2019年12月31日火曜日

現代朗読講義録の抜粋映像まとめ

名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作って連投したが、そのまとめを作っておく。
それぞれ現代朗読という身体表現としての朗読、現代アートとしての朗読についてのかんがえかたのエッセンスがかいまみえるので、朗読にかぎらず表現に興味があるかたはご覧いただきたい。

これら抜粋映像のもとになった全編映像をいっしょに見ながら、解説したり、質疑応答をおこなう時間を近く用意している。
国立会場に直接来られるもよし、オンラインで参加されるもよし、日程発表までいましばらくお待ちいただきたい。
みなさんが参加できるように、何度かチャンスを作ろうかともかんがえている。

 その1
 その2
 その3
 その4
 その5
 その6
 その7

共感手帳術コミュニティ

いよいよ大晦日となった。
みなさん、手帳の整理はしているだろうか。
私は長年の手帳愛用者で、普通の手帳からノート、システム手帳、電子手帳などなど、ずっと使いつづけてきて、年末年始にはその選択と整理をすることが楽しみのひとつになっている。

今年はiPadで使えるデジタル手帳のすぐれものを見つけて、もっぱらそれを愛用している(写真参照、共感手帳術とはちょっと関係ないけど)。
「Planner」というアプリで、いまのところなかなか気にいっている。

共感手帳術仲間のオンラインコミュニティを作ろうと思っていて、年明けになんとなく集まってミーティングをする予定がある。
日程はあらためて発表するが、土日のどこか、サクッと1時間くらいをかんがえている。
共感手帳術に興味があるかたはどなたも歓迎、ご参加いただきたい。

2019年12月30日月曜日

2019

あと2日で今年も終わる。
今年2019年は私にとって大きな年だった。

ドイツに行った。
フライブルクの「日本文化の日」でピアノを弾いてきた。
一度はやってみたかったサーフィンに初挑戦した。
食道ガンが見つかった。

ドイツはフランクフルトからはいって、シュトゥットガルト、フライブルク、ベルリンとまわってきた。
この経験は電子書籍(Kindle本)『なぜ私はここに来たのか——ドイツ演奏旅行記』にまとめた。

電子書籍では共感的コミュニケーションのシリーズの3冊めとなる『縁側の復権——共感的コミュニケーション2019』も上梓した。
『音読日めくり365日』もまとめることができた。

電子書籍以外のコンテンツとしては、YouTubeで「ピアノ七十二候」を一年間配信し、無事に全72曲を配信終了した。
これらデジタルコンテンツは、いずれもなかなかの労作だと自負している。

共感カフェや音読カフェ、身体文章塾など、主催していた講座や勉強会をいくつか、整理して閉じた。
ただし現代朗読ゼミはほそぼそとつづけていた。
ほとんど個人レッスンのようになっていたが、あらたなゼミ生がひとり、ふたりと加わり、後半には参加者も増えてきた。
来年にはゼミの持続性とあらたな展開についてかんがえている。

名古屋でほぼ毎月おこなっていたNVCの勉強会も、徐々に朗読のワークショップへと移行し、今年は全面的に現代朗読のワークショップとなった。
それにともなって、映画製作をおこなっている伊藤勇一郎くんに毎回の模様を撮影してもらい、最終的に現代朗読の映画を作るという計画がスタートした。
年内にすべての撮影が終了し、年明けの公開を待つばかりとなっている。

6月に食道ガンが見つかってからは、怒濤の展開となった。
ひと前でやるライブやステージの予定を年内にすべてひと区切りさせるべく、着々と準備をすすめた。

長年つづけていた福井県立病院でのピアノコンサート。
16年間サポートしてきた小林佐椰伽ちゃんとのステージ。
オーストラリア在住の矢澤実穂とは「ラストステージ/事象の地平線」という公演を実現させ、それをベースに名古屋では榊原忠美と、東京から引きつづき野々宮卯妙との3人のパフォーマンス公演を2回、実現させることができた。

食道ガンについては、標準的な抗ガン剤治療をおこなわないことにして、9月から10月にかけて放射線の照射治療のみをおこなった。
これらの経験については、電子書籍『事象の地平線 末期ガンをサーフする』にまとめてある。

音楽家の海津賢くんの提案で、彼のプロデュースによる朗読と音楽のオリジナル楽曲の製作もおこなった。
8曲が完成している。
これらは今後どのような形で発表していくか、まだ企画進行中である。

2020年にかけて企画進行中のものは、ほかにもいくつかある。
しかしガンも進行していて、体調とのかねあいでなにができてなにができないのか、見極めていく必要がある。

マインドフルネスのなかで自分をたっぷりと生き、生かしていくこと。
まだまだ伝えておきたいことがたくさんある。

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(21))

例年より早めだが、東京から北陸の実家に帰省した。
車での移動だが、運転手がもうひとりいたこともあって、楽だった。
いまのところ、車を運転することにはなんの支障もない。
むしろ、電車移動よりずっと気持ちも身体も楽だ。

東京・北陸というとけっこうな長時間移動だが、それでも私は車のほうが楽だ(グレタ・トゥーンベリさんにはしかられそうだけど)。
電車の場合、国立からだと、まず東京駅に行かなければならない。
そこから新幹線で米原まで。
米原から北陸線に乗りかえる。
金沢だと北陸新幹線があって便利らしいが、それでも東京駅までは行かなければならない。

飛行機でも羽田まで行かなければならない。
羽田から小松までのフライトのあと、小松空港からはバスとローカル線の移動になる。

いずれにしても6時間くらいかかる。
車とそう変わらない。
そして車だとドア・トゥー・ドアという便利さがある。
途中、好きなときに休めるし、ラジオや音楽を聴きながら運転できる。

原因不明の腰痛も、痛み止めの薬が効いていて、それほど気にならない。
薬はなるべく8時間以上あけるようにしているし、最低でも6時間はあけている。
これがだんだん効かなくなっていくかもしれないが、ペインコントロールについてはどの医者も「心配ない」という。
さまざまな薬や方法が最近はあるらしい。
医療麻薬(モルヒネのようなものか?)も処方できるといっている。

ともあれ、腰痛の原因はまだよくわからない。
お腹のまんなかを通っている大動脈脇にある遠隔転移リンパ腫瘍ではないかと思うが、医者はそれはそんなに痛みが出ないはずだという。
骨への転移の検査を先日おこなったが、その結果は年明けにならないとわからない。

■ノベルスの衰退と電子ネットワークの拡大

ノベルスが急激に売れなくなっていったことで、私の仕事の内容も依頼も変化していった。
もともと「小説を書くことが楽しい」ことからスタートした小説書きだが、やがてそれが売れ、それで生活するようになると「売れる小説を書く」ことが目的になってしまい。
それは出版社側のニーズであり、書き手もそれに乗ってしまうというのは、自分本来のニーズを見失うことでもある。
自分が書きたいものと、マーケットの時流のなかで売れるものとは、かなり乖離してしまう。

私にやってくる注文も、当時のはやりだった仮想戦記とかジュブナイル(いまでいうライトノベルか)などが多くなってきた。
私もそれを受けなければ本が出ないという状況に追いこまれていった。

小説を書く仕事の一方で、地方在住ということも有利に働いたのだろう、地元のラジオ局やテレビ局、タウン誌、カルチャーセンターなどの仕事が増えていた。
FM福井では番組のスクリプトを書いたり、自分も出演したりしていたし、福井テレビと福井放送というテレビ局でもそれぞれ出演番組を持ったりもした。

その関係で、福井放送がやっているカルチャーセンターで文章講座をやったりもした。
これはなかなか人気の講座で、たくさんの生徒さんが来てくれた。
なかにはすばらしい書き手も何人かいた。

これらとは別に、当時はパソコン通信と呼ばれていたが、電子ネットワークにも深く関わるようになっていった。
これについては何度か書いたことがあるのでくわしくは書かないが、地元のテレビ局や企業のBBSの立ちあげに関わったり、そのシスオペを務めたりもした。
また、富士通系のニフティサーブでは「本と雑誌フォーラム」のシスオペを頼まれて引き受けたりもした。

商業小説の仕事が衰退するのに反比例して、ネットとの関わりはどんどん深まっていき、ニフティのフォーラム活動は当時の通産省のなにかの賞をいただいたこともある。
また「小説工房」というネット小説道場のような集まりが盛り上がり、その活動は本にもまとめられた。

ただ、これらのネットの活動は私をひどく消耗させた。
多くの人との関わりが一種の「熱」となり、私は熱病に取りつかれたようにコンピューターに向かった。
ユーザーもまたそんな私を「消費」した。

相当消耗しながらも、電子ネットワークというものに大きな可能性を感じていたこともまた事実だった。
ネットではパソコン通信だけでなく、ドコモのi-modeなどの公式ケータイサイトや、まぐまぐなどのメルマガサービス、そしてインターネットの本格的普及と、さまざまなサービスと規模が1990年代初頭から後半にかけて急激に拡大しつつあった。

2019年12月29日日曜日

公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その7



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その7からの抜粋映像です。

口先だけで朗読する、首から上だけで読む、胸から上だけで表現する、などということが起こったり、それ自体意識すらできていないこともありますが、現代朗読では全身が表現にほどよく参加することをめざします。
とくに現代人に欠けがちな上半身と下半身とのつながりについて、「座る」という行動に注目して練習します。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
くわしくはこちら

春野亭日乗 12月28日(土)子ども共感ゲーム大会、北陸移動

午前中から子どもたち(を連れた大人も)が春野亭にやってきて、ゲーム大会。
共感をそだてられるんじゃないかという「じっくりミレー」というゲームや、ほかにも何種類か、オバマさんがフェイスブックで書きこんでいたのをきっかけに、Mariや娘のあいさん、妹のなみこさん、三木家、のぞみさんらが集まって、年末にやることになった。
お昼は持ち寄りで。

子どもは総勢6人、あまりににぎやかで、私はゲームに参加せず避難していたが、大盛りあがりだったようだ。
お昼ご飯にはちゃっかり参加させてもらった。

子どもたちにはMariからクリスマスプレゼント(本など)。
のぞみさんがいつものように春野亭の冷蔵庫の命の祝福をしてくれた。
なみこさんもいろいろと差し入れてくれた(そもそも子どもを3人も連れてきてくれた)。
オバマさんが高タンパクが必要な私を気遣って激うまのビーフシチューを作ってきてくれた。

ほかにもオバマさんからは生クリーム好きのためのデザート、目かぞえリング、子どもたちへのプレゼント本が。

オバマさんと私のあいだでは編物用の「目数リング」の読みかたが「めかず」なのか「めすう」なのかはっきりさせたいと思っていて、ついにその解決のときが来たかと思ったのに、「目かぞえリング」と斜めに逃げられて大笑いしたという商品。
ありがたくいただく。
使わせていただきます、ありがとう。

午前中、みなさんがゲームで盛り上がっている間に、ちょいと立川まで行って、ユザワヤで年内最後の買物。
会員割引き価格でフンデルヴァッサーのオパール毛糸をいくつか買ってくる。

ゲーム大会は午後4時くらいまでつづいて、解散。
いそいで帰省準備をして、午後5時くらいに車で出発。
高速道路は渋滞もなく、大変スムーズに快適に走ることができた。

公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その6



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その6からの抜粋映像です。

ひと前で朗読したり表現するときに「気がひける」「劣等感がある」という人は、なにを大事にしているのか。
自分のニーズを把握し、つながることができたら、積極的に練習したり表現にトライできるようになります。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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2019年12月28日土曜日

公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その5



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その5からの抜粋映像です。

朗読における感情表現とはなにか。
「楽しい」感情をねつ造、あるいは演技しながら読もうとしていないか。
豊かに自分自身のこころと身体の存在を表現するためには、どんな練習をすればいいのか。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その4



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その4からの抜粋映像です。

現代朗読ではなにかを読んでいる自分自身を観察する、読みつづけるという練習をします。
なぜなら、表現が進行するとき、表現者の心身は変化しつづけており、その変化は自分自身の声や身体やまわりから受け取っているさまざまなことでもたらされているからです。
変化しつづけながら表現すること、それは自分の生命現象の表現ということです。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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2019年12月27日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(20))

昨日は水城ゼミの忘年会だった。
朗読ゼミ生やひよめき塾生のほか、ゼミに参加したことのある人、音読療法やNVCでのつながりがある人など、オンラインも合わせれば10数人が集ってくれて、大変にぎやかで楽しい会となった。
みなさん、ありがとう。

今年最後のイベントだったので、現在と今年を振りかえるいい機会になった。
集まってくれたみなさんの多様性に、混沌を感じつつ、うれしくなった。
人種、性別、年齢、職業、思想信条など、てんでばらばらで、そういう人たちが朗読表現や非暴力コミュニケーション、マインドフルネスなどの勉強の場としてのゼミにつどっていることが、私にとっては大きなお祝いだ。

私自身もこの半年、マインドフルに自分のニーズにつながり、日々やれること、やりたいことに集中してすごしてこれたことは、半年がまるで何十年にも感じるような充実があった。
こんな濃密な時間はこれまでになかったことだ。
ひょっとして子どものころはこんな時間を毎日すごしていたのかもしれないが、あいまいな記憶でしか残っていない。

残り時間はあとどのくらいあるのだろうか、という想像的観念ではなく、いまこの瞬間の永遠にちかい濃密な時間を感じながら生きること、このことが私にとって「生きる」ということにほかならないと、昨日の集まりのなかでみんなの声を聞きながら編物をしながら、思っていた。

