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すべての人は自分が「大切にしていること」、自分の「価値観」や「必要性」にもとづいて行動を起こす。それは本能的な衝動であったり、生理的な必要性であったり、社会的な関係性であったり、さまざまだ。
「なにか食べたい」と思って動くとき、それは「空腹を満たす」という生理的な衝動から生まれるものであり、もっと突き詰めれば「生存欲求」という本能に突きあたる。
人は社会的な生き物であり、他者との関係性のなかで生きている。
個人の生きがいが、社会や他者に貢献することであることはしばしばある。
多くの人が「人に認められたい」という行動原理をかかえて生きている。
「人に認められること」が生きがいや価値観、人生において大切なこと、必要なことになっている人を多く見る。
それ自体が目的化している人すら多い。
たとえば音楽をやっている人がいるとする。
もともとは好きで始めた表現活動としての音楽だが、ただ好きでやっているだけではとても持続できずに、自分の表現をだれかに認められたい、ということを切望しはじめる。
人に認められるためにはどんなことをすればいいのか、とかんがえる。
自分が好きではじめて、純粋なよろこびをもって表現していたものが、しだいに他人の評価軸が基準になっていってしまう。
そうなると、もはやそれは自分の人生を歩いていることにはならない。
しかし、だれかに評価されること、というのは大切なことのように思える。
だれかに評価されたときの満足感はたしかに大きい。
では、それが人生において「大切なこと」としてよいのだろうか。
私は「人に評価されること」は、それ自体が価値ではなく、手段だとかんがえている。
人に評価されることによって、自分の大切にしていることのなにが満たされるのか、ということだ。
たとえば、だれかとのつながりを感じること。
自分が表現し、それをだれかから評価されることによって、その人とのつながりを感じることができる。
つながりを感じるだけなら、本当は「評価」という手段でなくてもよいはずなのに。
そのことは、評価を受けることが本質ではなく手段にすぎないことを物語っている。
ほかにはたとえば、自分の影響力を確認すること。
この世に生まれてきて、生きている以上、自分がここに存在し、他人や世界に対して影響をあたえているという実感を、どんな人ももとめている。
だれかから評価されることによって、その実感を持てる。
しかし、自分がここに存在して世界に影響をおよぼしている実感は、評価という手段にたよらなくても得ることはできる。
これもまた、評価を受けることがたんなる手段にすぎないことを物語っている。
自分がだれかから評価されたいと切望しているとき、そのさらに奥にある自分の価値、必要性はなんなのだろうかと目をこらしてみる。
それを満たすために、評価以外の方法はないかどうか、慎重に検討してみる。
それができれば、他人軸にたよる生き方から離れられるだろう。
だれかの評価に依存しなくても自分自身でいられるということ。
すなわち、自分の人生を取りもどすということ。