2012年1月5日木曜日

「評価を手放す」年頭から大反省(私は評論家ではない)

昨日、金沢の21世紀美術館に行って観てきた現代アート作品について私見を書いたんですが、そのなかに私の「判断」と「評価」がはいっていて、大変恥ずかしい思いをしています。あれほど皆さんには口をすっぱくして、表現の世界では「評価を手放す」ことをいっているのにね。
 自分自身の確認のためにも、あらためて書いておきます。

 私たちはなにかを見るときに、必ずなんらかの「評価」をくだそうとする習性を身につけてしまっています。それは教育や社会制度のなかで後天的に身につけてきたものです。資本主義という制度とも深い関係があります。
 商品経済においては、まず商品に対して一定の評価基準を持つ必要があります。そうしないと価格が決まらないからです。商品に対して評価が高ければ価格も高くなる。低ければ価格も低くなる。これが商品経済の根幹をなすシステムです。
これを私たちは人間関係や表現の世界にまで持ちこんでしまうのです。
 AさんよりBさんのほうが成績がいい。Cさんのほうが足が速い。Dさんは収入が多い。Eさんのほうがピアノがうまい。Fさんは絵が下手。
 こうやって、私たちは人間関係においても、飽くなき評価をつづけて「序列」をつけることに腐心します。序列がつけば、上下関係が生まれます。AさんよりピアノがうまいEさんは、発表会でも終わりのほうに出てきます。Aさんは最初のほうで発表します。下手だから。
 ピアノ教室の発表会のプログラムを見ると、きちんと「うまい順」にリストができています。
 これほど非人間的なことがありましょうか、という話です。
 私たちは商品ではないのです。
 表現も商品ではありません。表現行為は私たちが生きているからするのであって、商品として売るためではありません。自分の生きているあかしをだれかに伝えるためにするのです。だから、表現に序列をつけるなんてのはとても悲しいことです。
 もちろん人それぞれ「違い」はあります。しかしそれは上下にならべるべきものではなく、差異として横に並べればいいのです。表現はそういうものです。人の存在とはそういうものです。

 ところが困ったことに、資本主義商品経済においては、表現にも値段がつけられます。芸術パフォーマンスにも価格がつけられ、入場者数や売り上げに応じて芸術表現者に対して価値判断がされます。また、そういう判断をする専門家である「評論家」という人種もいます。
 私はこういう行為を自分にもいさめていたはずだったのに、やはりつい個人的ではあれジャッジの入った文章を書いてしまったり、話したりしてしまいます。
 私は評論家ではなく、自分も表現者でありたいのです。実はすべての人が表現者なんですけどね。
 今後私は、なにかを観たり聴いたりしたとき、評価ではなく、自分の身体と心のなかを注意深くのぞきこんで、そこで起こっていることだけを書きたいと思います。