2012年12月10日月曜日

「上に立ちたがる」が態度のデフォルトになっている時代

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演劇や朗読などの舞台を観に行ったり、映画を観たりしたあと、人はかならずそれに対して「評価」をくだそうとする。「よかった」「つまんなかった」「あそこがいまいちだった」
評論家でもないのに、口にするのは評価の言葉だ。
それは「評価社会」に生きているからであり、評価されたり評価することをよしとする教育を受けてきた結果でもある。

人や人の行為やモノを評価するのは、それを金銭価値に置きかえるためであり、資本主義という社会構造の基本原理でもある。
そういう社会構造のなかで生きぬいていけるように、親も学校も子どもたちを教育する。
すなわち競争させ、点数をつけ、数値化し、子どもを評価する。
子どももよりよい評価を求めてみずから競争し、人より少しでも上に立とうとする。
それが習い性になっていく。


なにかを観たときにそれに評価をくだそうとするのは、私たちが後天的に身につけた習い性であり、ふるまいの癖のようなものだ。
だれかとただ話をしているときでも、そのふるまいは現れる。

「財布落としちゃった。1000円しかはいってなかったけどね」
知り合いからいわれたとき、
「また買えばいいじゃん」
と、上から目線でアドバイスする。
「1000円? たいしたことないじゃん」
過小評価する。
「そのうち出てくるって」
根拠のない予測をする。
「うわー、かわいそう。わかるわかる、その気持ち」
同情する。

いずれも自分が相手の上に立ち、評価しようとする態度だ。
共感的コミュニケーションではいずれの態度も取らない。
相手を「評価」することをやめ、「共感」を向ける。

共感を向ける方法はシンプルだ。
相手が大事にしていること/必要としていることを知り、それを尊重する。ただこれだけ。
コミュニケーションの文法としては、次のような形を取る。

「モノを大事にしたい、無駄なことはしたくない、という気持ちがあるのに、うっかり財布を落としてしまって悔しいんだね?」

あなたが○○な気持ちになっているのは、○○を大切にしているから/○○が必要だからですか?
という文法で質問を投げかける。
すると相手は「そうだ」とか「違う」とか答えるだろう。
そのとき、相手はかならず、自分の内側を見る。
質問によって自分の内側を見て、自分がなにを大切にしているのか確認する。

なにを大切にしているかがわかったとき、それはふたりの間で共有され、お互いにお互いの大切にしていることを尊重しあうことができる。
これが共感的コミュニケーションの原理だ。
お互いに上に立とうとして評価したり争ったりすることはない。

現代社会は「上に立ちたがる」が人々のデフォルトのふるまいになっていて、ネットのSNSなどを見ていても、人を見下した態度で決めつけたり、評価したり、ひどい言葉を吐きかけたりする者が大勢いる。
その争いから抜けだしてみてはどうだろう。
ずいぶん楽になる。


音読療法という手法を人に説明するとき、かならず、
「それってだれそれがもうやってるよね」
「その方法はこういう本に書いてあった」
「なになにと同じだよ」
などといわれることがある。
こちらより上に立ちたがっているのだな、ということがわかる。
そういう人にこそ共感を向けて、ケアをしてあげる必要がある。

音読療法では共感的コミュニケーションを重要なスキルのひとつとして取りいれている。
それはセラピーの現場でも力を発揮するほか、日常生活においても非常にパワフルなコミュニケーション法、そしてパワフルなストレスマネジメントの方法として役立つ。

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