されます。
 詳細はこちら

コミュニケーション能力は身体から作る

 就職や結婚、仕事、家庭、あらゆる場面における人々のもっとも大事な能力は「コミュニケーション能力」である、というアンケート調査の結果があります。
 まあ、そのとおりでしょう。
 人は社会的生き物ですから、人との関わりのなかに生まれ、生きていきます。
 このコミュニケーション能力に著しい齟齬が生じているのが、現代社会といえます。会社や家庭、学校などで、まったく人間関係のトラブルに巻きこまれたことのない人などいないでしょう。人と人がいっしょになにかやるとき、そこには必ずなんらかの軋轢や利害のぶつかりが生まれます。それは当然のことなのですが、それをどうやって乗り越えながら、平和で心穏やかに関わりつづけていけるか、というところにポイントがあります。
 世の中にはたくさんのコミュニケーション・セミナーがあります。話し方教室やプレゼンテーションのスキルアップ講座なども、その一種といってもいいでしょう。どの講座やセミナーも、熟練者によって秘策が練られ、有益なものだと思いますが、あまり「身体性」というものに注目したものは多くないようです。
 私がおこなっている音読ケアや音声表現者の個人セッションは、すべて「身体性」を再重要視しています。人はだれかと言葉を交わすとき、文字情報だけを交換しているわけではありません。その言葉がどのように発されているのか、言葉を発している相手がどのような状態であるのか、呼吸、姿勢、表情など、音声と同時に大量の身体情報を受け取っているのです。この部分をおろそかにしては良質なコミュニケーションを考えることはできません。
 呼吸、マインドフルネス、身体と声の結びつき、こういったことにフォーカスしてコミュニケーションの練習をしてもらうと、驚くほど劇的な変化が起こる人もいます。たとえば最近では「自分の声を注意して聴くようになって(こういう練習もあるのです)怒りっぽさがなくなり、生活が穏やかになった」という報告を聞いて、うれしくなりました。
 自分の呼吸、声、そして身体にまず目を向け、「いまここ」の自分自身にマインドフルであること。たったこれだけのことが、コミュニケーション能力やプレゼンテーション・スキルの大きな向上をもたらします。これができる人は、わざわざ私のところに来るまでもありません。

北杜夫さんのご冥福をお祈りします

 北杜夫さんが亡くなりました。
『どくとるマンボウ航海記』をはじめとする「どくとるマンボウ」シリーズや、『楡家の人々』はだれもが知っている作品でしょう。とくに『航海記』は私にも特別な思いいれがあります。ことのは出版からの依頼でオーディォブックを作ったからです。
 朗読は相原麻理衣。一冊全部を丸ごと朗読して、オーディオブックにしました。こちらからダウンロード購入できます。
 相原麻理衣はアイ文庫でオーディォブックを作りはじめた、その最初の朗読者のひとりです。夏目漱石の『坊っちゃん』を最初に彼女に全編朗読してもらったところから、アイ文庫オーディオブックの仕事がスタートしたのです。
 このあたりの経緯は拙著『オーディオブックの真実』に詳しく書いています。
 もちろんオーディォブックの思い出だけでなく、中学生のころには小説やエッセイをたくさん読みあさりました。さまざまな風景を見せてもらいました。
 北杜夫さんはアイ文庫がある羽根木のすぐ近所に住んでおられました。だいたいこのあたりだろう、といつも近くを通りかかるたびに思っていました。
 心よりご冥福をお祈りいたします。

2011年10月25日火曜日

創作のモチベーションと外部評価を捨てること

現代朗読協会「羽根木の家」で週に2回開催されているテキスト表現ゼミの模様からの抜粋。
締切りがないと書けないのか、ライブ日程がないと朗読の練習にも熱がはいらないのか、という話から、純粋表現衝動についての話。そして、純粋さを失わせる最大の要因である外部評価の話へと。
評価を捨てること、人にどう思われるか予測しないこと、これがとても難しい、というお話。

テキスト表現ゼミでは、随時、参加者を募集中ですが、羽根木の家まで来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成講座」も並行開催しています。
興味のある方はこちらをご覧ください。

ケロログ「RadioU」で配信中。

バラさんが「29日の「沈黙の朗読」を大宣伝!!」

 今週末、10月29日(土)は名古屋のライブレストラン〈あうん〉で「沈黙の朗読」をやりますが(詳細はこちら)、朗読者の榊原忠美氏も自身のプログ「木を植えた人のひとりごと」でおもしろい紹介文を書いてくれてます。

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 今週の土曜日に名古屋の「ステージあうん」で公演する「沈黙の朗読」ですが、まだ少し席があるそうです。水城さんの書き上げた現代人の悲劇!でもあり、その現代人の悲劇を生み出す浮遊感がしっかりと都会に住む一人のサラリーマンを介して描かれています。「それでも僕はやってない」周防正行監督の映画にも似ていなくもないといっても似ていない、まさにサラリーマン自身にも解らない不可解な事件が勃発!果たして、このサラリーマンはどこへ行ってしまうのか?こんな作品に、どう二人のミュージシャンが絡んで来るのか?
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 全文はこちら

無料オーディオブック『彼岸過迄』の連続配信が終わります

 以下、アイ文庫のツイッターから、アイ文庫オーディオブックの制作責任者として昨日流したツイートをまとめたものです。

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 窪田涼子の朗読による夏目漱石の長編小説『彼岸過迄』の連続配信が、もうすぐ終わりを迎えます。あと10回くらい。
 全部で118回ありますから、長らくの配信となりました。
 すべて無料での配信でした。
 無料にしたのは、なるべくたくさんの方に聴いてもらいたい、という望みが第一にあったからです。そして実際に多くの方に聴いていただくことができました。が、期待どおりではなかった面もあります。もっと多くの方に聴いてもらえるのではないかと期待しすぎたかもしれません。
 ひょっとして、いくら無料とはいえ、世の中には私たちが考えているほどオーディオブックというコンテンツに対してのニーズは高くないのではないか、ということを感じています。これは精査してみる必要があるかもしれません。
 それはそれとして、オーディオブックを聴くのは楽しいものですよ。まだ聴いたことがない人は、ぜひ一度試してみてください。どうせ試すなら、ぜひアイ文庫オーディオブックのようなクオリティの高いコンテンツでお願いします。せっかくオーディオブックに興味を持ってくれたのに、クオリティの低いものを試し買いして(そういうものは安価ですし)がっかりした、という声を聞くこともありますから。
 もうひとつの望みとして、やはり多くの方に聴いてもらったあとは、有料のコンテンツにも手を出してもらいたかった、ということがあります。なぜなら、収益がなければ私たちも作りつづけることはできないからです。こういうパブリックドメインの文芸コンテンツに関してはどこからも制作費が出ませんから、リスナーの方に買っていただくことで製作体勢を維持していくしかないのです。
 しかし残念ながら、今回についても、また過去のおなじような試みについても、リスナーの方からの買い支えはほぼ「ゼロ」でした。この結果についても、きちんと受け止めなければならないと思っています。
 というわけで、長らくご愛顧いただきましたが、アイ文庫オーディオブックの無料配信はこれにて終了、ということにさせていただきます。
『彼岸過迄』の残りがまだ10回分くらいありますので、どうぞ最後までお付き合いいただきますよう。
 またどこかでお会いできることを祈りつつ。

実は年寄りより若者のほうがリズム感が悪い?

 ここ何年かのあいだにうすうす気づいていたことですが、いよいよはっきりしてきました。
 朗読のワークショップで、時々、拍手や歩行などでリズムを取ってもらいながらテキストを読みあげるエチュードをすることがあるんですが、どうもこのときに若い世代の人々がルズムがうまく取れないことが多いのです。
 そんなはずはない、と思っていました。なぜなら、若い世代は生まれたときからリズムのある音楽をたくさん聞いているし、カラオケやライブ演奏に触れる機会も多いでしょう。音楽を体感し、リズムを取りながら聴いたり歌ったりする機会が多く、リズム感も古い世代より相当発達しているはずだ、と思っていました。
 ところが、実際には違っています。若い世代ほどリズムを取りながらテキストを読みあげたり、あるいは「弱起」のような変則的なタイミングの取り方がへたなのです。
 その原因を考えてみました。彼らが聴いてきた音楽はポップスやロック、歌謡曲など、一定のビートを刻むものが多かったはずで、そのせいで逆にリズム感が貧弱になっているのではないか。
 リズム感というのは、一定のビートを刻むことも必要ですが、揺れ動くリズムを感じたり、変化するリズムに即応して自分も呼応していけることも必要です。また、おなじ拍のなかでビートを3や4に刻み変えてみたり、といったことにも対応できることも必要です。一定のビートに乗ることばかりしてきた彼らは、おそらくリズム感覚を麻痺させている/楽させている/甘やかしてきた、のではないでしょうか。そのために、複雑なリズムや揺れ動くリズムに呼応できないのです。
 いうまでもなく朗読は揺れ動くリズムです。音楽でいえば、民族音楽やクラシック音楽が近いでしょう。すぐれた朗読者はすぐれたリズム感の持ち主でもあります。しかしそのリズム感は、決して一定のビートを刻みつづけられる「正確さ」で表現されるものではありません。
 朗読に限らず、音楽だってそうでしょうね。一定のビートだったら機械に刻ませておけばいいんです。そのほうがよほど正確ですし。人間にしか表現できない微妙に揺れる、スイングする、変化するリズム感。そういったものを、朗読者もミュージシャンも養うといいのではないでしょうか。
 ロックやポップスばかりでなく、クラシック音楽や民族音楽を聴くことをおすすめします。