■各社からの依頼とバブル崩壊による小説氷河期へ

デビュー長編が徳間書店の徳間ノベルスから刊行されると、驚いたことに、すぐにいくつかの出版社から書き下ろしの依頼がやってきた。
中央公論社、(いまはなき)朝日ソノラマ、(いまはなき)天山出版。
それぞれの出版社に出向いたり、編集者が福井までやってきたりして、それぞれの出版社での最初の長編小説の企画を練った。

そんなふうにして、最初の年から翌年にかけて、4冊くらいの新刊書を私は出すことになった。
そこそこ売れたものもあれば、売れなかったものもある。
すぐにわかったのは、いきなり何十万部というベストセラーを出すことはむずかしく、また私自身もそのようなベストセラー作家の仲間入りをしたわけではないということだった。

しかし、編集者——つまりプロの読み手にはあるていど評価されていたような気がする。
ベストセラー作家にはならなかったが、仕事の依頼はとぎれることはなかった。
ほとんどが長編の書きおろしの依頼で、単発の雑誌掲載短編の依頼もたまにあった。
書き下ろしはノベルスが多く、文庫書き下ろしもあった。
しかし、ハードカバーでの刊行はなかった。
つまり、エンタテインメント小説の——ひょっとして使い捨て的な——書き手として扱われていたのだろうと、いまとなっては思う。

私の小説家デビューは1986年だったが、時代はやがて激動の1989年から1990年、1991年へと進んでいく。
私にはまったく意識も実感もなかったが、この時期はちょうどバブル期にあたっていた。
そして1991年にバブル景気が崩壊すると、小説の世界にも寒風が吹きはじめた。
とくにノベルスという新書版サイズのエンタテインメント小説は、一部のベストセラー作家をのぞいて急激に売れ行きが落ちていった。
もちろん、私の本も売り上げが激減していった。

公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その3



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その3からの抜粋映像です。

朗読するとき、その表現の根拠としてなにを求めるのか。
テキストの内容なのか、作者の背景なのか、日本語ルールなのか、発音発声技術なのか。
現代朗読ではたえず変化しつづける自分の生命現象そのものを表現の根拠としてとらえようとします。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その2



2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その2からの抜粋映像です。

私たちはだれしも、日常でのさまざまなシチュエーションにおいてすばやく身体性(姿勢、構え)を変化させて、行動したり発言しています。
しかし、そのことを自覚したり、客観的に観察することはなかなか難しいのです。
現代朗読ではなにかを読もうとするとき、自分の身体がどのような姿勢なのか、ある構えになっていないかどうか、繊細に注目する練習をします。
それはとりもなおさず、自分自身を知るという試みでもあります。

それを練習する練習会の世話人には、抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
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国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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2019年12月25日水曜日

公開個人レッスンでの現代朗読講義からの抜粋その1


2019年12月に名古屋で開催した公開個人レッスン講座より、現代朗読についての講義の部分を抜粋した映像シリーズを作りました。

その1からの抜粋映像です。

現代朗読は国立で開催しているゼミで学ぶことができますが、オンラインでのネットミーティングを利用した遠隔練習会も準備しています。
練習会の世話人には抜粋ではなく全編映像を解説付きでシェアする用意があります。
世話人に興味があるかたは水城までご連絡ください。

国立でおこなっている現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
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年末年始の個人レッスンはお休みします

対面やオンラインでの個人レッスン/個人セッションは、この年末年始にお休みさせていただきます。
年内は12月28日まで。
年明けは1月7日ごろから再開します。
12月29日から1月6日までお休みということです。

今年は共感カフェや音読カフェを店じまいしたためか、個人セッションを多くのかたに利用していただきました。
うれしいことです。
また、朗読など表現についての個人レッスンも多く来ていただき、私ならではの知見をみなさんのお役に立てることができたのもうれしいことです。

長年の経験と研究、表現やコミュニケーションについての本質的な考察の継続によって、自分のなかにかなり系統立ったものが構築されてきた感触があります。
これを必要とする人にできるだけ届けておきたい、というのがいまの私の願いです。

また、だれかを見て、だれかがなにかを話したり声を出すのを見て、だれかがなにかをやるのを見て、そこから私にしか気づかないなにかを読みとって指摘したり、気づいてもらったりする演出手法も確立していると感じています。
これもまた必要とする人に届けたいですね。

限りある自分の命をできるだけ多くの人に役立てたいと思っています。

※水城ゆうの個人セッション/レッスンのご予約はこちらから。

2019年12月24日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(19))

東京紙器の山田俊哉さんが国立までわざわざ会いに来てくれた。
山田さんとは20年以上の付き合いになる。
といっても、ここしばらくはごぶさただった。
私の人生にとって、最重要人物のひとりだ。

というのも、ニフティサーブなどのパソコン通信時代からケータイ公式サイトが爆発的に普及する時期にかけて、私をネットから拾いあげてくれて、いっしょにアイ文庫という会社を作り、私が東京に出てくるきっかけを作った人だからだ。
経営者ではあるが、まったく社長然としたところはなく、知的好奇心やチャレンジ精神が旺盛で、最初から信頼できる人だった。

最近は仕事の接点がなくなり、会うこともなくなっていたのだが、アイ文庫でNVCの共感トランプを作ることになり、その製作を東京紙器に依頼したことから、ふたたび連絡がついた。
アイ文庫は現在、西東万里が代表取締役で、彼女はNVCジャパンネットワークの事務局でもある。
共感トランプの企画からデザイン、入稿まで、仲間のサポートを得ながら、実質的にはほとんどひとりでやっている。

私に会うことを躊躇していた山田さんを誘ってくれたのは彼女だ。
山田さんは私に会うことをなぜ躊躇していたのか。
会って話してみてわかった。

最後に山田さんに会ったのは何年前だったのか、さだかではないが、7年以上前のことにはちがいない。
そのころの私はまだ杖をついていた。
20年以上前にやらかした膝の骨折とそのリハビリの失敗で、杖なしには長く歩けない状態が5年前くらいまでつづいていたのだ。
つまり20年近く杖にたよる生活をしていた。

山田さんはそのころの私の姿しか知らない。
それに加えて、末期ガンを患っているという情報だ。
山田さんは私のことを、ガン治療でやつれはて、ガリガリになって杖にすがって歩く、死期を目前にした無残な姿を想像していたらしい。
なるほど、そんな姿の人間には、私も気楽に会うのを躊躇してしまう。

しかし実際には私は前以上に元気で、しかも杖すらついていない。
かつては杖なしに歩けなかったのに、いまは数キロならジョギングすらできる。
7年前からはじめた韓氏意拳という武術と、その教練である山形の高橋透先生の頭蓋仙骨治療のおかげだ。

元気な私の姿を見て、山田さんは心からほっとしたようだった。
それを聞いて、私は気づいた。
私を知っている多くの人が山田さんのような危惧をいだいて私に会いたくても会うことを躊躇するような心境になっているのではないか。
それを越えて私に会いに来てくれた人たちは、大きな心理的ハードルを乗りこえてくれたのかもしれない。
会いに来てくれた人も、会うのをためらっている人も、ありがたいと思う。

会いに来てくれた山田さんとは、何年ものブランクを感じることなく、かつての仕事仲間というより同僚、旧友のような気持ちで話をすることができた。
ひさしぶりなのに、過去の思い出話にふけることなく(すこしは話したけれど)、いま現在のお互いの状況や心境と、これからのことについて、心を開いて話しができたし、また聞いてもらうことができた。
ほんとうに楽しい時間だった。

たとえ頻繁に会わなくても、いつでも心を開いて話ができる友人がいるということが、これほど豊かなことなのだということを、私はガンという病を得て心底実感するようになってきた。
人生の最終盤がこのような豊かさのなかにあることを、本当にうれしく思っている。

(写真は私がアイスクリーム好きであることをブログを読んで知った山田さんからいただいたアイスクリームのギフト券。うれしい)

2019年12月23日月曜日

語りッ娘ニュースが届いた

豊田の語人(ストーリーテラー)小林佐椰伽ちゃんの活動ニュース紙「語りッ娘ニュース」の最新号が届いた。
お母さんの小林希依子さんが、毎回、執筆・編集をして発行しつづけているもので、10年以上継続して作りつづけていることにはまったく頭があがらない思いだ。

今回は今月、愛知県知立市でおこなわれた知立演劇フェスティバルのようすを写真付きでまとめてある。

知立演劇フェスティバルへの参加協力は、希依子さんによれば平成17年から、ということで、なんと14年前のことになる。
今回で私は4回めくらいの参加になったのかな。
よかったらご覧ください(画像をクリックすると拡大します)。

春野亭日乗 12月22日(日)朗読ゼミ、グリグリ、ひよめき忘年会と塾

午前10時半から現代朗読ゼミ。
年末にもかかわらず——あるいは年末のせいか——参加者がたくさん来てくれて、結局9人での稽古となった。
このくらいの人数がいないとできない群読の練習もあるので、ありがたい。
名古屋の生惠さんもオンラインで参加してくれた。
リアルでいっしょにできることには制限があるけれど、それなりにできることもある。

ゼミのあと、いつものようにゼミ生ユウキにグリグリをやってもらう。
かなり痛いところもあるけど、これ、効いてる気がする。
いずれにしても、私のために忙しい日々の合間の時間を使ってくれることに感謝。

何人かで近所の〈ケルティックムーン〉までランチに行く。

夕方からひよめき忘年会。
つきみんがおいしいパンとか手作りの何品とか、いろいろ用意してきてくれた。
ほかにまりりんとおっくんが来てくれる。
少人数だったけど、たいへん楽しい時間をすごした。
機関誌『HiYoMeKi No.7』の最終校正もめどがついた。

夜は19時から年内最後のひよめき塾を開催
忘年会組と、あとはオンライン組。
作品は10篇が提出された。
ちょっと長引いたにもかかわらず、私は元気に最後までほぼ全部参加できた。
楽しかった。
腹がよじれるほど笑ったのはひさしぶり。

2019年12月20日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(18))

さてどうしますか、しばらくかんがえますか、と2週間の猶予をもらった治療についての返事をするために、病院に行ってきた。
治療方針についてはすでにかんがえてあったので、返事は、
「とくに治療はしません」
と伝えるだけだった。

標準的な治療としては抗ガン剤をおすすめするが、なにもしないとなればこのあとの「最後をどうすごすか」について周囲ともよく話し、決めておく必要がある、と担当医からいわれる。

食道周辺のガン部位は放射線治療でかなり効果をあげることができたが、放射線がとどかない腹部の大動脈脇の転移リンパ腺腫については増大しているので、部分的な照射治療もありうる。
ただ、転移は全身のどこにおよんでいるかわからないので、その部位を治療したからといって根治するわけではない。
抗ガン剤治療ももちろん根治するわけではない。
そのような説明をうけた。

私が行っている多摩総合医療センターは大きな病院だが、緩和ケア病棟はないらしい。
もちろん緩和ケア治療はおこなえるが、ホスピスはない。
ホスピスは手続きにしても入院するにしても「待ち」が長くなることが多いので、早めに手を打っておいたほうがいい、ということで、年明けにケアマネージャー(だっけな?)と相談してアドバイスをもらうことになった。

腰痛がつづいているので、腰椎への転移がないかどうか、骨シンチグラムという検査を来週受けることになった。
治療しないといっても、いろいろと展開ややることが出てくるものだ。

■職業作家になる

私の長編デビュー作は1986年に徳間ノベルスから刊行された。
刊行される前に驚くようなことが起きた。
担当編集者が机の上に置いてあった私のデビュー小説のゲラ刷りを、たまたま用事で編集部に来られていた筒井康隆先生が見つけて、「読ませろ」といって持っていったというのだ。
そればかりか、頼まれてもいないのに、400字詰め原稿用紙に2枚の推薦文を書いて、送ってきてくれた。

その推薦文はそのまま、新刊の帯に掲載された。
直筆原稿はいまでも私の手元にある。

長編小説が刊行される前に、『SFアドベンチャー』に数本、短編SFを書いた。
雑誌掲載用の短編を書いたり、デビュー長編を書きなおす過程で、編集者からずいぶんたくさんの注文や書き直しを命ぜられ、私はかなり鍛えられた。
ちょっとめげそうになるくらい厳しく指導された。
しかし無事にデビュー長編が刊行されることになった。

それは夏のことで、徳間書店の旧社屋には、入口をはいると宮崎駿監督の新作アニメ映画「天空の城ラピュタ」のポスターがベタベタ貼ってあったのをよく覚えている。
そのとき私は29歳になったばかりだった。

ピアノ教師は、一部の大人の生徒をのぞいてやめてしまった。
子どもたち相手にピアノを教えるのは、音大など正規のクラシック教育を受けなかった私にとって、ちょっとうしろめたいところがあったからだ。
子ども相手の塾の先生もやめた。
そうして私は商業職業作家としてのおよそ10年を、その後歩むことになった。

2019年12月19日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(17))

(写真:KYOKOさん)

12月5日はボイスセラピー講座、その夜から7日にかけての足かけ3日間は音読トレーナー養成講座合宿。
その7日の夜は現代朗読ゼミ。
8日は墨田区のジュニアリーダーの中高生約40名を対象に音読指導のワークショップ。

