2016年4月30日土曜日

「スペースのニーズ」の内容を検証してみる

だれもが多かれ少なかれ、自分ひとりで静かに安心してすごせる場所を必要としています。
そこですごす時間を含めて「スペースのニーズ」といいます。

私にもスペースのニーズが強くあって、だれにも邪魔されず、休んだり、好きなことをしてすごす自分ひとりになれる場所を必要としています。
かつてはその場所について「ここでなければならない」とか、「こんな空間でなければならない」というイメージに固執していて、それが得られないとき、とても窮屈な思いにかられ、イライラしていました。

たとえば、このようなイメージ。
家のなかに自分ひとりになれる部屋があって、そこは家族や同居人がけっしてはいってこないことが約束されている不可侵の場所です。
部屋のなかには自分が厳選した好きなもの、有用なもの、便利なものがならんでいて、必要があれば外界ともつながれるネットに接続された電子機器もそろっています。
休むための快適な寝具や椅子もあり、休むときにはだれにも邪魔される心配はありません。

そこまでして、私はなにを守ろうとしていたのでしょうね。

私が守ろうとしていたのは、日々の喧騒のなかで確保できる自分の平安でしょうか。
だれにも邪魔されない保証のある安心の時間でしょうか。
そのためにはたしかに「場所」が必要です。
しかし、その場所について特定のイメージが自分のなかでひとり歩きをはじめてしまって、「こんな場所」でなければならないという執着が生まれていたのかもしれません。

いつもいうことですが、「……でなければならない」というかんがえが生まれているときは、自分はまだニーズにきちんとつながっていない証拠と思っていいのです。
ニーズにきちんとつながれたとき、そこには「……したい」「……してもいい」という思いが自然に生まれます。

自分のスペースのニーズに本当につながったとき、「こんな場所でもいいよね」「あそこに行ってみたい」「ここでも大丈夫かも」といういくつかの選択肢が生まれてきます。
私の場合、特定の場所でなくても、ひとりで釣りに行ったり、カフェで本を読んだり、窓から月をながめたり、といったことでもいいのです。

自分にはスペースのニーズがある、と思うとき、そこにはたぶん、他人の存在が強くあります。
おおぜいのなかにいたり、とても親密なパートナーがそばにいたり。

いまひとりになりたいのに、人が近くにいて気になってしまう。
邪魔されたくないのに、パートナーから気楽に話しかけられていらいらする。
こういったことがよく起こります。
そんなときは、まず、自分のニーズにつながります。
本当にきちんとつながる必要があります。

相手が親密な関係である場合、自分のニーズを伝えるのはたやすいですね。
ただし、相手のニーズも尊重しながら、それをおこなう必要があります。
自分に話しかけてくる相手を拒絶するのではなく、相手のニーズを推測し尊重しながら、自分にもニーズがあることを伝えます。
相手がこちらと話したい、気楽にコミュニケートしたい、つながりたい、聞いてもらいたい、というニーズを受け取りながら、しかし自分はいまスペースのニーズがあってそれに応じる余裕がない。
自分のニーズを満たしてから、あらためてまだニーズがあれば受け取りなおしたいんだけど、そのことを許してもらえるだろうか?

おおぜいのなかにいて、ひとりになる必要があるときは、ただその場を離れることもひとつの手段ですね。
ひとりになれる場所に行く、そこから出ていくなど。
ただしその場合は、だれかに理由を話したうえで、そこからいなくなることをきちんと伝えておくといいですね。

5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は5月9(月)16時と20時、23(月)20時、30(月)20時です。

2016年4月28日木曜日

【朗読生活】身体に気づく

朗読という表現は、外形的には書かれている文字を読みあげる、という行為であるため、どうしても「書かれている文字の内容」やそれをどのようなテクニックを持ちいて読むか、という点に目が向きがちです。
もちろんそれらも必要なのですが、表現行為としてはそこに「自分の身体」の存在があきらかになっていなければおもしろくありません。

ちょっと想像してみてください。
本の内容についてとても熟知し、読解を深め、何度も読みこみ、そして何度読んでもおなじように読めるように練習を積んだ朗読者がいるとします。
息継ぎやアクセンス、リズム、音声コントロールも完璧で、朗読しているとき彼の頭脳はフル回転しています。
一方、もちろんたくさん練習はしているけれど再現性については手放し、いまこの瞬間の自分の身体の状態や、自分に起こっていること、自分が受け取っていることに感受性を向け、その変化を受け入れながら読んでいる朗読者がいるとします。
さて、このふたりにはどのような違いがあるでしょうか。

どちらがいいということではありません。
朗読にたいするアプローチが違うのであって、その結果、オーディエンスに伝わるものも変わります。
自分が朗読表現者だとして、どちらのアプローチを望むか、ということです。
もし後者だったとしたら、現代朗読の方法と練習法が有効でしょう。

現代朗読では、表現主体を「本」や「テクニック」ではなく、生きて存在し、かつ刻々と変化しつづけている「自分自身」に置きます。
練習のときに「このように読もう」と決めて、そのように何度も練習したとしても、決めた形をいざ表現する「いま」の瞬間に持ちこむのは、自分のいきいきさを著しく損ないます。
過去の自分に現在の自分を拘束されることになるからです。
現在の自分は、自由で、選択肢が無数にあり、いきいきと変化しつづける表現者でありたいのです。

では、自分がどのように変化しているのか知るにはどうしたらいいでしょうか。
そのために身体に目を向ける必要があるのです。

頭脳はいきいきさを知らせてくれません。
頭脳はかんがえたり、判断したり、記憶したりしますが、頭脳がもたらすものは加工された情報であり、ときには捏造されたり、妄想されたありもしないものだったりします。
自分のいまこの瞬間の生命活動の方向性を知るには、身体に緻密な感受性を向けるしかないのです。

ところが現代人は自分の身体にたいする感受性が著しく衰えています。
「いま、身体はどんな感じですか?」
と問うても、なんだかぼんやりとしか把握できなかったり、まったくわからなかったり、あるいは捏造された脳内イメージが自分の身体感覚だと思いこんでいたりと、いろいろ大変です。

現代朗読では、自分の身体に気づき、さらに感受性を深め、いまこの瞬間の自分自身の生命現象をとらえるための朗読エチュードを、たくさん持っています。
それらをいっしょに練習したり、また日常生活のなかでも習慣的に取りくむことで、居ながらにして表現者としてのクオリティを向上させていくことができるのです。
そしてそれらのエチュードはけっして難解なものでなく、いずれも数分でおこなえるようなシンプルなものばかりです。

体験参加可「朗読生活のススメ」(5.7)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。5月7日(土)のテーマは「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」。

2016年4月27日水曜日

Jugem共感カフェ飲み会と親密な関係でうれしいこと続発

先週22日(金)夜は、草加まで行って、Jugem共感カフェのメンバーと串焼き屋で楽しい飲み会でした。
Jugemの店長で共感カフェを主催してくれている実雪さんと、その娘の満里菜、そして何度か参加してくれている美紀さん。

満里菜は現代朗読のゼミ生でもあるんですが、この4月から新社会人となったので、大学の卒業祝いと就職祝いをかねての飲み会でした。
実雪さんの同級生のお店〈串嘉〉は、前に一度行って、おいしかったのでびっくりしたので、今回もそこ。

共感的コミュニケーションの勉強を離れて、気楽に、ここには書けないプライベートな話など、盛り上がって楽しかったのです。

帰りは途中まで美紀さんとおなじ電車になったんですが、そのとき、美紀さんが話してくれたことがかなりうれしかった。
美紀さんは私の本『共感的コミュニケーション』を読んでくれたんですが、その巻末に付録として掲載してある短編小説3作をとくに気にいってくれたということです。

小説を掲載してあることを私はすっかり忘れてしまっていたのですが、美紀さんはふだんからけっこう小説を読む人らしくて、とくに宮沢賢治が好きといいます。
私の小説のことを、とくに落ちとか大きなストーリーがないのに世界がすっとはいってきて、読んでいてなぜか涙が出てきた、といってくれました。
こんなにうれしいことはありません。
あらためて自分が小説家であること、そして小説を書けることの幸せをかみしめた夜でした。

翌23日(土)夜は羽根木の家で「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会を開催。
前日や当日のドタ参、事前連絡なしでの飛びこみ3名(これはやめてくださいね、ありがたかったけど)などもいらして、8名での勉強会となりました。
私の思いつきで、この会の参加費は全額、熊本地震の被災地支援活動をされている方への寄付金とさせていただくことにしました。
ご参加いただいたみなさんも賛同いただき、気持ちよく参加費を提供してくれました。
ありがとう。

終わってからもみなさんが残って、いろいろな話に花が咲いたこともうれしかったですね。
次回の「親密な関係」勉強会は、5月20日(金)夜を予定しています。


5月4日(水/みどりの日)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

2016年4月26日火曜日

ラベリング(レッテル張り)は楽しいよね

「男ってさ、みんなコドモだよね」
「あなたってB型っぽいよね」
「ゆとり世代ってのはマイペースすぎない?」

ある傾向のある人たちをひとくくりにしてレッテル張り(ラベリング)するのは楽しいですね。
とても盛りあがります。
共感的コミュニケーションでは、ラベリングについては注意を払うようにしています。
ある人になにかのレッテル張りをしたとき、その人についてそのレッテルしか見えなくなり、いまこの瞬間のその人の本当の表情やいきいきしているニーズが見えにくくなることがあるからです。

ラベリングという行為を禁じているわけではありません。
ラベリングは楽しく、使い方によっては世界について理解を深めるひとつの有効な手段だったりします。
人がこの世界を理解するために科学などの学問がありますが、あれなどはラベリングの極致といっていいでしょう。
世界を分節化し、細分化し、ラベリングし、それらの特徴や傾向を洗い出して、複雑な世界の理解を深めるための手段となっています。

一方で、そのようなラベリング行為が、ときに、多様で、一瞬一瞬変化しつづける人の本当の顔を見えにくくしてしまうことがあることにも、注意を払いたいのです。
「あなたは私の親だから」
「彼は私の上司だから」
「おまえはおれの妻だから」
「きみはぼくの妹だから」
などというラベリングにも、相手を特定の枠内の、一定の性質や傾向らに押しこめ、本当はいまこの瞬間その枠にはおさまりきらない行動やニーズがあるかもしれないのに、それが見えなくなってしまうことがあります。

だれかと本当につながろうとするときには、すべてのラベリングをいったん手放し、いまこの目の前にいる人間が、多様で、瞬間瞬間変化しつづける複雑な生命体であり、そこにはなにかニーズが息づいていることに興味を持ち、目を向けていく必要があります。

とはいえ、やっぱりレッテル張りしてあれこれいいあうのは楽しいですけどね。

共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19~21時です。

2016年4月25日月曜日

ボイスコーチングやってます

あまり表看板としてでかでかと掲げていないのですが、昨年からスタートした個人セッションのボイスコーチングは、時々依頼がやってきます。
とくにこのところ便利になっているオンラインでのセッションが増えてきています。

なにが便利かというと、パソコンを持っていなくてもほとんどの方がスマートホンやタブレット端末を持っておられるので、それで簡単につながることができるということです。
それらにはカメラもマイクも内蔵されているので、簡単にオンラインでの個人セッションができます。

私はzoomというネットミーティングシステムを使っていますが、それ以外のものでも対応できます。
Skype、グーグルのHangout、Facetime、FacebookやLINEのビデオ通話など、いずれも使えますし、いずれも無料です。