げろきょ祭り「しもきた奇譚」が近づいてきた

 現代朗読協会ひさしぶりの大きなイベントが近づいてきました。げろきょ祭り「しもきた奇譚」という朗読公演です。文字通り、下北沢でやります。〈Com.Cafe 音倉〉というライブカフェなので、飲み食いしながら音楽ライブのように楽しんでいただければと考えています。
 11月3日です。
 朗読公演というと、着物をきっちりと着付けた女性がひとりずつステージに出てきて、椅子に座って静かに本を読む、というイメージがあります。観客も静かに読まれるストーリーに耳を傾ける、というイメージですね。
 現代朗読協会のライブはまったく違います。説明するのは難しく、とにかく観ていただくのが一番なのですが、おとなしく座って読むような場面はほとんどありません。朗読も身体表現であり、私たちが普段しゃべるときも身体をいろいろと使っているように、朗読においても身体を意識します。「いまここ」にいる朗読者の存在と「いまそこ」にいる観客がいっしょに表現空間を共有するのです。
 朗読ライブではまず考えられないことですが、かけ声が飛んだり、笑いが起こったりします。出演者も客層も年齢層が幅広いのも特徴です。若い人にもぜひ来てほしいのです。朗読が辛気くさいものではなく、フレッシュで楽しい身体表現であることを、ぜひ見知ってほしいと思います。

2011年10月24日月曜日

未開拓の表現分野、それが朗読

 クラシックバレエやモダンダンスの世界に「コンテンポラリー」という考え方が持ちこまれ、たとえばピナ・バウシュのタンツ・テアターのような現代表現が舞踊の世界にもたらされました。
 コンテンポラリーというのは、伝統に縛られない、私たちが「いまここ」にあるがままで表現しよう、という考え方です。表現者がみずからの優位性を誇示することもありません。ただみずからの身体をそこに提示し、表現によるつながり/共感の場を作ることが、コンテンポラリー表現のめざすところです。
 日本では朗読の世界にこの考え方を持ちこむ人がいませんでした。しかし、現代朗読で初めてコンテンポラリーの方法が始まったのです。
 私はいまこの演出として、日々、さまざまなことを試みていますが、試みることのほとんどすべてがまだだれもやったことのないことです。そのことに自分でも驚きながらやっています。朗読の世界は、コンテンポラリー表現のなかで唯一、未開の地だったのです。
 現代朗読が音楽とフリーセッションをすることがありますが、日本でも屈指のミュージシャンとガチンコでまったくひけを取りません。それどころか、音楽を食ってしまいそうな勢いです。
 本当に楽しくて、新鮮で、驚きに満ちた日々を、この数年、すごしています。

2011年10月23日日曜日

現代朗読の勢いは音楽を食わんばかりなのだ

昨日は朝から現代朗読基礎講座の今期4回めでした。
 滑舌練習のための早口ことばを、あれこれと検証しながらやっていたとき、「今日の奏者は書写じゃぞ書写じゃぞ」をリズム読みしてみることになり、みんなで手拍子を打ちながら読んでみました。なんだか楽しくなり、本来の目的を離れて子どものように楽しんでしまいました。そのとき、以前から感じていたことですが、こういったリズム遊びのときのリズム感は、意外なことに若者よりも年長者のほうがいいんですね。
 これについてはちょっとした論考があるので、あらためて書いてみたいと思います。
 ほかにもいろいろな気づきのあった回でした。なにより楽しかった。

昼はひさしぶりにピピカレー。
 しばらくのんびりしてから、午後4時からテキスト表現ゼミ。今回のお題は「湯たんぽ」。なかなか粒揃いの作品が揃って、これもまた楽しかったです。

夜は中野〈スイートレイン〉での板倉克行さんのライブにみんなで乱入。土曜の夜ということもあって、店は満席でした。そして今回も、現代朗読のパフォーマンスが音楽と充分に拮抗しうるばかりか、ときに音楽を食ってしまうほどの勢いであることを目撃したのでした。私もピアニカで参入しましたよ。

 終了後は板倉さんを連れて羽根木の家に戻りました。そこからまた深夜まで飲み会だったのです。
 濃い一日でした。今日はまだ若干、お酒が抜け切ってない感じ。

家事を楽しくこなす、それ自体を目的とする

 家事の話のつづきです。
 私たちが思いこんでいるように、あるいは社会全体でそう思われているように、家事は本当に面倒なことなのでしょうか。本当はこんなに楽しいことはないのではないでしょうか。
 例えば私たちは毎日食事をします。それは生命を維持するためであると同時に、楽しみでもあります。またときにはだれかとコミュニケーションを取りながら楽しくすごす時間でもあります。
 家事もおなじことではないでしょうか。
 もしいやいや食事をしなければならないとしたら、人生はどれだけ貧しいものになるでしょうか。おなじように、いやいや家事をしていることでどれだけ人生をつまらなくしているのか。
 喜んで楽しく家事をすることで、その時間を「生きて」すごすことができます。その時間も限られた人生の一部なのです。台所を片付け、洗濯物をたたみ、部屋を掃除することで、快適にすごせるようになった家事後の時間もまた、人生の一部です。わずかな時間をおしんで仕事に打ちこむことより、快適な時間を作るために喜んで家事をこなしたほうが、仕事をはじめとするほかの時間も快適になります。
 一緒に暮らしている人がいれば、その快適さに気づいたり、感謝の気持ちを持ってくれるかもしれません。が、感謝されることが目的ではありません。それはあくまでたまたまもたらされた結果であって、家事を楽しみをもってやる、というところ「のみ」が大事なのです。

2011年10月22日土曜日

家事を楽しくやれる人とやれない人の違い(2)

 昨日のつづきの家事の話です。
 私も実は家事が嫌いでした。子どものころから家事はめんどくさいもの、やらなくてすめばそれに越したことはないもの、自分のやりたいことや大事な仕事の邪魔をするもの、という思いこみがありました。
 しかし、あるとき気がついたのです。その思いこみは自分が思ったのではなく、外部からあたえられた価値観なのだ、ということに。
 たとえば私のような世代の男は、子どものころから、家事はおもに女性がするもの、と思いこまされて育ちました。例えば父親が洗濯や掃除をしているところなど見たことがありません。それらは母親の仕事でした。たまに父親が釣ってきた魚をさばいたりするのを見ることがありましたが、非常にめずらしい光景でした。だから、居間で男がテレビを見ながらビールを飲んでいるときに、妻が台所で洗いものをしている風景も、さほど違和感を覚えませんでした。
 が、ある時期から男性も家事や育児に参加すべし、ということが盛んにいわれるようになりました。その言説の背景には、「つらくてめんどくさい家事や育児」を女だけでなく男も肩代わりすべきだ、という空気があったように思います。つまり、いぜんとして社会には、家事を下等な労働として位置づける空気が流れていたのです。
 この項、さらにつづきます。

2011年10月21日金曜日

家事を楽しくやれる人とやれない人の違い

 どうして家事を楽しくやれる人と、嫌でいやでしかたがない人といるんでしょうか。
 洗いものや洗濯、掃除など、家事を毎日楽しそうにやっている人を見ると、幸せな気分になります。そういう人に「なぜそんなに楽しそうなの?」と聞いても、はっきりした答えは返ってきません。せいぜい「だって楽しいから」程度の答えしか返ってきません。
 逆に家事が苦痛で、毎日いやいや、しようがなくやっている人を見ると、こちらまでつらくなります。そういう人に「なぜそんなに嫌なの?」と聞くと、「だってめんどくさいから」という答えが返ってきます。
「めんどくさい」この言葉は近代社会の発明のような気がします。
 近代・現代社会ではなにごとも効率よくすることが「よし」とされ、生産的な生活を送るためには日常的なルーティーンワークはなるべくさっさと効率よくすませてしまうことがよいとする価値観が生まれました。私たちもその価値観に閉じこめられて生きています。掃除機や洗濯機、炊飯器、食器洗い機などなど、はてしなく家事を効率化するための機械が発明され、生産され、買わされています。
 こういった「文明の利器」を使って家事を効率よくこなす、できれば家事労働などないほうがいいのだ、という価値観のなかで生活しているような気がします。それで本当に生活が楽しくなるのでしょうか。そこに幸せがあるのでしょうか。
 この項、つづく。

2011年10月20日木曜日

げろきょ祭りに向けて詰めの動きがあわただしい

午前中、朝ゼミ。
 朝ゼミメンバーのまりもちゃんが明日誕生日だと聞いていたので、日榮さんに頼んでケーキを買ってきてもらって、ゼミ中にサプライズ。楽しかったなあ。
 その後、11月3日のげろきょ祭りで朝ゼミメンバーがやる「なめとこ山の熊」の稽古。ここにいたってようやく配役を決めました。

 昼、11月10日に北浦和でやる「マダムの朗読会」のために、日榮さん、玻瑠さん、唐さんが来て、稽古。これには私はあまりタッチしていません。楽器が使えない場所だということもあります。
 その間にコンビニで弁当を買ってきて、昼食。

午後2時から昼ゼミ。
「マダムの朗読会」の演目「蜘蛛の糸」の稽古。抱腹絶倒。
 げろきょ祭りの第一公演、嶋村美希子と照井数男による「夢十夜・第七夜」の稽古。これはオリジナルシナリオでやるんですが、現代朗読的に少し入り組んだ構成になっています。
 最後はみんなに参加してもらって、やはり第一公演でやる「二匹の冒険」の稽古。まったく未完成ですが、なんとかなるでしょう。

夜までにいくらか仕事を片付けようと思ったんですが、やたらと眠い。仮眠しながら作業。今日はついにガスファンヒーターをつけてしまいました。
 居残った嶋村と照井が第一公演の稽古をやりました。

 夜は音読ケアワーカーの勉強会。
 その前に絽未さんが早めに来て、げろきょ祭りでやる現代朗読の演目の個人稽古。太宰治の「待つ」をやるんですが、かなり挑戦的な仕掛けを考えていて、稽古も難しい。しかし、これもなんとかなるでしょう。おもしろいものになると思います。
 勉強会は、音読ケアワーカーが身につけておきたい人の身体についての基礎知識項目の確認。さまざまなことを網羅しています。だいたい知っているつもりでも、あらためて洗い出してみると、曖昧だったことや知らなかったことがぼろぼろ出てきておもしろい。私もあらためて大変勉強になりました。