すこしあいて、12日は名古屋での「ラストステージ/事象の地平線」昼夜2公演。
13日は同会場で公開個人レッスン講座。
15日は知立演劇フェスティバルに小林佐椰伽ちゃんのサポート演奏で出演して、その夜に東京にもどってきた。

かなりのハードスケジュールがつづいた。
体調と相談しながら、なんとか乗りきることができた。
たくさんのみなさんと交流できたし、やりたいこと/やっておきたいことをしっかりとこなすことができた。
抗ガン剤の治療をパスしてきたが、もし抗ガン剤治療を受けていたらとてもこれだけの活動はできなかっただろう。
そもそもピアノが弾けなくなっていただろう。
とても満足している。

■東京に呼ばれる

徳間書店の文芸書籍編集部から来た連絡によれば、私の原稿を読んで長編小説出版と商業作家デビューさせる可能性を感じてさっそく連絡を取ろうとしたという。
ところが原稿に付けられていた連絡先に連絡しても、いっこうに連絡が取れない。
住所をあたっても別人が住んでいる。
それはそうだろう、私はすでに何年も前に京都を引きはらってしまっていたのだから。

書かれていた電話番号はファクスにつながってしまう。
そこでファクスに事情を書いて連絡を求めたが、いっこうに要領をえない返事しかもどってこない。
私が京都で使っていた電話は、すでにどこかの会社のファクス番号として使われていたらしいのだ。
当時は(いまでもそうか)電話を移転すると、おなじ管局内でないかぎり、電話番号は地域の局の番号に変わってしまった。

困った編集者は、私の原稿の末尾に付けられていた略歴を調べた。
もともと新人賞に応募しようと思って書きはじめた原稿だったので、規格外の長さになってしまっても新人賞の募集要項にそった略歴のようなものを書きそえておいたのだ。
たぶん、出身地と戸籍名が書いてあったと思う。

まだ家電が主流の時代で、個人の電話番号は「104」で調べることができた。
編集者は私の出身地と戸籍名をもとに、番号案内で私の移転電話番号にたどりつくことができた。

あとで聞いた話だが、私の原稿は投稿されたとき、編集者の机の上の「未決棚」に収められた。
未決棚には投稿原稿が封筒にはいったままずらっと縦にならんでいて、その幅は1メートルくらいあったという。
編集者は暇ができると、未読の投稿原稿を古い順から読んでいく。
ほとんどがそのまま投稿者に返却されていく。

私の原稿も未決棚の一番端からすこしずつ移動していって、1年半以上かかって編集者の目にはいることになった。
その編集者は今井さんという方だったが、私の原稿を読んですぐに編集長の石井さんにそれを見せた。
石井さんもびっくりして、急いで私に苦労しながら連絡をとったというわけだ。

とにかく一度会いましょう、ということになり、私は喜びいさんで東京に行くことになった。
いまでも新幹線が新横浜から東京駅に進入していったときの、東京の街並みの感触を、はっきりとおぼえている。
まだ新幹線は品川駅に停まらなかった。

東京駅から山手線に乗り、新橋駅の烏森口で今井さんに出迎えられたときのことも鮮明におぼえている。
いまはなき徳間書店の旧社屋のことも忘れられない。
この社屋はジブリ映画の『コクリコ坂』に詳細に再現されて出てきたので、ちょっとびっくりした。

2019年12月18日水曜日

だれかのためにできること、全部やる

名古屋・知立から帰ってきてから、かなり余裕のあるスケジュールとなり、編物なども楽しむ余裕がすこし出てきているのだが、それでも毎日数人のオンラインセッションや個人レッスンがあって、うれしいかぎりだ。

オンラインセッションも個人レッスンも、自宅にいながらにしてできることで、体調に不安のある私としてはとてもありがたい。
自宅にいてもだれかと交流したり、私の経験や知識を役に立てることができるチャンスがある。

命にかぎりがあると自覚したとき、自分の命をできるかぎり有効に使いたいと思った。
生きてここにいることを味わいつくす、喜びのためだけの時間をできるだけ多く持つ。
そして私にとってもっと喜びの大きな時間のひとつが、だれかのために自分の命を使うときだ。

もちろん直接会えればいいけれど、インターネットを使ったオンラインミーティングも便利で、工夫すればやれることがたくさんある。
私もまだ試していないことがあるので、これから試してみようと思っている。

電話が発明されたとき、電話機を使うことに抵抗をしめした人々がいたのとおなじく、現代もインターネットを使うことに抵抗がおぼえる人がたくさんいることを知っている。
しかし、必要性は手段をこえるものだし、だれかのために自分の時間を使いたいと思ったとき、テクノロジーの発展は無力な一個人にとってとてもパワフルな側面をもたらしてくれる。

朗読、音楽、小説、表現、コミュニケーション、マインドフルネス……長年追求してきた私の経験と知識がだれかの役に立つなら、全部伝えきりたいと思っている。
興味がある人、なにかに困っている人、手助けが必要な人がもしいれば、気軽にコンタクトしてほしい。

◎水城ゆうの個人セッション
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2019年12月17日火曜日

自分に注目することで全体性を発揮する

いま、現代朗読の思想やトレーニング方法のガイダンスとなる動画クリップを作っている。
といっても、わざわざあらたに撮影しているのではなく、これまでのレッスンやゼミでの記録動画から切りだして編集している。
手間のかかる作業だが、従来の朗読とはまったく異なるアプローチの現代朗読について、できるだけ伝えのこし、朗読をはじめとする表現をこころざすみなさんに役に立てればいいと思っている。

この動画クリップはゼミ生相手の個人レッスンの記録動画から一部を切りだしたものだが、フルムービーは現代朗読の稽古会の世話人をやってもいいという人がいたらシェアする準備がある。

興味があるかたは気軽にコンタクトください。

編物をする私のための編物

しばらく中断していたが、蚕の繭の真綿から紡いだ絹の糸を使って編むシルクニットがある。
手紡ぎなので太さが一定ではなく、編むと機械編みとはちがった、人の手が作った独特の風合いがあって、大好きだ。
ただ、糸に癖があるので、なんでも編めるわけではない。

最近、この糸のいい使い道を思いついたので、編んでみようと思っていた。

そこへ、名古屋の長年の友人・加藤位里から、なにやらプレゼントがあるといわれて、会うことになった。
渡されたのは、シルクニットの襟巻き(写真)。

新城市で真綿の手紡ぎ糸を作っている牧あんなさんから、人のために編んでばかりいる私のために、私自身が使えるものを渡したい、という思いを伝えられ、糸を渡されたので、それを使って位里ちゃんが編んだものをプレゼントしてくれたのだ。

私はいろいろ編むけれど、どんどん編んでどんどん人にあげてしまう。
自分が使うものはほとんどない。
それを見たあんなさんが、私が使えるものを作ってあげたいと思ってくれたようなのだ。
なんてありがたくうれしいことだろう。

あんなさんが大切に育てた蚕たちから集め、丁寧に手紡ぎした糸で、位里ちゃんが丁寧に編んでくれた絹の襟巻き。
大切に使わせてもらいます。
ありがとう。

2019年12月16日月曜日

ラストステージ幕引きスケジュール全終了

11月29日の渋谷「ラストステージ/事象の地平線」公演からスタートしたライブや公開レッスンなどのひとつながり(と勝手に思っている)のイベントが、昨日の知立演劇フェスティバルをもって全終了した。

11月29日、渋谷「ラストステージ/事象の地平線」公演。
11月30日、大塚「パープルリボン・コンサート」。
12月5日、ボイスセラピー講座。
つづいて12月7日まで、音読トレーナー養成講座合宿。
12月8日、墨田区八広でのジュニアリーダー向け音読授業。
12月12日、名古屋栄ナディアパークでの「ラストステージ/事象の地平線」昼夜2公演。
12月13日、同会場での朗読公開個人レッスン講座。
そして12月15日の知立演劇フェスティバルへの、小林佐椰伽ちゃんのピアノ演奏サポート出演。

気管支炎が長引くなか、よく体力がもったなと思っている。
なんとか乗りきれたのはご参加いただいたり、応援していただいたみなさんのおかげだ。

ものすごくたくさんのニーズが満たされた。
私がこれまでやってきたことの集大成といえるんじゃないか。
やりっぱなしにしないで、この日々のことをきちんと整理しておこう。

とくに現代朗読については、この表現が(私がいなくても)継続的に研究・実践されていくための道すじが見えた。
みなさんに残しておける参考動画もたくさん撮れた。
私だけでなく、映画撮影をおこなってくれた伊藤くんも、動画コンテンツを整理してくれることになっている。

ライブや公演、ワークショップなど、ひと前に立ってなにかをやる予定はこれで全部終えたが、ゼミや個人レッスンは体調のゆるすかぎりやっていくつもりだし、また練習会のような場を継続していくための指針作りはいそいでやろうと思っている。

また、整理しきれていないコンテンツがたくさんある。
テキスト、動画、音声……
今日も丸1年間にわたって配信してきた「ピアノ七十二候」の全作品の配信を終えたところだ。
これもまた、私にとってはひと区切りとなった。

今後は朗読ゼミ、ひよめき塾(文章塾)、個人レッスンやオンラインセッションをおこないつつ、練習会の世話人や参加者をお願いしていくことになるだろう。
ご協力いただければと思っている。

ピアノ七十二候:大雪/鱖魚群(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大雪の末候(63候)「鱖魚群(さけのうおむらがる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

2019年12月12日木曜日

ピアノ七十二候:大雪/熊蟄穴(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大雪の次候(62候)「熊蟄穴(くまあなにこもる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

2019年12月10日火曜日

ひよめき塾機関誌No.7の作品選定作業

身体文章塾を今年の前半に閉めようと思っていたところに、ステージⅣの食道ガンが見つかった。
いろいろな活動をクローズするチャンスかもと、身体文章塾もちょうどいい機会になった。
機関誌も6号まで出すことができたことだし。

と思っていたら、塾生だったふなっちこと船渡川くんから、
「まだ学びたいことがある。機関誌もまた出したい」
という連絡があり、自発的に塾生たちに声をかけて再結集してくれた。

塾生たちとまた会えるのはうれしかったし、いわれてみればまだやりのこしたこともあるような気がしてきた。
そこで身体文章塾を再開することに同意して、名称も「ひよめき塾」とあらためた。

フェイスブックからSlackに場を移し、現在15名ほどのメンバーで活発に創作と交流活動をおこなっている。
作品もだいぶたまってきたので、年内というめどを立てていた機関誌の編集製作に取りかかることになった。

助かるのは、これまで私ひとりでおこなっていた作品選定、講評のコメント書き、編集、製本という作業のうち、編集と製本の部分を古参メンバーの石川月洛が一手に引きうけてくれるということだ。
おかげで私は、作品選定と講評書きに集中できる。

ここ数日はこの半年近いあいだに塾生のみんなが書いたかなり膨大な作品群のなかから、機関誌に掲載するための作品を選定していた。
かなり大変な作業だが、楽しい作業でもあった。
上手/下手ということではなく、それぞれのオリジナルでユニークなテキスト表現がここに集まっている。

機関誌『HiYoMeKi』はひさしぶりの発行となるが、第7号となる最新号は年内にリリースできるはずだ。
私と塾生たちが力をあわせて形にした大切な作品である。

ひよめき塾は年明けも継続する。

2019年12月9日月曜日

12日から15日まで名古屋・知立へ

語人(ストーリーテラー)佐椰伽ちゃんから「語りッ娘ニュース」が送られてきた。
毎回の活動報告をお母さんの希依子さんがまとめて編集し、版下まで作っている。
何年もつづいていて、本当に頭がさがる。
今回は11月16日に私もピアノサポートでかけつけたイベントの詳細と感想が、写真つきで掲載されている。

その佐椰伽ちゃんとは、今週末・12月15日に知立市文化会館(パティオ池鯉鮒)花しょうぶホールで開催される演劇フェスティバル in ちりゅうでもご一緒することになっている。
現代朗読の野々宮卯妙も助っ人で参加する予定だ。
私たちの出番は午後3時すぎくらいになると思われる。

この前に12日には名古屋で「ラストステージ/事象の地平線」の2回公演を、榊原忠美を迎えておこなう。
夜の部は満席で受付を終了したが、昼の部は若干名の余裕があるようだ。

私のライブステージはこれが最後と思っているので、ご都合のつくかたはぜひ会いに来てください。
13日の公開個人レッスンも、数人の空き枠がまだあります。

みんなの現代朗読

墨田区の教育支援プログラムへの協力として、ジュニアリーダーの中高生たちに現代朗読協会として音読指導をおこなってきた。
サポート参加してくれたリヒトくんがその帰り道に、
「現代朗読ゼミにもっと人が集うといいな」
といってくれた。

現代朗読では月に数回のチャンスを作って、ゼミ生を中心に現代朗読の練習や表現の研究ができる朗読ゼミという場をひらいている。
これは10年以上つづいていて、かつては月に10回以上開催していたこともある。
ゼミ生も20人近くいたこともあるが、いまは数人しかいない。

ゼミ生が少なくなってしまった理由として、現代朗読に魅力がないからなのか、といえば、そうではないと思う。
現代朗読はいったんその考え方や方向性を理解すれば、だれもが実践できる方法なので、ずっとゼミ生でいつづける必要がないと感じることもあるだろう。
また、現在の活動拠点が国立市という、都心部からやや離れた場所に移ったことも、人が来にくい理由のひとつになっているかもしれない。

