2012年10月30日火曜日

UKAJI SOUND OF VISION vol.156 に行ってきた

昨夜は明大前〈キッド・アイラック・ホール〉まで表題のライブを聴きに行ってきた。
このライブは過去に2回聴いているのだが、その衝撃についてはすでに書いている。
最初のはこちら
2回めのはこちら

昨夜は3回めともあって、心構えがあったのでショックを受けるということはなかった。
過去2回はいずれもひとりで出かけたのだが、昨日はげろきょの仲間何人かといっしょに行った。

UKAJIさんの音楽へのアプローチは現代朗読の朗読へのアプローチと通じるところがある。
たとえば、昨夜も演奏されたバッハの「無伴奏チェロソナタ」だが、よく知っている曲なのにけっして流暢には演奏されず、ときに立ち止まり、ときに時間軸が長くのばされ、ときにブレスノイズやリードの裏返った音が重なったりと、こちらに「よく知っているメロディを追うことの快感」を与えてくれない。
むしろそこから聴衆を引きはがし、別の場所へ連れて行こうとする。

別の場所とはどんな場所なのか。
そこは「メロディライン」という音楽的記号で支配されていない、音そのものに直接触れることのできる場所である。
無伴奏チェロソナタを聴くとき、聴衆はそのメロディラインを追って「聴いたつもり」になっているが、本当に彼の耳はその音楽に対して開かれていたのだろうか。
メロディラインのほかに、バリトンサックスの音色やその変化、演奏者の呼吸や身体から発するノイズ、あるいは自分自身が立てる衣服や呼吸の音、そういったものもたしかに演奏空間のなかに存在している。
それらを全部受け取ることで、演奏者と聴衆が濃密なコミュニケーションをおこなうという、ある意味ディープな音楽体験を得ることができる。
そういう場所だ。

現代朗読でも、文字に書かれた物語を読むことで聴衆がおはなし/ストーリー「だけ」を追ってしまうことから、別の場所——人の声や存在の音、実体、コミュニケーションに気づける場所へと聴衆を連れていくことができれば最高だとかんがえている。
たぶんめざしているのはおなじ方向。

ただ、人は記号を求め消費するように教育されつづけているので、一般社会においてはこういう方向性は「需要」は少ないんだなあ。
そもそも「需要」というのは表現とは関係のない経済言語だし。