ノイズのなかにこそものごとの本質がある、かも

「ノイズ」という言葉があります。
 先日、ジョン・ケージのインタビュー本を読んでいて、そのなかで「騒音」という言葉が頻繁に出てきてすごく違和感を覚えたんですが、これはたぶん「noise」という単語をそのように訳してしまったんでしょう。「ノイズ」と「騒音」ではだいぶニュアンスが異なります。
 私はノイズという言葉がけっこう好きで、ノイズのないコンテンツというのはちょっと信用ならないところがあると思っています。
 音楽でいえば、ノイズのない演奏。クラシックの演奏だと、ノイズというと、バイオリンの弓が弦にあたる音符ではないところにある音。ホルンがちょっと裏返ってしまう音。指揮者のタクトが譜面台に触れてしまったときの音。ピアニストが思わずあげてしまったうなり声。ジャズなどではわざとノイズを混入させておもしろがることもあります。
 スタジオできれいに作られて音楽からは、たいていノイズが丁寧に削ぎ落されています。意図的に歌手のブレスノイズを残すこともありますが、それはノイズの魅力をわかっているからでしょう。
 いまの世のなかは、音楽に限らず、さまざまなノイズを取りのぞいて清潔にしてしまおうという傾向が強いですが、ジョン・ケージはノイズの部分にこそ真実が見えるのではないか、という提唱を、音楽の分野からおこなった人でした。

2011年10月19日水曜日

ボイスセラピスト講座を準備中

 とくに東日本大震災以後、音読ケアというものに力を入れてきました。そしてその有用性について充分に確認してきました。
 これは一種の補完医療で、医療行為そのものではありませんが、なんらかの症状を改善することに有効なものをそう呼びます。音読療法と読んでもいいでしょう。
 たとえば音楽療法というものがあります。これも補完医療の一種です。ほかにも箱庭療法や生け花療法、そしてさまざまな芸術療法(アートセラピー)があります。音読ケアもその一種ですが、独自のメリットがあります。それは、「自分の声を使ってひとりでもできる」ということです。また、家族同士、パートナー同士、学校や職場でのグループなど、身近な相手といっしょにいつでもどこでもすぐにできる、というメリットもあります。楽器などの道具も、特別な材料もいりません。
 鬱々とした気分が晴れた、いわれのない不安がなくなった、熟睡できるようになった、などの声を多く聞いています。ならばより多くの人のお役に立ちたいと思い、現在ボイスセラピスト講座の準備をしています。受講していただければだれでも音読ケアの考え方と方法を身につけ、自分を含む身近な人をケアできるようになるプログラムです。
 まだ準備中ですが、興味のある方は気軽にお問い合わせください。

2011年10月18日火曜日

放射能汚染が心配な食品についての番組

 数日前のことでしたが、NHKの朝の番組「あさいち」で各地域の家庭の食事の放射線量をかなり厳密に測定する実験を紹介してました。
 各家庭の1週間の食事を、それぞれ一人分ずつ余分に作ってもらって、それを丸ごとミキサーにかけて大学に送り、かなり精密に放射線検査をしていたのです。
 なかでも注目だったのは、福島県郡山市に住んでいる家族で、10か月の赤ちゃんがいます。にも関わらず、この家庭では被災地の農業者を支援したいという気持ちから、なるべく地場で採れた食品を使っているのです。赤ちゃんがいるのに、とちょっとびっくりしましたが。
 しかし、まあ、それらの食品は国が定めた基準値を超えた値は出ていないということで、出荷されて市場に出回っているわけですが。

 で、その測定結果です。
 これまたびっくりしたことに、すべての食事について放射線は測定できるほどの値は出てこなかった。つまりすべてゼロだったんです。
 それ以外には、札幌や東京など、検出された場所もあります。
 国の暫定基準値が牛乳で200ベクレル、その他野菜など500ベクレルと定められていますが(この基準値についてもさまざまな意見がありますが)、食事から検出された値で最も高かったのは目黒の家庭で、セシウム137が約9ベクレル(8.97ベクレル)という値でした。
 番組の概要はこちらにあります。
 ベラルーシの基準値なども掲示されていて、けっこう参考になります。

ひさしぶりのプール、歌手しおりさんのランチタイムコンサート

かなりひさしぶりに泳ぎに行ってきました。
 ひさしぶり+風邪ひいてた=なまりきった身体。情けなや。そりゃもう、びっくりするくらいなまりきっていました。どのくらいなまりきっていたかというと、いつもなら1,000メートルを連続で泳ぐんですが、200メートル泳いだだけで腕があがらないほど筋肉疲労に襲われたくらいなまってました。
 なんとか元に戻さなきゃ。半月で戻すぞ。

下北沢〈Com.Cafe 音倉〉でランチタイムコンサートをやっているというので、行ってみました。
 沖縄出身のしおりという女性歌手の弾き語りでした。バリバリのJ-POPでした。歌詞も曲も。やはり沖縄出身のかりゆし58というバンドと組んで作った「君の声が聞こえたんだ」という曲が、テレビ番組のエンディングテーマに使われたりして、ヒットしたとのことです。また、東北の被災地にも毎月のようにボランティアライブに行っているそうです。
 私は知らなかったですが、有名なんでしょうね。お客さんは数組だったけど。

音読ケアで眠りが深くなる、らしい

 この前の現代朗読体験講座に参加してくれた方からメールをいただきました。
 この方は身内にご不幸があり、ほかにも係争中のトラブルを抱えていたりして、不安でストレスフルな生活をいま送っているという方で、少しだけ音読ケア的なことをシェアしたのでした。
 音読ケアで「よく眠れるようになった」という方は多いですね。

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あれから、帰り道はヨガみたいな体操をしたせいか
足が軽くて、身も軽く、駅まであっという間でした。

食事をして、マツキヨで買い物をして帰り
洗濯物を取り込んでから、メールしようと、ちょっと
横になったら、そのまま眠ってしまい、目が覚めたのは
日付が変わった午前2時過ぎでした。
トイレに行ったり、取り込みそこなった洗濯物を入れ、
またいつの間にか眠っていて、再度目覚めたのは
7時でした。出勤には間に合いました。

こんなに連続して長く眠ったのは数年ぶりです。
いつもは、細切れの睡眠しか取れていなくて、
真夜中に、ラジオをつけっぱなしで、ごそごそして
いたのに、一体なんだったのでしょうか。
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げろきょ祭りがあと二週間に迫ってきた

 げろきょ祭りが近づいてきました。あと約二週間です。
 げろきょ祭りというのは、現代朗読協会が総力を結集しておこなう公演のことで、11月3日の文化の日に下北沢の〈Com.Cafe 音倉〉というところで開催します。短い朗読パフォーマンスを音楽ライブのようにつなげていく形式の公演で、タイトルは「しもきた奇譚」。
 午前中にはまず若手の嶋村美希子と照井数男を中心に、いわば肉体派朗読公演をやります。
 午後はライブワークショップ参加者やゼミメンバーを結集して、宮澤賢治の「なめとこ山の熊」や「双子の星」、その他夏目漱石の作品など、バラエティ豊かに濃い密度で現代朗読をおこないます。
 会場はライブカフェです。コンサートホールとは違って、飲み食いしながら気楽な雰囲気で楽しんでいただけます。
 朗読というと行儀よくすわって、しーんと静かにして聴かなければならない、という雰囲気がありますが、げろきょ祭りはそんなことはありません。わいわいと楽しんでいただけたらと思っています。なにより出演者たちがわいわいと楽しませていただこうという魂胆ですから。
 もちろん、おとなしく座って読むような朗読はひとつもありません。
 ぜひ遊びにいらしてください。詳細はこちら

2011年10月17日月曜日

羽根木の家での「木を植えた人」の報告

 すでに私もこちらに書きましたが、朗読の榊原忠美氏も自身のブログ「木を植えた人のひとりごと」でレポートを書きこんでいます。
 ひと癖もふた癖もある文章で、おもしろいですよ。
 こちらをご覧ください。

秋晴れの日、自転車を直してシナリオを書こう

 名古屋、小牧、東京戻りワークショップ、テキスト表現ゼミ、現代朗読体験講座とつづく怒濤の三日間が終わりました。
その前に風邪をひいて、熱はあまり出なかったんですが、喉が腫れてよく眠れない夜がつづいていました。怒濤の三日間の直前までそれがつづいて、しかし名古屋行きの前日までに回復したので、なんとか乗り切ることができました。
 今日はひさしぶりに予定がなにもない日。
 といっても、やりたいことはたくさんあるんですが。
 東京は秋晴れのよい天気です。
 そうだ。自転車を直しに行こう。後輪がパンクしたままになっていて、乗れないのです。
 パンクを直したら、自転車で少し走ってみよう。ママチャリだけど。
 そして11月3日・文化の日は「げろきょ祭り・しもきた奇譚」の公演日です。まだ書きあげていないシナリオや作品がいくつか残っています。今日中に全部終えるのは難しいけれど、少しでも進めておきましょう。
 げろきょというのは現代朗読協会の略称です。ちょっと変な言葉ですが、マスコットはカエルです。げろげーろ。覚えていただけるとうれしいです。

