2012年10月28日日曜日

演出クレジットについて

ありがたいことに、現代朗読もすこしずつ認知度があがってきて、またゼミ生による独自活動も広がりを見せはじめていて、種をまいた私としてはこんなにうれしいことはない。
いまこのタイミングで、私の自由と真正さ、ゼミ生たちの自由と自立をより確かにするために、私自身がちゃんとしておこうと決めたことがある。

ゼミ生たちの独自活動がいろいろと広がっていくと、おなじ現代朗読でも、ゼミ生が自分で工夫し自由に発信するライブもあれば、私がプログラムを作り演出するライブもある。
また、それらが混在するライブや公演も実際に出てきている。

ある演目が私の演出を経ているのかいないのか、私の作品なのかそうでないのかなど、明らかにしておきたいと思いはじめている。
これまではなんとなくぐずぐずと、私の作品であったりなかったり、私が演出をしているのかしていないのか、私が演奏者として参加しているのかいないのか、とくにチラシや告知などであいまいな表記ですませてしまってきたようなところがある。
これからはきちんと明記したいと思うのだ。

たとえば、先日、北浦和でおこなわれた朗読お茶会の場合、冒頭で野々宮卯妙が読んだ「The Woman of Tea」は岡倉天心の『茶の本』からの引用を含んだ私のオリジナル作品であり、また私が演出を加え、そして演奏でも参加して音をつけたものである。
そのことはほとんどどこにも明記されていない。

てんトコロと玻瑠あつこが読んだ芥川龍之介の「袈裟と盛遠」については、私は少しだけ演出に口を出したおぼえはあるが、朗読者ふたりは私の演出ではなく自分たちで独自に工夫して作ったのだというかもしれない。
しかし、突発的に私が演奏で参加し、音をつけた。
こういうときは演出には名前をいれないけれど、演奏には名前をいれたいような気もする。
なんとなくあいまいで、すっきりしない。
今後はすっきりさせたい。

そのあとにひとり読みをした山田みぞれや宮本菜穂子の朗読については、私は演出もしなければ、演奏にも参加していなかった。
私の作品でもなかった。
こういう場合は明確ですっきりしている。

私の名前がクレジットにどのようにはいるかはいらないか、このことを今後は明確にしていきたいとかんがえている。
ゼミ生は私が関わる、関わらないに関係なく、どんどん自由にやってもらえばいいし、もしそこに私が関わっているということが明確に示されている場合、それがどのように反映されているのかについては、私の責任と自分の能力発揮/貢献のニーズに関係する問題として、気持ちをひきしめてやることができる。

近い日程では、11月17日(土)の「梅丘THE生エンタ」では私が演出と演奏参加(いくつかは作品提供も)、11月19日の「槐多朗読」では私が作品・演出・演奏を担当するということを明確に、まずは自分自身にしっかりとしめしておきたい。