私のボイスコーチングは基本単位が30分なので、どこにいても思いたったときにすぐに私を呼びだしてみてください。
対応できるときはできるだけ応じるようにしています。
こちらもどこにいても応じられるのがいいですね。

先日は「ボイス」というより「コミュニケーション」についての相談を受けました。
私のボイスコーチングは声や話し方、そのスキルについての相談にも乗っていますが、それから派生するコミュニケーションや人間関係の問題にも応じています。
コーチングは共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の考え方をベースにしています。

これらは人間関係のみならず、自分自身のもやもややパフォーマンスの低下の問題にも役に立ちます。
その理由は、私が書いた『共感的コミュニケーション』という本を読んでいただければわかると思います。
Kindle版は250円です。

私のボイスコーチング個人セッションは、いつでもこちらから申し込むことができます。
気軽にご利用ください。

2016年4月24日日曜日

NVCカフェ研究会あらため共感喫茶的研究会(仮称)、本格始動

私は数年前から、共感的コミュニケーションを学びシェアする場を「お茶会」のような気楽さでやりたいという思いから、「共感カフェ」と称して勉強会をあちこちで開催しています。
羽根木の家をはじめ、カフェ・オハナやステイ・ハッピーなど本物のカフェや、草加市まで出張しての開催も含めて、現在、月に5~6回くらいやっています。

最近では、さらに気楽に参加してもらいたいという思いから、自宅にいながらにして、あるいは東京から遠く離れた地方や外国からも参加できるように、ネットミーティングシステムを使ったオンライン共感カフェも月に4回程度ひらいています。

私のように、気楽な勉強会をひらく人がすこしずつ増えてきているようで、とても喜ばしいことだと感じます。
まだ実行には踏み切っていないけれど、自分でも継続的にNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を運営ベースにしたカフェやバー、飲食店、コミュニティハウスなどの経営をやってみたいと思っている人がいることも、ちょくちょく耳にはいってきます。

共感的コミュニケーションはともに学ぶ仲間がいると、とてもはかどるし、勇気づけられます。
NVCの用語ですが「エンパシーバディ(共感友)」というペアを組んで、定期的に共感的に聞き合う練習が推奨されています。
またそれは、練習にとどまらず、日ごろの悩みや喜びを聞き合う大切な相手ともなります。

共感的コミュニケーションを学びはじめたけれど、日常的にそのことを話したり、練習したりする仲間がいない、という人がいますが、そういう人は自分で共感カフェをひらけばいいのです。
まだスキルが身についてなかったり、十分な知識がなくても、仲間を何人かあつめてそこに自分たちよりは学びが進んでいるファシリテーターを呼べば、学びの場をすぐに作ることができます。

そのような学びの場を作ったり、維持継続したり、イベントをひらいたり、といったことのノウハウを蓄積したりシェアする場として、共感喫茶的研究会(仮称/略称カフェ研)を開催しています。

だれでも参加できます。
Facebookにグループが公開されています。
こちら

また、次回のカフェ研は5月9日(月)午後に予定されています。
世田谷の古民家〈羽根木の家〉で開催しますが、オンラインでも参加できます。
ご案内はこちら

2016年4月23日土曜日

不謹慎だと他人を糾弾する人たち

これまでにも何度か覚えのあることですが、なにか大きな事件や災害があると、自分たちのイベントを「自粛」という形で中止する人々がぞろぞろとあらわれます。
災害救助などに直接影響のあるイベントなら理解できるのですが、それを中止してもなんの影響もないでしょう、というようなものまで「自粛」されます。
どうやらそれは、
「あそこの人たちが大変なめにあっているときに、自分たちが好き勝手なことをやっていては申し訳ない」
という気分のようです。
そしてそれは空気のように伝播していくみたいです。

自粛するだけだったらまだいいのですが、自粛しない人たちを指をさして糾弾する人まであらわれて驚きます。
本当かどうかわかりませんが、ある保育園に「熊本震災があったのに散歩とか不謹慎だ!」とクレームが入ったそうです。
びっくりですが、さらにびっくりなのは、それに対して園長から、
「震災があったにも関わらず、子供達が散歩中にモンシロチョウを見つけて騒いでしまい、大変申し訳ございませんでした」
とマンションの掲示板に謝罪文が掲示されたということなのです。

クレームをつける人もですが、そのクレームに反応する園長さんにもびっくりです。
園長さんはクレームに対応して園児たちの散歩を「自粛」させるのでしょうか。
モンシロチョウを見つけても騒がないように指導するのでしょうか。
なんていうことでしょうか。

こちらがソースです。

他人の行動にたいして「けしからん」「不謹慎だ」「やめさせろ」と糾弾する人は、自身のなかに強い欲求不満をかかえているように思えます。
欲求不満とは、つまり、なにか自分の欲求やニーズが満たされていない状態です。
その満たされない思いを、他人への糾弾――つまり他人をコントロールしようとすることで満たそうとするのは、とてもゆがんだ表現だといえるでしょう。
自分の欲求やニーズを満たせるのは、自分自身しかありません。
そもそも、他人はコントロールできないものですし、もしできるとしたらそれは「暴力」をもってしかありません。
暴力をもってなされたことはすべて、相手も自分も不幸におとしいれます。

他人を糾弾する人々はどんな欲求・ニーズを持っているのでしょうか。
子どもたちが楽しそうに散歩しているのを見てイライラした人には、どのようなニーズがあるんでしょうか。

幼い子どもも含む国民全員が、被災地のことを思いやり、被災者を助けようと一丸となることで、安心したいのでしょうか(そもそも子どもにそれを求めるのはむずかしいと思いますが)。
自分が懸命に寄付したり被災者のことを思いやったりしているのに、そうせずにのびのびとしている人を見ると、不平等を感じるのでしょうか。
本当はすぐにでも被災地に駆けつけて被災者を助けたいのに、事情があって身動きとれず、それなりに自由にふるまっている人を見ると、自由や選択肢が自分にあればいいのにと思ってしまうのでしょうか。

私がいま思うのは、他人を糾弾する人たちを、さらにこちらが糾弾するようなことはやりたくないな、ということです。
思いやりをもって対話につなげることはできないでしょうか。

思いやり、共感、対話で人々がつながっているときに、創造的なことが起こり、失われてしまったものも回復にむかうのだと思うのです。

4月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(4.27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は27日(水)16時と20時です。

【追記】
上記事を私のメールマガジンに書いたところ、さっそく何人かの方からリプライいただきました。
そのなかのひとりは、「モンシロチョウを見つけて」の一文に園長さんの密かな抵抗を見た、というものがありました。
一部、紹介します。

◎私が園長なら、同じように書いたかも。
災害が起こって人が死んでも、世界は美しいことを子どもは教えてくれている、そのことに気づかない、周りにビクビクする大人(そんな自分にムカついていて他人を避難する人たち)への精一杯の皮肉。
同時に、そんな連中から子どもたちを守るために。
自粛はもちろんしないで、同じことが起こればまた同じように謝罪文を出す。
反省なんか絶対にしないで(笑)!

☆水城のコメント
なるほど!
私はびっくりしてしまったけれど、園長さんは本当はちゃんとわかっていたのかもね。
そして確信犯?(笑)。
だとしたらいいなあ。
このリプライのように、うん、その手がいいよね、と私もあらためて思いました。

新MacBookを使いこむ

不注意でメインマシンの MacBook Pro 13インチにお茶をぶちまけてしまい、しばらく修理で使えなかったとき、代替機として手にいれた新MacBookがまだ手元にあって、丸3か月くらい使っていたことになるので、そのレポートを書いてみる。
とはいえ、メインマシンは相変わらず、修理を終えてもどってきた MacBook Pro のほうなので、新MacBookのほうは使用頻度は高くない。

しばらく使ってみての、いわばファーストインプレッションは、こちらの記事に書いてあるが、読み返してみると不満たらたらだな。
いまはこれほど不満たらたらではない。

非常に軽くて薄く、スタイリッシュなマシンなので、使っていて楽しい面もあるのだが、それでも使用頻度が低い理由のひとつは、やはりマシンパワーだ。
ただし、メインマシンとしては、という「ただし」が付く。
そもそも、MacBook Pro と比較するのはかわいそう。

今回は映像編集、音楽・音声編集という、私の仕事の大きな部分をしめる作業については、あつかわないことにする。
それ以外は、Proにも新MacBookにもほとんどおなじ環境を構築している。
そうしておくと、外出するときなどひょいとつまんで持って出ても、そのままおなじ調子で仕事のつづきができるからだ。
そしてデータのほとんどはクラウドに置いてある。

起動時に自動的に読みこまれる常駐ソフトは、つぎのようなものがある。

 TabLaunchar ランチャー
 Karabiner キーマッピング
 MuteCon 起動音をミュート
 Magican システム最適化
 Flycut クリップボードマネージメント
 Wallcat 壁紙交換
 そら案内 天気
 ScrubIt! クリップボードの特殊文字を削除
 Dropbox クラウド
 GoogleDrive クラウド

ランチャーやドックに置いてあるソフトは、つぎのようなものがある。

 Evernote 執筆・データ
 Scrivener 執筆
 Safari ブラウザ
 Google Chrome ブラウザ
 Tweetbot ツイッター
 メール
 カレンダー
 OminiFocus GTDツール

ここまでは最初に立ちあげて、常時使うソフト。
これだけ並行して立ちあげておくと、新MacBookでもさすがに荷が重いかもしれない。
メモリが8GBなので、16GBのProに比べたら荷が重くなるのも当然だろう。

ほかに私がドックに置いてある、よく使うアプリケーションは、つぎのようなものがある。

 Hagoromo 執筆、ePub作成
 写真
 Skitch 写真加工
 メモ
 iTunes 音楽・映画
 メッセージ
 Skype ネットミーティング
 zoom.us ネットミーティング
 Minutes タイマー

もっともよく使うのは執筆用のEvernoteとScrivener。
Evernoteはあらゆるデータをここにぶちこんでヘビーに使いこんでいる人もいるようだが、私はちょっとした記事やメモ書きと、ほかにはIDとパスワードとか、講座やゼミのデータ管理に使っている程度。
したがって、無料版で十分。

Evernoteはデータがクラウドと同期しているので、MacBook Pro での作業のつづきが、すぐに新MacBookでできる。
Scrivenerも同様。
ただし、Scrivenerのほうはややデータが重く、しかもデータの置き場はこちらがクラウドに指定しておく必要がある。
逆にいえば、ローカルに置いておくこともできるということだ。

Scrivenerは執筆に適したソフトで、書いている本や小説を丸ごと階層構造や章立てのまま、全体を見て確認しながら執筆できるので、重宝している。
文字数の確認やフォントの変更も簡単だし、プレーンテキストデータとして全体を吐きだすこともできる。
ただし、その分データが重くなるので、私はDrobboxにデータを置いてあるのだが、完全に同期されるまでちょっとタイムラグがある。
Proで書いて、すぐにつづきを新MacBookでやろうとすると、同期が終わっていなくてファイルがおかしくなってしまうことがあるので、注意が必要だ。

Evernoteはそのタイムラグが短く、ちょっとした書き物はこちらでやっている。
ブログ記事はほぼすべて、これで書いている。
いまもそうだ。

けっこうたくさんのソフトを同時に立ちあげているが、ものを書く分には新MacBookのマシンパワーでもそう支障はない。
特殊なキーボードの感触も、使いこんでいるうちに身体がなじんでくる。
非常にキーストロークが浅く、かなりの強いストロークで打ちこむ私にとってはしばらく使いづらかったが、浅くて軽いストロークに切りかえられるようになったら、入力スピードはかえって速まったくらいかもしれない。

