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いつもいっていることだが、以下はあくまで私見である。
広いこころでお読みいただきたい。
反論がほしいわけではないので、あしからず。
おそらく体罰が原因で生徒が自殺した大阪の事件が問題になっている。
まことにいたましいことであり、悲しみを禁じえない。
この学校では日常的に体罰がおこなわれていただろうことは想像に難くないし、この学校にかぎらず全国でも体罰がまだまだ「指導」という名のもとに黙認されている学校が多いといわれている。
どのくらい多いかは不明だが、非公式な数字では年間数十人にものぼる生徒が体罰を苦に自殺しているともいう。
これが事実なら本当におそろしいことだ。
体罰を肯定する人たちはまだまだいる。
私の世代(50代)にも多いという実感がある。
いずれの人も「条件付き」での体罰を容認している。
そういう人たちの論調は「愛のある体罰なら」とか「体罰でしか伝えられないこともある」といったものに集約される。
私自身、学校教育を受けていたときには、多くの体罰を受けてきた。
小学一年か二年のとき、理科の実験のときに、アルコールランプに火をつけるのを教師が許可する前に勝手にやってしまった、危険だし、集団行動を乱す許せない行動だ、ということで、平手打ちをくらったことがある。
ちょうどそのときは授業参観で、親がいる前だった。
教師にはおそらく、見せしめ的な意識もあったのではないかと思うが、そのときの屈辱はいまになってもはっきりと思いだすことができる。
もちろん悪いのは私の行動だったわけだし、親からも「おまえが悪い」とはっきり宣告されたが、その行動をいさめるのに「平手打ち」という「制裁」をもっておこなうのは、コミュニケーションを超えた「暴力」そのものではないかと、いまだに感じている。
私があのとき平手打ちをくらったことで、私のなかになにか発展的なものが生まれたかというと、そんなことはまったくない。
むしろ、集団行動を乱すことによって制裁される、という権力側にたいする憎しみが強く植え付けられることになった。
以来、それだけが原因ではないとは思うが、私は集団行動が極端に苦手になり、それはいまだにつづいている。
それを皮切りに、数えられないほどの体罰を教師、親、つまり子どもからすれば自分より力のある者から受けてきた。
逐一書けば、たぶん小冊子一冊くらいになるだろう。
そういう時代だったのだ。
1960年代から70年代のなかごろにかけて。
なかにはもっとひどい体罰もあったけれど、私が自殺せずにすんだのは、いささか乱暴なところもある両親ではあったけれど彼らなりにたっぷりと愛情を注いでくれた家庭という逃げ場があったからかもしれない。
自然という広大な遊び場もあったし。
自分の実感からいって、体罰によって得るものはなにもなかった。
大人になっても体罰を肯定するのは、ある程度「勝ち組」の側に踏みとどまれた者だけだ。
たとえば、スポーツの世界においては、体罰を受けてもなんとか勝ちのこり、ある程度の成功体験をした人間が、体罰をあまり否定的にとらえず、自分の成功をむしろ体罰を肯定することで傷をおおいかくそうとするのかもしれない。
体罰によって深い傷を負い、「負け組」の側に追いおとされていった者の声は、ほとんど表に出てくることはない。
体罰はコミュニケーションの一種だという者がいる。
ヒトも動物であり、コミュニケーションはことばのみにあらず、動物の親子を見れば体罰が必要なことはわかる、という者もいる。
ライオンが子どもを成長させるために崖から突き落とす、というが、もちろんこれはとんでもない嘘だ。
人が作りだした虚構である。
ライオンは崖から突き落とすどころか、子どもが崖から落ちれば全力で助けに行くだろう。
子猫の出産と育児に立ちあった人ならわかるだろうが、親猫は子猫の行動をいさめるとき、その鼻面そっと手ではたく。
その行動はとてもやさしく、見ていて思わず笑みが出てしまう。
猫がことばを使えれば、どれほどやさしい口調で子猫をいさめるだろうかと想像する。
近親交配を避けるという目的で、成長した子を威嚇し、暴力的に追いはらったりすることはある。
ヒトの場合もこの禁忌がもちろん働いているが、社会的しきたりを作ることで、暴力に訴えずにすむような制度設計をしている。
たとえば婚姻制度もそのしくみのひとつだ。
このように、ヒトは暴力を避けるための制度設計をたくみに作ってきた社会性を持った動物なのだ。
それが、帝国主義、全体主義、資本主義といった、社会的本能をこえる制御不能のシステムをみずから生み出してしまったことで、大量破壊、大量殺戮という究極の暴力に突きすすんでしまった。
戦争のための道具は日常社会においても暴力を常駐させ、報復的手法によるしかない「法治国家」というものを、なかば上意下達的に無理やり共有しなければならなくなった。
教育に暴力をけっして持ちこんではならない。
それは私の確信だ。
私には息子がひとりいるが、ただの一度も暴力をふるったことはない。
しかし、物理的暴力はふるったことはないが、言葉の暴力や暴力的態度を使わなかったことがないかというと、いくつか後悔はある。
どうして子育て中の時期に共感的な考え方を身につけておけなかったのか。
教育は力(物理的な意味だけではない)でまさっている者が、おとっている者に共感的に接することで、成長をうながし、よりすぐれた者になりたいと自立的に学びを起こさせる場であることが理想だ。
強い者は弱いものに決してパワーオーバーであってはならないのだ。
弱いものは強いものに全的に受け入れられることで、自分もそのような人間になりたいと願い、自立的に学んでいく。
暴力をふるう教師は、それが言葉であれ、物理的な暴力であれ、自分が力のある立場にいるということを(無意識に)確認するためにやっている。
つまり、自分に自信がない弱いものが暴力をふるうのだ。
本当に強いものは、弱いものに暴力をふるうことなどしない。
そんな必要はない。
暴力をふるう者はようするに教師失格ということなのだが、となるとどのような教師教育(教師を育てるための教育)が必要であるのかは、自明のことだろう。
現在の高等教育においてはまったく期待できないし、ましてや文科省に任せておけるようなことでもない。
教育と暴力の問題になると、つい熱くなってしまい、論旨が乱れてしまったことをおわびする。
いずれにしても、すべての子どもが暴力(制度的貧困といいかえてもいい)におびやかされることなく、のびのびと安心して成長できる場としての学校を享受できるように、一日も社会制度と大人たちの意識が変わってほしいと思う。