あらためてレポートを出すが、簡単な感想を書いておく。
ライブや公演が終わると、こういうことをやっている人ならだれもが経験のあることだと思うけれど、さまざまなリアクションがある。
観終わったあとのアンケートに回答してくれた人たちもいれば、直接感想を聞かせてくれた人もいる。
メールをくれる人や、SNSやブログへのコメントをくれる人もいる。
直接ではなく、間接的に出演者へ伝えてきて、それが私の耳にはいることもある。
現代朗読の公演では、毎回、賛否両論がある。
それは私にとってうれしいことだ。
なぜなら、観に来てくれる人たちにはさまざまな価値観や大切にしていることがあり、それが私たちの価値観とかならずしも一致するとはかぎらないし、むしろ一致しないことがあたりまえだ。
その上で「楽しませてもらった」といってくれる人はありがたいし、「こんなのお金払って観にくるようなものじゃない」と怒りをあらわにする人もいて、それはそれでひとつのメッセージだと受けとることにしている。
反応も沈着冷静なものから、激情型のものまで、いろいろある。
私たちがやっているのは、既成の(外側からあたえられた)価値観を慎重に解体し、自分たちの内側から出てくる創造的な表現欲求を丁寧に扱って、なにかの枠組みにとらわれない表現の場を作ることだ。
当然のことながら、既成の枠組みのなかにある表現を期待してくる人には期待はずれだろう。
このようなあたらしいものを受けいれるには観る側にも開かれた感受性が必要なことは、容易に想像できる。
そしてそんな人ばかりが観に来てくれるわけではないことも。
ともあれ、賛否両論が噴出したというのは、私にとってお祝いしたいことなのだ。
ああ、この方向性でいいのだな、と確認できる。
賛否両論が出てこなくなったとき、たぶんそこには創造性は失われてしまったんだろうし、そういう場所には私は行きたくない。
水城ゆうブログ
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2013年4月21日日曜日
2013年4月20日土曜日
キッズ3公演初日
昨日・今日と、明大前キッド・アイラック・アート・ホールで現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」を開催している。
昨日は午前中から羽根木の家に行き、公演の準備やらリハーサルやら。
私も機材準備など。
午前中のうちに終わってしまって、あとはなにもすることなし。
いったん帰る人、食事に出る人、昼寝する人、うだうだする人、いろいろ。
午後3時すぎ、移動準備。
機材を運ぶタクシー組と徒歩組にわかれて移動。
私は歩いて明大前まで移動。
午後4時すこし前、ホール入り。
会場準備、機材セッティング。
今回、舞台監督(ブタカン)を買って出てくれた福豆豆子がきっちり仕切ってくれたので、役割分担がしっかりしていて、とても安心・スムーズ。
私も、いつも音響や映像機材でドタバタするのだが、今回はブタカンが菜穂子さんを「秘書」としてつけてくれたので楽させてもらった。
今回もホールの早川くんが音響と照明をやってくれたのだが、その仕込みと場当たり、リハーサルが同時進行。
こちらもスムーズに進み、ほぼ定刻どおりに開場できた。
19時半、開場。
定員30名のところ、35名まで受け付けてなんとか席を作り、あとはお断りしたので、満席。
ライブワークショップ参加の百絵ちゃん、珪子さん、梓さんの3人に前説をやってもらう。
20時、開演。
そしてあとは怒濤のパフォーマンス。
一瞬たりとも眼を離せないスリリングな内容で、朗読公演という型からは完全に逸脱しているが、どこにもない、だれもやったことのない表現の形が生まれたのではないかと思う。
今回、カメラを贅沢にも4台回して記録をとったので、この模様はあらためて映像作品にまとめたいと思っている。
21時半、終演。
お客さんたちも興奮ぎみで、撤収に22時すぎまでかかってしまった。
歩いて家に帰ったが、私もちょっとエキサイトしていて、ウイスキーを一杯ひっかけてから眠った。
そして今日。
これから2回めのキッズ3公演。
昨日は午前中から羽根木の家に行き、公演の準備やらリハーサルやら。
私も機材準備など。
午前中のうちに終わってしまって、あとはなにもすることなし。
いったん帰る人、食事に出る人、昼寝する人、うだうだする人、いろいろ。
午後3時すぎ、移動準備。
機材を運ぶタクシー組と徒歩組にわかれて移動。
私は歩いて明大前まで移動。
午後4時すこし前、ホール入り。
会場準備、機材セッティング。
今回、舞台監督(ブタカン)を買って出てくれた福豆豆子がきっちり仕切ってくれたので、役割分担がしっかりしていて、とても安心・スムーズ。
私も、いつも音響や映像機材でドタバタするのだが、今回はブタカンが菜穂子さんを「秘書」としてつけてくれたので楽させてもらった。