現代朗読の方法が広がり、拡散したとしても、それはそれでいいと思う。
そうやって活動をつづけている体験者や元ゼミ生が、「これは現代朗読である」とわざわざことわらなくてもかまわない。
ただ、基礎的な練習はある程度おこたらないでほしいなというのが、ファウンダーである私の願いでもある。

現代朗読の基礎練習はバレリーナのプレパラシオンとか、演奏家のスケール練習とか、アスリートの筋トレのように、日々更新していないと内容が劣化してしまう。
しかし、このような地道な稽古は、ひとりでつづけるのはなかなか困難なことだ。
だから、バレエスタジオに通ったり、道場があったりするのだろう。

現代朗読も道場とまではいかないが、そこに行けばみんなで基礎練習をやったり、情報交換やライブの企画ができたりする場があるといいなと思う。
そこにはかならずしも私がいる必要はないし、またずっといられるわけでもない。

演出家の私の指導がないと練習できないと思っている人がいるかもしれないが、そんなことはない。
現代朗読の方向性や理念、練習方法はすでに確立しているので、それを理解している人が集まれば、私がいなくてもどんどんあたらしい表現を追求することはできるはずなのだ。
そのような場が自主的にうまれ、継続していってくれるとしたら、私としてはこんなにうれしいことはないだろう。

2019年12月8日日曜日

年内スケジュール、ラストスパート

体調に気がかりがあって、とどこおりなく実行できるかどうか心配していた11月末のライブステージも、予想以上にしっかりとやれた。
12月にはいってからも休む暇なくスケジュールがつづいていたのだが、なんとか乗りきった。

12月5日はボイスセラピー講座、その夜から7日にかけての足かけ3日間は音読トレーナー養成講座合宿。
その7日の夜は現代朗読ゼミ。
そして今日8日は墨田区のジュニアリーダーの中高生約40名を対象に音読指導のワークショップ。
すべて無事に終わった。

ジュニアリーダーの指導では、音読トレーナーのミッチーと元ゼミ生の真弓さんがサポートにはいってくれて心強かった。
元気いっぱいの中高生相手に、まだすこし気管支炎が残る自分の体力がもつかどうか、そして初めてのワーク内容になにをやるのか、ジュニアリーダーたちとしっかり交流できるのかどうか、みんなにきちんと受け取ってもらえるのかどうか、いろいろ心配だったのだが、実際にやってみると熱心に話を聞いてくれたりワークをやってくれたり、とてもうれしく楽しい90分となった。

墨田区の教育支援プログラムに現代朗読協会としてのボランティア協力してきて、たぶん10年近く、私の役割はここで胸を張って終えることができた。

あと年内は、名古屋での「ラストステージ」公演、12日の昼・夜2回、13日の公開レッスン講座、15日の知立演劇フェスティバルでの小林佐椰伽ちゃんの語りサポートを残すのみとなった。

年明けはライブイベントの予定をいれていない。
オンラインでのいくつかの講座や個人セッションと、春野亭でのゼミ、個人レッスンなど、体調に応じた活動をつづけられることを願っている。

ピアノ七十二候:大雪/閉塞成冬(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
大雪の初候(61候)「閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年12月4日水曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(16))

ライブイベントがふたつ終わり、私にとっては大きな区切りを感じている。

11月29日には渋谷総合文化センター大和田で「ラストステージ/事象の地平線」という公演をおこない、たくさんの人にお越しいただいた。
ダンスの矢澤実穂と朗読の野々宮卯妙の3人でおこなったステージで、私が食道ガンをわずらったことを知って実穂さんから、年内にぜひいっしょにやりたい、という提案をもらって企画された。

実穂さんはオーストラリア在住で、わざわざ帰国スケジュールを調整して来てくれた。
「ラストステージ」という名称も彼女がかんがえてくれた。
私も文字どおり、ライブステージとしては最後になるつもりで臨んだし、朗読テキストもこのために書きおろしたものだった。

ただ、名古屋でもおなじものを、という要望があり、実穂さんは参加できないが古くから朗読パフォーマンスを共にしてきた榊原忠美を迎えて、昼夜2回公演をやることになっている。
これがほんとのラスト。

11月30日には、その前から参加が決まっていたDV撲滅キャンペーンのための企画「パープルリボン・コンサート」に参加してきた。
参加が決まったのは夏前で、食道ガンがわかったときにこれに参加できるのかどうか不安だったが、主催側には「健康状況に応じて可能なかぎり」という条件をこころよく呑んでくれて、参加できた。
結果的には健康状態は良好で、元気に支障なくパフォーマンスをおこなうことができた。

大塚の音楽堂anoanoでの開催だったのだが、その前にボリュームたっぷりでしかも安価な天丼をしっかり楽しんだ。
ものを食べることにはなんの支障もなく、痛み止めを飲んでいるがそれは食道ではなく腰の痛みを抑えるためだ。
腰の痛みはおそらく、腰の大動脈脇のリンパ節に転移した腫瘍が増大しているためかと思われる。
全身への転移がどのように進んでいるのか、それはわからない。

■出版社から連絡が来た

話をちょっとはしょって、忘れてしまっていた投稿原稿がどうなったのか、そこまで時間を飛ばそう。

生徒数がけっこういる田舎町のピアノ教師としてやっていた私は、子どもだけでなく大人にも教えていた。
それに加えて、近所のちいさな本屋が子ども向けの塾をやっていて、そこの先生としても週に何日か頼まれていた。

そうこうするうちに、福井に民営のFMラジオ局が開局した。
それまではFM局というとNHK-FMしかなかったのだが、放送法の改正で全国の主要都市につぎつぎと民放FMが開局した時期で、FM福井もそんな局のひとつだった。
東京FMや愛知FMなどとおなじ系列の、JFNというラジオネットのひとつとして開局した。

私はピアノや塾の先生をしながら、福井でも演奏活動をたまにやるようになっていて、とくにフリージャズや前衛美術パフォーマンスの人たちとつながりが生まれていた。
あるとき、その活動のひとつとして商店街のイベント企画でドラマーと演奏することになり、そのイベントが開局したばかりのFM福井の情報番組で紹介されることになった。
私はのこのことラジオ局に出かけ、その情報番組に出演して、イベントの紹介やら、自分自身のことを話した。

どうやらそれをおもしろがってもらえたようだ。
たしか「週末情報パック」という番組で、ディレクターは杪谷直仁、アナウンサーは黒原真理、パーソナリティとして名古屋のタレント事務所から俳優の榊原忠美が派遣されてきていた。
この人たちとはいまだにつながりがあるばかりか、この人たちとの出会いからはじまったことがいま現在の私の活動の核となっているといってもいい。

その番組が終わったあとも、私はちょくちょくFM福井に呼ばれて、番組製作の手伝いをするようになった。
いわゆる構成作家だが、それほどおおげさな意識はなく、膨大な量の新譜CDを好きなだけ聴けるのが、私にはうれしかった。

それが1985年のことだったと思う。
その秋口、近所の本屋の塾で子どもたちを教えていたとき、家から電話がかかってきた。
なにやら東京の出版社から本のことについて連絡があるので至急かけなおしてほしい、という内容だった。
要領をえなかったが、そのころの田舎住まいでは東京の出版社から直接本を取り寄せることもあったので、私には心あたりはなかったが、まあそんなことの連絡なんだろうなと思って、塾が終わってから家に帰ってメモにあった番号に電話してみた。

担当者は文芸書籍編集部・今井とあった。
電話をつないでもらうと、こちらの名前を確認したあとで、こんなことをいわれた。
「原稿を拝見しました。大変おもしろいので、ぜひとも弊社から出版したいんですが、いかがでしょう?」

たぶん私はぽかんとしてしまったと思う。
なんのことをいっているのか、とっさに見当がつかなかったのだ。
しばらくやりとりをしてようやく、原稿というのは何年か前、京都を引きはらう前に徳間書店に送りつけた小説原稿のことだと思いあたった。

フレンチのディナーを楽しむ

国立にこじんまりしているけれど最高のフレンチレストラン〈ル・シエル〉があって、1年に1回くらい、贅沢しに行っていた。
食道ガンが見つかって、食事に支障が出始めたとき、これが最後かなと思いながら、前回7月にディナーを楽しんだ。

もう食べられないだろうなと思っていたのに、放射線治療が思ったよりうまくいって、転移リンパ節は残っていて増えているくらいだけれど、食道ガンの本体は縮小して食事にはほぼ支障がない状態になったので、あらためて予約を入れて昨日ディナーに行ってきた。

メインの魚は真鱈、肉は猪。
いずれもすばらしく、前菜もデザートも創意工夫に満ちていて刺激的だった。

私は普段の食事はまったく保守的な人間で、毎日おなじものを食べていてもけっこう平気だが、ル・シエルでの食事は「芸術鑑賞」に近いものがあって、そのような楽しみ方をする。
昨日もインスピレーションに満ちた食事で楽しかった。
ここまで芸術的だと、さすがに自分でまねして作ってみようとは思わない。

こんなふうにものを支障なく楽しんで食べられるのも、身体的状況がそれを許しているからであって、そのことに幸せをおぼえる。
それがいつまでつづくかはわからないけれど、毎日をしっかりと味わいながらすごしたい。
もちろん、ル・シエルのような食事を毎日したいということではなく、マインドフルな感受性があれば、ごくふつうの食事や日常生活のなかにも楽しみや発見はいくらでもあるということだ。

2019年12月3日火曜日

公開レッスン講座@名古屋の参加枠が埋まってきた

あと約10日と迫ってきたが、名古屋栄での朗読公開個人レッスン講座を12月13日(金)におこなう。
午前10時から午後4時まで、どの時間帯に参加してもらってもかまわなくて、自分のレッスンだけでなく、ほかの人がレッスンを受けるようすを見学することもできる。

ひとりひとりのレッスン枠は約30分。
最初からずーっといてもいいし、自分のレッスン枠のところだけ来て終わればさっさと帰るというのもあり。

午後の枠がほとんど埋まってきていて、残りは14時半からのひと枠のみ。
午前中の枠はまだ空きがあるので、参加を検討しているかたは早めにお申し込みいただきたい。
いずれにしても、あと数人で受付を終了します。

12月13日:朗読表現公開レッスン講座@名古屋栄
名古屋「ラストステージ/事象の地平線」公演の翌日に、同会場にて朗読の公開レッスンをおこないます。水城ゆうの朗読演出と即興ピアノとの共演を体験できます。朗読と音楽の共演に興味がある人を歓迎します。定員10名。

YouTube:朗読ゼミでのフリー朗読エチュード・ピアノ付き

現代朗読ゼミを毎月数回、国立春野亭にて開催しています。
基礎トレーニングのほかに、現代朗読の特徴のひとつでもある群読エチュードも参加人数に応じてやっています。

先日12月1日のゼミでも現代朗読の群読エチュードの基本中の基本といえる「お経朗読」からスタートして、「リレー朗読」のさまざまなバリエーションにチャレンジしました。
最後はほぼ自由に読んだり読まなかったり、合わせたり合わせなかったり、ピアノ演奏とのコミュニケーションも交えながらのエチュードを楽しみました。
そのようすの一部を、抜粋して紹介します。

現代朗読ゼミは朗読未経験のかたもふくめ、どなたも体験参加歓迎です。
くわしくはこちら

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YouTube:パープルリボン・コンサートでのパフォーマンス抜粋

DV撲滅をめざす活動の一環である音楽コンサートに、水城ゆうと野々宮卯妙が参加しました。
2019年11月30日に大塚の音楽堂anoanoで開催されたこのイベントに、水城は健康上の理由(食道ガンのステージⅣ)で参加できるかどうか懸念がありましたが、無事に元気に参加できました。

水城のテキストと即興ピアノ、野々宮卯妙の朗読で、演目はその前日、渋谷総合文化センター大和田でおこなった公演「ラストステージ/事象の地平線」の抜粋でした。
そのもようをさらにほんの一部の抜粋ですが、ご紹介します。

映像はこちら
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2019年12月2日月曜日

新装開店ユザワヤで割引オパールを仕入れた

立川のユザワヤが移転して、新装開店したというので、行ってきた。
以前はビックカメラのビルの上にあったのだが、今度は高島屋の上にあたらしく移転した。

売り場面積はそう変わらないように見える。
開店記念に会員用の値引き葉書が届いたので、持っていった。
狙い目は毛糸。
とくにオパール毛糸。
靴下とか帽子とかマフラーに使えるかな。

オパール毛糸はけっこう高くて、ネットで買うとひと玉2,000円近くするのだが、ユザワヤだと1,600円から1,700円くらい。
それが会員価格で2割引き。
そこからさらに4割引きで、今回は買える。

たくさん買いたかったけど、置き場所にも困るし、そんなにたくさん編めないので、気にいった色合いを3玉と、ノルウェーのNOVITAの糸をひと玉、買ってきた。
NOVITAではいま帽子を編んでいて、いまのひと玉では足りないかもしれないと、補充。
オパール毛糸ではなにを編もうかな。

群読エチュードはたのし〜!