2011年10月16日日曜日

名古屋、こまきみらい塾、ライブワークショップ、テキストゼミ、体験講座

いやいや、濃い三日間でした。
これを書いているいま、出がらしのようになってます。へろへろです。でも、一応書いておこう。

一昨日の金曜日は、昼に羽根木を出て、品川経由で名古屋に向かいました。
週末に近いせいか、やたらと人が多い。待ち合いのベンチでは、私よりやや年上の、明らかに会社の管理職っぽいおっさんが三人、それぞれ別々にでっかい声で仕事の電話をしていて、内容も丸聞こえです。そんなにでかい声で電話するなら、ベンチから離れて、人のいないところでやればいいのに、行儀が悪いったらありゃしない。
新幹線の改札のところでは、なにが気にいらないのか完全に切れたおっさんが駅員相手にどなりまくってます。これもみっともないったらありゃしない。
おっさんどものみっともなさが目に余ります。と、自戒をこめて。
新幹線も満席。隣は腹のポッコリ突き出た40歳くらいの男。爆睡中。ゆるいなあ。

名古屋で久屋大通にある加藤珈琲店で深澤さん、バラさんと待ち合わせ。コーヒーを飲みながら、何件か打ち合わせ。ライブのこと、ワークショップのこと、来年の新美南吉生誕100年の記念イベントのこと。
ふたりと別れ、小牧へ向かいます。小牧へは、劇団クセックのアトリエがある平安通から一本で行けます。けっこう便利。
意外にも早く到着してしまって、駅前のホテルの喫茶室で時間つぶし。

こまきみらい塾での現代朗読講座の初回の様子については、すでに簡単ではありますが書きました。こちら
講座が終わって、小牧から名古屋に戻り、宿にチェックインしたのは10時半くらい。
翌日は朝6時すぎに起きて、7時前にはチェックアウト。7時すぎの新幹線で東京にとんぼ返り。
10時前に羽根木の家に帰着。そのまま「朗読はライブだ」ワークショップの今期最終回(6回め)でした。
このワークショップは、11月3日のげろきょ祭り「しもきた奇譚」で宮澤賢治の「双子の星」を上演することになっているので、その最終シナリオを皆さんに渡し、ライブのための最後の段取りを確認しました。3時間みっちり。

夕方からテキスト表現ゼミ。
今回は(今回も?)秀作ぞろいで、大変おもしろかったです。
終了後は恒例になったビデオ上映会。前回の続きの「ぽにょはこうして作られた」というNHKのドキュメンタリーDVDを、あーでもない、こーでもないといいながら、食べながら飲みながら観ました。これも楽しかったです。

そして今日。
昼から現代朗読体験講座。参加者が三名と少なかったことや、高校の演劇部の顧問の先生が参加されたこともあって、ちょっと変則的な内容になりました。
後半はゼミ生の矢澤ちゃんが飛び入り参加してくれて、エチュードを中心にやって、高校の演劇部の生徒たちにもこれが役に立ってくれるといいなあと思いました。
終わってからは矢澤ちゃんやふなっちとよもやま話をしてから、解散。
とても濃い三日間が、いま終わったところです。明日から、またあらたな気持ちで次のステージへ進んでいきましょう。

げろきょ祭り「しもきた奇譚」(11月3日)のお知らせ

11月3日は下北沢で公演「しもきた奇譚」!
とんでもないことを楽しんでやってしまうげろきょメンバーを目撃してください。

朗読? ロードク!
走れ!女生徒 ☆ 巡れ!双子の星 ☆ 吼えろ!なめとこ山の熊
さすれば夢は一、三、七夜に開く!?

真面目に、華麗に、 そして思いきり楽しく。
表現の真髄を追求し続ける「げろきょ」の総ざらえ。

2011年 げろきょ祭り! 「しもきた奇譚」 11月3日(木・祝)

朗読に こんな自由があるってことを、見ているあなたに伝えたい!
現代朗読協会のゼミメンバーたちが繰り広げる、コンテンポラリー朗読パフォーマンスの数々!
グランドピアノでの即興演奏とともに、日々「朗読を生きる」面々が空間を自由自在に動き回ります。
それはきっと「こんな表現があったのか!」と嬉しく楽しくなるステージ!

第一部は!?
若手を中心とした斬新なコンテンポラリー・リーディング・パフォーマンス。
太宰治『女生徒』、夏目漱石『夢十夜・第七夜』ほかのアクティブ&フレッシュな60分!

第二部は!?
ライブワークショップや現代朗読ゼミメンバーたちによるオムニバス形式。宮澤賢治『なめとこ山の熊』『双子の星』のほか、
夏目漱石、新美南吉作品など休憩をはさんでたっぷり120分!

◎日時 2011年11月3日(木・祝)
第一部 11:00開演 ¥2500
第二部 16:00開演 ¥3000
いずれも1ドリンク付き
2公演セット券 5,000円(2ドリンク付き)

◎場所 下北沢・Com.Cafe音倉
世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分

◎出演
青木祥子 片岡まゆみ 鎌田絽未 唐ひづる 近藤薫 佐藤麻奈 佐藤ピリカ
嶋村美希子 照井数男 中村敦子 野々宮卯妙 玻瑠敦子 日榮貴子 福豆々子
藤沢真弓 まぁや 前野佐知子 まりも 山田みぞれ 山本美子 弓子……他
音楽:水城ゆう

◎ご予約はこちら

11月のミニコンサート@下北沢・音倉のお知らせ

下北沢のライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉で毎月一回第二水曜日の午後1時から、ランチタイムコンサートをおこなっています。
ピアノと朗読、ときには歌も加わる30分程度のミニコンサートです。下北沢でのお昼ご飯やコーヒータイムに気軽にお立ち寄りください。

◎日時 2011年11月9日(水)13:00〜13:30
◎場所 下北沢ライブカフェ〈Com.Cafe 音倉〉
世田谷区北沢2-26-23 EL・NIU B1F/下北沢駅よりゆっくり歩いて3分
◎料金 無料
飲食代のみ、それ以外のライブチャージなどはありません。予約も不要です。

演奏の後はお茶でも飲みながらおしゃべりしましょう。
みなさんのおいでをお待ちしてます。

2011年10月15日土曜日

小牧での現代朗読講座の初回は楽しかった

 こまきみらい塾での現代朗読講座一回めが終わりました。40人の受講生を相手のワークショップ形式の講座。これまでいろいろな形でワークショップをやってきましたが、40人というのはかなり大人数です。事前はちょっと緊張しました。
 これまでに一番多かったのは、中学生相手の400人かな。これは例外ですね。あと、小学生相手の350人というのもありましたね。
 40人くらいの集団というのは、個別対応するには多すぎる、かといって集団としてひとくくりにするには少ない、という微妙な数です。学校のひとクラスの人数とおなじくらいですが、学校は毎日、一年間、ずっとおなじ顔ぶれで40人ですから、感触が違います。今回は全部で5回シリーズ。
 というわけで、手探りしながらの初回だったんですが、なんとか皆さんに喜んでいただけたようで、まずはひと安心しているところです。ちょっと気負ってやってしまった部分もありますが、やっていてつくづく、現代朗読の方法はおもしろいなあと思いました。とにかく受講生の皆さんの顔がどんどん輝いていくのが、私もうれしかったです。
 小牧の皆さんにはまた二週間後にお会いしましょう。
 そして、現代朗読の体験講座が、明日の午後1時から「羽根木の家」で開催されます。まだ参加枠に余裕がありますので、興味がある方は気軽にどうぞ。

2011年10月14日金曜日

どうすれば朗読で多彩な表現ができるようになるか

なんとか寝込むことなく風邪をクリアしました。と思う。まだ油断できないけど。
 一番つらかったのは喉の腫れかな。発熱もこの喉の炎症が原因だったのかもしれません。
 昨日は午前中から現代朗読の朝ゼミ。11月3日のげろきょ祭りに向けて、朝ゼミメンバー7人で宮澤賢治の「なめとこ山の熊」を準備しています。昨日はその最終シナリオを作るために、読み分けと動きの仕込み。ここに至ってまだ配役(だれがどこを読むか)が決まっていない、というのは、現代朗読の特徴でもあります。自分がどこを読むかわからないまま、どこを読むことになってもいいように、作品全体を自分のものとしていけるように読みこんでもらいます。
 今回はいつもより読み込みが足りない! という野々宮卯妙の指摘が出てきて、みんなで気を引き締めなおしたところです。でも、おもしろいものになること、間違いなしです。

 午後は昼ゼミ。「夢十夜・第三夜」「三年めの第一夜」「二匹の冒険」など、やはりげろきょ祭りの演目を中心に稽古。にぎやかになってきました。私もシナリオ、演出案など、やらなければならないことがたまってきました。

 夜はビデオゼミ。Google+のハングアウトを使ったビデオチャットも少し慣れてきて、スムースにつながりました。
 たるとさんから、朗読で多彩な声や表現をするにはどうしたらいいのか、という質問を受けたので、お答えしました。そのメモをたるとさんが日記で公開していたので、ここで引用させていただきます。

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どうすれば幅の広い 多様な表現ができるかを先生に聞く
先生いわく

自分の発する声を よーく観察しなさい
自分が 子供をしかるときの声
久しぶりに友達と会って 大騒ぎするときの声
いろんなときに発する自分の声を よく観察しなさい

と 言われました

けっこう いろんな声を発しているはずで
それが いざ 朗読となると まったく固まった表現になってしまう

だから そういう いつもより違った声を出したときに
じっと自分の声を観察して それをすぐに使って本を読んでみる

そういう訓練をしなさいと言う


なるほど 演劇ではないので 作るものではない 
作ったものじゃない自分の声 自分の表現

それを ひとつずつ拾い集めて 朗読の引き出しを作ればいい

参加された方にはたいてい驚いていただいてます

 毎月一回、「現代朗読体験講座」というものを開催しています。今月10月は次の日曜日の16日です。
 ここにはどういう人が来られるのかというと、大きくわけてふたとおりあります。ひとつは、これまでほとんど表現活動をやったことがない、あるいはかつて少しやっていたことがあるけれどいまはやっていない、という方が、なにか表現をやってみたいと思って来る場合です。朗読は道具もいらないし、バンドや演劇のようにグループを作る必要もなく個人ですぐに始められるので、表現活動としてはとても敷居が低いと思われるようで、それは事実でもあります。
 もうひとつは、すでに朗読をやっているけれど、なにか物足りなさを感じたり、行き詰まりを感じた方が、どうやら「現代朗読」という従来の朗読とは考え方が違うものをやっている場所があるらしい、と知ってやってくる場合。この場合は、ほぼすべての人が、「目からウロコでした」とか「朗読ってこんなに自由で楽しかったんだ」という感想を残されます。
前者の方々もそのようなことをいいます。
 そして驚くことは、体験講座に来られたほとんどの方が、そのあとも現代朗読に興味を持ってくれて、ワークショップやゼミに参加してくれる、ということです。これは本当にうれしく、ありがたいことです。
 16日(日)は13時から、現代朗読協会「羽根木の家」で開催します。

