2012年1月2日月曜日

表現の統一理論

すべての表現行為に通底するはずの統一的な理論のことを、ずっとかんがえています。
 芸術とか表現とか、いろいろないいかたがありますが、人が自分を表現しだれかになにかを伝える行為を「表現」という言葉で定義しておきます。
 このとき、表現には二種類ある、というのが一般的なとらえかたでしょう。実際、私もそのようなとらえかたを長らくしていました。
 すなわち、美術、文学、映画といった、あらかじめ作者が自分の時間を自由に使って作品を準備し、最終的にそれを表現作品としてオーディエンスに提示する、時間にとらわれない表現がひとつ。もうひとつは、音楽、ダンス、演劇のように、表現者とオーディエンスが時間と空間を共有するなかで進んでいく表現。これらは別種の表現行為としてとらえられることが多かったのです。
 はたしてそうだろうか、というところから、私の思考・試行がはじまりました。

 私は小説や詩を書く一方で、音楽や朗読演出をやります。これらを行ったり来たりしています。
 小説や詩を書くときと、音楽を演奏するときとでは、なにが違うんでしょうか。
 かつて私は、ものを書くときは、表現の最終形態が「作品」だと思っていました。すなわち、作品を書いているときの自分自身にはあまり注意が向けられておらず、いつも未来にあるはずの完成形にばかり頭が行ってました。未来の完成形がどのように人に読まれるのか、どのようなゴールが望ましいのか、そんなことばかり考えていました。
 ピアノを弾くときはそうではありません。その瞬間瞬間の自分とオーディエンスに意識が向き、「いまここ」で起こっていることを感じながら進んでいきます。
 あるとき私は気づきました。小説もそのように書けばいいのだ、と。
 小説は完成形が表現の最終形態ではなく、書いているときそのものの自分が表現そのものなのではないか。書きあがった作品はたまたまその「結果」にすぎないのではないか。偶然の結果であるのだから、それを作者がコントロールすることなどできないし、ましてやそれを読んだ読者がどのような反応をするかなどわかりっこない。そんなことを予測して書くより、音楽演奏とおなじように「いまここ」の自分に意識を向け、最高のパフォーマンスで言葉とストーリーをキャッチしていければいいのだ。
 これに気づいたとき、私のなかでものを書くこととピアノを演奏することがピタリとつながりました。いずれも自分の身体と感受性をマインドフルに用いる行為なのです。
 私の表現統一理論はここをスタートラインとしてスタートしました。

 いま、これをきちんと体系化して、だれにでも共有できるような形にまとめたいと思っています。音楽も小説も芝居も絵画もダンスも映画も、すべての表現に通底する共通の原理があります。そこの部分に完全に集中し、意識を傾注することができれば、だれもが唯一無二のオリジナルな表現者になれると信じています。
 実際に私が主宰している表現ゼミは、そんな表現者が続々と誕生しています。
 自分自身もふくめて今年もどんなすばらしい表現者が育っていくのか、私は楽しみでしかたがないのです。