2011年6月16日木曜日

朗読とダンス、または朗読というダンス

朗読という表現行為のクオリティをあげるには、身体のクオリティを高めることが一番の近道だ。
というより、唯一、その方法しかないと思う。
ちまたに多くある朗読講座や教室では、ほとんどが首から上周辺の「放送技術」を教えている。これを否定するものではないが、これらは「朗読という名の伝達技術」であって「朗読表現」とは似て非なるものだと、私はかんがえている。

「朗読」は言語(テキスト)をあつかうので、「伝達」の側面がある。どうしてもそちらにスポットが当てられてしまうのは当然のことだともいえる。が、朗読は言語伝達以前に、「表現行為」としてとらえる必要がある。
表現行為である以上、音楽や舞踏、美術、文学、演劇などと同様、表現者の存在/身体性を抜きにしてかんがえることはできない。そして身体性についての方法論は、20世紀以降のコンテンポラリー・アートの思考と試行を無視しては語れない。
しかし、日本においてこのアプローチをおこなっている朗読者は、私の知るかぎり、私たち以外にはいない(もしいたらアプローチ願います、歓迎)。

私はこれまで、現代朗読(コンテンポラリー・リーディングパフォーマンス)を提唱し、実践してきた。
その際、コンテンポラリー・アートの方法を取りいれ、しばしば他ジャンルの表現をメタファーとして用いて語ってきた。
もっとも多く引用したのが、音楽のメタファーであった。が、最近、舞踏(ダンス)を引用するほうがしっくりくるような気がしはじめている。

ヒトは言葉を使うようになって、身体に表と裏ができた。目の前の人に伝えようとするからだ。表現は前(表)に向かっておこなうもの、という意識が生まれる。そのとき、身体の背面(裏)はどうしてもおろそかになりがちだ。
一方、ある種のダンスは裏を取り戻すためにある。そのため、言葉は使わない。
ダンスをするように言葉を使えないものだろうか、と私はかんがえる。身体の表も裏も使って、身体全体で言葉を表現することはできないだろうか。

できる。

私はいま、朗読とダンスのことをかんがえている。あるいは、朗読というダンスのことを考えている。
朗読というダンスでは身体全部を丸ごと使う。身体に裏も表もない。声や言葉も、前、後ろ、横、上下、どの方向にも発せられる。そのとき、朗読者の身体はダンサーと同様、あらゆる筋肉、骨格、神経が繊細に自覚され、動く。つまり、朗読者が表現のクオリティをあげようとするとき、身体のクオリティをあげることを心がける。
これはなにも、アスリートのように筋肉を鍛えあげなければならない、という意味ではない。鍛えることとクオリティをあげることは違う。みずからの身体に自覚的になり、感受性を最大限働かせられるように調整しておく、ということだ。

もっとも、朗読とダンスには大きな違いがある。
朗読表現において、朗読者の手には「テキスト」がある。朗読者はそれを「読みあげる」という道すじにおいて表現をおこなう。
テキストはいわば、ピンと張られた一本の綱のようなもので、そこから逸脱することはない。その制約が朗読という表現行為にある種の緊張感を与えている。クラシック音楽の演奏者が楽譜から逸脱することがないことに似ている。

コンテンポラリー表現としての朗読はまだまだ未開拓であり、まったくの手つかずの分野だ。私にはやってみたいことが山のようにある。