昨日の現代朗読ゼミは参加者が5人いたのと、要望があったのとで、基礎トレーニングのあとに群読エチュードをしっかりやってみた。

現代朗読の特徴はいくつかあるけれど、群読によるコンテンポラリー表現もそのひとつだ。
斬新な表現だけでなく、群読の練習をすることでさまざまなことに気づき、あらたな学びを得ることができる。
なにより、みんなでひとつのテキストを読み、身体を動かし、自分自身やそこで起こるコミュニケーションを観察したりするのは、楽しい。

昨日も現代朗読の群読エチュードの基本中の基本といえる「お経朗読」からスタートして、「リレー朗読」のさまざまなバリエーションにチャレンジした。
しだいに自由になっていき、感覚が開き、また同時に集中力が増し、マインドフルネスやフローの状態にはいり、最後は私のピアノ即興演奏とのコミュニケーションも楽しみながら、このままステージにあげてもいいよね、という新鮮な朗読表現へと進んでいった。
楽しかったな。

朗読などやったことがない、興味がない、というような人にも、一度参加してもらいたいものだ。
朗読という表現の可能性や、それがもたらす自分自身への気付きの効果など、おもしろい体験ができると思っている。

12月7日:臨時朗読ゼミ(水城ゼミ)
ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで臨時の現代朗読ゼミを開催します。身体表現あるいは音楽としての朗読を楽しみましょう。12月7(土)18時から約2時間。

ピアノ七十二候:小雪/橘始黄(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小雪の末候(60候)「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年12月1日日曜日

YouTube:輪針で毛糸の帽子を編む

オパール毛糸を使って輪針で靴下編みの練習を何本かしましたが、ちょっと飽きたのと、途中でまちがえていやけがさしてしまったのとで、気分を変えて帽子を編みはじめてみました。

ノルウェーのNOVITAという毛糸を使って、60センチの輪針2号でずんずん編んでいきます。
表編み4目と裏編み2目、計6目を1パターンとして、ぐるぐる輪で編んでいきます。
目が細かいので、だいぶ時間がかかりそうです。

映像はこちら

贈られる日々

一昨日の「ラストステージ/事象の地平線」公演では、たくさんのいただきものをした。
写真はその一部。
お花、カード、お菓子、お茶、かわいい切手、私の身体を気遣った薬草……
みなさんの心使いが本当にありがたくうれしかった。

いただいたのはモノだけでなく、終演後の感想やメッセージ、絵に描いて表現されたものなど、たくさんいただいた。
私(たち)が表現したことにたいして、こんなに多くのかたからいただいた反応は、私にとって贈り物そのものだ。

表現したらたくさん贈り返してもらった、これほど豊かな経験はないと感じている。
人生の終盤になって、いくらたくさんお金をもうけたり、資産を抱えこんだりしても、これほどの幸福はないだろう。

ライブ公演での交流だけでなく、このところ日常的にもさまざまな人からさまざまな贈り物をいただいている。
そうしてもらっている私もまた、自分の命があるかぎり贈りつづけられたらいいなと思うのだ。
「贈与経済」ということばがあるけれど、話は経済だけではないよね。

昨日もパープルリボン・コンサートのために大塚の音楽堂に行ったら、たぶんそのイベントに参加する時間はなくて、でも私に差し入れだけ持って中村設子が来てくれた。
きっと遠くまでそれを買いに行ってその足で駆けつけてくれた。
30年以上の付き合いがこうやって贈りあう関係としてつづいていることが、本当に豊かなことだと感じる。
ありがとう、設ちゃん。おいしくいただいたよ。

贈りあうといえば、共演の野々宮卯妙とも、矢澤実穂とも、もっとも多くの交換・交歓があった。
撮影の伊藤くん、ヨシキくん、会場で手伝ってくれたのぞみさん、生惠さんにもたくさん贈られた。
なんて豊かな時間を私はすごしているんだろう。

今日はこれから朗読ゼミ。
ゼミ生たちが学びに来てくれる。
夜はひよめき塾。
これもまた、塾生たちとの学びの時間が楽しみだ。

水色文庫新作「イベントホライズン」を登録しました

水色文庫の新作「イベントホライズン」を登録しました。

このテキストは2019年11月29日に渋谷総合文化センター大和田での公演「ラストステージ/事象の地平線」のために書きおろされた朗読のためのテキストです。

2019年11月30日土曜日

ラストステージ/事象の地平線@渋谷が無事に終了

書きたいことがたくさんありすぎてまったく整理ができていないんだけど、とりあえずは終了報告。
これで東京での私のライブステージの予定は終了。
あとは同タイトルだけどダンスではなく朗読者ふたりとやる名古屋公演(12月12日)を残すのみ。

そうそう、もうひとつ、12月15日に知立市で開催される知立演劇フェスティバルに出演する小林佐椰伽ちゃんのサポートで、ピアノ演奏をすることになっている。
これがライブステージの年内最後。

今回の渋谷公演については、名古屋から映画作家の伊藤くんとその友人のヨシキくんが撮影に来てくれたし、私も記録映像を撮った。
たくさんの方が来てくれて、口頭でも紙でも、オンラインのメッセージでも、感想をいっぱいいただいている。
紙の感想は終演後、みなさんが黙々と書いてくれたもので、文字もあれば絵もある。
これらはおいおい整理して、また紹介していきたい。

この公演のために書きおろしたテキスト作品もあるし、事前に、あるいは公演中に、そして公演後に、いろいろとかんがえたこともあって、それも書きのこしておきたいと思っている。

出演者である矢澤実穂さんと野々宮卯妙はもちろんのこと、この公演を手伝ってくれたみなさん、お客さんとして寒いなか足を運んでくれたみなさん、来れなかったけれど応援してくれたみなさん、すべてのかたに感謝している。
たくさんのことが満たされた幸せな身体感のなかで、いまこれを書いている。

2019年11月29日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(15))

放射線の照射治療が終わって1か月後の検査(造影剤CTおよび内視鏡)の結果を聞くためと、定期的な診察のために、消化器外科と診療放射線科のそれぞれの担当医と会ってきた。

まずは検査結果。
食道内に突出・露出していたガン組織は、放射線照射の効果が出て、ほとんど消滅している。
組織検査もおこなったが、悪性組織は見られなかった。
放射線で撲滅に成功したようだ。
これがよいニュース。

放射線が届きにくい胃の下部、小腸から骨盤に近い腎臓のあるあたりにかけての大動脈にそって、もともとあった小さなリンパ節への転移が、大きさ、数ともに増大している。
これは転移がさらに広がっている可能性をしめすもので、肺や肝臓など他の臓器への転移がいつ起こっても不思議ではない。

標準治療としては、まずは抗ガン剤治療がかんがえられるが、それとて根治は難しく、延命措置にはちがいない。
抗ガン剤がどうしてもいやな場合は、下部のリンパ節のみを狙った放射線照射治療をふたたびおこなうことも可能だが、前回同様の25回以上の連続治療が必要で、それなりの副作用もあるし、またほかの場所の転移が見つかればイタチごっこのような治療になることもありうる。

さてどうしますか、しばらくかんがえますか、ということで、2週間ほどの猶予をいただいてきた。
といっても、私の方針は決まっている。
いま現在の体調と活力を維持し、できればそれを増大できるような方法をとりながらの日常生活を送り、延命のためだけの治療はおこなわない。
そのときが来たときには、なるべく人に迷惑をかけず、だれかの手をわずらわせない方法で、静かに去る。
それまでにやれること、やりたいことは、まだまだたくさんあるし、限られているとはいえ時間がまったくないわけではないことがありがたい。

今夜はこのために帰国スケジュールを作ってくれたオーストラリア在住の矢澤実穂さんと、いつも私を支え助けてくれている野々宮卯妙との3人で、渋谷でライブ公演をおこなう。
これが実現にいたったというのはじつにありがたいことだ。
また思いがけず多くの方においでいただけるようで、心から感謝している。
いまの私のすべてを表現できればと、わくわくした気持ちでいっぱいだ。

■売れっ子ピアノ教師になる

福井の実家に戻った——文字どおり都落ち?——私は、しばらくぶらぶらしていたが、やがてなにか仕事をしなきゃ、と思った。
両親の家は私が小学一年のときに建てたもので、なかなかしっかりした一戸建てだった(いまでもしっかりしている)。
母屋の奥に日本家屋の離れを増築していて、かなり広い家だった。

隣家は角地になっていて、もともとはちいさな電気屋、のちに化粧品や手芸用品を扱う店になったのだが、私が帰省したころにはその店は街なかのショッピングセンター内に移転して、空き家になっていた。
両親は私が帰省したのをきっかけに、その角地の土地と家を購入した。

両親の家にくらべるとかなり安普請の、しかも店舗として増築したり、つぎはぎに手をいれたりしていて、はっきりいってボロ家だったが、まあ住めないことはなかった。
もともとその家にも一家四人が暮らし、店舗も経営していたのだ、安普請とはいえちゃんと住める家だった。

私はその家に住むことにして、1階部分を広く改装した。
そこに妹と私が使っていたアップライトのピアノを運びこみ、ピアノ教室をやることにした。

最初は近所の子ども数人しか生徒がいなかったが、子どもだけでなく、大人も教えますよ、クラシックではなくポピュラーやジャズピアノも教えますよ、といいふらしていたら、成人の生徒が増えてきた。

成人の生徒といえば、福井市内の楽器屋でも大人のためのピアノレッスンをやることになり、楽器屋が宣伝してくれたこともあって、生徒が一気に増えた。
ふつうのサラリーマンやOL、学生、高校生、主婦、あるいはリタイアした年配の人など、さまざまな人たちが、さまざまなジャンルの音楽を学びにやってきた。
これはなかなか楽しかった。

またちいさな街だったが私以外にも教室をやっているピアノ教師が何人かいて、全員女性だったが、教師たちのグループを作っていた。
グループを作っていると、合同の発表会をやったり、生徒の都合で教室を行き来させたり、なにかとつごうがよかったのだ。
私もそのグループにはいらないかと誘われた。
よろこんで参加させてもらったのだが、結婚、出産、育児など、さまざまな理由で教えられなくなった生徒を私の教室に回してもらったりして、こちらでもまた生徒が急に増えた。

車で1時間以上かかる山間部の村で、週に一回、ピアノレッスンに通っている先生がいたのだが、その仕事も女性にはきついということで、私が引き受けることになった。
ちいさな村だったが、その分父兄は教育熱心で、1日で20人くらい、つぎつぎと個人レッスンをこなす仕事だった。

そんなわけで、私のピアノの生徒はあっという間に30人とか40人というボリュームになり、急に忙しくなっていった。

2019年11月28日木曜日

親密な者からの命令やアドバイスの強要に対処する

とくにステージⅣのガンであることがわかったときから(またそれを開示したときから)、さまざまな人からさまざまな情報やアドバイスが寄せられた。
またそれは現在進行形でもある(いまもたくさん個人メッセージをいただく)。

ガンでなくても、普通に生活していれば、人は家族や友人からさまざまなアドバイスをもらったり、ときには命令されたり、なにかを強要されることはある。

私の場合、
「すぐに○○という医者に行け」
「○○という治療法を受けろ」
「これを食べろ、あれは食べるな」
など、いろいろな指示を個別に受けた。
オープンなメッセージやコメントでいってくる者もいるが、たいていはメールやダイレクトメッセージなど、個人的に直接いってくる場合がほとんどだ。

そんなとき、こちらの気持ちはとても揺れる。
不安をあおられるような気になることもある。
そのことで相手に怒りを覚えることもある。
「ほうっといてくれ」
というわけだ。

私は自分の自主性を大事にしている。
自分自身の選択を大事にしている。
自由や平和を望んでいる。
情報や手助けが必要なときは、こちらからそうお願いするよ。
それを土足で踏みにじられるような気がして、気持ちが激しく揺れ動くのだ。

命令という強い語形でなくても、こちらの気持ちをおもんぱかった、気遣いに満ちたやんわりとしたメッセージが送られてくることもある。
しかしそこには結局、
「こうしたほうがいいよ」
という、強要の感じがひそんでいることが多い。

しかしそういう人たちにもなんらかのニーズがある。
まずは私のことを心配してくれている。
なんとか役に立ちたいと思ってくれている。

関係が私と近ければ近いほど、親しければ親しいほど、私に向けられるメッセージは強いものになりがちだ。
たとえば家族、たとえば親友、たとえば同僚、たとえば同級生。
そこに上下関係がふくまれていたりすると、さらに強要感はつよくなりがちだ。
家族でも親や曾祖父など年上・目上の人。
職場だったら上司や雇用主、客先など。

こちらの役に立ちたいと思う気持ちが、さらに走って、たんなる自己表現や自分の意見の押しつけになってしまう人もいる。

そんなとき、こちらはどうすればいいだろう。

まずは自分と相手を切りはなすこと。
自分には自分の大切にしていることがあり、また相手にも相手の大切にしていることがある、ということを再確認し、自分自身にまず立ちもどる。
自分が大切にしていることをあらためて把握しなおす。
上に書いたような自主性、選択、自由、平和といったようなニーズ(価値観)だ。

相手もなにかを大切にしている。
なにを大切にしているのだろうか。
こちらに命令したり、強い調子でアドバイスしたり、気遣いたっぷりに有用だと思っている情報をお腹いっぱいになるくらいたくさんくれたりする、そのニーズはなんだろうか。
それを想像してみる。
相手にも相手のニーズがあるのだ。

ありがたいことではないか。
こんなにも心配してくれる人がいる。
こんなにも私の役に立ちたいと思っている人たちがいる。
それに感謝しつつ、自分は自分の揺るぎない立ち位置を確認し、落ち着く必要がある。