私はUSキーボードでカナ入力という特殊な入力方法を使っているのだが、これが一番効率がいい。
それがさらに速くなる感じは悪くない。
ゆっくりしゃべるのとおなじくらいのスピードで入力している。

あと、多くのアプリを立ちあげて、いくつかの作業を同時進行するのが私の好みだ。
よくライフハックなどに、「一度にやる作業は一個に集中すべし」というのがあるが、私はそうでもない。
そういう人もいるだろうが、いくつかの作業を並行処理しているほうが(私の場合は)はかどるし、気分転換にもなる。
ひとつのことにずっとかかずりあっていると、どこかでだれてしまって作業の質が落ちる。
作業内容を切りかえながら、みじかい集中を積みかさねていくのが合っている。

これは昔からそうだった。
ひょっとして音楽をやっていることと関係があるかもしれない(ないかもしれない)。
ブログを書きながら、長い小説の一部を書き、その合間にツイッターとフェイスブックをチェックして、必要ならレスポンスを書き、メールの返信を書き、ネットミーティングで人と直接打ち合わせしたり、ボイスコーチングをおこなったり。

多くのアプリを立ちあげておくので、2台以上のマシンかモニターを使おうかと思って試したこともあるが、それより Mac OS の機能である、フルスクリーンを何面も設定しておいて3本指でさっと切り替えるやりかたのほうが、いまのところはしっくりきている。
1面めには執筆関係、2面めはブラウジング関係、3面めはメールやスケジュール関係、といった具合だ。
だいたい、常時4面くらいを使って作業している。

ざっくり書いたが、持ち出し用のサブマシンとしては、新MacBookはかなりいいという気になってきている。
なによりスタイリッシュで美しいマシンだ。
そして軽い!

最近は容量25リットルくらいの中くらいのサイズのリュックサックを使っているが、それにいれても、いれたのを忘れたんじゃないかと思って一瞬あせってしまうくらい軽い。
バッテリーのもちはその分、当然短くなるが、非常時にはふつうのUSBアダプターから給電できるのがいい。
つまり、USB-C用のケーブルを一本持っていればなんとかなる、ということだ。


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2016年4月21日木曜日

共感を拒否される

たぶん、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を身につけたいと思って学びはじめたり、練習をはじめたりした人の多くが経験することだと思うが、いざだれかに共感しようとして、それを拒否されることがある。

「あなたはいまこういうことを大切にしているから、そういう気持ちなんですね?」
すると、
「ちょっと! そんな気持ち悪い聞き方しないで」
とか、
「それってNVCの文法だよね。知ってる。そういう定型文で訊かれるの、ムカつく」

あなたはただ、相手の気持ちとニーズを知りたくて、おぼえたばかりの文法で共感しようとしているだけなのに、拒絶に遭遇してとても悲しくなる。
悲しくなるのは、相手が自分の質問にこたえてくれないばかりか、こちらの共感したいという気持ちを受け取ってくれないこともあるし、さらにはこちらのつながりたいというニーズを「拒絶」されてしまうせいもあるだろう。
つまりはつながりを拒否されてしまうわけだ。

それをいいかえれば、
「あなたとはいまつながりたくない」
といっているように聞こえる。

しかし、本当にそうだろうか。
相手はあなたとのつながりを拒否しているのではなく、あなたのもののいいかたに嫌悪感を覚えているだけなのかもしれない。
もしそうだとしたら、相手が大事にしているのはなんだろう。

おっと、それを推測する前に、まず自分自身につながっておきたい。
相手に共感し、それを受け取ってもらい、また相手がなにを大切にしているのか知りたい。
相手とのつながりを本当に大切にしている。
また、相手に共感しようとしている自分のことを知ってもらい、受け入れてもらいたい。

さて、相手はなにを大事にしているのだろうか。
ここではただ推測するだけでいい。
相手に共感を拒否された悲しさや痛みはなかなか消えないかもしれない。
しかし、相手にもニーズがあるはずだということを思うとき、痛みはすこし薄れ、ひょっとしたら時間がたっていつかまた相手につながろうと試みる気持ちがもどってくるかもしれない。

つながりと共感の可能性を信じ、それをけっして手放さないことが、非暴力の道を歩くということだ。

共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

2016年4月19日火曜日

30年間ネットを使いたおしてきた

メジャー出版社から本が出て私が小説家になったのは1986年のことだった。
そのとき実家のある福井に住んでいたので、小説を書くための情報にいかに獲得するかが、死活問題でもあった。
都会に住んでいる作家の場合、国会図書館などの大きな図書館に行ったり、編集者と直接会ったり、また大きな本屋もたくさんあったりして、情報を得るのが楽で、そういう話を聞くと自分も都会に移住しなければならないのかなと思ったりした。

インターネットが普及しているいまでは想像もできなくなってしまったが、簡単な言葉ひとつ調べるのに大変な苦労をしたものだ。
だから、最初は日経新聞だったと思うが、新聞記事データベースに一般人がアクセスできるようになったときは、歓喜してすぐに利用をもうしこんだ。
当時はインターネットもなく、電話回線を使ってモデムで接続した。
モデムが使えないときは、音響カプラーという、デジタル信号を音声信号に変換してやりとりする装置を使ったりもした。

当時はパソコン通信といっていたが、NECのビッグローブや、富士通系のニフティサーブというネットも、ごく初期の段階から利用していた。

以来、ちょうど30年。
いまはほとんどすべての人がネットに接続されている。
とくにここ何年かのスマートホンの普及は、人々のネット利用率を急速に押しあげた。

私のように資金も組織的なバックボーンもない純粋な個人が、非常に安価に情報発信ができるのは、大変ありがたいことだ。
書きたいことを書いてネットで配信し、多くの人に読んでもらえるということもありがたいことだが、それも増して自分がやっていること――講座やライブの告知を無料で掲載して、興味のある方やそれを必要としている皆さんに届けることができるというのは、とても貴重な個人ツールだ。

ネット歴30年、パソコン歴35年ともなると、さまざまな風景を目にしてきた。
小説家になった当初は私も原稿用紙に手書きで執筆していたが、すぐにワープロ、そしてパソコン上のワープロソフトに移行した。
その後、ネットを経由して一瞬で送稿できるようになった。
もっとも、出版社側がネットに対応していなかったので、ファクス送信ソフトを使った。

いまではかんがえられないことだが、当時はワープロやパソコンを使っている作家はめずらしく、
「マシンを使うと文体が変わったりするんじゃないの? あと思考にも影響がありそうだし。やっぱり手書きがいいよね」
などと揶揄《やゆ》されたりした。
ネットを使うようになると、
「小説家のくせに無料でネットに文章を流すなんて」
と非難されたこともある。

携帯電話が普及しはじめると、
「いつでもどこでもつかまえられるのはごめんだね」
と拒否する人が多かった(その人たちはいまどうしているんだろう)。

ネットがパソコン通信からインターネットに移行しはじめると、
「だれも管理していないインターネットなんて恐ろしくて」
と嫌悪する人が多かった。

スマートホンが普及しても、
「やっぱりガラケーだよね」
と、かたくなになっている人もいまだにいる。

こういった人も、たぶん、とても安心や安定が大切で、変化するものにたいして警戒心があるのだろうと思う。
それはそれでわかるし、私にもそういう気持ちがあるけれど、それ以上に私は変化を楽しんでいるし、なにより個人として自立した活動を継続するためにはなくてはならない環境になってしまっている。
ネットにかぎらず、ITの普及・進展によって、かつてはとても個人でやれるようなことではなかったことが、たくさん個人の手中にはいってきている。
夢のようなありがたさだ。

ところで、近く、「自力出版講座」というものをアイ文庫主催でやる予定になっている。
そう、出版も自力で、インディペンデントなパーソナルメディアとして、私たち個人の手中に落ちてきているのだ。

4月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(4.27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は27日(水)16時と20時です。

2016年4月18日月曜日

H28年(2016年)熊本地震そのとき

4月14日の夜、現代朗読のゼミが終わって、まだ羽根木の家にゼミ生たちが残っていて掘りごたつで雑談していたとき、ドンという音とともに下から突き上げるような振動が来た。
びっくりして、ゼミ生のひとりが飛びあがったのだが、なにが起きたのかとっさにはわからなかった。

そのあと、揺れが来て、地震なのかとわかったが、感じからいって直下型だろうと思った。
震度はたいしたことないが、衝撃は大きく、かなり驚いた。
すぐにラジオをつけてみたら、震源は東京23区直下とのことだった。

みんなが帰ってしばらくしたとき、ツイッターを見ていたら、熊本で震度7と流れてきて、一瞬目を疑った。
震度「7」?
東日本大震災や阪神神戸淡路大震災なみの揺れではないか。
なにかのまちがいかとも思ったが、ラジオでたしかに臨時ニュースを流しはじめている。
テレビをつけたら、放送局内のすさまじい揺れの映像が流れてきた。

そのあと、深夜までテレビとツイッターにつきっきりになってしまった。
東日本大震災のときは、東京も影響があって、羽根木の家に帰宅困難者が何人か泊まりに来たのだった。
そのあと何日か、炊き出しの日々がつづいたことを思い出した。

そして16日の未明にはマグニチュード7.3という、阪神淡路大震災と同規模の地震が発生した。
あとで発表があったのだが、こちらが本震とかんがえられるということだった。
つまり、最初の震度7の地震は前震だったのだ。

本震があって、さらに大分のほうでも大きな地震が発生した。
明らかに断層にそって発生している。
誘発地震で、これがさらに今後どのようになっていくのか、だれも経験したことのないパターンで、わからないという。

今回の一連の地震で亡くなった方、怪我をされた方、被災された方が多くいらっしゃる。
心からお見舞い申し上げたい。
ひとごとではないと感じる。

東京でも大きな直下型地震は予想されている。
また、東海沖、南海沖、東南海沖の巨大地震も予想されている。
名古屋には私の息子や妹一家が住んでいて、もし巨大地震に東海地方が襲われたら心配だ。
日本列島がいくつかのプレートの合わせ目に乗っていて、もしそれらが連動して動くとしたら、今後どのような事態が起こるか予想もできない。
心配だけれど、天災は避けられないのだ。
かならずいつかはやってくる。
それはすぐいまかもしれない。

人は謙虚に災害にそなえるしかない。
災害時に大きな被害に拡大しないように謙虚になり、準備しておくしかない。
食器棚は閉めておく。
箪笥は倒れないように固定する。
寝床は倒れるようなものの近くにしない。
防災グッズはすぐに取れる場所に置く。
原発は動かさない。

自分をふくむ人の命をどうやって守るのか。
先人は多くの知恵を残してくれているし、また自分の身体もさまざまな声を発してくれている。
それらに耳をすまし、野生動物のように感覚をとぎすまして事態にそなえるしかない。
それでもたぶん、防ぎきれないものがあるだろう。
そのときは事態を受け入れるしかない。
自分もまた、この動的な世界の一部なのだということを、ほがらかに受けとめて生きていくのだ。

げろきょネットライブ再開の準備

木曜夜のげろきょゼミで、ひさしぶりに「げろきょネットライブ」の打ち合わせとリハーサルをおこなった。
数年前まではかなり頻繁に開催していたネットライブだが、私の負担が大きいのでしだいに息切れして、なんとなく中断していた。
ひさしぶりに再開しようかとゼミ生に持ちかけてみたところ、中継機材やネットのオペレーション、司会進行などについて協力したいという人が何人かいたので、やってみることになった。

