2011年6月11日土曜日

東日本大震災・大津波から今日で3ヶ月

3月11日からちょうど3ヶ月がたった。
全国あちこちで行進やら催し物やらがおこなわれ、また多くの人が発言したりものを書いたりしているだろう。私のようなものがいまさらわざわざ書くまでのことはない。
以下に書くことは、自分に向かっての言葉だ。興味のない方はスキップしてください。

3月11日以来、外側の世界は大きく変わり、いまも動きつづけているが、私の内側も大きく変わり、いまも動きつづけている。
文字通り揺さぶられ、ショックを与えられ、生存のこと、生きること、生きつづけること、生きながらえること、そしてもちろん死んでいくことを考えつづけている。
いろいろな人と話し、読み、聞き、格闘し、試行し、書いてきたが、そのなかでひとつだけ、これは確かな感触ではないか、という一点がいつも見えてくるような気がしていた。
それは、私がこの数年、ずっと実践しようとしてきた「マインドフルネス」という人のあり方だ。

英語だが、もともとは東洋思想から来たのだと思う。禅やヨガや古武道の多くが、現代語では「気づき」といわれているマインドフルネスの状態になるための方法や修行の型をたくさん持っている。
ティク・ナット・ハンはこの気づきを、次のように定義している。
「自分のすべてをもってそこにいる能力」

人はすでに起こってしまってどうしようもないことをくよくよと考えつづけたり、またまだ起こってもいないことをあれこれ心配したりしてしまう。そのような、いわば「心ここにあらず」の状態でいるとき、自分の能力を充分に発揮することができない。
「いまここ」にいる自分の精神と身体に気づき、「いまここ」に集中すること。あれこれ先のことを考えるのではなく、いまこの瞬間に自分ができることに充分にエネルギーを注ぐこと。この積み重ねが、ひょっとしてなにか大きな仕事につながっていくのかもしれない。

震災以来、私は何人かを相手に「音読ケア」の個人セッションをおこなってきた。
震災のショックや、日々流されるつらい情報に接するうち、「いまここ」の自分を見失い、悪いイメージのスパイラルにとらわれてしまって心身の不調に陥ってしまう人が多い。
そういう人にも、この「マインドフルネス」の練習はとても役に立った。
そういう私自身はどうなのか。まだ充分にマインドフルネスがいつでもできるようになっているとはいえない。

先日、自分が抱えている仕事、関わっていること、これからやりたいと思ってこと、やりかけて宙ぶらりんになっていることを、思いつくかぎりすべて紙に書きだしてみた。
あきれるほど多くの事柄が出てきた。馬鹿じゃないかと思った。いや、馬鹿なのだ。これほど多くのことをいっぺんに抱えこんでどうしようというのだろう。
一度にひとつのことしかできない。しかも、そのひとつのことにすら、完全に集中して力を注ぐことすらできていない。こんなに手を広げてしまっては、そのうちのひとつすらまともにできないかもしれない。
いま、自分にできること、だれかに役に立てるかもしれないこと、目の前にいる人と誠実に対峙し聴くこと、そういったことに自分のすべてをもってあたることはできないか。
それが、震災がもたらした私の大きな「気づき」のような気がしている。
それを日々、あらため、磨き、少しでもマインドフルな自分でおこなっていきたい。

私がここでこうやって存在していること。それに気づき、自分のすべてでありつづけること。
そのことをもって、震災の犠牲になったすべての方々への、私の個人的な祈りとしたい。