昨日は明大前ブックカフェ〈槐多〉での「槐多朗読」の二回めだった。
ちょうど村山槐多の命日で、そんな日に〈槐多〉で「槐多朗読」をやらせてもらえるというのはうれしいことであった。
今回も「沈黙の朗読」シリーズのひとつとしてやらせてもらった。村山槐多の遺書を含むテキストに、私が書いたオリジナルテキストを挿入し、構成したものを、野々宮卯妙に読んでもらった。
気づいた方はおられるだろうか。槐多のテキストを読むときは野々宮は椅子に座っており、私が書いたものを読むときは立ったり歩いたりしていた。それだけは決めてあった。
ブックカフェ〈槐多〉は20席でいっぱいになるこじんまりした店で、その内私が楽器のために2席をつぶしてしまうので18名で定員いっぱいとなる。なので、完全予約制としてあるのだが、それでも当日飛びこみでやってくる人が数名いて、断りにくい。しかし、予約者のなかから数人は必ずキャンセルが出るので、バランスは取れるだろう、のはずなのだが、来る人のほうが多く、今回も定員を3名ばかりオーバーしてしまった。皆さんには窮屈な思いをさせてしまって申し訳ない。
しかし、一番窮屈だったのは私だと思う。
前回はカウンターの端にキーボードとMacとミキサーを置いて、立ったまま演奏したのだが、今回はちゃんと座りたくてテーブル席の一番奥にセッティングしてみた。それが結果的には大変きつかった。まったく身動きできない上に、両腕を自由に動かせない。ミキサー操作が窮屈。Macの操作もかなり不自由。
肉体的制約を受けながら苦労して演奏。しかし、きつさとは裏腹に、マインドフルな感覚があった。
オーディエンスが最初から音に集中しているのがわかり、それに助けられた部分もある。野々宮の朗読も安定していると同時に、実験的であり、マインドフルにコミュニケーションが取れた。
しだいに沈黙に向かっていく後半からは私も完全に集中できた。
ちなみに、意外に知らない人が多いみたいなので書いておくけれど、音楽は全篇、完全即興である。当日の、始まるその瞬間まで、どんな音が出てくるのか、私自身もわからない。
それは野々宮も同様で、テキストを持ってはいるものの、始まるその瞬間までどのように読むのか、どんなトーンで始めるのか、まったく準備していないはずだ。それらはその場の空気とオーディエンスの反応と、自分たち自身の内側で起こっていることによって、瞬間瞬間決まっていくことなのだ。
ちなみに、テキスト自体も私が野々宮に渡したのは二日前のことだった。もっともこれは信頼があるからできることではあるけれど。
平日の夜にも関わらず、わざわざご来場いただいた皆さんには感謝したい。
次回の「槐多朗読」の開催日も決まった。次回は4月16日(月)夜8時からおこないます。よければまた聴きに来てください。