まずは中継機材の確認。
数年前に使っていたCEREVOというメーカーの「Live Shell」というUstream中継用の機材があった。
電池をいれかえてスイッチをいれたら、ちゃんと起動した。
そしてどうやら、WiFiにも自動的につながって、インターネットの配信用サイトに接続したようだ。

それを、最近愛用しているCANONの iVis mini X につないでみたら、見事に使えることがわかった。
これは非常に広角な画角を持っていて、手動での操作がほとんど必要なくなるのと、マイクが品質が高く音声がクリアなのとがすぐれた点だ。

さらに画質がよく、レンズも明るくてズーム機能も優秀なSONYのデジカメは、残念ながらHDMIの接続端子が合わずつなげられなかったが、こちらもアダプターを取りよせれば使えるだろう。

Live Shell のげろきょライブ配信用ダッシュボードサイトに接続してみたら、数年前の設定が残っていて、そのまま配信スタートできることがわかった。
これですぐにでもライブ中継ができる。

ライブ内容としては、単独の朗読、現代朗読が得意とするところの群読パフォーマンス、音楽演奏、音楽と朗読の即興パフォーマンスなどを予定している。
ライブ会場として使う羽根木の家には、出演者だけでなく、一般の観覧者も歓迎したい。

ライブをそのまま定点カメラからUstreamを通じてリアルタイム配信すると同時に、それらは手元でも録画しておく。
もう一台カメラを使えば、あとでYouTube用に見栄えよく編集することもできるだろう。
さらに別のマイクを使って音声を別撮りしておけば、オーディオブックとしてもコンテンツ化できる。

今後、ネットライブは、ライブ配信だけでなく、コンテンツ発信・収録製作の場としても、積極的に活用していきたい。
再開第1回のげろきょネットライブのご案内はこちら


現代朗読体験講座(4.24)
朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。4月24日(日)午前、羽根木の家にて。

2016年4月17日日曜日

テンダーくんの「羽根木の家のお手入れ+NVCとウェブ講座」(4.26)

『わが家電力』やさまざまな活躍で有名な鹿児島のテンダーくんが、羽根木の家でワークショップをやってくれることになりました。
以下、テンダーくんのサイトから転載します。
元サイトはこちら

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世田谷・羽根木に残る築80年の古民家、通称「羽根木の家」。
非暴力コミュニケーション(Non Violent Communication)の勉強会が日々開催される、日本のピースカルチャー発信の地であり、また朗読家の野々宮卯妙さんのお住まいでもあります。

都心でありながら、どこか懐かしい佇まい。羽根木の家は風情あるとても素敵な家ですが、庭木はあまりに大きくなりすぎて、今では昼でも家の中が暗くなるほど。畑も始められないし、せっかく揃えたソーラーパネルも十分に使うことができません。

この家が末長く保全されるために必要なことは「愛され、善く使われること」。野々宮さんは、持続可能な暮らしのために、今後はパーマカルチャーやオフグリッドを取り入れていきたい、とのことでした。ならば、みんなで手入れして、80年前から託されたバトンを次の世代につなぎませう!

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4/26 10:00-12:00

やること(講師テンダー)
・庭木の枝打ち。
・木の登り方講座
・ソーラーパネルのセットアップ
・消防事情的に可能だったら火起こし講座やるかも。
・美味しいお昼ご飯作り

こんな人に来てほしい!
・古民家が好き
・NVCが気になっている
・持続可能ってイケてると思う
・ソーラーパネルもいいよね
・テンダーが好き

参加費:食費は実費、ワークショップ代はドネーション(寄付)で! 参加は要予約ね。
場所:「羽根木の家」(お申し込みに対するお返事で、住所をご連絡差し上げます)
いるもの:汚れてもいい格好、あればノコギリ、あれば軍手

お申し込みはこちらから!

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さ・ら・に!

同日午後からは「非暴力コミュニケーション」を今後、いかにウェブ展開していくかの「検索結果で共感は可能なのか?研究会」を開催します。版元を立ち上げ、月5万人が訪れる個人サイトで本を売るテンダーさんの「検索最適化技術(Search Engine Optimise)」を軸に、これからの日本のNVCカルチャーの伸展を話し合います。

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4/26 14:00-17:00

やること(講師テンダー)
・NVCと言葉の関係性を改めて考える
・「ウェブと検索の世界」での共感ワード
・情報が無料化していくフリーの概念
・ウェブは人を救うのか
(おそらく日本初の試みなので、とっても実験的です!)

こんな人に来てほしい!
・古民家が好き
・NVCが気になっている
・個人で始めるSEOが気になっている
・人に伝えることって大事だと思う
・やっぱりテンダーが好き(2回目)

参加費:ドネーション(寄付)で! 参加はまたもや要予約。
場所:「羽根木の家」(お申し込みに対するお返事で、住所をご連絡差し上げます)
いるもの:あればノートパソコン、メモ帳

お申し込みはこちらから!

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以上、お楽しみに!
(*以上の予定は全て暫定のため、予告なく変更の可能性があります!)

テンダー

2016年4月16日土曜日

だれかのふるまいが許せない、と思ってしまったとき

付き合っている相手の食事のマナーが悪くて、嫌悪感をもよおす。
上司の電話応対の言葉使いが気になってイライラする。
いつも行く定食屋の主人があまりに無愛想で腹が立つ。
こんなとき、あなたはどうするだろうか。

マナーを注意する?
上司に苦言を呈する?
客としてクレームをつける?
いずれも対立が生まれたり、関係が悪化したりする可能性がある。
では、どうすればいいのか。

そもそもこちらが相手にたいして嫌悪感をもよおしたり、許せないと思っているとき、どうにかして相手を自分の価値観に合うようにふるまいを変えさせたいという意図が働いている。
つまり相手をコントロールしたいという欲求がそこにある。

しかし、まずしっかりと確認しておきたいのは、他人はけっしてコントロールできないし、自分の期待に沿うようにふるまってはくれない、という事実だ。
この点に幻想を持っていると、ことごとく失望を味わうことになるし、人生はつらいものになる。

相手を変えようとするのではなく、ただ相手に共感し、相手とつながる。
そうすれば、ひょっとして相手にはこちらのいうことに耳を傾けてくれる可能性が生まれるかもしれない。

その前に、まず、自分につながる必要がある。

付き合っている相手の食事のマナーが悪くて嫌悪感をもよおすとき、自分が大切にしているのは、食事のときに人に不快感を与えないようなマナーや秩序が大事だから?
上司の電話応対の言葉使いが気になってイライラするのは、誠実さや安全が大事だから?
定食屋の主人の無愛想に腹が立つのは、コミュニケーションや親しみや大事にされることが必要だから?

自分のニーズが明らかになったら、それをしっかりつかまえた上で、今度は相手のニーズに目を向けてみる。

忘れてはならないのは、すべての人にはニーズがあり、すべての言動はその人なりの切実なニーズにもとづいて現れているということだ。
たとえその言動がこちらの気にいらない方法であったり、こちらにとって不都合なことであったとしても、相手にはそれなりの切実なニーズがあるということだ。
相手を攻撃したりコントロールしようとするのではなく、相手のニーズに目を向け、共感できるかどうかが、相手とつながれるかどうかのキーになる。

もし相手に共感して、必要なつながりが生まれたとしたら、そのとき初めてこちらは相手にこちらのニーズを伝えることができる。
こちらに共感されつながりを感じている相手は、おそらくこちらの言動に耳を傾け、ひょっとしたらこちらを受け入れ、お願いをきいてくれるかもしれない。
しかし、共感がなくつながりがない状態では、けっしてこちらのいうことをきいてくれないだろうし、ましてやコントロールされるなどということは(物理的暴力をもってでもしなければ)ありえない。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

2016年4月15日金曜日

5月9日:共感喫茶的研究会(仮称)のつどい

共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を運営ベースとするカフェやバー、コミュニティスペースを常設として継続的運営したり、ワークショップや勉強会、イベントなど場作りのためのノウハウをシェアしたり研究するための勉強会を開催しています。
興味のある方は、ご友人などお誘いあわせの上、気軽にご参加ください。
ネット経由オンラインでの参加も歓迎です。

◎日時 2016年5月9日(月)13:00〜15:00
  事前のランチタイムに会場を使えるようにしておきます。
  昼食持参で12時からどなたもご参加いただけます。

◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    (京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
    世田谷区羽根木1-20-17
  直接来られない方のためにオンライン参加も可能です。
  参加希望の方はお知らせください。

◎参加費 500円(会場維持協力費として)
  オンライン参加の方は不要です。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらのフォームからメッセージ本文に「NVCカフェ研究会」とご記入ください。

※ 猫がいます。猫アレルギーの方はご注意ください(通気性が良いせいか、発症した例は今のところ聞いておりません)。

※世話人:水城ゆう

サバのだし茶漬け

サバでなくても、アジやシャケでも、なんでもよい。
そして「茶漬け」とはいうけれど、お茶は使わない。
小腹がすいたときに、さらさらっとかきこむのにちょうどいい一品。

【材料】二人分
・サバ……ちいさめのもの半身
・白ネギ……10センチくらい
・しょうが……ひとかけ
・三つ葉……少々
・ご飯……2膳分
・塩、削りぶし、酒、薄口醤油、すりごま

サバは全体に塩をふって、かるく焼く。
しっかり火がとおる必要はない。
半なまくらいでよい。
焼いたものに包丁をいれ、ご飯に乗せやすいように切りわけておく。

白ネギと三つ葉は小口切りに、しょうがは細切りにしておく。

だし汁を用意する。
水(3カップ)を火にかけ、沸騰したら削りぶしをひとつかみいれ、香りが出たら削りぶしを網ですくい取るか、こし取る。
酒と醤油をそれぞれ大さじ1くらい加え、煮立たせる。

大きめの器にご飯を盛り、その上にサバ、白ネギ、三つ葉を乗せ、すりごまをお好みの分量ふりかける。
それにだし汁をかけたら、できあがり。
お好みで海苔をちらしてもよい。

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2016年4月14日木曜日

朗読を通して自分を知る

朗読をふくむ表現行為では、表現者の意識や感情、身体そのもの――つまり生命存在が他者に伝わる。
そもそもそこにある生き生きとした存在の表われを、できるだけ妨げないようにしたい。
しかし、後天的に社会性を身にまとい、そのふるまいを習慣として鎧のように着身してしまっている私たちは、しばしば生き生きとした表われをいろいろな方法で妨げてしまう。

なにが自分の表われを妨げているのか、自分自身がなにをやってしまっているのか、あるいはなにをしないようにしているのか、それをつぶさに見ることが、表現の練習となる。
朗読においては、なにかを読んでみたとき、なぜそのように読むのか、そこにはなにかとらわれや型のようなものはないか、そのように読まねばならないという思いこみはないかどうか、つぶさに検証してみる。

たとえば、現代朗読の講座で、ある人が宮沢賢二の『風の又三郎』の冒頭の詩を朗読した。
こんな詩だ。

 どっどどどどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

じつに力強く、リズミカルに朗唱してくれた。
しかし、なぜそのように読んだのだろう。
たぶん、多くの人がこの詩を読むとき、リズミカルに力強く読むことだろう。
その読み方はひょっとして、「この詩はこのように読むものだ」という自分の外側から刷りこまれたなにか特定の型のようなものではないだろうか。