今回もホールの早川くんが音響と照明をやってくれたのだが、その仕込みと場当たり、リハーサルが同時進行。
こちらもスムーズに進み、ほぼ定刻どおりに開場できた。
19時半、開場。
定員30名のところ、35名まで受け付けてなんとか席を作り、あとはお断りしたので、満席。
ライブワークショップ参加の百絵ちゃん、珪子さん、梓さんの3人に前説をやってもらう。
20時、開演。
そしてあとは怒濤のパフォーマンス。
一瞬たりとも眼を離せないスリリングな内容で、朗読公演という型からは完全に逸脱しているが、どこにもない、だれもやったことのない表現の形が生まれたのではないかと思う。
今回、カメラを贅沢にも4台回して記録をとったので、この模様はあらためて映像作品にまとめたいと思っている。
21時半、終演。
お客さんたちも興奮ぎみで、撤収に22時すぎまでかかってしまった。
歩いて家に帰ったが、私もちょっとエキサイトしていて、ウイスキーを一杯ひっかけてから眠った。
そして今日。
これから2回めのキッズ3公演。
福井県立病院ピアノコンサート「春の小川」
2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。
曲目
・春の小川 作曲:岡野貞一
この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
曲目
・春の小川 作曲:岡野貞一
この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
2013年4月19日金曜日
福井県立病院ピアノコンサート「花」
2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。
曲目
・花 作曲:滝廉太郎
この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
曲目
・花 作曲:滝廉太郎
この曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
2013年4月18日木曜日
ひさしぶりミズキランチ、明日はキッズ公演
数年前はちょくちょくやっていたワンコイン・ミズキランチを、今日はひさしぶりにサービス。
これはゼミ参加者限定、数量限定で私がランチを作って、500円で提供するというサービスで、もちろん営利が目的なのではなく、私の料理の楽しみとみんなとのつながりを満たすためにおこなうものだ。
震災以後、なぜかやらなくなってしまったのだが、気が向いたので再開してみることにした。
今日の献立は豚丼、モヤシとシメジのナムル、パスタサラダ、ジャガイモとワカメの味噌汁。
KAT、野々宮、唐ちゃんと楽しくいただく。
午後は昼ゼミ、夜ゼミだったが、どちらも明日と明後日の現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の準備と稽古。
いわゆる「キッズ3」公演だが、明日の分はすでに満席・予約完了となっていて、あらたな申しこみをお断りしている状況だ。
明後日の分はあと何席かは残っている。
公演詳細はこちら。
ところで、今日は予期しないことが起こった。
出演者のひとりの平田くんが都合で出られなくなってしまったのだ。
「予期しない」と書いたが、こういう事態も起こりうるということを予期しておこう、ということはすでに何度かいってあったことなので、少なくとも私自身は冷静に対処できた。
代役をかんがえて連絡すると、ほかの人たちもすぐに動いて対処してくれた。
だれも平田くんに文句をいうものはいない。
なにより出られなくて一番残念なのは平田くんであることはみんなもよくわかっている。
直接平田くんに共感してあげたいが、それは公演が終わってからのことになるだろう。
私も明日の準備。
音響と撮影機材を確認する。
照明をやってくれるホールの早川くんに渡すための照明プラン(といっても簡単なメモのようなものだが)を作る。
今回は当日スタッフのことをみんなが手分けしてかんがえてくれ、とくにブタカン役のずずこさんがきっちりとやってくれているので、私はとても安心していられるし、私が集中したいことに集中していられるので助かっている。
げろきょもここまでしっかりとしたつながりのある集まりになってきたということを実感して、仲間たちに感謝するばかりだ。
これはゼミ参加者限定、数量限定で私がランチを作って、500円で提供するというサービスで、もちろん営利が目的なのではなく、私の料理の楽しみとみんなとのつながりを満たすためにおこなうものだ。
震災以後、なぜかやらなくなってしまったのだが、気が向いたので再開してみることにした。
今日の献立は豚丼、モヤシとシメジのナムル、パスタサラダ、ジャガイモとワカメの味噌汁。
KAT、野々宮、唐ちゃんと楽しくいただく。
午後は昼ゼミ、夜ゼミだったが、どちらも明日と明後日の現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の準備と稽古。
