私たち現代朗読もお世話になっている下北沢〈レディ・ジェーン〉の大木さんがプロデュースする中野〈plan-B〉の30周年記念企画公演「樹(ARVOS)のように」を観てきた。
ダンスが田中泯、ギター他の音楽というかサウンドがジム・オルーク。
このふたりの組み合わせというだけで、告知を見て即刻予約していた。
〈plan_B〉では現代朗読公演をやったことがある。
「沈黙の朗読」シリーズの最初の公演「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき」がそれだ。
その後、一度田中泯さんのダンスを観に行ったことがあるが、今日はひさしぶりだった。
なんだか懐かしさを感じる空間だ。
広さはほぼ明大前の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉と同じくらい。
天井は低いが。
その空間に、100人近い観客が詰めこまれた。
開演は15分押し。
すし詰め状態といい、時間を守って来た客をないがしろにする開演押しといい、私にとって悪条件が重なって始まったライブだが、始まった瞬間、「いまここ」しかなくなった。
それほどクオリティの高い表現だった。
まず、ジム・オルークの音楽/音響がすばらしい。
そしてもちろん、田中泯さんのダンス/身体。
パフォーマンスの途中、なんだか時間感覚を狂わされるような、このふたりに時間進行を自在に操られているような、そんな錯覚におちいった。
終わってから冷静にかんがえてみれば、泯さんのダンスは私が30年前、京都で初めて観たときからなにも変わっていないスタイル、すなわち暗黒舞踏というよりモダンダンス=コンテンポラリーダンスのテイストが多分に感じられる田中泯ダンスのスタイルだったし、ジム・オルークも電子音響を使ったとくに目新しい手法でもない。
しかし。
しかし、なのだ。
なんといったらいいのか、その表現の精度というか深度がちがうのだ。
コミュニケーションの緻密さ、こちらの深層にアクセスしてくる精確な表現。
これはもう、場数/経験と、日々の鍛錬のなせるわざとしかいいようがない。
終わってから私はものすごく元気になっている自分を感じた。
泯さんは私よりちょうど一回り歳上の方だ。
あと12年たって、私もあのように在ることができるだろうか。
いや、在りたいものだ。
ただし、その方向性はちがう。
泯さんはひとつのことをただひたむきに精度をあげつづけてここにいたった人だが、私はたえず変化しつつあたらしいことを求めつづける者だ。
変化しつつ、精度もあげていきたい。
より欲張りな人間かもしれない。
そんなことをつらつらとかんがえていると、現代朗読の今後の方向性がくっきりと見えてきた。
変化と精度、あたらしいことと普遍的なこと。
もうひとつ、七月につぎの現代朗読公演を予定しているのだが、その核となるアイディアが決まった。
たぶんこれもまた、だれも見たことのないものになるはずだ。