私たちがなにかを朗読するとき、自分の外側から刷りこまれている可能性がある型は無数にある。
たとえばこのようなものだ。

「この詩は『風の又三郎』の冒頭に書かれているものだ」
私たちは『風の又三郎』という作品をすでに読んでいたり、知っていることがたくさんある。
また実際にだれかが読むのを聴いたことがあるかもしれない。
だれかが作った映像作品を観たことがあるかもしれない。
そういうものから「指示」される「このように読む」という特定の型を、すでに自分が持っているかもしれない。

「この詩は宮沢賢治が書いたものだ」
宮沢賢治という人についても、私たちはすでに多くのことを知っている。
独特の童話や不思議な物語をたくさん書いた人である、東北の人である、文壇とのつながりはなく書き手としては孤立していた、「風ニモ負ケズ」を書いた人だ……
そういったイメージがある型を朗読者にもたらしているかもしれない。

「リズミカルなことばの連なりで書かれている詩だ」
ついリズムをとって読みたくなるような文の調子がある。
その一定のリズムの型にはまって読もうとしてしまわないだろうか。

これら自分の外側からもたらされる型に注目し、それらをいったん全部はずしてみたとき、自分はどのように読むことができるだろうか、あるいはどのように読みたくなるだろうか、という「自分自身と向き合う場所」へと踏みだしてみる。
型を排除したとき、自分の中心にある本質的な生命活動は、このことばのつらなりをどのように音声化したがっているか、そこに目を向けることができるかどうか。

これはやってみるとわかるが、なかなかむずかしいことだ。
自分の生命活動がなにをいっているのか、どのように動きたがっているのか、どう表現したがっているのか、そのかすかな声や兆候に耳をすまし、とらえられるようになるためには、それなりのトレーニングが必要になる。
そのためのさまざまなエチュードを、現代朗読では用意している。


すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。4月16日(土)のテーマは「ことばと社会と自分個人の関係/声と呼吸と身体」。

2016年4月13日水曜日

映画:ジャッカル

1997年製作のアメリカ映画。
フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』は映画化もされた世界的ベストセラー小説で、私も若いころに夢中になって読んだ。
この「ジャッカル」は、映画化された「ジャッカルの日」の「脚本」の翻案、つまりリメイクされたもの、ということになっている。
ややこしい。

原作者のフレデリック・フォーサイスも最初の映画化されたときの監督のフレッド・ジンネマンも、リメイクの脚本に違和感をおぼえ、クレジットに名をつらねることを拒否した。
それほど脚本がひどいのか、というと、まあそうかもしれない。

キャストはジャッカル役にブルース・ウイリス。
もともと漫画っぽい役者なのだが、この作品では漫画的キャラクターを演じきっていて、それはそれで役どころをきっちり演じているといえる。
ジャッカルを追う終身刑で投獄中の元テロリスト役にリチャード・ギア。
これが飄々とした、どことなくにやけた感じで演じていて、ブルース・ウイリスと対照的に人間臭い。
ギアはコメディ映画やミュージカル映画にもたくさん出ていて、典型的な渋い2枚目俳優と私は勝手にイメージしていたのだが、だいぶ違うのかもしれない。

そこにベテラン俳優のシドニー・ポワチエがからむが、こちらもどことなくぬるく抜けている。
ロシアのKGBの大佐役でダイアン・ヴェノーラという女優が演じているのだが、これがまた漫画的キャラクターを渋く演じている。

製作年を見ると、この前後からハリウッド映画のバカ化が加速していったんだろうなと思う。
つまり、興行収入・観客動員のために、ストーリーの単純化、画面の派手・漫画化、過剰なアクションシーンとそれにともなう無理のある展開、場合によっては破綻したストーリー。
ま、こういう映画が息抜きとして私は大好きなんですがね。

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「それはおれの仕事じゃない」のニーズ

私も時々いいそうになってしまったり、実際にいってしまったりすることがあるけれど、なにか(自分にとって)つまらない仕事をいやいややっているとき、
「これは自分の仕事じゃないよな」
と思ったり、表明してしまうことがある。
そんなときの自分のニーズはなんだろうか。
と探す前に、そのときの感情を見てみよう。

つまらない、ちょっと憤慨している、理不尽を感じている、もったいない、いらいらしている、窮屈だ、孤独感もあったりするかもしれない。

シチュエーションとしては、たとえば、なにか仕事をだれかから頼まれたとする。
ほんとうは自分でなくてもだれでもできそうな仕事なのに、自分がやらざるをえない状況にあって、いやいややってしまっている。
自分はもっと自分の能力をめいっぱい使う仕事をやりたいのに、こんなつまらない仕事に時間を取られてしまっている。

「お客さんが来たのでお茶を出してくれない?」
「この書類のコピーを取ってくれない?」
「イベントの会計報告を作ってくれない?」

自分のなかにあるニーズは、そんなつまらない仕事をおれに頼まないでよ、ほかの人でもいいでしょ、という、「配慮」かもしれない。
自分の能力をもっとめいっぱい使いたい、という「能力」のニーズかもしれない。
時間を浪費していることにたいする自分の「命や時間の尊重」のニーズかもしれない。

しかし、よくよく見ると、そのニーズは本当のニーズでないかもしれない。
「こんなの、おれがやるような仕事じゃないよ」
という怒りをともなう「判断/思考」のなかに、自分の本当のニーズが見えなくなってしまっている可能性もある。

いったんそこに立ちどまり、呼吸をととのえ、マインドフルに自分自身を把握し、現れている判断や思考を俯瞰してから、もう一度ニーズにつながりなおしてみる。
すると、つまらない仕事だと思っていたことが、じつは相手にとっては大事なことであり、こちらに頼んだというのは相手にとってとても勇気のいることだったり大切なことだったりするかもしれない。
その仕事が「重要/つまらない」という判断を手放したとき、その仕事を自分がマインドフルにおこなうことによって生まれる相手への「貢献」や「つながり」、自分自身の「誠実さ」「(あらためて)能力」といったニーズとつながることはできないだろうか。

私たちがつまらないと思っているどんな仕事でも、それは必要があって生じていることだ。
だれもやってくれないトイレ掃除を、もし自分が「それは自分の仕事じゃない、だれかの仕事だ」と思ってやらないでいるのと、「自分の仕事かもしれない」と思って積極的に向かうのとでは、そのあとで起こるなにかが違ってくる。
それはだれもが容易に想像できることだろうと思う。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19〜21時です。

『共感的コミュニケーション』進学・就職・新年度キャンペーン

年度末や新年度で進学、就職、転職、引っ越しなど、生活や仕事の環境が大きく変わる方が多いことと思います。
自分は変わらなくても、知り合いや家族で変化をむかえる人もいるかもしれません。
とかく人間関係に齟齬(そご)をきたし、ギクシャクしたり鬱々したりしがちな時期です。
そんなときこそ、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を身につけ、いきいきと乗りきっていきたいものです。

そこで、共感的コミュニケーションの勉強会を主催している私・水城が個人的にキャンペーンをやろうと思いたちました。

キャンペーンの内容は、私の主催する勉強会に気軽にご参加いただき、その方々には私が書いたKindle書籍『共感的コミュニケーション』を無料進呈する、というものです。

Kindle書籍『共感的コミュニケーション』無料進呈の対象は、つぎの方々です。

・羽根木共感カフェ参加者
・オンライン共感カフェ(5回チケット購入者)
・親密な関係勉強会参加者
・紙本『共感的コミュニケーション』購入者

以下、直近の共感カフェ/勉強会のご案内です。

共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(3.29)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。3月29日(火)20時から1時間。

オンライン共感カフェはこの日のほかにも、以下の日程が予定されています。

 4月7日(火)16時
 4月12日(火)20時
 4月26日(火)20時

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.24)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月24日(日)夜におこないます。

また、『共感的コミュニケーション』をふくむ水城ゆうの著書は、こちらでご案内しています。

2016年4月12日火曜日

その場にいない人の悪口をいう人の話を聞く

ある人がその場にいない人の悪口をいっているのを聞くと、つらくなることがある(つらくならないこともある)。
ひょっとしてその人は、自分がいないところでは自分の悪口をいっているのかもしれない、などと想像してしまう。
あるいは卑怯な感じを受けて、いたたまれなくなるのかもしれない。
そのときに損なわれている自分のニーズはなんだろうか。

すべての人が陰口など叩かれずに正当に扱われること――公平さや誠実さが大切なのだろうか。
自分があずかり知らないところで陰口を叩かれて不当な評価を下されたくない――安全のニーズがあるのだろうか。
だれかがだれかをことばの暴力でおとしめているのを見るのが苦痛だ――平和や安心のニーズがあるのだろうか。

まず自分のニーズにつながった上で、悪口をいっているその人のニーズも見ることができるかどうか。

すべての人はなにかのニーズに突き動かされて、そのような言動を取っている。
本人はそれが最良だと信じてそのような言動を取っている。
そこには本人にとっては切実なニーズがある。
それを見ることができるかどうかが、共感的につながれるかどうかの鍵となる。

つながりたくない、ということもあるかもしれない。
あまりに嫌悪を感じすぎて、相手にまったく共感する気が起こらない。
そういう場合は、その場を離れるのが最良の選択かもしれない。
しかし、その相手とつながるなんらかの必要性があったり、なぜその人がそんな言動をしているのか興味を覚えたりすることもある。
そういうときは共感的につながってみることを試みる。

その人がこの場にいないだれかの悪口をいうのは、ひょっとしてこの場にいるみんなとのつながりが必要だからだろうか。
訊いてみることができれば、実際にそうしてみる。
「きみがそういうふうにあの人の秘密をここで話すのは、ひょっとしてここにいるみんなとのつながりを大切にしているからかな?」

あるいはその人は、だれかから不当に扱われてとても傷ついたり憤慨していることを、みんなに聞いてもらったり理解してもらいたいのかもしれない。
「きみはひょっとして、傷ついていて、そのことをわかってもらいたかったり、聞いてもらいたいと思って、この話をしているのかな?」

ほかにもあるかもしれない。
人の悪口をいいたてる人は、どういう必要性があってそんなことをしているのだろう。
そこに興味を向けることができるかどうかが、共感的にその人とつながれるかどうかのポイントになる。

結果的にその人が自分のニーズをあなたに聞いてもらえた、自分の大事にしていることを理解してもらえたと体感したとき、だれかの悪口をいうことは止まるだろう。

共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19〜21時です。

2016年4月10日日曜日

映画:カウスピラシー(Cowspiracy)

環境破壊の問題のなかでも、地球温暖化の問題はゴア元副大統領の「不都合な真実」などで注目され、いまでも大きな問題として人類のみならず全生物のまえに立ちはだかっている。
地球温暖化などない、と主張する学者や政治家もいるが、無視できない深刻な問題としてとらえられているのが主流だ。

この映画はゴアの「不都合な真実」に大きな影響を受けて問題意識を持った若者が、単身、さまざまな場所に出かけたり人に会ったりしてして、自分なりに解決の方法を探していく、という場面からスタートする。

この映画の特徴として、一貫してひとりの若者の「個人的」な視点から問題を見ているということで、それがこの映画に説得力をあたえている。

この「カウスピラシー」とほぼ同時期に観た映画に「コーポレーション」というドキュメンタリーがある。
こちらも世界がおちいっている絶望的な状況を描いた内容で、重厚な問題提起をしているのだが、個人的視点が用いられていないために、客観的ではあるけれど観客は問題に自身を移入しにくい。
一方「カウスピラシー」は徹底して個人的視点で作られているので、わがこととして問題をとらえやすい。
実際に私は自分自身をこの映画の作り手に重ねあわせて観ていた。

