新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。
本を読むにしてもなんにしても、「なにかを読む」というと、現代人(現代っこ)はとかく「文字情報を視覚的に処理して理解する」という行動にかたよる癖があります。また教育の現場でもそれが子どもたちに求められている面もあります。「効率」や、高い理解度による「適切な解」を出すことが優先される社会構造が背景にあるためです。
明治中期以前、文字は「声を出して読むもの」でした。寺子屋では論語を朗唱しましたし、家庭ではお父さんが声をあげて新聞を読んでいました。もちろん寝物語などで祖父母やお母さんから昔話や童話を語ったり読んだりもしていました。これはいまでもありますが。
声を出して文字を読むことが一種の「身体運動」であることは、序章に書きました。この運動と本の内容を理解するという情報処理が結びついたとき、子どもは体験としての読書を深めます。
明治中期以降、西洋化と近代化を急いだ日本は、大量の情報を取りいれる必要性から、読書はもっぱら黙読が普通になりました。当然、黙読のほうが速く本を読めるからです。しかも読むのは通りいっぺんのみ。これは「情報処理」が主目的であって、「読書体験」としては薄っぺらいものだといわざるをえません。
私たちはいま一度、「読む」という行為は「発語」が第一であり、声と言葉は身体から発せられるものであることを見つけなおしたいのです。「読む」という行為も、黙読のほかに、「身体を使って声を発する」という、私たちの存在そのものである身体と密接に結びついた行為であることを、あらためて声を出すことによって確認します。
(中略)
そもそも、ある文章の「意味がわかる」とはどういうことでしょう。個々のことばの意味情報がわかれば「わかる」とかんがえがちですが、文学作品の「意味」とはそのような一義的なものではありません。平易なことばが使われていても、その本当の意味をつかまえることが難しい作品はいくらでもありますし、その逆のこともいえます。表面的な「意味」ではなく、その作品のことばや文章の感触そのものを味わうには、音読ほど適した方法はありません。だから、ここでは、文章の難度を年齢にあてはめようとはしていません。むずかしい作品や古典作品も子どもたちは平気で読み、楽しんでくれるでしょう。
エチュードをくりかえすことによって、声を出すことの喜びや、言葉そのものの味わいと感触があらわれてきます。またそのことを「頭」もまた喜んで迎えいれはじめるはずです。
(第一章より)
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