2012年1月4日水曜日

面倒をいとわない人のところに幸福が集まる

恋人ができたとします。大切なその人のことをいつも想い、なにかその人のために自分ができることはないか、どんなことをしたら喜んでくれるのか、いつもかんがえます。かんがえるだけでなく実行に移します。
 ときには花を贈ったり、料理を作ったり、いっしょに映画を観たり買い物に行ったり。とにかく気にかけ、手をかけて、その人を大切にします。このような行動を「まめ」といって、やや揶揄するような風潮もありますが、だれかを大切に想い、その人のためにあれこれするのはとても自然な気持ちでしょう。
 しかし、いったんその人のことを嫌いになってしまうと、あれこれ想ったりおこなったりすることがとても面倒になります。できればなにも考えたくなくなるし、したくなくなります。
 相手が恋人でなくてもおなじことです。自分にとって大切な人、深いつながりを持っている人のことを、人はいつも想い、自分にできることがあれば喜んでおこないます。つながりが切れてしまうと、あれやこれやがとたんに面倒になります。

 だれかと気持ちよくつながっているためには、メンテナンスが必要です。声をかけ、いっしょになにかをして、おなじ時間をすごす。話を聞き、聞いてもらい、ときには手紙を書いたり、贈り物をしたりする。面倒なことをいとわずにつながりのメンテナンスをします。
「そんな面倒なことをしないと切れてしまうようなつながりは、もともと深いつながりじゃないんじゃない?」
 という人もいるかもしれません。本当にそうでしょうか。
 冒頭に出した恋人の話のように、深いつながりがあれば面倒なことも面倒とは感じないのです。面倒だと感じはじめたら、それはつながりの質が低下しているからなのです。そのまま切れてしまってかまわないならなにもしなくてもいいでしょう。しかし、つながりつづけたいのにメンテナンスをおこたったために切れてしまった関係のいかに多いことでしょう。
 もっとも、人はあまりに多くの人と密接なつながりを持ちつづけることはできません。なにしろ、つながりのメンテナンスには時間と手間がかかりますから、人によっても違うでしょうが数人から数十人といったところでしょうか。それ以上になるとどうしても手抜きが生まれてしまいます。

 つながりのメンテナンスをいとわない相手とは、深い関係がつづきます。それは結局、自分自身の幸福でもあります。だれかと信頼しあい、心おきなくつながっているとき、人は幸福です。それがなくなると不幸になり、ときには病気になったり、犯罪に走ったりします。
 手をかける、面倒をいとわない、ということは、人との関係以外にもあてはめられます。
 毎日、面倒がらずに掃除をする、洗濯をする、料理を作る、洗い物をする、ペットの世話をする、といったことも、幸福と深い関係があります。私たちは「手を抜く」ことから不幸が始まるのです。
 現代生活を見てみてください。私たちの身のまわりには手を抜くための道具があふれています。
 私が子どものころ、まだ電化製品はほとんどありませんでした。母はいつも、雑巾がけをし、近所の清水で洗濯物や洗い物をしていました。さすがにかまどはありませんでしたが、ガスでご飯を炊き、お風呂は薪でした。きっと大変な労働だったと思いますが、いつも思い出すのは楽しそうに家事をこなしていた母の笑顔です。いまでも年老いた母は、一日中仕事部屋にいて、繕い物をしています。いまでも時々、私の服やセーターを作ってくれます。
 電化製品を使うことが悪いといっているのではありませんよ。手をかけることは愛情そのものなのだ、といいたいのです。
 私が玄関掃除をする。トイレ掃除をする。料理をする。洗い物をする。きっとだれかが喜んでくれるでしょう。それは多くの人ではありません。数人の、私とつながりを持っている人たちでしょう。その人たちが喜んでくれることで、私のところにも幸福がやってくるでしょう。私が面倒なことをいとわずにすることで、私のところに幸福がやってきます。
 消費社会のなかで私たちが支配者から刷りこまれてきたこと。それは、
「楽することで幸せになれる」
 という間違ったかんがえです。事実は逆です。楽することで、人は不幸にしかならないのです。
 恋人を喜ばしたいという気持ちで、私は日々のことを喜んでやろうと思います。