新刊『音読・群読エチュード』から抜粋して紹介します。
(前略)
音読をするというと、人は多くが、「文章」や「声」や「言葉」にしか意識が向きません。目で文字を読んで、頭で処理して、口と喉を使って声と言葉にしている、そのような身体の「部分」にしか意識が向いていないことが多いのです。すると、とても薄っぺらな、クォリティの低い表現になってしまいます。
声を発するという行為は全身を使っています。頭部の筋肉や骨格はもちろん、喉と声帯、呼吸をつかさどる筋肉群、そして姿勢をコントロールする筋肉と骨格。部分ではなく全体を意識できたとき、音読の質は大きく変化します。たとえれば、ロボットの音読と人の朗読の違い。情報処理としての音読と、全身運動としての音読の違いといってもいいでしょう。
ところが、いま述べたように、分業化が進んだ現代生活では、一見それに必要な「部分」にしかスポットがあてられないことが多いのです。音読の場合、その技術的な側面が重視されます。発音の明瞭さ、アクセントの正しさ、漢字の読み方といった「部分」です。そのせいで、身体全体に注意が向くことは少なく、口まわりのことばかり重視されがちになります。
まずは言葉を発する行為が全身運動であるということに立ちかえってみたいと思います。
言葉が身体と接続していることは少しかんがえればわかることだし、また身体と接続していない言葉は空虚です。
「バナナ」という言葉をかんがえたとき、私たちはバナナという果物が持っている手触りやにおい、味、食感などを瞬時にイメージすることができます。それはバナナについての身体経験を私たちが持っており、その身体経験とバナナという言葉がとどこおりなく接続しているからです。
もしバナナを見たことも食べたこともない人が「バナナ」という言葉を音読したとき、その音声は「バナナ」という物体を指ししめす言語記号ではあるけれど、その人固有の身体経験としての実感をともなった言葉として発せられてはいません。
声や言葉の質感は、身体の状態と密接につながっており、身体の状態が変化すれば声も変化します。「悲しい」という感情があるから悲しい声が出るのではなく、悲しい感情でもたらされた「悲しみをおぼえているときの身体の状態」が悲しげな声を作るのです。声は身体から出てくるものである以上、身体状況に左右されます。
言葉を「意味を伝える情報」ではなく「自分を表現する身体表出」としてとらえたとき、言語コミュニケーションが豊かになります。
(第三章より)
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