いわゆる「キッズ3」公演だが、明日の分はすでに満席・予約完了となっていて、あらたな申しこみをお断りしている状況だ。
明後日の分はあと何席かは残っている。
公演詳細はこちら。
ところで、今日は予期しないことが起こった。
出演者のひとりの平田くんが都合で出られなくなってしまったのだ。
「予期しない」と書いたが、こういう事態も起こりうるということを予期しておこう、ということはすでに何度かいってあったことなので、少なくとも私自身は冷静に対処できた。
代役をかんがえて連絡すると、ほかの人たちもすぐに動いて対処してくれた。
だれも平田くんに文句をいうものはいない。
なにより出られなくて一番残念なのは平田くんであることはみんなもよくわかっている。
直接平田くんに共感してあげたいが、それは公演が終わってからのことになるだろう。
私も明日の準備。
音響と撮影機材を確認する。
照明をやってくれるホールの早川くんに渡すための照明プラン(といっても簡単なメモのようなものだが)を作る。
今回は当日スタッフのことをみんなが手分けしてかんがえてくれ、とくにブタカン役のずずこさんがきっちりとやってくれているので、私はとても安心していられるし、私が集中したいことに集中していられるので助かっている。
げろきょもここまでしっかりとしたつながりのある集まりになってきたということを実感して、仲間たちに感謝するばかりだ。
福井県立病院ピアノコンサート「ふるさと ~ 青い空、白い雲」
2013年4月15日、福井県立病院のエントランスホールにて水城ゆうがおこなったピアノコンサートの模様から、抜粋してお届けします。
曲目
・故郷(ふるさと) 作曲:岡野貞一
・青い空、白い雲 作曲:水城ゆう
この2曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
曲目
・故郷(ふるさと) 作曲:岡野貞一
・青い空、白い雲 作曲:水城ゆう
この2曲を含む水城ゆうの最新アルバムが以下のサイトから全曲試聴できます。
ダウンロードしてお買い求めいただくこともできます。
⇒ http://yuumizuki.bandcamp.com
徳島でのワークショップ(6/16)について
6月に徳島まで現代朗読のワークショップとライブのために行くことになった。
そのことについて、徳島支部(?)のたるとさんが書いてくれていたので、紹介しておく。
------------
人は いったい何をもって いいなぁと思ったり ひきつけられたりするんだろうか?
いろんな友達の演奏や朗読 歌 踊り・・・
プロと呼ぶような人たちではないけれど そういうものに出会う機会には わたしは恵まれている
たいていは 無料だし 食事したり何か飲みながらだったりで
がやがやとうるさい場所でのパフォーマンス
ひどい場合には いつ その人が登場して 何をやって終わったかだれも気にも留めない
なんて言う場合すらある
が・・・時には みんなが食い入るように見たり 注目したりすることがある
この人は じょうずだから とか 初めての人だからとか 久しぶりで珍しいとか
そういう場合もあるが はっと心惹かれて 注目するという状態
しかも みんなが ずっと見てくれるというのが最高にすばらしいことで
なんとか そうなりたいと 日々思っている
ただ
残念ながら 朗読は もう始まった途端 みんなの興味は他へといってしまうことが多い
そういう騒がしい場所にそぐわない 似合わないというのもあるかもしれないが
わたしは それはやはり言い訳けに過ぎないと思ったりする
たしかに 音楽とか踊りと違って 言葉の意味をきちんと聞くのは 騒がしい場所ではむずかしい
そのジレンマに 苦しんできた
そして出会ったもの。。。
朗読を 本の内容を伝えるだけじゃない
自分を表現するものとして確立しようとしているのが 現代朗読協会だと思う
そして 今や 音楽や踊りや 絵や そのほかの芸術に負けない
いやそれらよりも もっと自由で どこまでも限りない表現の世界を
目指しているのが 現代朗読だと思う
実際 その公演は もう 朗読なんて とは言わせない
朗読という言葉を超越した ものすごいものになっている
わたしが 現代朗読の門をたたいた時には 想像もしなかったような世界が
この数年で 実現しているのには びっくりで
そのスピードに振り落とされそうになりながら かろうじてくっついている
あ~~ その 現代朗読のパフォーマンスが
徳島の地に また降り立つ
6月16日(日曜日) 午後2時~5時
ワークショップ ぶつだんのもり(大松店)いきいき館5F
参加費 3500円
6月16日(日曜日) 午後7時~9時
朗読パフォーマンス 花杏豆(八万店)
チケット料金 無料(太っ腹!) 飲食だけお願いします
楽器や踊りなどのコラボ 飛び入りでの朗読参加なども大歓迎!
