2013年9月2日月曜日

「評価」は他人ごと

どうしても他人の評価が気になる、という人がいる。
なにを隠そう、かくいう私もつい最近までそうだった。
そして不幸だった。

NVC(非暴力コミュニケーション)の創始者のマーシャル・ローゼンバーグもいっているが、人が不幸になる一番の近道は、他人と自分を比べることだ。
それに「他人の評価を気にする」という項目を付け加えてもいいと思う。

私たちがなにかをするとき、たとえば料理を作ったり、掃除をしたり、仕事をしたり、音楽を演奏したり、絵を描いたりするとき、それが他人の評価にさらされることがある。
とくに表現活動においては、他人の評価にさらされるというより、他人に向けて伝えようとするわけだから、当然さまざまな評価が生まれることになる。

私はピアノを弾くので、演奏した結果、いろいろな反応が生まれる。
私の演奏を好んでくれる人もいれば、好まない人もいる。
今日のはよかった、といってくれる人もいれば、今日はいまいちだった、という人もいる。
もっとこうすればいいのに、とアドバイスする人もいれば、こんなので金取れないよ、チケット代返して、という人もいる。
きみはスローな曲はいいけど、アップテンポの曲はだめだね、という人もいれば、リズムがいいね、という人もいる。
スタンダードナンバーよりオリジナル曲のほうがいいんじゃない、という人もいれば、もっとスタンダードを演奏してよ、という人もいる。

演奏する前にお客さんの顔をながめて、さて今日のお客さんはどんなふうな演奏を喜んでくれるかな、つまりどんな演奏をしたらよい評価が得られるかな、とあらかじめ予測しても、それはたいていうまくいかない。
うまくいかないくせに、長いあいだそういうことばかりやっていたわけだが。
あるいは事前にいろいろとたくらんで、お客さんが喜んでくれそうな仕掛けや曲を一生懸命練習し、それをステージでも再現しようとする。
うまくいくときもあれば、たいていはうまくいかない。
私がなにかをおこなった結果、それを受け取った相手のなかでどんなことが起こるのか、事前に知ることは不可能だからだ。
さまざまな反応があり、いちいちかんがえていたらキリがない。

想像できないことは想像しないようにするしかない。
事前に相手の反応を予測してこちらのやりたいことを変えたり、制限したりしない。
ただ思いどおりに自分を信じてやる。
その結果、いろいろな反応が返ってくる(笑)。
なかには思いもよらない、こちらが傷つくような評価や非難もあるかもしれない。

そういうとき、私は最近、便利なことばをつぶやくことにしている。
「しょせん他人《ひと》ごとだから」
私がおこなった表現行為を受け取った人のなかでなにかが起こるわけだが、そのことについて私は事前に察知することはできないし、責任を取ることもできない。
それは相手のなかで起こっていることであって、私にしてみれば他人ごとなのだ。
他人ごとなのだから、冷静に、
「ああ、あなたはそういうふうに受け取られたんですね(それはよかった/それは残念)」
と思えばいい。

自分にとって悪い評価もよい評価も、すべて他人ごとなのである。
いちいちそれにふりまわされることなく、自分は自分の充実と集中をこころがけ、いまここにあるマインドフルな時間を生きればよい。