2013年4月7日日曜日

さまざまな場面でのマインドフルネスがひとつにつながってきた

photo credit: mindfulness via photopincc

「マインドフルネス」という、人の「ありよう」はもともと仏教から来たかんがえかただが、宗教的な思想や信仰からは切りはなして我々が「実用的」に実践することもできる。
マインドフルネスとは自分自身が「いまここ」にいて、自分自身のありようや感じているものに「気づきつづけられている」状態をいう。

自分の状態も自分を取り巻く状況も刻一刻と変化しつづけている。
これを仏教では「無常」というのだが、このことが真実であることはいまやだれもが認めるところだろう。
これを受け入れ、そういった一種の「流れ」のなかで自分のありようのクオリティを高めることで、人生をイキイキしたものとして味わったり、パフォーマンスを高めたりといった「効能」がある。
しかし効能自体が目的ではない。

マインドフルネスはそれ自体が目的ではないし、マインドフルネスがもたらす効能が目的でもない。
マインドフルネスは生き方における「姿勢」の問題だといっていい。

姿勢というのは、たとえば立ち方。
まっすぐにすっくと立つこともできるし、前屈みにちぢこまって立つこともできる。
あるいはピンとそりかえって立ちこともできる。
それぞれが自由な選択肢を持っているはずだが、なぜか自分で自分に強いてしまっている立ち方でいつも立ってしまっている人もいる。

人生の時間のすごしかたもおなじで、いつも過去のことにこだわって反省ばかりしたり記憶を反芻してばかりいる時間のすごしかたもあれば、逆にまだ起こってもいないことをあれこれ心配したり、将来計画ばかり立ててすごすこともできる。
遠くはなれた場所で起こっているかもしれないことに想像をめぐらせてばかりいることもできるし、ここにいない人になにか不幸なことが起きていないか心配して不安を抱えてばかりいることもできる。
そんなふうな自分にはどうしようもないことをかんがえたり想像したりするのをやめて、いま、ここにある自分のありように集中して、味わい、自分のパフォーマンスを最高にたもつことに専念することもできる。
どちらを選ぶかは自由だ。

どちらを選ぶにせよ、その選択肢は自分の手のなかにある必要がある。
マインドフルネスという選択肢を自分のものにするには、ある程度の練習が必要になる。
マインドフルネスはあたりまえの日常生活なかでこころがけることでしか身につけることができない。

現代朗読という表現の世界で大事にしているマインドフルネス、音読療法の呼吸法と音読で得られるマインドフルネス、共感的コミュニケーションでも役にたつマインドフルネス。
これらのことがそれぞれの場面で成り立っているのではなく、最近はようやく私のなかでひとつにつながり、ひとつの事象として矛盾なく実践できるようになってきた感覚があって、そのことをお祝いしたい自分がいる。