2012年10月1日月曜日

なりたい自分を明確にイメージなどしなくてもよい

photo credit: Robby Mueller via photopin cc

今日、用事から羽根木の家にもどったら、最近ゼミ生になった佐坂くんが来ていた。
彼は現在、求職中で、ある会社に決まりかけたが、ゆえあってそこはやはりやめることにしたという。
それでいろいろ、将来どうすればいいだろう、ということを悩んでいる。
佐坂くん、すまんが、今日は私の考察のネタにさせてもらいます。

佐坂くんがかんがえていること。
どこに行っても困らないようにいまのうちに資格を取っておくほうがいいだろうか。
より安定的な会社に就職したほうがいいだろうか。
前職は営業だったが、向いていないような気がするから、生産か事務に転向したほうがいいだろうか。

私が提案したのは、まず、悩むのをやめよ、ということ。
あれこれ想像をめぐらせて自分がどうすればよりよい生活が得られるか、どうすれば幸せになるか考えたところで、それはまず実現しない。
そんなことに時間をついやすことより、「いまここ」にある自分のニーズにつながること。

朝起きる。
今日の自分はなにをしたいのだろうかと、自分の内側をしっかりと見る。
本を読みたいのか、映画を見たいのか、職安に行きたいのか、女の子とデートしたいのか、なにもしたくないのか。
毎日、瞬間瞬間、自分のニーズにつながって、そのように行動することができたら、おそらく気がついたときには「あれ、こんなところに来ちゃった」ということになっているはずだ。

あれこれ想像して計画し、「こういうふうになりたい」と思ったところで、そんなふうになることはまずない。
自己啓発セミナーやその手の本では、まず「なりたい自分を明確にイメージしなさい」というが、そんなことをしても一瞬先は闇、世界は偶有性に満ちていてなにが起こるかわからない。
それより、「いまここ」の自分のニーズにつながり、その一瞬一瞬の連続で積みかさねていった結果、「あ、ここにたどりついたんだ」と後付けでわかるほうが幸せなのだ。

佐坂くんはテキスト表現ゼミのメンバーでもあるので、ものを書くことを例にあげて説明した。
たとえば、小説を書くことが好きだとする。
彼は毎日小説を書くのだが、芥川賞を取ることを「目的」にした瞬間から、不幸がはじまる。
なぜなら、目的が達成できなかったとき、つまり芥川賞が取れなかったとき、彼にとってそれは挫折であり、目的を達成できなかったという失敗になる。
不幸だ。

そうではなく、小説を書くことそのものが目的であるとき、つまりどのような境遇であれ小説を書いていることが許され、それが喜びであるとき、芥川賞を取ろうが取れまいが、いつも彼は目的を達成できているわけで、いつも幸せだ。
そしてもし、たまたま結果として芥川賞がそこに降ってきたとしたら、さらにうれしいだろう。

自分がどのような職業につきたいのか、どのような生活をしたいのか。
あれこれ思いめぐらしたり、計画したりするのはやめて、いまこの瞬間自分はなにかをしたいのか、どんなことを大切にしているのか、それをしっかり見極めること。
そして、そのことについての評価をしないこと。

たとえば、「今日はいい一日だった」「今日はがんばった」というような評価は、よくかんがえれば他人との比較で生まれているものであって、自分に幸せをもたらすものではない。
今日はがんばったかもしれないが、がんばれなかった明日は不幸になってしまうからだ。
がんばれなかった自分もまた、自分であって、そのニーズを大切にしてやりたいし、そちらのほうがたぶん学びとしては潜在的に大きなものを含んでいる。
評価を手放し、ただ新鮮な心持ちで「いまここ」の自分のニーズにつながること。
それしか幸せになる方法はない。