photo credit: IronRodArt - Royce Bair ("Star Shooter") via photopin cc
以下私論。演劇や映画を観るたびに、あらためてつくづく作品は演出家のものだなあ、と思う。
しかし、現代朗読においてそれをやりたくないのだ。
今月末におこなう公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 冬の陣」においても、私が脚本を書き、演出し、音楽演奏で出演までするが、この作品は私のものではなく、あくまで朗読者ひとりひとりのものであり、出演者ひとりひとりが主役である。
異論はあろうかと思うが、おおづかみにいえば演劇においては作品は演出家のものであり、役者は駒にすぎない。
現代朗読ではそれはない。
私は演出をするが、自分のある特定の(狭小な)イメージを出演者に「こうしろ」と押しつけるつもりはまったくない。
しかし、そこにはだれもが驚くような、予想もしなかった作品が出現する。
私がどのような演出方法を用いているのか、少しだけ紹介しておく。
私がかんがえている「演出家が使うことば」は五つあって、その最悪のものから最良のものまで、順番にならべてみる。
上が最悪のものだ。
1. 命令する
2. 要求する
3. お願いする
4. 提案する
5. 共感する
古いタイプの演出家は上のほうの方法をとっている者が多い。
暴力的な手法で自分のイメージを押しつけ、ひどい場合には灰皿を投げつける、なんてこともあると聞く。
それがまた崇拝的な語調で伝えられていたりする。
19世紀か。
役者も朗読者もそうだが、じつは自分がどのようにやりたいのか、すでに自分のなかに答えを持っていることが多い。
もっとも、それは特定の与えられたイメージであったり、思いこみであったりすることもあって、演出家はそれに気づく手伝いをするのだ。
共感的に話をきき、いろいろ提案してやってもらい、自分でも気づいていなかった自分自身のポテンシャルや創造性に気づいてもらい、それを発揮させる。
ただそれだけのことが驚くほど人の可能性を引きだすし、イメージの無限の広がりをもたらしてくれる。
これは言葉上だけのことではない、ほんとうにそういうことが起こるのだ。
実際にやってみた者でなければわからないと思うが。
もっとも、共感的な演出は簡単なものではない。
人のこころの動きや可能性についてよく知らなければならないし、無意識領域の働きについてもわきまえておく必要がある。
経験と情報と身体性の扱いについても慎重であらねばならない。
演出家のための共感的コミュニケーション講座というものは有効かもしれない。
世の多くある劇団の、暴力的でぎくしゃくした人間関係からはなにもいいものは生まれないと感じている演出家がいたら、一度私のところに来て話を聞かせてほしい。