かねてから思っていたことだが、役者は舞台にあがったとき、(それが芝居でなくても)すぐにその人が役者だとわかる。
機会があってある語り公演(というより芝居にかなり近かったが)を観に行ってきたのだが、役者が語りはじめるとすぐにそれとわかる。
この「すぐにそれが役者だとわかる」感じというのは、どこから来るのだろう。
あるいは、なにを受け取った(あるいは受け取らなかった)結果、それが役者だと私たちは瞬時に判断しているのだろう。
今日気づいたのは、役者の表現には「雑味」がない、ということだ。
「雑味」というのは曖昧な表現だが、ほかにうまい表現がないのでこのまま書きつづけてみる。
雑味をわざと付け加える演技というものはあるかもしれないが、そうではなく、舞台に立ったときに生活感であるとか、役者本来の人間味であるとか、普段の仕草やしゃべり方の癖とか、そういうもの(それを「雑味」という言葉でまとめているわけだが)をほとんど瞬時にそぎおとしている。
そのように訓練されている。
ある役を舞台で演じるのに、普段の生活の臭いや癖をそのまま持ちこんでしまったら、それは役者としてアウトだろう。
演出家から厳しくダメ出しをされるか、クビになる。
よほどの大物役者で、その人の存在それ自体が「役者という商品」として成立している場合は別だが、そういう人は数えるほどしかいない。
一般的に役者は自分の癖をそぎおとし、身体をコントロールし、演出家から要求される表現を作る。
一方、朗読者は、すくなくとも現代朗読においては、生活感やありのままの存在そのもの、その瞬間瞬間の感情や無意識の変化も全部ふくめて、正直に誠実に全的に表現しようとする。
いわば「雑味」そのものが表現であり、朗読者のオリジナリティだといっていい。
そして表現行為は完全に朗読者のものであって、だれかからコントロールされるものではない。
表現の出発点も違えば、ベクトルもまったく違うのだ。
どちらがいいとか悪いという話ではない。
あなたはどちらをやりたいですか、という話である。
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