必要ならば助けを求めることもできるし、情報を受け取ることもできる。
しかしそれは、こちらが落ち着きを取りもどし、ゆとりをもって自分の選択ができるようになってからだ。
まずは、
「心配してくれてありがとう」
と伝えよう。
そして自分の揺るぎない選択肢を確認しよう。
選択に迷うときは信頼できる相手にそれを伝え、自分自身の選択にたどりつくための手助けをお願いすればいい。

結局のところ、私もあなたも自分の人生を生きているのだ。
いまこの瞬間という自分の時間を、自分で選びとって生きているのだ。

2019年11月27日水曜日

ピアノ七十二候:小雪/朔風払葉(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小雪の次候(59候)「朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月26日火曜日

音読トレーナー資格取得のための絶好のチャンス

ここ何年か、毎月、練馬区のある高齢者介護施設に、音読ケアワークにボランティアで通っている。
今回は私が所用で参加できなかったのだが、音読療法士と音読トレーナーがふたり行ってくれたので、安心して自分の用事をすませることができた。

音読療法協会は2011年に組織化され、以来、活動をつづけてきた。
私もファウンダーとして養成講座や活動に積極的に参加してきたが、健康上の理由で中心的な活動からは離れるようになっている。
さいわい、音読療法士や音読トレーナーが協力してくれて、持続的な活動や普及活動に力を貸してくれている。

また、今年は「音読療法」が商標として登録された。
私たちの専任活動としてさらに積極的に展開され、多くの人の役に立つことを願っている。

音読療法は簡単な方法をもちいて、だれでも自分の健康に寄与したり、介護予防を心ろがけたりできるが、それを伝えたり、ファシリテートする人になることもできる。
そのための「音読トレーナー」という資格を協会では出している。

音読トレーナー資格を取得するためには、養成講座を受講する必要がある。
定期開催はおこなっていないが、受講希望者がある程度集まれば開催する。
これまでは私がメイン講師として開催してきたが、音読療法士や音読トレーナーのメンバーが充実してきたのと、私の健康上の理由とで、今回開催する今年最後の養成講座をもって、私はメイン講師を引退させていただくことにしている。

12月5日から7日まで開催する、私のメイン講師最後の音読トレーナー養成講座に、音読療法に興味を持っている方、それを伝えたいと思っている方、多くの方の健康や介護予防に寄与したいと思っている方は、ぜひ積極的に参加してみてほしい。

今回の音読トレーナー養成講座の詳細とお申し込みはこちらから。

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(14))

咳と息切れと腰痛と、ときには微熱が1か月近く全然おさまらないので、病院に電話をかけて診療放射線科の担当医に臨時に診てもらうことになった。
血液検査とレントゲン撮影。

検査結果は「異常なし」。
肺炎の「影」もなく、しつこい咳はおそらく、治りがわるい気管支炎だろうとのこと。
免疫力や回復力が低下しているのは事実。
しかし、肺炎ではないとしたら、ちょっと動くと息切れしてしまう「酸欠感」の理由がよくわからない。
まあ、体力回復を待ってみるか。

血液検査では「炎症」の値が赤になっているが、極端な数値ではなく、長引く気管支炎によるものだろうとのことだ。
腰痛もおそらく、これに関連している。
もともと腰痛持ちではないので、あまり心配はしていない。
痛み止めがよく効いているのと、眠くなったりだるくなったりという副作用が出ないので、つづけて処方してもらうことにした。

いずれにしても、なんらかの悪性のものではなくて安心した。
なるべく静かにして、身体を冷やさず、充分に栄養をとり、自然な回復を待つことにしよう。

■京都撤退

バンドマンの仕事がほとんどなくなってしまった私は、生活費にも困窮しはじめていた。
家賃が滞納しはじめて、引っ越しをかんがえなければならなくなってきた。
そのとき私は、市街地の北のはずれにある岩倉地区に住んでいたのだが、かなり贅沢に買いそろえた演奏機材を置けるだけの余裕がある、広々とした部屋を借りていて、家賃もかなり高かったのだ。

引っ越すとなると、京都にいること自体がなんとなくいやになってしまった。
京都という街は学生には大変寛容で、適度な刺激や歴史もあり居心地のいい場所だが、社会人として住みつづけるとなるといろいろ面倒なこともある。
社会的慣習もややこしく、なじむには相当の忍耐が必要だ。
もともとフリー体質の私にとって、京都という風土に自分をなじませるのはきつい面があった。

いったん「京都がいやだ」と思いはじめてしまうと、もうすぐにでも逃げだしたくなった。
私はいったん、福井の実家に「撤退」することにした。
両親もまだ健在で、私の「帰郷」を歓迎してくれた。
それはそうだろう、京都の大学に行ったはいいが、卒業もせずにバーテンダーだのバンドマンだの、わけのわからない風来坊のような将来の見通しもたたない生活をしていたのだ、親にとっては大きな気がかりだったにちがいない。

いったん決めたら、早かった。
ほとんど仕事もなく、切れて困る人間関係もなかった私は、さっさと引っ越しの手配をして、福井の実家に戻った。
1982年の秋だったと記憶している。

2019年11月25日月曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(13))

昨日は吉祥寺の老舗ライブハウス〈曼荼羅〉でのオープンマイクに、ゼミ生たちと参加してきた。
曼荼羅のオープンマイクは何度か参加したことがあるのだが、今日はゼミ生のかなえさんが初参加、そしてライブ初体験だった。

かなえさんは今年の8月くらいから現代朗読ゼミに参加していて、毎回とても熱心に通ってきているほか、個人レッスンにもときどきやってくる。
その甲斐あって、めきめきと現代朗読の手法を身につけ、いきいきとした朗読表現ができるようになりつつある。

さらにいきいきさを表現するには、ライブパフォーマンスほどいい練習の場はない。
ライブというのは、自分自身もふくめてなにが起こるかわからない、予測できない、偶有性に満ちた時間の連続だ。
あらかじめなにかを準備したり、たくらんだりしても、うまくいかない。
自分を開き、予測できない場で本来の能力を発揮できる訓練が必要になる。

それは私にとってもおなじことで、いまこの瞬間を生き、表現するということにほかならない。
年齢、性別、健康状態、すべて関係ない。
その人の「いま」があらわれるし、また自分自身もそれを楽しめるかどうかということだ。

かなえさんの朗読といっしょに、私もピアノの即興演奏で共演した。
私も楽しかったし、なによりかなえさん自身が楽しんでおられるのだ伝わってきて、うれしかった。

もうひと組の野々宮卯妙とゼミ生ユウキのデュオ朗読もおもしろかった。
ふたりで異なる詩を同時進行で朗読するという、コンテンポラリーな演出のパフォーマンスだった。
これも現代朗読という手法の成果で、私はステージにいなかったが、私のテキストと演出を彼女らが体現しているのを感じて、とても満たされた気持ちでうれしく聴いていた。

6月にステージⅣの食道ガンが見つかって、11月の末にまだこのようないきいきとした活動の現場にいられるということが、私にはとても大切であり、またありがたいことでもある。

■生まれて初めて小説を書きあげる

原稿用紙を前にして、まず書いてみようと思ったのは中学のときからハマったSF小説だった。
どうせ書くなら、自分が読みたいと思っているようなものを書いてみたかった。
そのころ私は、SFはいったん卒業して、翻訳もののミステリーや冒険小説をたくさん読んでいた。
SFに冒険小説の要素を合体させたらどうだろう。

あらすじをかんがえはじめた。
骨子は冒険小説だが、舞台となるのは宇宙だ。
地球以外の惑星の話がいい。
特殊な環境の惑星がいい。

フランク・ハーバートの『デューン砂の惑星』という大長編SFがあって、夢中になって読んだことがある。
砂丘惑星の話だ。
ならば、陸地がひとつもない海洋惑星の話はどうだろう。

舞台設定とストーリー、登場人物のあらましが決まると、原稿用紙に向かって一気に書きはじめた。
そのころ、SF小説は娯楽文学として隆盛をほこっていて、SF専門の雑誌もいくつかあった。
それらには新人賞があって、たいてい短編小説を定期的に募集していた。
私もそれに応募しようと書きはじめた。

しかし、書き進めるにしたがって、規定の枚数にはとてもおさまらず、どんどん長くなってしまった。
たいてい新人賞の短編の規定枚数は、原稿用紙50枚とか、多くても100枚までだった。
私は100枚をはるかに超えて、200枚以上になっていった。

なにしろヒマである。
一日中書きすすめて、たぶん1週間くらいで200枚くらい書きすすめてしまった。
近所の文房具屋に頻繁に行っては、コクヨの原稿用紙を買いたした。

完成したとき、小説は230枚くらいになっていた。
どの応募規定にも合わなかった。
しかたがないので、新人賞に応募するのはやめて、編集部に直接投稿することにした。
話の内容から、なんとなく早川書房の『SFマガジン』ではないなと思った。
徳間書店の『SFアドベンチャー』がよさそうだ、誌名も誌名だし。

というわけで、編集部宛に原稿を送りつけた。
新人賞の規定にならって、原稿の末尾に簡単な自分の経歴と住所、連絡先を書いておいた。

それっきり、私はその原稿のことを忘れてしまったのだ。

2019年11月24日日曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(12))

できるだけ安静にしてすごしているのに、肺炎の咳と息切れがいっこうに改善しないばかりか、ときにはひどく咳こむこともあって、いやな感じだ。
食事のあとに咳がひどくなることが多く、なんとなくの印象だが味の濃い食事——とくに醤油を使った料理——をとると喘息に近いような咳の発作が起こることがあって、肺炎とは関係のないアレルギー症状のようなものかとも思ったりした。
しかし、あれこれ試してみたり、観察してみても、食事との因果関係がよくわからない。

夜の食事のときに発作が起こることが多く、夜になって部屋が寒くなったり、寒い場所にいたりして、身体が冷えるとそうなるのかもしれないとも思う。
しかし、暖かくしているときでも発作が起こることがある。

医師の友人から「放射線性肺臓炎」ということばを聴いて、受診することをすすめられたので、診療放射線科の担当医に診察を申し込んでみようかとも思っている。
木曜日にもともと診察の予定が入っているのだが、金曜日と土曜日に公演の本番があるので、早めに診てもらったほうがよさそうだ。
今日は日曜日で病院の外来は休みなので、明日、週明け月曜日に早めに連絡して、行ってこよう。

■バンドマンの仕事がなくなる

1980年ごろに全国的にカラオケマシン(当時はさまざまな呼称があって、たとえばハチトラなどといった)が爆発的に普及していった。
京都も例外ではなく、最初はバンドを雇えないちいさなスナックからはじまって、しだいにクラブやバンドマンがいるような大きな店にもカラオケマシンが浸透していった。
それにつれて、人件費のかかるバンドマンはクビになっていった。
とくにペーペーの、店とのコネもない、客もついていないような若手バンドマンは、あっという間に仕事がなくなっていった。
つまり、私のようなバンドマンのことだ。

私もハコがなくなったり、単発の仕事もすくなくなっていった。
ある日、ハコではいっていた店に行ってみたら、シャッターが降りていて、閉店の張り紙がしてあった。
あちこち問い合わせてみたが、どうやらオーナーは雲隠れしてしまったようだった。
その店からは数か月分のギャラが未払いのまま取りはぐれてしまった。
かなりの痛手だった。

そんなふうにして演奏の仕事がどんどんなくなっていった私は、とたんにヒマを持てあますようになった。
バーのマスターからはバーテンダーに復帰するようにしきりに誘われたが、もともとアルバイトと割り切ってはじめた仕事だったので復帰する気にはなれなかった。
復帰していたら、いまとはまったくちがう人生を歩んでいたかもしれない。
自分でいうのもなんだが、私にはおそらく、バーテンダーとしての素質がけっこうあったようなのだ。

バンドマンというのはもともと、昼間はヒマだ。
それが夜もヒマになってしまった。
ヒマにまかせて、私は本ばかり読んでいたが、ある日ふと思いついて、小説でも書いてみるかと原稿用紙を買ってきた。
コクヨの学生用400字詰め原稿用紙だった。

2019年11月23日土曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(11))

■最後の検査ふたつ

放射線治療後、約1か月たって、検査をふたつ受けた。
11月19日に造影剤を入れてのCT検査。
翌20日に内視鏡検査。

造影剤の検査はこれで3度めで、慣れているといえば慣れている。
静脈から造影剤を注入すると、すぐに全身の血管がカッと熱くなる。
それが気持ちわるいが、痛みはなく、がまんできる。

内視鏡検査は最初に近所の町医者で食道ガンが見つかったときを含めて、これで4度めとなる。
何度も受けたいものではない。
2度めの検査では、生まれて初めてパニック症状に近いものを経験し、3度めの検査でそのことを告げたら(がん研有明病院だった)、配慮してくれて鎮静剤を打っての検査となった。
それが楽だったので、今回もお願いして鎮静剤を使ってもらったのだが、今回は(薬の種類が違ったのか)まったく効かなかった。
苦しかった。
30分くらいの検査が3時間くらいに感じた。