さて、地球温暖化の問題をとらえるために、作者は多くの環境団体のスポークスマンにインタビューを試みていく。
その過程で、彼はあることに気づく。
大気に温室効果をもたらすガスは二酸化炭素、メタンガス、フロンなどいろいろあるが、いま世界でもっとも問題にされているのは化石燃料の燃焼で発生する二酸化炭素である。
しかし、映画の作者は、もっと大きな割合で温室効果をもたらしているものがあることを知る。

それは畜産・酪農である。
牛や豚などの家畜が出す温室効果ガスは、地球全体のじつに半分以上をしめ、化石燃料の比ではないのだ。

映画の作者は途中から方向性を変え、酪農がもたらす温室効果について調べたり、そのことについてインタビューをつづけていく。
その過程で、自分がひょっとして、生命の危機にもかかわるおそろしいことに首をつっこんでしまっていることに気づく。

実際、この問題に関わったことで殺された多くの人たちの情報も出てくる。
観ているこちらもけっこう震えあがる。
世の中って恐ろしいのね、私の知らないところで、暗くて大きな力がうごめいている、そしてそれはお金や権力にかかわることらしい。

私はこの作者が心底心配になった。
が、作者は執拗に問題を追求していく。
最初に出てきたいくつかの有名な環境保護団体のスポークスマンも、酪農による温室効果ガス排出の問題になると一様に口を濁したり、口を閉じたり、逃げたりしはじめる。
登場する環境保護団体は、グリーンピース、シエラクラブ、オセアナ、アマゾンウォッチ、NRDCといった、世界的に有名なものばかりだが、彼らもまた、多額の寄付金をもらっている業界について批判的な言動はできないようなのだ。

結局、作者は、この問題を解決するには、車に乗るのをやめたり、電気をちまちまと節約したりすることではなく、完全菜食主義「ビーガン」になること以外ない、と結論づける。
けっこうショッキングな結論だが、とても説得力がある。

私は菜食主義ではなく、それどころかお肉も乳製品も、玉子も魚も大好き人間だが、この映画を観てちょっと生き方を変えてみようかと思った。
もちろんいきなりは難しいだろうが、トランジションの考え方ですこしずつ移行していくことは可能かもしれない。
それも楽しみながらだったら。

この映画はネット上で完全無料で全編公開されている。
日本語字幕もついているので、ぜひじっくりと観てほしい。
視聴はこちら

2016年4月9日土曜日

表現と生活

朗読生活とは、朗読という表現行為を日常生活の一角に置くことで、生活すなわち人生の質をいくらかでも変化させようという試みのことだ。
表現行為とは自分自身を外にむかって表わすこと。
外というのは他人であったり、家族であったり、リスナーであったり観客であったりするかもしれない。
場合によっては「だれもいない」こともありうる。

だれもいないのに自分自身を表わすことに意味があるのか、と思う方もいるかもしれない。
厳密にいえば表現は伝達とは異なるものである。
自分自身を表して、そこにもしだれもいないとしても、それは表現行為として「ある」ことになる。
だれかに伝わることはないけれど、自分自身に起こっていることをとらえ、またそこから表出してくるものを妨げない行為である。

だれもいなくても人が自分自身を表したいという衝動のことを、私は「純粋表現衝動」と呼んでいる。
子どもがだれも聴いていなくても大きな声で歌を歌ったりひとりごとを話したり、あるいはだれに見せるあてもない絵を描いたりするのとおなじことだ。
それとおなじ衝動・欲求は、大人になっても消えずに私たちのなかにある。
ただそれが社会性という「ふるまいの枠組み」のなかで見えにくくなっているだけなのだ。

人はなぜ、だれも見ていなくても、聞いていなくても、表現したくなるのだろうか。
それは「生きて」いるからだろうと思う。
私たちが持っている生命はつねに動いている。
動いていない状態というのはない。
もしあるとすれば、死に至ったときだ。
死に至っていない以上、動きつづけているわけだが、時としてそれを自分自身で確かめ、味わってみたくなる。
自分がどのように生きているのか、生きているということの実感はどのようなものなのか、自分自身が生きているということの感触を味わってみたくなる。
これが表現衝動ではないか、と私はかんがえている。

表現というのは、自分自身のありようや生きていることを味わう行為とするならば、より緻密に、繊細に、そして力強く自分自身をつかむことができれば、その味わいも深いものになるだろう。
ただぼんやりと、なんとなく自分をながめているより、集中して自分にむかい、そこに起こっていることをがっちりと把握する。
どのような表現行為においても、その行為の過程で自分自身に注目し、そこになにが起こっているのか、どのような変化があるのかを知り、味わうことが大切だ。
その過程そのものが目的であり、また結果的に表現の質も変わることになる。
あくまでも結果として。

朗読においてもおなじことがいえる。
読みあげるテキストさえあれば、いつどこでもだれもができる表現行為である朗読においても、それをおこなうとき、自分自身のありようと変化に繊細な目を向けることができれば、自分という生命現象を深く味わうこともできるだろう。
日常生活のなかにほんの数分でも朗読の練習という自分自身に向きあう時間を持つとき、生活そのものの質にもそれは影響をおよぼすかもしれないことは、私自身がよく経験していることだ。
ここに「朗読生活」という考え方の有効性がある。

体験参加可「朗読生活のススメ」(4.16)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。4月16日(土)のテーマは「ことばと社会と自分個人の関係/声と呼吸と身体」。

Apple Pencil と Procreate(お絵描き最強コンビ)

iPad Pro の9.7インチが新発売になって、大変評判がいいようだ。
私が持っているのはその前に出た12.9インチのもの。
メインマシンである MacBook Pro 13インチと重ねると、占有面積はほぼおなじ。
これを2台持ち歩くのはきつい。

iPad Pro は楽譜とお絵描き、たまに電子コミックや電子雑誌を読むのに使うくらいで、持ち歩くことはほぼない。
映画も観るか。
なので、でかくて重くても、(持ち歩かないから)気にならない。
据え置きで使うなら、画面はでかいほうがいい(お絵描きも映画鑑賞も)。

と割り切って、いまは出かけるときの情報端末は iPhone 1台。
時間があって仕事ができる隙間時間がありそうなときは、MacBookを持っていく。

さて、お絵描きだが、いろいろ試したり調べたりして、いまはProcreateと Adobe Photoshop Sketch というアプリに落ち着いている。
とくにProcreateとPencilの組み合わせはすばらしい。

書き心地はまさに、紙と鉛筆そのもので、筆圧や角度にも対応しているし、レスポンスもほとんど気にならないほど速くてリアルタイムに近い。
Procreateには鉛筆だけでなく、ありとあらゆる画材というか、お絵描き道具が揃っていので、色鉛筆、水彩道具、ペン各種、あらゆる絵筆や絵の具、パステルやクレヨン、これらを全部持っているようなものだ。
ワンタッチで絵の具と筆を呼びだして、好きなように絵を描ける。

筆(ブラシ)部門にはデフォルトで、スケッチ(鉛筆)、インキング、ペイント、アーティスティック、エアーブラシ、テクスチャが揃っている。
さらにそれぞれに細かく道具が分化していて、たとえば鉛筆部門だったら、シャーペン、鉛筆(HB)、鉛筆(6B)、シャドウグラファイト、ソフトパステル、オイルパステル、ボノボチョーク、アーティストクレヨンがある。

ここで鉛筆(HB)を選んだとき、さらにこれを細かく設定することができる。
たとえば、ストロークについて間隔やジッター、ストロークの入り、抜き、不透明度やサイズといった設定だ。
ほかにもシェイプ、グレイン、ダイナミクス、Pencilの設定など、かなり細かくいじることができる。

そうやって設定した道具について、実際使う際に、ブラシのサイズや不透明度を好みに合わせて描ける。
至れり尽くせりなのだ。

そしてデジタルならではの機能として、たくさんのレイヤーが使えたり、アンドゥ・リドゥができたり、写真をトレースできたり、自在に色調やサイズ変更や回転や変形ができたりと、熟練してなくてもそこそこクオリティの高いお絵描きを、自分なりの工夫で楽しむことができる。

電子書籍がコミックや雑誌の世界をガラガラと変化させたように、このタブレットとPencilもお絵描きの世界を大きく変えていくんだろうなあ、と思わせられる。


身体性にアプローチするという斬新な手法でテキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための講座。オンライン(zoomシステム使用)のみのクラスで、単発参加も可。

2016年4月8日金曜日

伝達と表現

本、あるいは書いてある文字を、声に出して読みあげる行為を朗読というが、目的はさまざまだ。
しかし、その目的は、大きくふたつに分けることができると私はかんがえている。
ひとつは本の内容を聴いている人に伝えるもの。
つまり伝達。
もうひとつは朗読という行為そのものを、それをおこなっている人の存在をも含めてまわりに伝えるもの。
これを表現という。

世の中にはさまざまな表現行為があるが、たとえば音楽の場合、演奏者はある曲を演奏することによって曲そのものを伝達したいのではなく、その曲を自分はどのように解釈しユニークな演奏をおこなうかということで、自分自身をも表現する。
どのような曲なのかは重要ではなく、その曲を自分はどのように演奏する演奏者なのかを伝えることが目的なのだ。

音楽だけでなく、ほかのさまざまな表現行為でもおなじようなことがいえる。
絵描きがひまわりの花を描くとき、ひまわりの花がどのように花なのかを伝えるのが目的ではなく(図鑑はそのような目的だが)、自分はひまわりの花をどのように描く絵描きなのかを伝えることが目的だ。
それが表現行為だ。

朗読にもそのような側面があり、また朗読という行為を表現という目的としてとらえ、実行することもできる。

不思議なことに、なぜか日本では、朗読行為は表現ととらえられることがすくなく、伝達の手法にばかり注意が向けられていることが多い。
それはおそらく、日本において朗読は、大正時代からはじまったラジオ放送から昭和のテレビ放送にかけて、放送という情報伝達の手段のなかで整備されていった放送技術とともに発展したきた、ということと関係があるかもしれない。

現代朗読では放送技術ではなく、もちろん情報伝達でもなく、自分自身を一個の生命存在として表現するための手段として、朗読という行為を用いる。


従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。4月9日(土)のテーマは「伝達と表現/伝統的表現/コンテンポラリー表現」。単発参加も可。

私たちは憲法を捨てようとしている

憲法カフェというものに参加してきた。
講師は第一東京弁護士会所属で、「あすわか(明日の自由を守る若手弁護士の会)」のメンバーでもある武井由起子弁護士。

憲法「改正」を自民党をはじめとする政治家たちがもくろんでいて、その改正案の内容がひどい、ということはよく聞いていたし、ネットなどでもある程度情報を目にしていたのだが、憲法カフェでは専門家から直接、その「やばさ」の肝はどこなのか明快に学ぶことができて、本当に背すじが寒くなったので、ここに書き記しておきたい。

まず、憲法とはなにか、ということだ。
一般的に憲法は法律の王様などと思われ、すべての法律のてっぺんにあるものというイメージがあるが、民法や道路交通法といった法律とはまったく性格を異にする「一点」が存在する。
それは、この法律を守るべき者はだれなのか、ということだ。

民法とか道路交通法だったら、市民・国民がそれを守るべきものだが、憲法はちがう。
私たち一般市民は憲法を守る義務はない。
では、だれが守るべきなのか。

そのことは憲法に規定されている。

第九十九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」

つまり、権力側が国民に不当に権力を行使できないように制限するための法律が、憲法なのだ。
それが憲法の意味だ。
(中国などを除いて)多くの民主的な国家は、このような性格の憲法を持っている。

