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今日は私の母親の誕生日だ。
ちょうど80歳になる。
傘寿。
私は親不孝な人間で、若いころから心配ばかりかけさせてきた。
いまだに心配させている。
なにより母の心配は、私に定収入がなく、世間様からちゃんと認められていない人間であることらしい。
母の世代の人間にとって、自由業のものが世間様から認められるとは、テレビや新聞に出たり、有名出版社から本が出たり、うんとお金をもうけて豪邸を建てたりすることらしい。
もちろん私はそのようなこととは無縁な生活を送っている。
母の基準からいえば申し訳ない親不孝者だ。
ところで、親孝行という言葉をあらためてかんがえてみると、私のなかには自分が親孝行がきちんとできていない情けない人間だという思いが、たしかにある。
私の世代(50歳代なかば)の人間には、いい大人になったら親を安心させて親孝行すべし、という価値観がたしかに刷りこまれている。
いつどこで刷りこまれたものかわからないが、たしかにある。
しかし、この価値観を自分の子どもに向けているかといえば、それはない、といいきれる。
私には息子がひとりいるが、彼に親孝行をしてもらいたいとか、親が自慢できるような人間になってもらいたいとか、ましてや将来親を養ってもらいたいとか、そんなことはまったくないどころか、想像すらしない。
私は私の幸福を自分の子どもに託したりはしない。
私はただ、自分の子どもが幸せであればいいと願うだけで、彼が幸福なら私も幸福を感じるかもしれないが、自分の幸福は自分の責任であり、彼もまた私が幸福であればきっと幸福を感じてくれるかもしれないと思うのみだ。
そうかんがえると、親孝行という言葉は私の世代で消えゆくものなのかもしれない。
いや、待て。
私の息子は親孝行という言葉についてどうかんがえているのだろう。