2011年10月13日木曜日

朝ドラ「カーネーション」の主題歌がすばらしい

 私はJ-POPというものをまったく聴かない人間で、歌手(最近はアーティストというらしいですね)の名前もほとんど知りません。聴いてもつまらないからです。
 J-POPという商業音楽は西洋ポップスのパクリがほとんどで、構造は定型的、歌詞も記号的、メロディは貧困と、まあそんなものを聴くくらいなら日本にはそもそも童謡や唱歌などもっと豊かな音楽世界があるではないか、と思っています。
 ところが、最近、朝のニュース番組をケータイのワンセグで「聴いて」いたら、つづけて流れてきた曲にふと心をひかれました。
 見れば、新しく始まったNHK大阪の朝ドラ「カーネーション」で、その主題歌がなかなかいいのです。
 この前の朝ドラは「おひさま」で、主題曲は渡辺俊幸。なかなかいい曲だったんですが、これに歌詞をのっけたバージョンも流れるようになりました。歌は平原綾香。作詞は脚本家の岡田惠和ということでしたが、この歌詞がかなり記号的でいまのJ-POPの流れをそのまま受け継いでいて、残念。
 が、「カーネーション」の主題歌は、記号を排した歌詞とメロディラインがすばらしい。抽象的で、しかし美しいイメージを内包しています。
 作ったの、だれだろう、すご腕だなあ、と思っていたら、ツイッターで椎名林檎だと教えてもらいました。かなり感心しています。

ランチタイムコンサート@下北沢・音倉 2011年10月

 毎月第二水曜日の午後1時からおこなっているランチタイムコンサート。10月12日の模様を抜粋してお送りします。

「紅葉」作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一
「黄金虫」作詞:野口雨情/作曲:中山晋平
「夢十夜・第三夜」夏目漱石
「ヒガンバナ」水城ゆう

 ピアノ演奏:水城ゆう
 朗読:野々宮卯妙

 11月のランチタイムコンサートは11月9日(水)13:00からです。

2011年10月12日水曜日

音倉ランチタイムコンサートでの個人的手応え

今日は午後1時から下北沢〈Com.Cafe 音倉〉でランチタイムコンサートでした。
 数日前の雑談でも書いたんですが、今日のミニライブでは、自分のピアノ演奏スタイルについてあるチャレンジをやってみようと思っていました。
 ある程度準備しておこうと思ったんですが、母が入院・手術したために帰省したり、風邪をひいたりして、思うように練習ができませんでした。今日の午前中にほんの数十分、ピアノに向かえたくらいで、考えていたチャレンジができるかどうかは本番になってみないとわからない、という状態でした。

午後1時前に音倉に行き、そのまま本番。
 今回は朗読ゲストの野々宮をのぞいて知り合いはひとりもおらず、私のこともランチタイムコンサートのこともまったく知らないままたまたま来ていたお客さんが3、4組という来客状況でした。
 そんななか、まず唱歌の「紅葉」からスタート。メロディラインは押さえつつ、本来のコード進行もリズムも自由に遊ばせながらのフリースタイル演奏。とくにテーマ部分を終えて即興演奏に入ったら、まったくの自由。
 とはいえ、フリージャズとは違います。調性感やリズムはある程度保持しています。だから、音楽に詳しくない人が聞いたら、あまり違和感なく普通の演奏に聞こえるかもしれません。が、聞き慣れた人なら、なにか変なことをやっていることにすぐ気づくはずです。とくにジャズ系の音楽を聞き慣れた人なら。
 できるだけなにも気にせず、とらわれず、弾きたいことを弾きたいように自分に許してやる、それが今回のチャレンジでした。同時に、「指や手で弾く」ことをやめて、「身体全体で弾く」ことを心がけました。

 2曲めは朗読の野々宮が入って、童謡「黄金虫」からそのまま夏目漱石「夢十夜・第三夜」へ朗読とのセッション。
 いつもだと、朗読とのセッションと、ソロでのピアノ演奏とは、自分のなかでくっきりと風景が分かれているんですが、今日はあまり違和感なくつながっていきます。
 あとで野々宮から「いつもと音が全然違っていた」と聞いて、チャレンジはある程度成功したのかなと思いました。
 そして、演奏が楽しかったのです。
 お客さんたちの反応もよく、まったく初めて私の演奏を聴く方たちだったのに、暖かい拍手をいただきました。また最後まで席を立つことなく聴いていってくれました。これはうれしかったですね。

 まったくもって不器用な話ですが、この年になってようやく自分の演奏スタイルを発見できたような気分です。生きててよかったね(笑)。
 音倉でのランチタイムコンサートは毎月第二水曜日の午後1時からです。来月は11月9日ですね。

「沈黙の朗読」@名古屋〈あうん〉のお知らせ

朗読は言葉を紡ぐことから始まると思っている。
朗読する時人はいかに語るか、いかに言葉を発するかを考える。「沈黙」という「時間」と「空間」を自分の発する言葉で埋めることを考える。
いや、「沈黙」は「言葉」で埋めるべきものものなのだろうか。
「沈黙」が「沈黙」のままである時、そこには何が見えるのだろうか。あるいは「言葉」を「時間」と「空間」から取り去って行った時、出現する「沈黙」はただ「空虚」なものなのだろうか。
すでに人々が体内に持つ芳醇な沈黙を体験するための朗読があってもいいのではないか。
朗読が「沈黙」に向かう時、そこに何が生まれるか?何が見え、何が聞こえるのか?
それは、あなたしか知らないだろう。

朗読 榊原忠美
ピアノ 水城ゆう
クラリネット 坂野嘉彦
照明 杪谷直仁

2011年10月29日(土)
18:30 開場
19:00「沈黙の朗読」開演
20:30 食事スタート

場所 stageあうん 名古屋市東区徳川町2009
定員 40名
食事付き 25名 9,000円
朗読のみ 15名 4,000円

予約・問い合わせ
052-937-0666(あうん)
090-8555-8036(橋本優美)

自分の呼吸を観察すること

 マインドフルネスの練習をするとき、まず最初にやるのは、自分の呼吸を観察すること。
 これはマインドフルネスだけでなく、禅でもヨガでも気功でも合気道でも、さまざまなところで推奨されています。それには理由があるんですが、ここでは詳しいことは書きません。
 自分の呼吸に注意を向けると、呼吸自体が自然に変化していきます。速くて浅い落ち着きのない呼吸をしている自分に気がついたとき、その呼吸をコントロールしようとしなくても自然に落ち着いた呼吸に変わっていきます。自分の呼吸に意識を向けるというのは、自分の「いまここ」の存在に意識を向けることだからです。
 不安やストレスで落ち着きがなくなり、速くて浅い呼吸になってしまっているとき、たいていの人は自分の意識は「いまここ」にはありません。過去のすでに起こってしまってどうしようもないことにとらわれていたり、未来のまだ起こってもいないことに不安を感じたりしているのです。それを、「いまここ」の自分自身に意識を取りもどしていくことで、落ち着きを取りもどすことができます。
 呼吸に意識が向いたら、次は足の裏です。大地に触れているその部分へと意識を向け、自分自身の「いまここ」の存在を感じていきます。

2011年10月10日月曜日

こまきみらい塾で現代朗読講座がスタート

 愛知県小牧市の「こまきみらい塾」というところで、10月14日から現代朗読講座がスタートします。
隔週の金曜日に開催され、全部で5回のシリーズです。
「こまきみらい塾」というのは、各自治体にある市民大学講座のようなものだと思います。小牧市の一般市民の皆さんを対象に、だれでも受講できるようになっているようです。
 そのおかげなのか、受講者が40名くらい集まっているとのことで、ちょっとあわててしまいました。いろいろな講演や講座をやってきましたが、現代朗読の講座で40名というのはかなり多すぎるような気がします。
 朗読講座ではなるべくひとりひとりの声と身体性を見ていきたいので、40人もの受講者を全部見ることができるかどうか、まったく自信がありません。なので、担当の方にはあわてて「これ以上受け付けないでください」とお願いしてあります。

 こんなに集まるなんて、朗読をやりたい人がたくさんいるんだなあと思うと同時に、「〜ねばならない」「〜してはならない」に凝り固まった朗読技術講座ではなくて、自由な自己表現の手段としての「現代朗読」の講座をもっとあちこちで開催できるといいのに、と思います。
 時間が許すかぎりどこへでも出かけて行く用意はありますので、みなさん、気軽に声をかけてくださいね。

NVC実践ワークショップ「今を生きる〜Vivencia」開催のお知らせ

 非暴力コミュニケーション(NVC)の実践ワークショップ「今を生きる〜Vivencia」が開催されます。
 講師はCNVC認定トレーナーでコロンビア人のホルヘ・ルビオ。
 実践的で大変刺激的なワークショップとのことで、私もいまから楽しみにしています。

◎日時 11月23日(水/祝) 10:00〜18:00
◎場所 文京アカデミー茗台(茗荷谷駅徒歩7分)学習室B
◎参加費 15,000円(10月中の申し込み・入金については早割り→13,000円)
◎定員 50名

