いやいや、ひさしぶりに笑っちゃいました。正月だというので、息子といっしょにMacBookにダウンロードして観たんだけど、ひさしぶりにshitな映画を観てふたりであきれかえってた。
期待度が高かったせいかなあ。
なにしろ、監督はあのリドリー・スコットですからね。
リドリー・スコットといえば私のベストテンにはいる映画をいくつも撮っている。
「テルマ&ルイーズ」や「ブレードランナー」、そしてもちろん初代「エイリアン」。
ベスト10にははいらないけど、「ブラック・レイン」「ハンニバル」「グラディエーター」もこの人だ。
キャストにもなんとシャーリーズ・セロンがはいってたり、「タイムマシン」のガイ・ピアースなんてのもいる。
期待するなというほうが無理。
映像テクノロジーの頂点ともいうべきカットの連続で、どこからがCGでどこからが実写なのかまったくわからないのはもちろんのこと、宇宙船などの人工物や異星の風景なども精巧・精密に作りこまれていて、それはもう「これ以上ないでしょう」という贅沢な画面。
SFX好きにはたまらないだろうか。
しかし、「それがどうした」ということなのだ。
テクノロジーが進んで凝った映像が作れるのは、大変かもしれないけれど、あたりまえのこと。
そのテクノロジーを使ってどんなことを表現するのか、ということが問題なのだ。
チャーリー・チャップリンはトーキー映画が登場してもかたくなにサイレントにこだわった作りつづけた。
彼は技術の発展ではなく、自分自身の表現を追求しつづけたのだ。
では、リドリー・スコットはこの映画でなにを描きたかったのだろう。
超精密な宇宙船を描きたかったのではないはず。
気持ち悪いエイリアンのリアルさでもなかったはず。
凶悪なだけの「創造主」ではなかったはず。
登場人物たちはすべてがある種の「典型」であり、いかにもハリウッドのホラーSFっぽい対立構造を作ってある。
そんなことを表現したかったわけではないだろう。
ノオミ・ラパスが演じるヒロインは、創造主に会うことに期待をふくらませる育ちのいい科学者だが、後半に突然、超越的な生存本能を持ったスーパー・ウーマンになる。
その唐突な変貌ぶりを表現したかったわけでもなかっただろう。
これでもか、これでもかと続出するスプラッタな残虐シーンや、ヒロインの「割腹」シーン、そんなものを表現したかったのだろうか。
人類の創造主であるはずの男が、ただの凶暴な野獣だったという結末を描きたかったのだろうか。
いったい、なにをいいたいんだ、リドリー・スコット。
あまりに陳腐で残虐なストーリー展開に、ただただ笑うしかない。
これがあの「エイリアン」を作った監督なのか。
「エイリアン」はおなじ恐怖をあつかっていながら、人間の心理や勇気、生きることそのもの、人知のおよばない世界に想像をはばたかせることなど、娯楽SFホラーでありながらある種の崇高さをも感じる高いクオリティを持つ映画だった。
それに比べて、あまりにあまりな。
巨大な資金とその回収、利益をねらったあまりの、壮大なる「すべった」映画になってしまった、ということなのだろうか。
とても残念だ。