へとへとに消耗したが、ともかく検査は終わった。
これでしばらく検査はなし。
来週、外科と放射線科のそれぞれの担当医の診察があり、検査結果を聞くことになっている。

■来年のイベント予定は入れられないが……

15年以上いっしょに活動している語人(ストーリーテラー)小林佐椰伽ちゃんと、先週末、イベントに出演してきた。
このイベントの日程は夏前には決まっていたが、私のガンが発覚して、その進行や治療方針について医師から聞いたとき、ひょっとして11月のこのイベントに出演できるかどうかわからないかもしれないと思った。
そこでその旨を佐椰伽ちゃんのお母さんやイベントの担当者に伝えておいたのだが、幸い(肺炎以外は)体調は移動したりピアノを弾くには充分快調で、無事に終えることができた。

そのあと、さらに別のイベントの話が進んでいたらしく、今日は「来年の5月なんだけど」という連絡があった。
三重県菰野町のホールでの語りイベントの依頼だということだ。
さすがに5月の状況は見えない。
先日のイベントが無事に終わってほっとしているくらいなのだ、佐椰伽ちゃんのイベントのほかに、体調がよいことをいいことに福井県立病院でのピアノコンサートもおこなったし、11月末にはダンスと朗読との3人公演「ラストステージ/事象の地平線」と、パープルリボン・コンサートというものにも出演することになっている。
さらに、名古屋でも3人公演をやることになり、名古屋版の「ラストステージ/事象の地平線」の開催が決まっている。

やりすぎだと思うが、年内はなんとか活動できるだろうと読んでいる。
が、年明けには、とくにライブイベントの予定は入れていない。
ましてや5月とか……自分がどのような状況にあるのか読めない。

しかし、佐椰伽ちゃんのお母さんから「ではお断りしますね」といわれたときに、ちょっと待てと思った。
私が参加できないだけで、佐椰伽ちゃんの語りは町民の方から求められているのだ。
ほかに朗読の野々宮卯妙にも参加してもらいたいという要望もあった。
では、私が直接参加できなくても、サポートすることはできるのではないか。

たとえばだれかピアニストを頼んで、佐椰伽ちゃんの語りや朗読との共演をお願いする。
私にできる指導や演出や楽曲があれば提供すればいいし、私も参加できるようなリハーサルを早めにやってもらえれば協力はできそうだ。
だから、5月のイベントは受けてもらうように伝えた。

出かけていって演奏したり、話したり、交流したり、といったイベントの予定は入れにくいが、それ以外にできること、やりたいことはまだまだたくさんある。
たとえば、いまこれを書いているように、ものを書くこと、執筆すること。
音楽を製作すること。
みなさんと交流することだって、オンラインならいながらにしてできると思うし、来ていただく分には(時間にもよるが)いまのところ差しつかえはない。
げんに現代朗読ゼミや個人レッスン、オーディオブックの収録などはおこなっているし、続行できる。

まだまだ伝えきれていないことが残っていて、たとえばNVCをベースにした共感手帳術や共感文章講座なども、コンテンツ化しきれていないし、オンラインでの勉強会はもうすこしつづけて開催できるだろう。

体調管理に留意してできるだけ伝えていきたいと思っているので、いましばらくお付き合いいただきたい。

■京都のお話はお休み

バンドマン生活の途中まで書いた京都でのお話は、今回はお休みさせていただく。
次回、また。

2019年11月22日金曜日

ピアノ七十二候:小雪/虹蔵不見(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
小雪の初候(58候)「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月19日火曜日

いよいよラストステージ、残席わずか

まだテキストが完成してないけど(汗)。

オーストラリア在住の矢澤実穂さんが私とライブ公演をやりたいと、帰国予定を作ってくれたのは、私のガンが見つかったこの夏のことだ。
NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)と深く関わる身体表現(ダンス)をされている実穂さんとは、これまでに何度か共演させてもらった。
とくに昨年は国立の〈アグレアブル・ミュゼ〉で現代朗読の野々宮と3人で公演を行なって、楽しかった。

今回も野々宮卯妙を入れて3人でやることになった。
会場は渋谷総合文化センター大和田。
すでにたくさんの方から参加予約をいただいていて、ありがたい。

これまでは即興表現を重視してほぼリハーサルなしに行なってきたのだが、今回は少しはリハーサルをやろうということになった。
朗読テキストは新作の書き下ろし。
現時点で完成していないが、明後日のリハーサルまでには書き上がっている(はず)。
テキストのタイトルは「イベントホライズン」。
ブラックホール、事象の地平線、相対性理論、量子論などのSF的タームを扱いつつ、ガン、生と死、記憶、現在・過去・未来など人の日常の風景を織りこんだ(自分でいうのもなんだけど)意欲作である。
これを野々宮卯妙がどう読み、矢澤実穂がどう踊るか。

またこの公演「ラストステージ」は渋谷公演のあと、名古屋でも上演することになっている。
名古屋では矢澤実穂のかわりに榊原忠美という稀代の役者を迎え、ふたり朗読による先鋭的な表現になるだろう。
名古屋は昼夜2回公演を予定している。

渋谷公演のほうは残席に余裕がなくなってきている。
あまり広い会場ではなく、動いたり踊ったりするスペースも確保したいので、受付を締め切る場合もありうる。
ご参加いただけそうな方はお早めに予約いただけるとありがたい。


11月29日:ラストステージ/事象の地平線(ダンス・朗読・ピアノ)@渋谷
2019年11月29日(金)午後7時から、渋谷区文化総合センター大和田にて矢澤実穂(ダンス)、野々宮卯妙(朗読)、水城ゆう(即興ピアノ)の3人による公演をおこないます。テキストもこの日のための新作書き下ろし、水城ゆう渾身のラストステージです。

12月12日:ラストステージ/事象の地平線@名古屋栄
渋谷に続き12/12名古屋で昼夜2公演決定! 盟友にして名優・榊原忠美を迎えてエッジを超えろ! ほか、野々宮卯妙(朗読)、水城ゆう(テキスト/即興ピアノ)の3人による先鋭的な表現。

2019年11月18日月曜日

これぞコンテンポラリー朗読!

11月24日に吉祥寺〈曼荼羅〉のオープンマイクにまた出演しよう、ということで、野々宮卯妙とゼミ生ユウキでそれぞれ計2組でエントリーしていた。
昨日の朗読ゼミでその話をしていたら、もうひとりのゼミ生かなえさんも「出たら?」という話になった。
野々宮とユウキは以前から、デュオ朗読(ふたりで朗読する)をやってみたいといっていたので、この機会にふたりひと組で出ることにして、かなえさんは私のピアノと組んで初ライブにチャレンジしてみることになった。

野々宮とユウキのデュオ朗読でなにを読むか。
ユウキはすでに私のちょっと古い詩「とぼとぼと」を読むことが決まっていた。
それをとりあえず読んでもらっているときに、突然私のなかに金子光晴の詩が降りてきた。
そちらを野々宮に読んでもらってはどうか。
しかも、同時に。
詩の文言とは関係なく音楽的にコミュニケートをおこないながら、かけあいで。

詩の長さはすこしちがうが、野々宮に構成を作ってもらって、タイミングを調整した。
それをふたりで読んでもらったら、これがまあおもしろいのなんのって。
まさにコンテンポラリーアートとしての現代朗読であり、通常の意味を伝える朗読とはまったく違う先鋭的なおもしろさが生まれた。
このおもしろさをどのくらいの人にわかってもらえるだろうか。

以前から主張していることだが、さまざまなアート表現の分野のなかで朗読だけがコンテンポラリーを追求していない、未開拓ジャンルだ。
おもしろいのに、なぜここが手つかずになっているのか私には理解できない。
ならば私たちがやればいいのだ。

ということで、24日の曼荼羅オープンマイクでは、現代朗読の骨頂ともいえるコンテンポラリー朗読を目撃できるはずだ。
残念ながら著作権の関係でYouTubeには流せないので、直接聴きに来ていただきたい。


11月24日:臨時朗読ゼミ(水城ゼミ)
ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで臨時の現代朗読ゼミを開催します。身体表現あるいは音楽としての朗読を楽しみましょう。11月24(日)17時から約2時間。

YouTube:福井県立病院秋のピアノコンサート抜粋

2019年11月13日。
3か月に1度のペースで7年前から開催してきた福井県立病院でのソロピアノコンサートの抜粋です。
ステージⅣの食道ガンが見つかってから、このコンサートで演奏できるのかどうか気がかりでしたが、無事に終えることができ、また多く方が聴いてくれ、励ましをいただきました。

あとは渋谷と名古屋栄での公演「ラストステージ/事象の地平線」に向けて体調を整えていきます。

映像はこちら
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月17日日曜日

ピアノ七十二候:立冬/金盞香(YouTube)

日本の二十四節気七十二候にちなんだピアノの即興演奏です。
立冬の末候(57候)「金盞香(きんせんかさく)」をイメージして演奏しています。

映像はこちら

約5日おきに新曲が配信されます。
よろしければチャンネル登録をお願いします。

2019年11月16日土曜日

秋から冬へ、北陸から知立へ

今回の北陸帰省のメインイベントである福井県立病院のピアノコンサートを終え、昨日は勝山市、大野市、和泉村、白鳥町、郡上市、関市、美濃市などを経由して、名古屋から豊橋、知立に移動。
和泉村では最後の紅葉が美しく、晩秋の最後の風景だった。
まもなく雪景色となるだろう。

今日は知立のホテルで目覚めた。
快晴。
秋晴れというより、日本列島は冬型の気圧配置になっていて、日本海側は曇り、太平洋側は快晴の冬晴れ。
北海道は降雪になっていて、北陸もまもなく初雪が降るだろう。

6月にステージⅣの食道ガンが見つかってからもうすぐ半年がたとうとしている。
11月に予定されていたいくつかのイベントにとどこおりなく参加できるかどうか心配だったが、いまのところ元気に活動できている。
うっかりして軽い肺炎にかかり長引いているが、活動できないほどではない。
今日はこのあと、語人佐椰伽ちゃんとイベントに参加して、語りのピアノ演奏サポートをおこなう。

すでにインフルエンザの流行が報道されている。
この冬をどう乗りきるか、体調維持と体力回復について真剣にかんがえておきたい。

さて、イベントのリハーサルが終わって、控え室でこれを書いているところ。
もうすぐ出番。
楽しみましょう。

2019年11月15日金曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(10))

■肺炎はつらい

いまから思えば放射線照射による免疫低下を油断していたのだ。
先月の終わりに「ちょっと風邪ぎみかな」と感じるような咳とかるい体調不良があった。
そのときに気づけばよかったのに、ひどい熱も出ず、咳もひどくならないようすに安心して、名古屋でのイベントなど詰めこんだスケジュールをそのままこなしていた。

肺炎は10年ちょっと前に一度やっている。
そのときはマイコプラズマ肺炎という感染症で、今回は感染症ではないかもしれないが、思いかえせばそっくりの症状だ。
階段の上り下りなどちょっと動くと息切れする、常時微熱がある、空咳が止まらない。
完治するのにたっぷり1か月以上かかった記憶がある。

今回もすでに半月以上たっているが、完治にはまだしばらくかかるだろう。
熱はほとんどないが、まだ咳が出て、身体を動かすとすぐに息切れする。
なるべく安静にしているしかない。
気になるのは、そのあいだまったく運動ができないので、体力・筋力がどんどん低下していってるだろうということだ。
肺炎が完治したら体力回復につとめたいが、いつからそれができるのか、どれくらいの強度でやれるのか、以前のような体調にもどれるのか、わからない。

ともかく、免疫力が落ちているのはまちがいないので、肺炎だけでなく、これからの季節は風邪やインフルエンザなどの感染に充分に気をつけよう。
月末には渋谷での公演「ラストステージ」、大塚での「ピンクリボン・コンサート」、12月にはいると名古屋での公演「ラストステージ」2回、公開レッスン講座などが控えている。

■バンドマン生活にはいるも……

バーテンダーのアルバイトは足かけ3年ぐらいやっていた。
私はこの店のカウンターの内側で多くのことを学んだ。
酒の知識や作り方だけでなく、仕事にたいする合理的な考え方、さまざまな人々とのコミュニケーションや音楽のこと、夜の世界のこと……

お客との付き合いも、アルバイトなので気楽で、カウンター越しだけでなくプライベートなものができた。
とくにバンドマンたちとは、いわゆる外タレのコンサートにいっしょに行ったり、草野球をやったり、交流が深まった。

バンドマンは「ハコ」と呼ばれる、毎日決まった店で演奏する仕事のほかに、宴会や結婚式、記念パーティーや行事など臨時で演奏に出かける仕事があった。
金銭的に率がよく、バンドマンにとっては歓迎なのだが、ハコの仕事とかちあうことがしばしばあった。
そういうときはハコの仕事に「トラ(エキストラ)」と呼ばれる代理のバンドマンを頼み、自分はお金のいい仕事のほうに行く。

代理を頼まれるバンドマンは、まだ駆け出しの、ハコの仕事を持っていないペーペーの者だった。
私も最初はそうやって、トラの仕事のをちょくちょく頼まれるようになった。

バーテンダーの仕事で酔客とのコミュニケーションにも慣れていた私は、トラで行った店でもかわいがられ、やがて自分のハコを持つことになった。
それを機にバーテンダーのアルバイトはやめ(時々頼まれてカウンターにはいることはあった)、本格的にバンドマン生活をスタートさせた。

22歳から23歳にかけてくらいのときで、西暦でいうと1980年前後。
なぜこんなことを書くかというと、そのころにちょうど水商売の世界をあるテクノロジーが急速に席巻しはじめたからだ。
それはカラオケマシーンといった。

