徳島在住の遠隔ゼミ生であるたるとさんのために、昨年末、朗読テキスト「ギターを弾く少年」を書きました。
しばらくするとたるとさんからメールが来て、
「どのように読めばいいのかアドバイスください」
といわれました。
これは当然のことで、ほとんどの人がこのような反応になります。なぜなら、読むテキストがあって、著者がそこにいれば、どう読めばいいのか聞いてみたくなるのは当然のことだからです。私が朗読者だとしたら、私もそうします。
しかし、残念ながら、その問いには答えはないのです。
著者だからといって、その作品をどのように読めばいいのか、あるいはその作品の意図がどのようなものなのか、わかってはいないのです。著者は自分がなにを書きたいのかわからないまま、作品を書いていきます。書きあげたあとでも、なにをいいたかったのかよくわかりません。が、そこになにか美しさが感じられれば、満足します。
おそらくすべての著者がそうです。それは夏目漱石であろと、芥川龍之介であろうと、太宰治であろうと、村上春樹であろうと、そうだろうと思います。
しかし、作品を読もうとする朗読者は、著者ならなにかいうべきことがあるだろうと思って聞いてしまうのです。あるいは、作品を読みこめば表現のためのヒントやきっかけや、または正解が隠されているのだろうと信じて、必死に読もうとします。
残念ながらそれは徒労です。作品のなかにも正解はありません。
唯一、読むための手がかりがあるとすれば、自分のなかです。
テキスト作品は、書きあげられた瞬間から作者の手を離れます。それは読み手のものになります。読み手がそれをどうとらえるか。どのように「食べる」か。「味わう」のか。自分の経験とどのような関係性を作るのか。そのことによってしか読み方は決まりません。
ついでにいえば、読み手の状況も刻一刻と変化します。「いまここ」の自分自身が、目の前にあるテキストを読むにあたってどのような気分なのか。それを正直に、せいいっぱいの瞬発力を発揮して発揮していくこと。それが「いまここ」の観客たちにどのように伝わり、どのようなリアクションがあるのか受け取って、次に進んでいくこと。
ライブパフォーマンスの醍醐味がここにあります。まさに生きていることそのものの営みです。
私の作品とて同じことです。
私は「ギターを弾く少年」という作品をたるとさんのために書きあげました。書いている間は、それは私の表現行為でした。が、書きあげた瞬間から、それはたるとさんという読み手のものになりました。たるとさんがどのように読もうが、私には関知しないことです。たるとさんが、私の書いたテキストのなかになにを読みとろうが、どう読もうが、私にはコントロールすることはできません。もはやテキストはたるとさんの手に渡っているのです。
たるとさんは私のテキストのなかに、「作者の意図」を読むのではなく、「自分の意図」を読むのです。
このことを想像するとき、私はとてもわくわくして幸せな気分になります。私の書いたものが、私の手を離れて、広い世界に旅立っていく姿を想像するからです。
こういったことを伝えたとき、私のゼミ生のたるとさんはもちろんすぐに百パーセント理解してくれ、自分のやるべきことを見つけたようです。それを見て、私もゼミで多くの時間をついやして話してきたことが、たるとさんにちゃんと伝わっていることがわかって、とてもうれしかったのです。
たるとさんの朗読パフォーマンスは、徳島チャレンジ芸術祭というところで、この1月中におこなわれるとのことです。私は見に行けませんが、楽しみです。