◎講師 CNVC認定トレーナー、コロンビア人のホルヘ・ルビオ(Jorge Rubio)
◎言語 英語(英語<-->日本語の通訳がつきます)
◎テーマ「今を生きる〜Vivencia」

 すでに定員の半分を超えて申し込みがあります。
 参加申し込みはどうぞお早めに。
 詳細と申し込みはこちらから。

風邪をひいたら医者に行かず、薬を飲まず

 一年半ぶりくらいに風邪をひきました。昨日の朝、目覚めたら喉が痛くて、声が出ませんでした。昨夜は夜中に発熱。
 その前は去年の二月ごろで、なんとか寝込まずにやりすごそうとがんばって、結局、寝込むことなく五日くらいで治した覚えがあります。
 このあたりは年の功というべきでしょうか。まず「前兆に気づくのが早い」。それから「対処法を知っている」。若いころは前兆に気づかず、気づいたらもうどうしようもなく悪寒と咳に襲われ、寝込むしかない状況になっていました。そして大勢の人に迷惑をかけていたものです。恥ずかしいですね。
 風邪を早く治すコツは、絶対に薬を飲まないことです。当然、医者には行きません。薬は対症療法としてはいいんですが、逆に自分がもともと持っている治癒力を弱めることになります。医者に行って処方されるのは、せいぜいビタミン剤、解熱剤、胃腸薬、消炎剤といったものです。いずれも免疫力を弱めるし、風邪菌をやっつけるものではありません。最悪なのは抗生物質で、これは飲みつづけると抗生物質のきかない菌でいずれ致命傷となります。
 理由があって発熱しているんですから、その自然治癒力の邪魔をしないことです。すなわち、安静にして充分睡眠を取り、暖かくして水分補給をおこたらないこと。昔からずっとやられてきたことです。おかげで今朝はだいぶいいようです。

2011年10月9日日曜日

ひとつのチャレンジを(ランチタイムコンサート 10/12)

 先月から毎月一回・第二水曜日の昼の予定で始まった「ランチタイムコンサート」。今週も10月12日(水)13:00からやります。
 オリジナル曲やよく知られた日本の曲をアレンジしてピアノ演奏したり、朗読や歌のゲストを呼んで、ごく短いライブをやっています。
 今回はひとつのチャレンジをしてみたいと思っています。
 音楽というのはある種のフォーム(形式)を持っています。クラシックはフォームそのものですし、ジャズなどの即興音楽でもフォーム(決まりごと)はあります。
 前回、「秋」という唱歌を演奏したとき、この曲のメロディがあって、それに沿ったコード進行があって(これは多少変更します)、アレンジがあって、と進むわけですが、ジャズのようにそのあとテーマを受けて即興演奏になります。ジャズの場合だとリズムとコード進行は保持したまま、その上で即興演奏をします。私もそのように演奏したのですが、そのときに妙に息苦しさを覚えたのです。
 その息苦しさは、そのあとにおこなった朗読とのセッションではまったく感じず、おかげで息苦しさの原因がはっきりしました。
 それは、決められたコード進行、一定のリズムパターンを保持しなければならない、という思いこみから来る息苦しさでした。
 それならばいっそ、すべてから自由になればいい、と思ったのです。曲は曲としてありますから、そのテーマを受けて、しかしリズムもコード進行も自由になって、原曲からインスパイアされたフリーインプロビゼーションになってもいいじゃないか、という発想です。
 朗読と共演するとき、まったくなにも決めずに自由に演奏するのに、曲を演奏するときだけフォームにとらわれるのはおかしい。音楽だけのときも、朗読とのときのようにフリーフォームでやればいいじゃないか。そのとき、演奏のヒントになるのは、曲のテーマばかりではなく、会場の環境、お客さんとのコミュニケーション、自分自身の状態など、いろいろなものが関わってくるでしょう。
 どんな感じになるのかまだわかりませんが、今度の水曜日のランチタイムコンサートでやってみたいと思っています。

 このミニコンサートの詳細は、こちらからどうぞ。

朗読と音楽の融合とリズム論

 先日、明治大学の情報コミュニケーション学科の学生さん相手に、「朗読と音楽の融合・リズム」についての臨時講義をしてきました。
 朗読というと、世間一般にはとても固定化された狭小なイメージでとらえられていますが、まだそれほど世間ずれしていない学生たちにはすんなりと「現代朗読」の考えを受け入れてもらえたように思います。
 すなわち、朗読とは、「文章の内容を相手に伝えること」だけが目的ではなく、本質的には「文章を読むことで朗読者自身を相手に伝える」ための身体表現である、ということです。音楽に例えるとすぐに理解してもらえますし、さらにいえば朗読をダンスと結びつけることもできます。文章を読むというのは、身体運動であることが少し考えれば、そして少しやってみればすぐにわかるからです。
 その上で、学生たちとは朗読のリズムについてさまざまに実験しながら検証することができました。私がこれまで無意識に感じたりやっていたことを、言語化することを試みたのです。
 大変おもしろい成果がありました。これについては私もいずれ書くことがあるでしょうし、ひょっとしたら明治大学の学生がおもしろい論文を書いてくれるかもしれません。そうなるといいなあ、などと考えています。

2011年10月8日土曜日

帰省、母の見舞い、秋の里山の風景

午前中、東京から福井へ移動。
 羽田から小松へANA便で。小松から空港バスで福井へ。母が入院している病院へ。
 二日前に肺がんの除去手術を受けた母は、意外にも元気な様子でした。が、まだ処置は終わっておらず、胸には管が入っているし、痛み止めのために脊椎に麻酔が入っています。がんは残念ながら初期段階を越えて第二段階だったとのことで、念のためにリンパ腺も除去。転移があったのかどうかはまだわからないそうです。
 たぶん数十年ぶりで親子で散歩しました。といっても、病院の廊下ですが。担当医からはどんどん歩きなさいと指示されているそうです。

大変天気がよくて、病院から実家に帰る電車のなかからは、秋の田園風景が満喫できました。
 山はもうそろそろ紅葉が始まっているようです。

 明日は、私は行けませんが、羽根木公園で「雑居まつり」が開催されます。
 世田谷トランジションがブースを出すことになっていて、げろきょも微力ながら協力させていただいてます。午後1時からは野々宮卯妙と照井数男がミニステージで朗読することになってます。演目は宮澤賢治の『虔十公園林』。
 お時間がある方は遊びに行ってやってください。

明治大学での朗読と音楽とリズムの講義

昨日は明治大学の情報コミュニケーション学科での臨時講義でした。
 テーマは「朗読と音楽の融合・リズム論」。
 講義は夕方からだったので、日中はその準備をしようと、あれこれかんがえたり、メモを取ったりしていたんですが、途中でいやになってやめてしまいました。というのも、非常に抽象的な要素が多すぎて、自分のなかでもまだ整理ができていないからです。また、この分野の学術的なアプローチでの研究もまったく皆無といっていいのです。つまり、手つかずの分野。
 朗読と音楽というと、音楽が朗読のBGMとして扱われているライブは、最近けっこう見るようになってきました。それでもいまだに、朗読に音楽を流すなんて、と目くじらを立てる人もいます。また、音楽がBGM以上の存在として扱われることはほとんどありません。たとえば私がピアノを弾いて朗読と共演すると、いくら事前に「共演ですよ」とことわっていても、「ピアノの音が大きくて言葉が聴こえなかったところがあった」とクレームをつける人が出てきます。
 朗読というものにたいする固定化された狭小なイメージは、私が想像する以上にかたくななものがあるようです。

 昨日は若い学生さんが相手の講義だったので、あまりに固定化されすぎた朗読のイメージは最初から払拭させてもらうことにして、まず「朗読は表現である」「そして音声表現である」「その点で音楽と共演しうるものである」という認識を共有するところからスタートしました。
 そこからスタートして、講義内容はまったく準備せずに、即興的に展開しながら、学生といっしょに「抽象的な行為の言語化」を試みようという時間にしたのです。

 午後5時半に神田駿河台の明治大学リバティータワー地下にあるスポーツルームへ。
 だだっ広い運動用の部屋で、椅子がありません。私のために準備された電子ピアノがぽつんと置かれているだけ。
 担任教授も韓国出張でお休みで、代わりに講師の高橋さんと院生の寺平くんがサポートしてくれました。また、げろきょからは野々宮卯妙と照井数男が助っ人で来てくれました。
 午後6時までに学生たちがやってきました。全部で10人くらい。11人かな。講義を始めてすぐにわかりましたが、皆さん、全然すれたところがなく、熱心で、私も大変楽しく集中してやらせていただきました。

朗読と音楽の違い、朗読と音楽の共通項を探りながら、実際に野々宮と照井に実演してもらったりして、論点を徐々にあぶり出していきました。このあたりは、自分でも謎解きをしているみたいで、次々と気づきがあります。学生たちもこの過程を楽しんでくれていたでしょうか。だとしたらうれしいんですが。
 90分の持ち時間をびっちり使いきって、終了。とても実り多い時間でした。でも、終わったらぐったり。
 皆さんと別れて、野々宮と照井と神保町のベルギービールの店〈ブラッセルズ〉に寄って、一杯引っかけてから、帰路についたのでした。
 昨日の学生たちがげろきょに遊びに来てくれるとうれしいんだけどな。

2011年10月7日金曜日

Mac用映像編集ソフト「Final Cut Pro X」を試してみた

Mac用映像編集ソフト「Final Cut Pro X」の30日間トライアル版を試しているところです。これがよければ、iMovieと Final Cut Express からこちらに乗り換えようと思ってます。いまのところなかなかいい感じです。ネットでは、プロの映像編集者からボロクソにいわれていましたが。
 Final Cut Pro は10万円近くするソフトで、なかなか手がでなかったので、かわりに廉価版のExpressのほうを使っていたんですが、それでもプロ用の映像編集概念が導入されているソフトで、使いにくい部分が多々ありました。なので、iMovieで安直に編集することが多かったのです。