2019年11月14日木曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(9))

福井県立病院でのピアノコンサートが終わった。
肺炎が全快していなくてやや心配だったのだが、無事に演奏を終えることができた。

このコンサートは、毎回、演奏時間はちょうど1時間。
だいたい10曲くらい演奏する。
マイクが用意されているので、曲と曲のあいだにちょっとだけトークしながらではあるけれど、1時間つづけてピアノを演奏するというのはちょっとした体力勝負。
今回は咳と腰痛が気がかりだった。

腰痛はよく効く痛み止めをあらかじめ飲んで対処。
咳はマスクをしていればほとんど出ないが、まだ咳こむこともある。
マスクをしたまま演奏はできないので(できないことはないだろうが)、演奏の最中に咳こまないか心配だったが、不思議なことに演奏中はまったく咳が出なかった。
どういうことなんだろう。
トークのときはちょっと出そうになった。

今回は私の中学校のときの担任だった先生が夫妻で来られることになっていた。
前回のコンサートのときに、それが地元の新聞に割合大きな記事に出て、それを読んだ先生から連絡があったのだ。
長年やっているこのコンサートのことを知らなかったけれど(大変失礼しました)、今回聴きに行くし、せっかくだからみんなで歌える曲も弾いてくれ、歌詞カードは用意するから、ということになっていた。

事務局のはからいで、コンサートの冒頭で先生にご挨拶をいただいた。
はからいもご挨拶もありがたいことである。

そのあと演奏。
即興からはいって、そのままいつものように季節の唱歌から。
「赤とんぼ」「旅愁」「里の秋」「ロンドンデリーの歌」など。

毎回かならず聴きに来てくれる人、初めて来てくれた人、たまたまコンサートに出くわした人や通りすがりの人など、用意された席が満席になっている。
先生のほかに、同級生も来てくれた。
小学校からの同級生だ。
最初、だれだかわからなかった。
しばらくしたら、記憶の底から名前が浮かびあがってきた。

お花や差し入れをたくさんいただく。
恐縮する。
私とおなじようにガンと付き合っている人もいる。
いつも来てくれて、ネットでもやりとりしている方が、私と血のつながったまたいとこを連れてきてくれた。
あまり付き合いのない母方の縁戚で、母や祖母と同様、手先が器用で、縫い物などの手作業が得意、暖かい親近感をおぼえる。

最後に先生が用意してくれた歌詞カードをみなさんに配って、いっしょに歌をうたう。
これまでにないことだった。

終わってから、前回も取材してくれた地元の新聞の記者の女の子(と呼びたくなる若い女性)にまた取材してもらった。
名残りおしくもみなさんとお別れしたあとは、先生夫妻と同級生といっしょにカフェでコーヒーをいただきながらお話しした。
もう85歳になられる先生から私の身体のことを気遣ってもらって、とてもありがたくも恐縮する。

今回のこのコンサートが無事に終わってよかった。
私にとってひとつの区切りと思っていた。
次回また、という声をみなさんからいただきながら、その予定はまだいれていない。
3か月後にまたここに帰ってこれるのかどうか、演奏ができる状態なのかどうか、私としてもそれは希望していることではあるけれど、この先どうなるか、どうなっているかは、神様のみぞ知る。

■アルバイトでバーテンダーになる

教材の配達のアルバイトをしていたときに、おなじアルバイトをしていたちょっと年齢が上の学生とジャズの話になった。
お互いにジャズが好きだということで、
「いい店があるんで飲みに行く?」
と誘われた。
ちょうど20歳くらいのときだ。

ひょこひょこと付いて行ったのが、祇園にある〈バードランド〉というジャズバーだった。
カウンターが10席、奥にグランドピアノ、ピアノのまわりにも6席がある。
カウンターの背後には見たこともない世界の酒がずらりとならんでいて、モダンジャズが流れていた。
その前に白いバーコートを着たマスターとバーテンダーの若者が立って、てきぱきとカクテルを作ったりして立ち働いていた。

私の知らない世界だった。
ちょうどバーテンダーのアルバイトを募集していて、それは配達のバイトよりも時給がだいぶよかったのと、客がいないときは店のピアノを好きなように弾いていいという条件が魅力的で、すぐに私はそこで働くことになった。

夕方4時半に店にはいって、掃除や仕込み、買い出しなどの準備をする。
着替えて6時開店、夜中の2時まで営業。
客が引けてから片付けて、午前3時くらいに上がり。

営業時間が遅い店だったので、0時をすぎると近所の店で仕事を終えた水商売関係の人たちがやってきた。
そのなかにはバンドマンもいた。
また、毎晩、午後8時になるとピアニストがやってきて、1ステージ30分の演奏を30分の休憩をはさんで4回やる。
そのピアニストの仲間もやってきた。
学生でまだ若いアルバイトバーテンだった私は、客からも関係者からもかわいがられた。

私がピアノがすこし弾けるとわかると、いろいろ教えてくれたりした。
といっても、弟子にするとかそういうのではない。
ジャズっぽく聞こえるコツとか、リズムの取りかたとか、断片的なテクニックをちょこちょこと教えてもらった。

そうやって私はアルバイトバーテンダーからすこしずつバンドマンの世界へと引きよせられていった。

2019年11月13日水曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(8))

北陸の実家に帰省している。
晩秋の、最後のスコンと晴れあがった日で、こういう日は経験的にあと何日もないだろうと思う。
数日前は雷が鳴って、雨が激しく降った。
普通、この時期の雷は、このあたりでは「雪起こし」といって、雪が降る前兆とされている。
が、雪は降らなかった。
気温もまだ暖かい。

今日は福井県立病院に行って長年定期的に開催してきたピアノコンサートで演奏してくる。
今月はこのコンサートと、今週末に語人・小林佐椰伽ちゃんのイベントでの語りのサポート演奏と、月末のパープルリボンコンサートがある。
これらは私の食道ガンが見つかる前から決まっていた。
ガンが見つかったとき、治療や体調の変化が読めなくて、11月のこれらのイベントに常態で参加できるのかどうかわからなかった。
なので、みなさんにはあらかじめ、健康状態が読めないこと、ひょっとして演奏ができなくなることもありうることなどを伝えた。
すべてのみなさんがそのことを理解し、受け入れてくれて、暖かく私の体調維持を祈り、はげましてくれた。

そしていま、11月になって、まだピアノが以前と同様に——ひょっとしてより前へと進みながら——演奏できそうなことがわかって、大変ありがたく、うれしく感じている。
オーストラリア在住のNVC仲間である矢澤実穂さんからは、共演する機会を作りたいと急遽帰国して、ダンスと朗読とピアノによる公演を渋谷でおこなうことにもなった。
こちらも体調が許すイベントとなるだろう。

化学療法による抗ガン剤治療を受けず、放射線照射治療を選択したことが(私にとっては)大きい。
ガンが見つかって以降も、検査や治療のための通院に時間を取られたほかは、それまでとほぼ変わりなく活動をつづけられている。
書くこと、演奏すること、みなさんと交流して伝えたり、いっしょにワークしたり、演出したり、出演したり、映像を撮ったり、編集したり、音楽を作ったり。

予想がはずれたこともある。
放射線治療の副作用が意外に大きかった。
治療中は食欲不振や体重減少、倦怠感が強く、武術の稽古をふくむ運動はほぼできなかった。
治療が終わってからは、おそらく免疫力の低下によるものだと思うが、かるい肺炎にかかって苦しかった。
それはいまもつづいているが、幸いなことに回復途上にあって、まだ完調とまではいかないが、もうしばらくすれば元にもどるのではないかと予想している。

この秋の季節、空気、太陽、雲、風景を楽しみ、コンサートで演奏し、みなさんと交流すること。
一日一日、一瞬一瞬が尊く、輝きに満ちている。
これをあなたにどれだけ伝えることができるか、私はいまそのことに関心を注いでいる

■ろくでもない学生時代

長くなってきたので、このへん——京都で下宿をはじめたころ——の話はざっくりとはしょる。
1年間浪人生活を送ったが、受験勉強はまったくせず、再受験すらまじめに取り組まなかった。
というのは、受験日に京都には珍しくかなりの積雪があり、歩いて行ける受験会場まで行くのがおっくうだったからだ。

再受験におっくうだった理由がもうひとつある。
さすがに2年めの受験では、親に泣いて頼まれたということもあって志望校一本に絞ることはせず、国立大の前に私大をいくつか受けていた。
そのなかで同志社大学の商学部に合格していて(たぶん受験科目に理系の数学があったからだ)、それで安心してしまったというのがある。

私の最大の関心は、親元を離れて京都に住みつづけられるかどうかだった。
当時付き合っていた彼女が京都に住んでいたこともある。

そんなわけで、私は同志社大学生となり、京都に住みつづけ、学校にはまったく行かずにいろいろなアルバイトをしながらライブハウスをめぐったり、琵琶湖までヨットを乗りに行ったり(貸しヨット屋でアルバイトもしていた)、女の子と遊んだり……ようするに遊び暮らしていた。
いまからかんがえても、ろくでもない学生であった。

そんななかで、その後の私の人生を大きく決定づける仕事(アルバイト)に出会うことになる。
いまの私はその仕事の経験からはじまったといっていい。

2019年11月12日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(7))

■小説を原稿用紙に書き移す

そのころ——高校生のころ——からなんとなく、鑑賞者の立場から「作り手」側の視点を意識するようになっていったと思う。
音楽にしても小説にしても、
「これはどのように作られているのか」
ということに興味を持つようになっていったのだ。

最初に興味を持ったのは音楽だった。
ブラスバンド部に一時的にでも所属していた経験が、吹奏楽団や交響楽団の全体のサウンドがどのような「パート」の組み合わせでできているのかに興味を向けることになったのかもしれない。
ベートーベンやチャイコフスキーの交響曲や、ビバルディの弦楽曲のスコア(総譜)の縮刷版を買ってきて、レコードを聴きながらそれを読むことがおもしろかった。
多くの楽器やパートが複雑にからみあって壮大な、あるいは繊細なサウンドを織りあげている、その作曲家の技に魅了された。

小説もそうで、「どのように書かれているか」に興味が向かった。
あるとき、まるごと1本、小説を原稿用紙に書きうつしてみようと思った。
といっても、長編小説だと大変なので、短編小説だ。
たしか、小松左京のとても文学的な短編シリーズの「日本女シリーズ」の一篇だったように記憶している。
それを頭から丸ごと、原稿用紙に、改行、字下げ、ルビ、句読点をふくめ、そっくりそのまま書きうつしてみた。

原稿用紙にして80枚とか100枚とか、そんな分量だったと思う。
ちょっと色っぽいシーンもあったりして、楽しんで書きうつした。
この経験はのちに自分が小説を書くようになって、大変役のたった。

■大学受験に失敗する

畑正憲やコンラート・ローレンツの随筆、日高敏高、今西錦司らの動物の本に強い影響を受けた私は、進学進路を京大の理学部動物学科しかないと決めていた。
子どものころから小動物が好きだったし、熱帯や亜熱帯でのフィールドワークにぜひ行ってみたい、自分もそんな研究をしてみたいと思っていた。
高校の進学コースも理系だったので、理学部を受験するのは不自然ではなかった。

大学受験をするもうひとつの——というより最大の目的は、親から離れてひとり暮らしをしたい、ということだった。
私の両親はよく子どもをかわいがってくれて、いまとなっては私も感謝をしているが、とにかく過干渉だった。
教育熱心で、しかしそれは小学校くらいまでは許せるが、中高生になり独立心が生まれてくると、親の過干渉はうっとおしさしかなかった。

高校生くらいになると徹底的に反抗し、親がしろといったことは自分がやりたいことであったとしても意地でもやらない、してはならないということをわざとやる、というような態度を取った。
受験も京大一本ですべりめもなし、本人は絶対受かるつもりでいた。

しかし、結果はあえなく不合格。
数学で大きなミスをやらかし、合格点に足りなかったのだった。

浪人することになったのだが、とにかく親元を離れたかった私はへりくつをつけて京都にある駿河台予備校に通うことになった。
親も「勉強してくれるなら」とあきらめたのだろう、その選択をしぶしぶ受け入れた。

予備校にも入学試験があり、それも失敗するかとドキドキだったが、なんとかパスして、京都に下宿することになった。
駿河台予備校はそのころ、出町柳の近くにあった。
予備校の斡旋でいくつか下宿先を探して、東山二条・岡崎にある学生下宿に決まった。

とにかく親から離れるのがうれしくて、また田舎から出てきた若輩者には誘惑が山ほどあり、受験勉強どころではない生活が4月からうきうきとはじまったのだった。

■京都で下宿生活

私が下宿した東山二条・岡崎という立地は、かなり魅力的・誘惑的だった。
近くに平安神宮、東山動物園、京都市立美術館、京都会館などが集まっている。
二条通りを西に歩いて鴨川を渡れば、商業的メインストリートといってもいい河原町通りがすぐだ。
河原町を南に下れば、三条、四条と繁華街に出られるし、北に上がれば京都御所や同志社大学のわきを通って下鴨神社がある。

二条より一本北側の丸太町通りもいろいろな店があって、とくにライブハウスが魅力的だった。
4月に下宿生活がスタートして何日めかの夜、私は生まれて初めて、ジャズのライブハウスというものに行ってみた。