ところが、自民党の改正案によれば、九十九条に対応する百二条ではこうなっている。

第百二条「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」

国民が守るべき、となっている。
これはもはや憲法とはいわない。
つまり、自民党の改正案が通れば、私たち日本国民は憲法そのものを失うことになる。

私がもっとも重要だと気づいたのは、武井弁護士からのつぎの指摘だった。
「日本国憲法は第十三条の文言を厳密に成立させる目的ですべて書かれているのです」

第十三条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、の最大の尊重を必要とする」

これが自民党改正案では、つぎのように変えられる。

「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない」

一見、似たような条文に見える。
しかし、専門的に見れば非常に問題をはらんだ条文である。
武井弁護士によれば、もし自民党改正案が通り、憲法がこのように変えられてしまったら、日本は明治以前の権力構造に後戻りすることになるという。

世論調査その他によれば、この夏の参院選では自民党ら与党はほぼ確実に、全議席の3分の2以上を獲得するだろう、といわれている。
衆議院はすでに3分の2を獲得している。

2016年4月7日木曜日

朗読生活の心得

現代朗読ではつぎのような原則を大切にしている。

・こう読まなければならない、というものはない。
・こう読んではいけない、というものはない。
・どのように読むかのの根拠は、自分の外側ではなく内側にある。

朗読を学ぶ、練習するというと、たいていは、読み方やルールを覚えたり練習したり、あるいはやってはいけないことを習ったり、といったことをイメージする人が多いだろう。
そもそも、「どのように読むべきか」わからないままで朗読が上達するのか、と不安になるかもしれない。
しかし、現代朗読ではだれかが――たとえば指導者(そんなものはいないが)や演出家が「ここはこう読みなさい」と示すことはない。
そこをどう読むか、どう読みたいかは、すべて厳密に朗読者自身に任されている。
朗読者自身も「こう読まねば」ではなくて、「どう読みたいか」と自分自身に問いかけていくことになる。
「そのように読む」という根拠が、なにかルールや社会的常識や思いこみといった自分の外側から規定されたものではなく、自分の生き生きとした生命活動そのものから生まれた「動き」としての現れかどうか、というところを厳密に見ていく。
これが現代朗読における「練習」ということになる。

講座のすすめかたもまた、そのようなかんがえかたにもとづいている。
「こうしなければならない、こうしてはならない、というものは一切ない」
「自分がやってもいい、やりたい、と感じたことだけをやってみる」

日常生活において朗読の練習をするときもそうだ。
「練習をやらねば」
と思ったときには、それは一切やらないでほしい。
「練習したい、してもいい」
と思ったときだけ、そしてそのときは積極的に、練習に向かってみてほしい。
そのようにしなければ、現代朗読における表現者の成長はない、ということがわかっているから、それを最初にお願いしているのだ。


体験参加可「朗読生活のススメ」(4.9)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。4月9日(土)のテーマは「朗読を通して知る自分/自分とはなにか/身体に気づく」。

コーヒーがおいしいかまずいかは問題ではない

先日の草加〈Jugem〉共感カフェで勉強会がおよそ終わり、最後に感想やや質問がないかみなさんに訊いていたときのことだ。
会の主催の川崎実雪さんが、こういった。
「今日も盛りだくさんに勉強しましたが、みなさんにお出ししたコーヒーが薄すぎてまずくなってしまった、みなさんに申し訳なくて、そのことがずっと気になってました」

そんなことを気にしてたのか、だれもそんなこと気にしてないし、コーヒーも充分においしかったですよと、みんなで大笑いしてしまったのだが、それを受けて私はあることを指摘した。

「実雪さんが無防備に、正直に、自分の気がかりを私たちに伝えてくれた。私たちはそれを受け取ったとき、実雪さんがどんなことを大切にしているのか知ることができた」

実雪さんは私たちにおいしいコーヒーを飲んでもらいたい、気持ちよく勉強会に参加してもらいたい、自分が主催しているこの場を居心地よくすることで、参加のみなさんとのつながりや学びのニーズを大切にしている、そのことが伝わってきた。
彼女がどれほどこの場を大切にしているのか私たちは知ることができて、とてもありがたく、暖かな気持ちになれたのだった。

だれかから食事であれ飲み物であれ、ほかのなにかであれ、なにか提供されたとき、私たちはついその「なにか」について注目し、それが「おいしい」「おいしくない」「すばらしい」「すばらしくない」といった評価をくだしてしまいがちだが、提供されたものではなく、それが提供された行為の奥にあるニーズを見ることができるかどうかが、人と人のつながりの質を変える。

この際、コーヒーがおいしいかおいしくないかは問題ではない。
実雪さんが心をくだいて私たちにおいしいコーヒーを提供し、気持ちよく、居心地よく学ぶ場を整えることを大切にしてくれていたのだ、ということが重要なのだ。
そこに目を向け、それを受け取り、理解し、実雪さんからの本当の贈り物本体を味わうことができるかどうか。
これが共感的コミュニケーションのめざすところのひとつである。

カフェ・オハナ(三軒茶屋)で共感的コミュニケーション(4.11)
4月11日(月)夜7時半から、恒例の三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーション・ワークショップを開催。朗読と音楽のミニライブ付き。参加費1,000円+ワンオーダー。

2016年4月6日水曜日

朗読生活をはじめるにあたって

現代朗読協会が正式に特定非営利活動法人(NPO法人)として東京都から認可を受け、旗揚げ公演「おくのほそ道異聞」をおこなってから、ちょうど満十年が経過した。
振り返ってみると、ずいぶん遠くに来た感じがある。
多くの講座、公演、社会活動をおこなってきたが、けっしてまっすぐ進んできたわけではない。
むしろ、ずいぶんあっちへ行ったりこっちへ来たり、紆余曲折に満ちた十年であったように思う。

ここ数年は、しかし、ようやく「現代朗読」の内容がさだまり、その方向性がはっきりしてきた。
身体表現としての朗読にあたって、その基礎となるトレーニング法も確立してきた。
現代朗読のトレーニングをおこなうことで、朗読表現だけでなく、さまざまな表現行為にアクセスしたり応用する道すじができたし、また日々の日常生活や仕事のなかでも役立つことがわかってきた。
私自身もそのように感じている。

現代朗読の講座というと、どうしても朗読をやっている人や朗読に興味がある人が来ることが多いが、すでに「朗読ってこんな感じ」という一定のイメージを自分のなかに持ってしまっている人は、現代朗読がおこなっている朗読表現へのアプローチに接するととまどうことが多いように見受けられる。
それより、音楽をやっていた、とか、演劇やダンスが好き、とか、現代アートが好き、という人がおもしろかってくれるケースが多い。

「朗読」ということばがはいっているため、本来は表現全般に応用できるようなことをやっているのに間口が狭くなってしまっているのではないか、という危惧をずっと持ちつづけていた。
そこで、今回、朗読に「生活」ということばを加えて、よりひろく関心を持ってもらいたいというねらいで「朗読生活のススメ」というコースを開催することになった。
もちろん、それ以上に、「朗読生活」という表現を実生活の柱のひとつに据えたあたらしい生活スタイルの提唱をしてみよう、という目的もある。

「朗読生活」を提唱するもっともおおきな理由は、朗読をふくむ表現行為を日常生活のなかに置くことで、生活のクオリティが大きく変わるきっかけになるからだ。
私自身、そのような実感がある。
表現行為が日常にあるのとないのとでは、まるで人生の質がちがうように感じる。

のちほどくわしく述べていくが、自分を表現するという行為に向かうというのは、自分自身を知る、自分自身に問いを投げかける、そのなかで自分のとらえかたや世界のとらえかた、見え方が変質していく可能性に向かう、ということでもある。
決めつけや思いこみを検証し、気づき、そして自由な精神に向かう、ということである。
ただルーティーンをこなしていたり、ただ消費するだけの生活から、表現についてかんがえて、トレーニングする時間を持つ生活にシフトすることで、人生は大きく変化する可能性がある。
場合によっては、実際に表現の場を持ったり、生産する側になったり、ということにも向かうかもしれない。

表現行為にはそのような可能性があるのだが、たくさんある表現ジャンルのなかでもとくに朗読(現代朗読)は敷居が低く、だれでもいつでもどこでもはじめることができる。
特別な訓練や準備はまったく不要だ。
まとまった時間も必要ない。
日常のなかのちょっとしたすきま時間――ほんの数分あれば朗読の練習ができる。

このような手軽さのなかで、しかし深く自分自身と世界に向かいあい、マインドフルに感じ、気づき、フレッシュな時間をあらたに生きていくきっかけをつかむことができるのが、「朗読生活」である。
最後までお付き合いいただきたい。

体験参加可「朗読生活のススメ」(4.9)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。4月9日(土)のテーマは「朗読を通して知る自分/自分とはなにか/身体に気づく」。

2016年4月5日火曜日

映画:ザ・インタープリター

2005年のアメリカ映画。
監督はシドニー・ポラック。
俳優でもあったが、監督として「追憶」「トッツィー」「愛と哀しみの果て」「ハバナ」「ザ・ファーム 法律事務所」など、ヒット作をたくさん生みだした人だ。
残念ながら、すでに他界。
これが最後の監督作品となった。

主演はニコール・キッドマン、助演がショーン・ペン。
ニコールが演じるのは国連で同時通訳として働く女性。
アフリカのマトボ共和国のクー語の通訳なのだが、彼女はそこで生まれ育った経歴を持っている。
マトボは複雑な政治情勢を持っていて、現大統領ズワーニは恐怖政治をおこなっていて、国際社会から糾弾されている。
ズワーニが国連で演説することになったとき、ニコールは彼の暗殺計画を小耳にはさんでしまう。

というサスペンス映画だが、なんといっても見所はニコールの演技。
知的で美しく、しかしかわいらしい、そして陰のある女性をたくみに演じている。
好きだなあ、この女優さん。
彼女が出ている映画、たくさんあるけど、片っぱしから観てみたくなった。

「ドッグ・ヴィル」という演劇実験映画に出ているのを観たけど、その実力がはっきりわかる映画だった。

ショーン・ペンも、やはり陰のある役をうまく演じている。
こちらもベテラン中のベテラン。
やはり「アイ・アム・サム」が有名でしょうか。

ストーリーも巧妙に仕組まれている。
後半はニコールの陰の部分に引っ張られて、意外な展開を見せていく。
2時間を超える映画だが、最後まで飽きさせられなかった。

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2016年4月4日月曜日

なにかを体験するときに起きているさまざまなこと

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)のつながりのプロセスは、ごく簡単に「OFNR」とまとめられている。

 Observation(観察)
 Feeling(感情)
 Need(ニーズ)
 Request(リクエスト/お願い)

私がこれを共感的コミュニケーションとしてシェアするときはもうすこしちがう表現を使うこともあるが、原理としてはおなじだ。
オンライン共感カフェで最初の「観察」について質問があったので、確認・復習をかねて、あらためてかんがえてみた。

私たち人間はほとんどの場合、なにか体験したとき、それを「ただ受け取る」ということができない。
つまり、そこになんらかの判断や分析、評価、批判、連想、予想などといった「思考」をつけ加えてしまう。
つけ加えるというより、思考が引っ張りだされてしまう、といったほうが近いかもしれない。