 実際に編集に使ってみました。
 現代朗読協会の東北被災地ボランティアツアーの記録映像を抜粋して、YouTube用のクリップにしてみました。
 作業としては、数時間分の映像を読みこんで、そこから数十シーンを抜粋し、デジカメで撮った静止画もそのところどころにはさみこんで仕上げる、という簡単なものです。iMovieでもできるかもしれませんが、Final Cut Pro X で試してみました。

 使ってみて、iMovieと Final Cut Pro Express の中間くらいの操作感でしょうか。いいとこ取りといった印象があります。けっこう使いやすい。そしてレスポンスもよく、とくにカットと挿入がサクサクと、微妙な位置ずれなどを気にせずにすばやくやれるのが気持ちいい。位置合わせはソフトが自動的にやってくれるのです。
 一番よかったのは、音声の調整がタイムライン上で簡単にできることです。カットが変わるときに、音声もいっしょにズバッと変わるとびっくりしてしまいますが、その前後で音量をフェードアウト、フェードインしておくと違和感が薄れます。その調整が簡単にできるのです。
 写真の挿入も簡単です。別のタイムラインにポンと乗せるだけ。時間を調整したり、静止画に動きをつけることも簡単にできます。

 編集が終わったら、あとはテロップを乗せる作業ですが、これは iMovieのほうがやりなれているので、そちらでやりました。
 編集後の映像をYouTubeにアップしてあります。こちらをどうぞ。

2011年10月6日木曜日

紀行レポート『2011年9月 南三陸・石巻紀行』を刊行

 2011年9月25日と26日の両日、三谷産業株式会社の全面的なバックアップを得て、現代朗読協会は、被災地(南三陸町/石巻市)で朗読公演と音読ケアのボランティアイベントをおこなってきました。
 そのイベントと紀行の模様を写真と文章でまとめました。
 無料です。


なめとこ山の東北弁、肉体朗読

今日の朝ゼミは、11月3日の「しもきた奇譚・げろきょ祭」の演目のひとつ「なめとこ山の熊」の稽古。唐さんに来てもらって、セリフのところの東北弁指導をしてもらいました。これがなかなかにむずかしい。結局、レコーダーで録音して、何度も聴いてもらうようにしました。
 公演まであと一か月ですが、私たちの方式として群読の配役はまだ決めてありません。だれもがどの場所でも読めるようにしておいてもらいます。

昼は大勢でぞろぞろと東松原の〈アイキッチン〉へ。カレー。
 午後2時からは昼ゼミ。午後参加者が多く、「しもきた奇譚」の演目を中心に稽古。シマムラとかっしーの「女生徒」は思いっきり身体を使ってコンテンポラリーにやってもらおうと思います。

 夜はこれからGoogle+のビデオチャットを使ったビデオゼミ。

さようなら、スティーブ・ジョブス

 アップル社のCEOだったスティーブ・ジョブズが亡くなりました。まだ56歳の若さでした。
 彼の名前を知らない人は多いかもしれませんが、コンピューターを日常的に使っている人ならほとんどの人は知っているでしょう。そして、アップル社のコンピューター Macintosh を使っている人なら、彼をほとんど愛しているといってもいいくらいでしょう。
 アップル社の製品は、いまや、コンピューターに限らず、iPhone、iPad、iPodと、さまざまに普及し、そして人々のライフスタイルさえ変えました。そのアイディアのほとんどすべてを、スティーブ・ジョブズという人がひとりで生み出してきたのです。
 私がいま書いているこの文章も、彼が作ったMacBookを使っています。
 本当にすごい人でした。
 11月には彼の伝記が出版される予定でした。その前に亡くなってしまいました。
 私とはほぼ同年代といっていい年齢です。そう考えると、彼の残した業績の巨大さにはあらためて驚きます。
 遠い日本の地からも、彼の冥福を祈りたいと思います。

2011年10月5日水曜日

琵琶演奏会、コンテンツ作り、テキストゼミ、湯たんぽ

一昨日の夜は京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんの琵琶演奏会を羽根木の家で開きました。
琵琶の音と節をつけた語り。「平家物語」「青頭巾」「源氏物語」などを雅な雰囲気で聴かせていただきました。皆さんも堪能してくれたことでしょう。
間に現代朗読の野々宮卯妙と、私もキーボードで飛び入り参加。共演を楽しませていただきました。
終わってからは宴会。片山さんはお酒がお好きなのです。私は即席料理をサービスさせていただきましたが、皆さんに大変好評でうれしかったです。

昨日は一日、コンテンツ作り。
まず、次世代作家養成塾の電子マガジン『HiYoMeKi』第2号の編纂。
それから、東北被災地ツアーのブログレポートを電子ブックにまとめる作業。また、その記録映像を編集して、抜粋映像を作る作業。
一日、Macにかじりついてました。

今日は午前中からテキスト表現ゼミ。
みぞれちゃんと乃理さんだけだったので、のんびり、じっくり。時間があったので、ある賞狙いのための策略を練りました。描写のエチュードも。

今日は一日、雨降りで寒かったですね。
あまりに寒くて足指が冷たかったので、湯たんぽを出してきて、足の下に置いてみました。おかげでちょっと暖かい。
今夜はこれから音読ケアワーカーのためのスタディグループをやります。寒いので身体を動かす勉強をしようかな。

現代朗読協会・東北被災地ツアー 2011年9月

2011年9月25日と26日の両日、三谷産業株式会社の全面的なバックアップを得て、現代朗読協会が被災地(南三陸町/石巻市)でおこなってきた朗読公演と音読ケアのボランティアイベントの様子を、映像記録からの抜粋でお送りします。


2011年10月4日火曜日

電子マガジン『HiYoMeKi』第2号編纂中

 電子マガジン『HiYoMeKi』の第2号を編纂中です。
 これは次世代作家養成塾の参加メンバーが、毎週、あるテーマにそって提出しているテキスト作品の秀作を集めた雑誌で、けっこう読みごたえがあります。初号『HiYoMeKi』は今日現在の時点で2,100人の方に読んでいただいています。
 いわば同人誌のようなものですが、この読者数はたいしたものだと思っています。
 ごく一部のベストセラーをのぞいて、文芸小説の活字出版の世界はどんどんやせ細っていっています。芥川賞を取ったような相当有名な作家の作品でも、ハードカバーの初版が2,000部程度というようなことを聞きます。また、純文学の月刊誌の実売部数もその程度だと聞いたことがあります。
 人々が文芸小説を読まなくなったのは社会構造上やむをえない面はありますが、出版界全体のありようにも問題があります。小説あるいは物語という仕掛けの役割が終わったわけではなく、むしろ現代にあっては大事になるばかりだと私は信じています。
 商業的な「商品」としての小説ではなく、表現作品としての小説の方法をいままじめに考える場として、次世代作家養成塾があります。
 初号『HiYoMeKi』はこちらで読めます。無料。

2011年10月3日月曜日

次世代作家養成塾はこうやって始まった

 昨日、現代朗読協会のメンバーで高尾山にハイキングに行き、その帰りに〈つるつる温泉〉に寄りました。
 そのとき、
「ちょうど一年前のこのつるつる温泉で始まった」
 という話が出て、私も思いだしました。
 風呂あがりにロビーでくつろいでいたとき、ふなっちこと船渡川広匡がなにか本を読んでいたのです。なんの本かと聞くと、芥川龍之介の短編集でした。
 そのとき、ちょうど現代朗読協会では「朗読とマジック」というライブを準備していて、芥川の「魔術」という作品をみんなで研究していました。あまりおもしろいとはいえない作品です。
 私はふなっちに、芥川より夏目漱石のほうに読むべき作品が多いことをいいました。どんな作品から読めばいいのかと聞かれたので、漱石をあまり読んだことのない人はどんな順番に読めばいいのか、野々宮卯妙らも参加していっしょに考えはじめたのです。
 そのとき、朗読だけでなく、文学作品を読み解く読書会のようなものはやれないか、という話になりました。そしてふなっちを「部長」として、現代朗読ゼミのブンガク部が発足したのです。

 月一回のペースでしたが、漱石の『三四郎』を読み解いていく部活が開催されるようになりました。
 部活では三四郎ゆかりの地を食べ歩きしたりと、楽しく活動していたんですが、一方でふなっちが小説を書いていることを知りました。なにか文学賞に応募しようと、100枚くらいのまとまった分量の小説を書いていたのです。
 私はそれを読んでみました。
 いまだからいえるのですが、当然その作品は文学賞のクオリティどころか、人に読ませるクオリティですらなかったのです。そこで私はいくつかのアドバイスをしました。ふなっちはそれを受けて書き直しをしてきました。作品のクオリティは格段にあがりました。が、まだまだ文学賞クオリティとはいえません。
 私はふなっちに個人的にテキストライティングについて時々アドバイスするようになりました。それが今年になってからのことです。
 私は1980年代後半からカルチャーセンターで小説講座・文章講座を持っていたり、ネット上でも「小説工房」という小説道場のようなものを主宰していましたが、いずれも「自己表現としてのテキストライティング」ではなく、文学賞を含む「外部評価を得るためのテキストライティング」のノウハウについての講座でした。実際そこからプロの作家やライターになった人がたくさんいます。が、私自身はその方法論にずっと違和感を覚えつづけていて、いつか人に教えることもやめてしまいました。
 それから20年余がたち、ふたたびふなっちにアドバイスするようになったとき、ふと、現代朗読でおこなっている「表現論」をそのままテキストライティングに応用できないか、と考えたのです。

(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)

※次世代作家養成塾の無料メールマガジン『ひよめき通信(H2)』が毎週日曜日に発行されています。登録は「nextwriting-subscribe@yahoogroups.jp」に空メールを送るだけ。
※オンライン版「次世代作家養成塾」の詳細については、こちらをご覧ください。一か月間の無料お試し期間があります。

