2013年1月13日日曜日

「照れる」とは

photo credit: memsahib 313 via photopincc

人からほめられたりしたとき、つい「照れる」という態度を取ってしまうことがある。
これはいったいどういう心理なのだろうか。

なにか自分が能力を発揮したときに、人からほめられる。
私自身の体験をもとに具体例をあげてみる。
私はピアノを弾くので、その体験をふりかえってみよう。

人から「なにか弾いて」といわれて、「なにがいい?」と訊き、リクエストをされる。
たとえば「春の小川」を弾いてといわれて、それを弾く。
ただ弾くのはつまらないので、自分なりに工夫しアレンジを加えた「春の小川」を弾く。
すると「すごーい。そんなふうにピアノが弾けるのはうらやましい」といわれたとする。
私はとたん「照れ」て、「いやいや、そんなにたいしたことないよ」と逃げる。
そのときの私のニーズはなんだろうか、ということだ。

自分はそんなにたいしたことをやってないのに、それほどほめられるのは気恥ずかしい、ということだろうか。
過大評価されたことについての謙虚さからくる照れだろうか。
ということは、過大評価ではなく、正当に評価されたいという気持ちがあるということだろうか。
だとしたら、ピアノを弾いたときに、どのようにいわれれば照れずにすんだのだろうか。

ピアノを弾いたあとになにもいわれなかったらどうだろう。
あるいは「ふーん」程度の反応だったら?
それはそれできっとさびしい気持になるに違いない。
では、なぜ評価されたことにたいして照れるという反応で返してしまうのか。

「自分はあなたの評価がほしくて演奏したわけではないんですよ」ということを表明しているのだろうか。
評価がほしくて演奏したのでなければ、なぜ演奏したのだろう。
そこに答えがある。

私はおそらく、評価してもらいたいのではなく、ただ私の演奏を受け入れてもらいたくて、いっしょに楽しみたくて弾いたのだ。
「すごい」だの「うまい」だの「うらやましい」だの、そんな言葉を聞きたかったわけではない。
ただ「弾いてくれてありがとう。楽しいね」ということをいってもらいたかったのだ。
私が「春の小川」を弾き、それを受け入れてもらい、そしてお互いのつながりを音楽によって深めることができた、そういった関係性を望んでいたのだ。

「照れる」という態度は、そのような関係性が微妙にずれてしまったことにたいするとまどいの意思表示かもしれない。
「なんとなくずれてるよ」という。

なにかで照れている態度の人がいたとき、その人が本当に求めているのはどういう完成性なんだろう、ということをあらためて見つめなおしてあげるといいかもしれない。