福井県立美術館まで北川健次展「鏡面のロマネスク」を観に行ってきました。
以下、私見をいくらか書きますが、後半は北川健次ファンの方には不愉快な論調があるかもしれませんので、広い心持ちで流してくださるとうれしいです。
北川健次は福井生まれの版画・造形作家で、近年は写真の世界にも表現を広げている世界的なアーティストとのことです。
受賞歴も無数にあります。
福井県立美術館での展示は、マテリアルごとに分けながらもだいたい年代順に200点くらいの作品をならべた構成となっています。
最初のマテリアルは銅版画です。学生時代からこれを専門にしていたようです。エッチング、アクアチント、フォトグラビュールなど、さまざまな技法を駆使しながら、非常に緻密でクオリティの高い作品群が「これでもか」とばかりに並んでいて、圧倒されます。
最初期の作品群は池田満寿夫を連想する瞬間もありますが、しばらく観ていくとまったく違うアプローチであることがわかってきます。
次のマテリアルは造形作品。ほとんどが美しい箱に入ったり、さらにアクリルのケースに入っている、これまた緻密で楽しい造形作品。時計かなにかの部品と、古い写真、文字、数字、分度器などの計測道具などが配置された小品群です。これも非常にクオリティが高い。どうやって作っているのかわからないようなものもたくさんあります。思わず「欲しい」とつぶやいてしまいます。実際にこれらの作品のほとんどは個人蔵でした。
次はコラージュ。これもクオリティが高すぎて、どうやって作っているのかまったくわかりません。
最後は写真。これはたんに写真です。写しこまれている対象は、みずからの版画作品となにかとか、幾何学模様と風景とか、つまり版画や造形作品で取りあげている素材のような質感のものを見つけて、写真に固定したもので、その方向性は一貫しています。
確実にいえるのは、すべての作品のクオリティの高さでしょう。それはアトリエワークで作りこまれ、磨きあげられた作家個人のイメージの世界で、すばらしいとしかいいようがありません。
が、私は大きな違和感を持ってしまったのです。
池田満寿夫は銅版画においても、エッチングよりドライポイントを好み、つまり自分の手の動き、情念や欲望をダイレクトに銅板に刻みこむ手法を多用しました。一方、北川健次はそれとは対極に、自分の手の動きを消し去り、工芸品の域にまで作品を作りこむ手法を選んでいます。
池田満寿夫の作品はエロティックであり、それは人間の肉体と肉体の交感、つまりコミュニケーションを求める欲求にあふれています。北川健次はコミュニケーションを拒み、身体性や人間そのもののテクスチャを意図的に排除しているように見えます。
池田作品は外に向かって開かれているのに対して、北川作品は内側に向かって閉じられている、あるいはアトリエ内で完成されているように感じます。コミュニケーションの拒否は冷徹な印象を与えます。たとえていえば、デュシャンの便器を非常に清潔で密閉された容器に封印して展示したような感じです。
おなじ現代美術作品でも、方向性がまったく違うのです。
作家のイメージが次々と立ちあらわれてくるのに、それは「私」に向けられたものではない、という寂しさを感じます。
池田満寿夫は生身の肉体のエロスと猥雑さ、コミュニケーションの豊穣さ、人が持つ感触そのもののテクスチャを追求し、アートが次に向かうべき方向性を示してこの世を去りました。その次世代であるべき北川健次が、その方向を後退させているように見るのは私だけでしょうか。
北川健次は1952年生まれです。私よりたった5歳上にすぎません。それなのに、老成した20世紀モダンアートの巨匠のようなたたずまいの作品で古色蒼然とした権威をもって近寄りがたい姿に見えるのは、私だけでしょうか。
それはたぶん私が、これからのアートは生きた人間同士のコミュニケーションと、手触りと、共感のなかで存在するという、原初の表現行為に立ちもどってみたいという願望を抱きながらパフォーミングアートの活動を実践している者だからなのかもしれません。