秋の夜の琵琶演奏会

 10月下旬なみの冷えこみだそうです。まだ身体が寒さに慣れていないせいか、ちゃんと布団をかぶって寝ているにもかかわらず、夜中に身体が冷えて目がさめてしまいました。まさかこのまま冬になってしまうんじゃないだろうね、と確認したくなるほどです。
 昔から寒いのが苦手で、毎年秋から冬にかけてアンダー気味になってしまうんですが、今年はマインドフルネスを心がけ、ヨガで体調を整え、そしてできるだけ身体を動かして乗りきろうと思います。
 昨日は現代朗読協会のメンバーと高尾山にハイキングに行ってきましたが、幸いまだ筋肉痛は出ていません。明日以降に出るのかもしれませんが。
 今夜は京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんがいらして、羽根木の家で琵琶と語りの演奏会をおこないます。秋の夜と琵琶の演奏。なんだかしっくりとしていい感じです。演奏会のあとは飲み食いしながらいろいろなお話をうかがうことになってます。ひょっとした宴席でひと味違った演奏も聴かせてもらえるかもしれませんし、私もピアノでセッションをさせていただくかもしれません。とても楽しみです。

テキスト表現ゼミ、11月生を募集します

現代朗読協会では、テキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するためのゼミナールを開催しています。その10月生の募集のお知らせです。
扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論など、ジャンルを問いません。テキストを用いて自分を他人に伝えることを学び、研究成果をアウトプットしていくためのゼミです。

◎日時 土曜コース 11月5日、12日、26日 18:00〜20:00
    水曜コース 11月2日、9日、16日 10:30-12:30
◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    世田谷区羽根木1-20-17
◎参加費 月額10,000円

※申込はこちら
 申込講座名を「その他」とし、備考欄に「テキスト表現ゼミ」とお書きください。

※ゼミの模様の一部がPodcastで聴けます。

また、羽根木の家に来れない方のためにオンライン版「次世代作家養成塾」も開催しています。
興味のある方はこちらをご覧ください。

こういう人におすすめです。

・小説家になりたい、BLOGで詩を発表してみたい、シナリオを書きたい、など、文章で自分を表現することを考えている人。
・これまで書きつづけてきたが、なにか壁のようなものにぶつかって思い悩んでいる人。
・朗読や演劇、音楽、美術などのためのオリジナル作品を書いてみたい人。
・その他、テキスト表現や文学に強い興味がある人。

※講師については最初のお知らせを参照ください。

2011年10月2日日曜日

恒例?のげろきょ高尾山ビアマウンテン&つるつる温泉ツアー

かねてからの予定で、げろきょ高尾山ハイキングが挙行されました。
メンバーはふなっち、丸さん、野々宮、みぞれちゃん、まゆみさん。11時に高尾山口に集合して、山頂をめざしました。
一番楽な一号路が崖崩れで閉鎖されていて、けっこう険しい6号路を行くしかありません。そしてすごい人。なんでこんなに人が多いんだ、というほどの人です。去年もおなじ時期にみんなで登りましたが、去年よりもっと多くなっています。山ブームが去年よりさらに加速している感じです。
たどりついた山頂は新宿駅なみの混雑。せっかく登ったってちっとも気持ちよくなんかありません。座る場所もないほどです。野々宮がガキ連れの家族に交渉してくれて私は少し座って休むことができましたが、これはかなりつらい。登山者のマナーもまったくなってない。

早々に山頂をあとに、ビアマウンテンを目指して降りました。
本当はこっちがメインの目的です。
2時開店なのに、1時前にはすでに列ができていました。こちらもすごい人。
幸い、我々は早めに行ってかなりゆったりと席を確保できました。3,300円で飲み食べ放題なんですが、そんなに飲み食いできるもんか。絶対に払いすぎです。店側にしたらおいしい商売だろうなあ。まずくはないけれどそんなにおいしくもない食べ物で腹いっぱいになって、飲み放題のビールも全然飲めず。
それはともかく、たこ焼き屋でアルバイトしていたというみぞれちゃんが、あざやかな手つきでたこ焼きを作ってくれたのはもうけものでした。
下山は一号路が閉鎖されているので、ケーブルカーに乗るしかありません。
ケーブルカーはそれなりに楽しかったけれど。

岩崎さとこが温泉のみ合流するということで、高尾山口で待ち合わせ。その時間が少しあったので、土産物屋をのぞいて、音の出るおもちゃを少し買ったりしました。
さとこが合流して、丸さんバスで一路〈つるつる温泉〉へ。
ふなっちがよく覚えていたんですが、去年、ここでいまの「テキスト表現ゼミ」のきっかけが生まれたのでした。
ちょうど去年のいまごろ、マジックと朗読の共演のイベントの準備をしていて、その朗読テキストに芥川龍之介の「魔術」が選ばれていました。それがきっかけでふなっちが芥川の文庫本を持ってきて読んでいて、それを見た私が、どうせ読むなら芥川より夏目漱石のほうがいい、という突っこみをいれたらしいです。覚えてないけど。
そこから、どういう本を読んだらいいかという話になり、「げろきょ文学部」が発足することになったのです。げろきょ文学部では『三四郎』の読み合わせをしていたんですが、そのメンバーがそのまま現在のテキスト表現ゼミへと以降したわけです。
思えばふなっちも成長したなあ。たった1年前のことだなんて信じられません。はるか昔のことのように感じます。

つるつる温泉でつるつるになった一同は、例によって丸さんバスで送りとどけてもらって、無事に帰宅したのでした。
丸さん、ありがとう。

2011年10月1日土曜日

ここ数日の報告

明大前に〈キッド・アイラック・ホール〉という老舗の小劇場があります。けっこう有名な方が使っていて、前から気になっていました。げろきょがなにかイベントをするときに、いつもそこにもチラシを置かせてもらっていました。
チラシを持っていってくれていたゼミ生のなおさんが、そこの地下の〈槐多〉というカフェで朗読イベントのようなものをやれるらしい、と聞き込んできたので、いっしょに下見に行ってきました。
大変雰囲気のあるブックカフェで、夜はお酒も飲めます。店長と話をして、ここで11月28日に朗読会をやることがいきなり決まりました。お客さんは15人くらいしかはいれません。できれば定期的にやっていきたいと思っています。

音読ケアワーカーのための育成プログラムをスタートさせるための準備会をやりました。これはすでにこちらで報告しました。

昨日は「シカ・マッケンジーのアクターズナイト」に岩崎さとこが出るというので、そのサポート演奏で行ってきました。
これについての感想はすでにこちらに書きました。
それ以外の、楽器のことを書きます。KORGの小型シンセサイザーとBOSSのスピーカーとMacBookAirをかついで行き、それで演奏したんですが、ある程度のスペースなら充分にこれでやれることが再度確認できました。被災地の石巻でおこなったボランティア活動でもこの機材でやったんですが、ひとりでかついで電車で移動できることが確認できました。
被災地でのボランティア活動といえば、11月にもふたたび行くことになりそうです。次回もやはり三谷産業さんが全面的にバックアップしてくれることになりました。ありがたいことです。

今日は朝からライブワークショップ。その5回め。
宮澤賢治の「双子の星」を、アタマからライブ群読用に段取りを作りながらやっていきました。が、今日、来れなかった人、3名。ワークショップは残すところあと1回。
まあなんとかなるでしょう。これまでもそうでしたから。

参加者の中村敦子さんが、埼玉産の新米と隠岐の藻塩を差しいれてくれたので、さっそく圧力釜で炊いて、ワークショップ後みんなでいただきました(写真)。
まあ、そのおいしいこと。
山本美子さんからもおみやげをいただいて、いつも食べ物は豊富なげろきょです。

午後は昼ゼミ。
11月3日のげろきょ祭に出演する絽未さんの演目を決め、その演出をいろいろと試行。これはまさにコンテンポラリー朗読でしょう、というパフォーマンスをやってもらうことになりました。朗読者の身体性を表現するしかけで、こんな朗読はまず見たこともやったこともありません。
ほかにも、まゆみさんとかっしー、野々宮の朗読も。

夜はテキスト表現ゼミ。
いつものように各自の作品の講評をやったあと、無意識をつかまえるエチュード。最初はぬいぐるみを使って。次にピアノ演奏を聴いてもらって。
8時すぎに終了して、解散しようとしたら、奥田くんがやってきた。中央線が人身事故で止まってしまって、遅れてしまったとのこと。彼の作品の講評をやる。
終わってから、パーカッション遊び。朗読、音楽、音、こだわりなくおもしろい表現をやっていきたい。

朗読と演劇の違い

ちょっとした演劇と朗読のイベントに行ってきました。
そこで発見したこと。演劇と朗読はずいぶん立ち位置が違うんだな、ということ。
演劇に立ち位置がある人たちがおこなったワークは、朗読から出発して、ある状況を与え、さらに対立構造を与えることで、表現がどんどん変わっていくというものでした。それはそれで大変興味深かったのですが、観客として座っていた私はあくまで観客であり、そこに関わる余地はありませんでした。
あらためて、演劇は対立構造で作られていることが多いと感じました。シナリオでは主人公に対立するキャラクターを立てることでストーリーに緊張感を与え動かします。ステージでは役者対役者の対立構造。そして役者対演出家。演者と観客の対立構造。それが緊張感を生み、ストーリーを動かし、観客を牽引します。
一方、朗読には対立構造はありません。少なくとも現代朗読では観客とコミュニケートし、共感の場を広げていきます。そこでは音楽も絵画も写真も共存/共演できます。演劇ステージでは音楽も装置も写真も「背景=background」になってしまうところを、朗読では共演として存在できるのです。
どちらがいいというのではなく、違いをはっきり知ることができたのはおもしろかったです。