photo credit: .craig via photopincc
「好きなことで食べていく」ということの矛盾についてはすでにこちらに書いたことだが、今日は別の角度からふたたびかんがえてみたい。
「好きなことで食べていく」というセンテンスには前向きで自己肯定的なひびきがあり、多くの人を自動的にひきつける呪文のようになっている。
そのためこの文言がうたわれた本やブログ記事はたくさん読まれているようだ。
注意したいのは、呪文やことわざ、気のきいたひとことというのは、魅力的ではあるが、そこで思考停止してしまうことがあるということだ。
「好きなことで食べていければいいよね」
と漠然とかんがえたり、あこがれを持ってこの言葉を受け入れたりすることで、さらに踏みこんでかんがえてみることがなくなってしまう。
しかし、ここで一歩踏みこんでかんがえてみなければ、「好きなこと」をつづけていくためになにが大切なのか、見失ってしまうことになる。
このセンテンスの重要な部分はどこだろうか。
「好きなこと」なのか、「食べていく」なのか。
「食べていく」ことが重要部分なのだとしたら、なにもそれは「好きなこと」でなくてもいい。
人は食べるためだけならいろいろな手段を持っている。
仕事を選ばなければ(幸いなことに)どんなことをしてでも食べていける世の中だし、そういう時代と国に生きている。
いよいよ困れば生活保護だって受けることができる。
このセンテンスの重要部分はもちろん「好きなこと」だろう。
「好きなこと」をつづけていくためにどうすればいいか、ということが大切だし、かんがえるに値することだろう。
好きなことをつづけていくためには、生活がある程度安定している必要がある。
まちがってはいけないのは、生活を安定させるために「好きなこと」を使ってはいけない、ということだ。
「好きなこと」をつづけることとと、「食べていく」こと、つまり経済の問題とは、本来なんの関係もない。
「好きなこと」を経済問題に結びつけてかんがえてしまうことが、不幸のはじまりといえる。
経済問題は経済問題として別個に解決しておいたほうがいい。
その上で「好きなこと」をつづけていくにはどうすればいいのか、どのような環境が必要なのか、それをかんがえ、ととのえていく必要がある。
好きなことをつづけていくための環境をととのえることができれば、存分に好きなことに打ちこんでそれを持続させていくことができるだろう。
存分に好きなことに打ちこむために生活時間すべてを好きなことに使おう、つまりそれで生活費を稼ごうと安易にかんがえてしまう人が多いが、それは自分が大切にしている「好きなこと」をまったくないがしろにする行動であるというしかない。
私も若いころにはそのように自分をないがしろにしつづけてきて、えらそうに人のことをいえる立場ではないけれど、私が支払った多大なる代償をもっていま現在、このようなことを書いているわけであるから、ひとつご容赦いただきたい。