2013年1月11日金曜日

自己共感ということ

photo credit: helgabj via photopincc

共感的コミュニケーションのスキルのなかでも重要なもののひとつに「自己共感」がある。

共感的コミュニケーションは他人に対して共感的であることでつながりの質を確保するスキルだが、そのスタート点としてまずは自分自身に共感することがある。
しかし、これがなかなかやっかいなのだ。

自分自身に共感的であるという態度は、しばしば「わがまま」であることと混同されることがある。
自分のことを大切にするというと「自己中心的」であるとまわりから断罪されることもある。
自分のことを二の次にして、だれかのために、あるいは社会のために役に立つ人間になる、という通奏低音のようなものが、日本社会にたしかにある。
が、これは近代においていささかまちがって解釈され、教育によって押しつけられてきた感がある。

その極端な例が「自己犠牲」を賞賛する風潮だ。
自分を犠牲にして愛する人のために命を投げだす、社会のために、国のために身を捧げる。
極端に走った結果、大東亜戦争末期のような悲劇が起こった。
犠牲になった多くの人々の命のことを思うとまことに痛ましいかぎりだ。

これは極端な話だとしても、私たちは「自分を犠牲にすること」「自分の必要性を棚にあげること」「自分のためより人のために働くことがよいこと、高尚なこと」といったかんがえが通奏低音のように行動や思考のパターンしてしみついてしまっている。


人のために働くにせよ、愛する人を守るためにせよ、まずは自分自身の面倒をしっかりとみて常に最高のパフォーマンスを発揮できるようにメンテナンスしておくことが重要であることは、ちょっとかんがえてみれば子どもでもわかる。
F1チームが走行マシンを最高の状態に維持することに心をくだくように、私たちもまた自分自身の心身のメンテナンスにいつも留意していたい。

なかでもメンタルな問題は自己共感の技術が多少必要になる。
つまり、練習が必要だ。

自己共感の技術は、他人に共感するときとまったくおなじ方法だ。
すなわち、なにか起こったり、感じたり、かんがえたりしたときに現れてくる「感情」を正直に、丁寧に注意深くあつかい、その感情がどこからやってきたものなのか、自分がなにを必要としているからそういう感情が現れたのか、自分がなにを大切にしているのか、ということにきちんとつながっていく方法だ。

最初は小学生が絵日記をつけるように、いちいち書きだしてみればいい。

(1) こうこうこういうことが起きた。
(2) 自分はこんな気持ちになった。
(3) 自分はこれを大切にしていて、それが損なわれたから(あるいは満たされたから)そういう感情が出てきた。

これらをときには絵付きで書きだしてみる。
感情をうまく言葉にできないときは、色とか形で表現してもいい。
ようは自分の内側を丁寧に観察し、あつかうことだ。

(1)から(3)のプロセスが終わったら、それを受けて、ではなにができるか、なにをしたくなったか、ということをかんがえてみる。
とはいえ、無理になにかをやらなければならないということではない。
このプロセスを経るだけで相当落ちつくことができるだろう。
冷静になり、自分自身を客観的に認知できれば、あとは自然に行動にうつれるだろう。

慣れればいちいち書きださなくてもできるようになる。
熟練すれば一瞬にしてプロセスを完了できるようになる。
自己共感にも練習が必要なのだ。
問題は、最初にも書いたように、私たちの思考のなかには「自己共感」にたいする無意識の抵抗があり、気恥ずかしさがある、ということだ。
そこを乗り越え、自分自身をきちんとメンテナンスできるようになれば、結果的に人の役に立ちたいと思ったときにきちんと力を発揮できるだろう。


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