2011年11月18日金曜日

音楽としての朗読

はじめにことばありき。ことばがあるところにはうたが生まれる。
 といいますが、実はことばより先にうたがあったのかもしれません。鳥など動物にはことばはありませんが、うたはあります。もっとも彼らがそれをうたと認識しているかどうかはわかりませんが。
 それはともかく、ヒトの声帯は音を発するだけでなく、その音の音程を筋肉の働きによって変化させることもできます。そのことによって、言葉にメロディをつけることができるのです。そうやってヒトは原初のころからうたを歌っていたんでしょう。
 その後、文明が興り道具が発達すると、楽器が生まれ、メロディやリズムを奏でるようになります。ギリシャ・ローマ時代、インダス文明、古代中国の文明で音楽が奏でられていたことは確かです。
 いま私たちがよく聴いたり歌ったりしている音楽は、どこにルーツがあるのでしょうか。ごくおおづかみでいえば、歌謡曲、フォークソング、J-POP、ロックなどの大衆音楽は、リズムと和声の上にうたを始めとするメロディラインが乗った形式です。この形式の音楽が生まれたのは、ヨーロッバのクラシック音楽の古典派と呼ばれる時代です。作曲家でいえばモーツァルトやベートーベンの時代です。
 それまで音楽は、和声ではなく、旋律が主役でした。中世の宗教音楽はほとんどが単旋律で、聖書などの言葉をある音階の規則にのっとって歌われていました。グレゴリオ聖歌がその代表です。

 その後、ルネッサンスを経て音楽は複雑で華やかになっていきます。宗教のくびきから解放され、人間の楽しみのためのものになります。いくつかの旋律を組み合わせて壮大なハーモニーを作りだすようになりました。楽器の種類も爆発的に増えました。対位法という作曲法が生まれ、バロック音楽が花開きます。
 しかし、このように旋律がいくつも交錯した曲は、主旋律の強さが失われます。うたが曲のなかで埋もれがちなのです。そこで、旋律と和声が役割を分担する方式が生まれました。モーツアルトのピアノ曲などを聴けばわかりますが、左手が和音(分散和音のこともあります)、右手が旋律を奏でる構造になっています。
 オーケストラのような壮大なサウンドでも、オーケストラ全体で和声を構成し、旋律のパートが独立している、という構造を持つようになりました。
 現代の大衆曲も、基本的にこれとおなじ構造です。現代ポップスはこれにリズムやベースラインが加わって強調され、よりダンサブルに、より刺激的になっただけです。

 先日、あるライブカフェでギターとボーカルというふたり組のライブを聴いていました。歌はとても静かでナチュラル。まるで語りかたるように、ボサノバとかシャンソンのような歌いかたです。ギターはコードを控えめに進行させて伴奏に徹しています。
 そのときふと、歌手が歌っている歌詞、つまりことばが、メロディラインに拘束されているように感じたのです。もしメロディラインの拘束から解放されたら、ことばはより自由にならないだろうか。
 いや、しかし、そういう音楽はすでにあるではないか。ラップミュージックです。メロディラインの拘束から逃れた言葉が、リズムに乗せて「うたわれる」音楽。ヒップホップのラップです。
 では、リズムの拘束もはずしてしまったらどうなるだろうか。
 それは朗読そのものですね。
 ことばがメロディや和声やリズムに拘束されていった音楽の歴史があるなら、今度はそこからことばを解放していくことが音楽としての朗読ということにならないだろうか。

 実はそれはすでに現代朗読でやっていることです。
 音楽(たとえばピアノ演奏など)がサウンドを形成しているなかへ、朗読がすべりこんでいく。そのとき、朗読者に要求されるのは、音楽的センスにまちがいありません。声のトーン、リズム、音質、ボリュームなどのコントロールによって、音楽演奏者とともに音声表現を即興的に作りあげていくのです。ここに要求される音楽的センスは、音楽家と同等、あるいは同等以上のものでしょう。なにしろ、即興的に音声表現を組み立てていくわけですから、ジャズの即興演奏のようなものです。いや、ジャズにはジャズフォームという形式があります。朗読にはフォームがない分、自由であると同時に難しくもあります。
 ジャズのなかでも最高に自由で、最高に難しいフリージャズのスタイルに近いといえるかもしれません。
 一般的な朗読では、滑舌だのイントネーションだの、重箱の隅にあるような技術が問題視されますが、朗読表現の世界はそんなせせこましいものではありません。音楽と対等、あるいはそれを超えるような広大な表現の可能性を、ほとんど未開拓地として持っているのが、朗読という表現行為なのです。そしてそれはまちがいなく、音楽の延長線上にあります。