新浦安の浦安市民プラザまで、イサドラ・ダンカン国際学校日本の方々が踊る「愛 イサドラ・ダンカン・ダンス」を観に行ってきました。
イサドラ・ダンカンは20世紀初頭に活躍したダンサーで、その独特の思想と踊りによって一斉を風靡し、モダンダンスの母と呼ばれている人です。現在も彼女を敬愛する人は多いですが、日本にこのような学校があるとは私は知りませんでした。
公演は客席とステージがひとつながりのフラットなスペースでおこなわれました。お客さんはファミリーが多かった。出演者の家族がけっこう来ていたようです。150人か200人くらい入るスペースかなあ。
イサドラ・ダンカンの言葉と思われるキャプションがナレーションによって流され、クラシック音楽が流れると、ダンスが始まりました。ゆったりとした流れるような動きの群舞です。が、一見して、ほとんどの出演者がダンスの特別な訓練を受けたような身体と動きではなく、ごく普通のどこにでもいるような女性たちです。30代以上、なかにはかなり高齢の方もおられました。70歳以上、ひょっとして80歳くらいの方。
観ているうちに、これはダンスの「技術」を誇示するのではなく、彼女たちの身体つまり存在そのものを提示し、表現することが目的のパフォーマンスなのだとわかりました。これはげろきょがやっていることと似ています。げろきょも朗読の技術を誇示するのではなく、自分の身体と精神をありのままに表現し、オーディエンスとのコミュニケーション空間を作ることが目的です。
彼女たちのダンスも技術的にどうこうではなく、それぞれの方の身体そのもののありようと動きの美しさを楽しみ、それに共感するように作られているようでした。イサドラ・ダンカンはまさにそのことを追求したのでしょう。だからこそモダンダンスの母といわれているんでしょう。
さて、これ以降は私の妄想です。決して今回の公演にケチをつけるとか批判するつもりではないことをご了承ください。
私が考えたのは、イサドラ・ダンカンの精神は大切にしながら、パフォーマンスを現代日本の、日本人女性としての踊りとして振付けなおしたら、どんなものになるだろうか、ということです。
というのも、今日のダンスはあくまで西洋人ダンサーの動きであり、西洋バレエの延長線上にある動きのように見えましたし、ダンカンのスピリッツというより、ダンカンの手法・戦略を実現しようとしていることにとどまっているように見えたからです。
ダンカンは自分の思想を実現するために、あのような手法を取りました。いま、逆に、彼女の手法をなぞることで、彼女の思想を実現できるだろうか、と私は思うのです。彼女の思想を現代日本で実現するためには、思い切ったアプローチの転換が必要なのではないか、と。
私だったら、より即興性を重視するでしょう。そして、日本女性の日常的な所作をダンスとして取りこむプログラムを作るでしょう。たとえば「お茶をいれる女性」の所作。これをダンスととらえることはできないでしょうか。その所作を美しいと見ることはできないでしょうか。イサドラ・ダンカンが日本に来たら、これをダンスにしようと思わなかったでしょうか。
ほかにもいろいろあると思います。立ったり座ったりもそうです。雑巾がけの所作などいかがでしょう。
また私だったら、音楽はありものを使わないでしょう。せっかく生身のダンサーがいるのに、音楽が録音物というのはいかにも寂しいじゃありませんか。パーカッショニストひとりでもいいし、つたないピアニストでもいいので、とにかく生身の音がほしいですね。ダンサーを尊重するためにも。
私がやっている現代朗読は、イサドラ・ダンカンがダンスの世界でやろうとしていたことを、朗読の世界でやっているといっても遠くないように思います。しかし、現代朗読では根本的に「日本語」であり、日本人の所作をベースとします。また、モダンではなく、コンテンポラリーまで時間軸を進めます。伝統的な系列の延長線上には手法を置かないのです。あくまで「手法を」ですが。
今日観たイサドラ・ダンカン・ダンスが、イサドラ・ダンカン・トラディショナルではなく、イサドラ・ダンカン・スピリッツを実現するための、モダンではなくコンテンポラリーな舞踊団体に進化していくことを、私はげろきょを主宰する立場からつい夢見ていました。