例をあげる。
知り合いから「お金を貸してほしい。どうしても2万円必要なの」といわれたとする。
そのとき観察される事実としては、

 知り合いは2万円必要だといっている。
 知り合いはこちらにお金を貸してくれといっている。

ただこれだけだ。
これ以上でも以下でもない。
しかし実際には、私たちはこんなふうな受け取り方をしてしまう。

 彼女はお金に困っているみたいだ。
 彼女はお金を返してくれるだろうか。
 こっちだってお金には苦労している、そのことを彼女は知ってるはずだ。
 お金を貸しておけば、こっちがなにか困ったとき助けてもらえるかもしれない。
 そういえば前にも貸してくれといわれたことがあった。
 あのときはしぶしぶ貸したけど、そのあとなかなか返してもらえなくていやな感じが長引いてしまった。
 貸したくないなあ。
 どうやってことわろうか。
 だれか彼女にお金を貸してやれる人を紹介してやろうか。

もう際限ない思考がずるずると起こってくる。
この観察・事実から脱線した思考は、人と人のつながりをいちじるしく阻害する。
私たちはそれをいつもやってしまっている。

共感的コミュニケーションでは、ただ観察・事実をそのまま受け取り、自分の感情や思考をまじえずに、ただ相手に共感する。
「お金が必要なのになくて困っているの?」
「お金がなくて困っているのは、もしかして安全とか安心が必要だからかな?」

相手の感情とニーズを受けとめ、つながった上で、さらに相手のニーズに寄与したい気持ちがあれば、お金を貸せばいいだろう。

こちらにそれにこたえる余裕がない場合もあるかもしれない。
そういうときは、こちらにもニーズがあることを伝えた上で、お互いのニーズを満たす方法がなにかないかどうか、いっしょにかんがえてみればいい。
このようなつながりも、まずは純粋な観察・事実を受け取るところからはじまる。


共感カフェ@下北沢ステイハッピー(4.8)
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、昼開催は4月8日(金)午後3時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

2016年4月3日日曜日

桜まつりの中野まで韓氏意拳の稽古に行ってきた

水曜夜は中野で内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会がおこなわれることが多く、なるべく参加するようにしている。
先日の水曜日は、行ってみたら、常連の方のほかに、知り合いがふたり体験参加で来ていて、びっくりした。
その前の週の日曜日に羽根木の家でおこなわれた「身体表現者のための韓氏意拳講習会」に参加したふたりで、どうやらかなり興味を持ったらしい。

初体験参加の人たちがいたということで、最初の形体訓練と平歩站椿から順番に稽古。
今日は楽勝かなと思っていたけど、そこはそれ、武術の稽古に「楽」なんてことはない。
内田先生の指導も、こちらの稽古の進度に応じて、どんどん要求が高まってくる。

この日はとくに、平歩站椿の最初の「式」である挙式と抱式で深い要求があった。
要求といっても、やるのは自分なので、先生にいわれたからやるという意味ではなく、深い集注への方向を示され、そちらに向かってとにかくやってみる、ということだ。

ただ手を挙げるだけの「挙式」という站椿のなかで、実際の自分の身体がどこまで見えるか、身体の声をあまさず聞きとることができるか、深い集注にともなって身体が武術的にまとまっていく様子を感受できるかどうか。
ある程度稽古が進んでくると、隙が許されない武術的な厳しさと同時に、未知の自分の身体と存在そのものが立ちあらわれてくる興味深さのとりこになる。
おもしろくてしようがない。
だから、つらく厳しい稽古に立ちたくなる。

この日、内田先生がなにげなく漏らしたひとことに、思わず笑ってしまった。
「時々思うんだけど、私はいったい何を教えてるんでしょうかね。みんなもともと持っているものなのに」

たしかに、韓氏意拳で学び追求しているものは、私たちの身体にもともとすでに備わっているものだ。
しかしそれらは現代生活や社会システムのなかで隠され、見えなくなってしまっていて、自身本来の身体の可能性を私たちは表現できなくなっている。
それをあらためてつまびらかにする必要があるから、稽古をするわけだ。
私にとってこの稽古の時間は本当に必要で、貴重なものとなっている。


身体表現者のための韓氏意拳講習会(4.15)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を4月15日(金)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。

2016年4月2日土曜日

「場」の持続性のために

ことあるごとに、あちこちで話してきたことだが、あらためて書いておきたい。
以下に書くことは、どうやら、一部の人にとってはとても理解しづらい、受けいれがたい、頭でわかった気になっても本当には消化できないことらしいのだけれど。

話をわかりやすくするために、具体的な例をあげてみることにする。
例えば、いま私は、ピアノのコンサートを開催しようとしている、とする。

会場を押さえる、宣伝チラシを作る、告知をする、予約の受付などの事務仕事をする、もちろん演奏曲目の準備をして練習をする。
当日は会場スタッフと打ち合わせをして、音響や照明など会場の準備をしたり、受付や客席整理をだれかに頼んだり、場内アナウンスをお願いしたり、といったことも必要だ。

そういったこともろもろを勘案して、入場料を設定する。
つまり、私がピアノを演奏するという表現の場を成立するための経費を、ご来場いただく方に分担してご負担いただくわけだ。

しかし、そうはかんがえない人がたくさんいる。
入場料は自分が享受すべき「演奏を楽しむ」という行為にたいする等価交換としての対価だとかんがえる人が、まだまだいる、ということだ。
「この程度の演奏だったら500円でいいよね」
「こんなすばらしい演奏なら1万円払っても惜しくはない」
そのように、演奏クオリティについて評価・ジャッジをくだし、それにたいして設定された入場料が高いとか、安いとか判断する人がまだまだいる、ということを実感している。

資本主義社会に暮らしている以上、それはある程度、やむをえないことかもしれない。
資本主義社会においてはすべてのモノやサービスや表現に値段がついている。
値段の決め方はさまざまで、マーケット(受益者)がそれを決める場合もあれば、提供者が決める場合もある。
いずれにしても、なんらかの評価方法にもとづいて値段が決まる。

私のピアノ演奏についても、それがもし「売り場」に提供されるなら
、なんらかの方法で値段が決まる。
買う人が何人いるのか、どのくらいの元手がかかっているのか、利益はどのくらい設定するのか、そもそも売れるのか、売れないのか。

売れない、となれば、それは「商品」としての価値がゼロになる。
つまり「売り場」から退場させられる。
資本主義社会では「売り場」にそれが出ているかどうかが重要であり、その値段が高ければ高いほど、多くの人に買われれば買われるほど、値打ちがあるのだ。

私は自分の演奏に値段をつけられるのは嫌だ。
自分の演奏は自分の生命活動のあらわれとして表現されたもので、それに値段をつけるというのは、私の命の値段をつけられるのとおなじことだ。
しかも他人によって。
同時に、私も人の命に値段などつけたくない。
だれかの表現を金銭価値に換算して評価などしたくない。

しかし、げんに我々は資本主義社会に生きているではないか。
いや、本当にそうなのだろうか。
私たちの社会は資本主義という構造しか持っていないのだろうか。

山の道ばたに咲いている花は資本主義社会とは関係なく、値段も定まっていないけれど、それは価値がないものなのだろうか。
道ばたの花がなくなると寂しく思う人は、道ばたの花が絶えないようになんらかの労力を使ったり、運動したりするかもしれない。
そんな構造も社会のなかにはある。

猫を飼っていて、毎月餌代やらなにやら、お金がかかる。
あなたはその対価に見合うだけの見返りを猫から受け取っているから、猫を飼っているのだろうか。
そんなはずはないだろう。
等価交換ではありえないものを受け取っているはずだし、必要とあれば可能なかぎり、あるいは可能な以上にお金を使うことだってあるはずだ(病気になったとか)。

人と人が出会うには「場」というものが必要で、そこではコミュニケーションや表現がおこなわれる。
その「場」の維持のためには経費がかかるし、場を作る人にも生活がある。
また場を作るスキルを育てるための費用や労力も必要だ。
それらをその場に参加するみんなで負担してもらおう、という考えかたを私はしたいと思うのだ。

演奏者対観客ということではなく、演奏者も観客もその場に参加する者であり、等価交換の場でもない、ということだ。
しかし、場の維持存続には当然経費もかかるし、それにたずさわる人の生活の持続や安心もある。
それらを理解した上で、提示された参加費を参加者が気持ちよく出せるかどうか。
時に金額が定められていないような場もあるけれど、そういう時も場の維持に尽力している人や場そのものに理解と尊重を払い、気持ちよく金銭的貢献ができるかどうか。

そういう考えかたの人が増え、そういう人たちが場を作ったり、参加したりして、等価交換ではない共感的なつながりの場が継続して維持できるようになったら、私はとてもうれしいだろう。
実際にやってみると、それはとても大変なことなのだということがよくわかると思うけれど。

朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。

2016年4月1日金曜日

映画:ゴーストライター

2010年公開のロマン・ポランスキー監督作品。
ロバート・ハリスの小説『ゴーストライター』が原作。

元英国首相の自伝をゴーストで書くことになったライターの、ちょっとした苦悩を扱った映画でしょ、という先入観を持って、出だしだけ観てみようと思って観始めたのだが、途中でやめられなくなった。
これはもうけものの映画だった。
そりゃそうか、なにしろポランスキーだもんね。

巨匠と称されることの多いロマン・ポランスキー監督の作品といえば、有名どころでは「ローズマリーの赤ちゃん」「チャイナタウン」「テス」「戦場のピアニスト」などがある。
妻が惨殺されたり、少女への淫行容疑で逮捕されたり、国外逃亡したりと、私生活でも話題が多い。
しかし、なんといっても、映画作りの腕はすばらしい。

この「ゴーストライター(原作は「ゴースト」)」も、出だしからただの1カットも意味のないシーンはなく、配置されている小道具や風景もすべて意味がある。
ひょっとしてポランスキーが大がかりなセットを使うのは、作品に関係のないものがひとつでも写りこむのを避けるためかもしれない。

俳優の演技も計算しつくされていて、さぞかし何度もリハーサルして、また何度もカット撮りをして、ねらいすました演技を採用するのだろう。

主人公のゴーストライター役はユアン・マクレガー。
いま気づいたのだが、この配役には名前がないのではないか?
一度も名前を呼ばれていないし、本人もいわない。
元首相役のピアース・ブロスナンからはずっと「私のゴースト」と呼ばれている。

ユアン・マクレガーのなんとなくゆるい、パッとしない、しかし神経質なところもある飄々としたゴーストライター役の演技が、なかなかすばらしい。
ファンになってしまった。

そして、かつては「007」を演じたこともあるピアース・ブロスナンの元イギリス首相役も、なかなか食えない。
押しだしの強い、いかにもやり手の政治家的な感じなのだが、ところどころほころびを見せる性格破綻的な部分や、人格的弱さをうまくちらつかせ、最後に明かされる意外な秘密を効果的にしている。

単純明快な、ある意味「ばか」っぽい007に比べると、ずいぶん複雑な演技になっていて、人は成長するものだなあと感慨をおぼえる。

女優陣も悪くない。
元首相の妻役はオリヴィア・ウイリアムス、秘書役のキム・キャトラル、いずれも魅力的なキャラクターを演じていて、楽しめる。

ショッキングなエンディングが用意されているが、もちろんここには書かない。
人によってはかなりショックを受けるかもしれない。
このあたりの作りも、さすがポランスキーというところだろう。

あ、そうそう、音楽もすばらしい。
アレクサンドラ・デスプラ。
「真夜中のピアニスト」「クィーン」「英国王のスピーチ」「グランド・プダペスト・ホテル」「真珠の耳飾りの少女」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」「ハリー・ポッター」、そりゃすばらしいわな。

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