2013年9月18日水曜日

自分を悼む技術

なにか悲しかったりつらかったり、ものごとがうまくいかなかったとき、どのように対処したらいいだろうか。
身近な具体例があるので、それを紹介する。
つまり、私のことだが。

一昨日、私は、京都・法然院で琵琶奏者の片山旭星さん、現代朗読の野々宮卯妙とともに、ライブ演奏をおこなうはずだった。
そのために音源の仕込みや演奏機材の準備を万端ととのえ、京都に行くことを楽しみにしていた。
ところが、台風襲来で新幹線が止まり、野々宮はなんとかライブにすべりこんだものの、私は機材セッティングができないという判断で京都行きを断念した。

楽しみにしていた京都行き、ライブ演奏に参加できなかったことは非常に残念で、悲しい。
昨日一日しょんぼりしていた。
それだけでない。
演奏はできなかったが、京都行きを断念せずに同行し、すばらしいライブに参加すればよかった、という後悔も、参加した人のフェイスブックメッセージを読んで生まれてきた。
また、片山さんや法然院さんにご迷惑をおかけした、という申し訳ない気持ちもある。
そしてもちろん、このライブを楽しみにしていた方々とお会いできなかったという無念もある。
いろいろな気持ちが錯綜して、昨日一日しょんぼりすごしていた。

こういうとき、共感的コミュニケーションではどうするんだっけ?
そうそう、「自分を悼む」ということをするんだった。
しかしこれが私は苦手なのだ。
これまでもうまくできたためしがない。
今日は練習してみることにしよう。

まず、自分のなかにある残念、悲しい、申し訳ない、無念といった気持ちを無視することなく、きちんと受け入れる。
実はこの記事を書いている過程でそのプロセスはかなりきちんとおこなえているような気がしている。
書きだしてみることはとても有効だ。
もし共感的に話を聞いてくれる人が身近にいれば、その人に聞いてもらう、というのがとてもいいのだが、もし相手が非共感的な人だったりすると逆効果になるので、だれでもいいというわけではない。
そういう人がすぐに思いつかなかったり近くにいない場合は、自分で自分の面倒を見る。

それらの気持ち(感情)はいったい、私のどういう価値から来ているのか、ゆっくりとつながってみる。
ライブに参加したかった、参加者や来客とのつながりが楽しみだった、予定や約束を守る誠実さや信頼が大切だった、自分の能力や表現ができなかった……
こういった私の大事にしている価値観が満たされなくて、しょんぼりした気分になってしまった。
自分自身がなにを大切にしているのか、それはどうしたら満たすことができるのか、いまできることはなにかないか、じっくりとかんがえてみる。

とりあえず、法然院ライブについてはもう終わってしまったことだし、私にできることはもうなさそうだ。
つぎの機会があれば、きっと不測の事態に対処できるようにさらに万全の準備をしたい。
いまできるのは、法然院ライブとは別に、私の価値を満たすなにか別のことがないかどうか、さがしてみることだ。
楽しみなこと、能力を発揮すること、表現すること、こういった価値を満たすことは、今日ひとりでいてもできそうだ。
そこで私は、かねてからやってみたかった自分の絵(スケッチ)をTシャツにプリントしてみる、ということに時間を使うことにした。

ほんの数十分、自分を悼むために時間を使う。
私たちはこういう時間を自分に許すことを、なぜか後ろめたく感じてしまうように教育されている。
それに気づき、ほんのすこしだけ自分を丁寧に扱うように心がけることで、明日からまたあらためてイキイキと人生を楽しんでいけるだろう。

今月の共感的コミュニケーションの勉強会は9月26日に羽根木の家で開催します。
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