2011年4月23日土曜日

みんなで作る朗読作品の楽しさ

「朗読」というと、ひとりで椅子に座って、静かに本を読みあげる、という形のイメージが強いのではないだろうか。
実際、私も多くのそういった朗読会を見てきた。
現代朗読ではそういう形を取ることもあるが、複数人でひとつの朗読作品を仕上げることが多い。
また、おとなしく椅子に座ってはいない。動きまわることも多い。
音楽とも共演することが多い。
ここで重要なのは、「音楽と共演」するのであって、けっして音楽はBGMではないのである。あくまで共演者であって、対等の立場でふるまう。

朗読は身体表現であり、またコミュニケーションである、というのが現代朗読の基礎をなす考え方だ。
テキストを読む、という行為は、実は全身体を使うものだ。そしてその言葉、声にあらわれるメタテキスト情報、身体性は、そのまま聴き手に膨大な情報量として伝わっていく。リッチ情報を受け取った聴き手のなかでは、なんらかの反応が起こっている。それが微細な情報となって朗読者に帰っていく。
このようにしてコミュニケーションのなかで表現行為が進んでいく。
また、朗読者が複数いて、群読でひとつの作品を表現しているとき、共演者同士のあいだでもコミュニケーションがおこなわれている。
音楽共演者がいる場合は、そちらでもコミュニケーションがおこなわれている。

私たちは自分でも知らなかった潜在能力を使って、同時に複数のコミュニケーションをおこない、膨大な情報量を処理し、自分の感覚を開き、リラックスした状態にありながら完全に表現に集中しているという状態をめざす。
これは言葉で説明するほど難しいことではない。私たちが日常のなかでごく普通にやっていることなのだ。それをたんに朗読表現の場にも持ちこんでみるだけの話だ。

こうやって生まれるパフォーマンスは、私たちの日常生活が次の瞬間どんなことが起こるか予想できないように、予測不能のスリリングなものになる。それを朗読者は楽しみ、聴き手もまたスリリングに楽しむことができる。予定調和とは対極にあるパフォーマンスだ。

もうひとつ大切なこと。
このように準備されていく朗読表現だが、その目的はけっして朗読者の「優越性」を誇示することではない、ということだ。
人のおこなう多くのパフォーマンスが、
「どうだ、すごいでしょう。あなたにはこんなことはできないでしょう」
といった類いの、パフォーマーの優越性を示すものであるのに対して、現代朗読はけっしてそれをおこなわない。
現代朗読では、ただ朗読者の正直なありようを誠実に示し、共感の場を作ることをめざす。朗読者と聴き手はおなじ空間と時間を共有し、ともになにかを感じあう。人と人とのつながりの質を高め、確認する。
そのために私たちは朗読をおこなうのだ。それ以上でもそれ以下でもない。