演奏でも 踊りでも 歌でも
表現にかかわることに興味のある人は ぜったい参加するべし! 朗読はただの手段です
自分の表現の広がりのために ワークショップの参加をお勧めします
東京に行かなければ受けられないので 徳島の近くの方はチャンスです
また その日の夜おこなわれる朗読ライブは・・・これは 絶対見なくちゃ損です!
こんな朗読が かつてあったでしょうか?いや ない・・・!
泣く子も黙る そんな朗読です
騒がしい店内も きっとしーんとするはず
興味本位で構わない ぜひ足を運んで下さい
驚きの世界をお見せします
そろそろ 近づいてきました
ワークショップのお申し込みは わたしまで
お早目に
ライブに行きたい という声も 耳をダンボにしてお待ちしています
------------
そのことについて、徳島支部(?)のたるとさんが書いてくれていたので、紹介しておく。
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人は いったい何をもって いいなぁと思ったり ひきつけられたりするんだろうか?
いろんな友達の演奏や朗読 歌 踊り・・・
プロと呼ぶような人たちではないけれど そういうものに出会う機会には わたしは恵まれている
たいていは 無料だし 食事したり何か飲みながらだったりで
がやがやとうるさい場所でのパフォーマンス
ひどい場合には いつ その人が登場して 何をやって終わったかだれも気にも留めない
なんて言う場合すらある
が・・・時には みんなが食い入るように見たり 注目したりすることがある
この人は じょうずだから とか 初めての人だからとか 久しぶりで珍しいとか
そういう場合もあるが はっと心惹かれて 注目するという状態
しかも みんなが ずっと見てくれるというのが最高にすばらしいことで
なんとか そうなりたいと 日々思っている
ただ
残念ながら 朗読は もう始まった途端 みんなの興味は他へといってしまうことが多い
そういう騒がしい場所にそぐわない 似合わないというのもあるかもしれないが
わたしは それはやはり言い訳けに過ぎないと思ったりする
たしかに 音楽とか踊りと違って 言葉の意味をきちんと聞くのは 騒がしい場所ではむずかしい
そのジレンマに 苦しんできた
そして出会ったもの。。。
朗読を 本の内容を伝えるだけじゃない
自分を表現するものとして確立しようとしているのが 現代朗読協会だと思う
そして 今や 音楽や踊りや 絵や そのほかの芸術に負けない
いやそれらよりも もっと自由で どこまでも限りない表現の世界を
目指しているのが 現代朗読だと思う
実際 その公演は もう 朗読なんて とは言わせない
朗読という言葉を超越した ものすごいものになっている
わたしが 現代朗読の門をたたいた時には 想像もしなかったような世界が
この数年で 実現しているのには びっくりで
そのスピードに振り落とされそうになりながら かろうじてくっついている
あ~~ その 現代朗読のパフォーマンスが
徳島の地に また降り立つ
6月16日(日曜日) 午後2時~5時
ワークショップ ぶつだんのもり(大松店)いきいき館5F
参加費 3500円
6月16日(日曜日) 午後7時~9時
朗読パフォーマンス 花杏豆(八万店)
チケット料金 無料(太っ腹!) 飲食だけお願いします
楽器や踊りなどのコラボ 飛び入りでの朗読参加なども大歓迎!
演奏でも 踊りでも 歌でも
表現にかかわることに興味のある人は ぜったい参加するべし! 朗読はただの手段です
自分の表現の広がりのために ワークショップの参加をお勧めします
東京に行かなければ受けられないので 徳島の近くの方はチャンスです
また その日の夜おこなわれる朗読ライブは・・・これは 絶対見なくちゃ損です!
こんな朗読が かつてあったでしょうか?いや ない・・・!
泣く子も黙る そんな朗読です
騒がしい店内も きっとしーんとするはず
興味本位で構わない ぜひ足を運んで下さい
驚きの世界をお見せします
そろそろ 近づいてきました
ワークショップのお申し込みは わたしまで
お早目に
ライブに行きたい という声も 耳をダンボにしてお待ちしています
------------
2013年4月17日水曜日
福井、小松、羽田、東京もどり
今朝は早朝から実家の仕事をしていたので、歩数計は10,000歩を超えている。
そして朝から手打ちそば。
昨日の夕方、たらふく食ったのだが、その残りを今朝も食べた。
ひと晩おいてもうまい。
そして東京へ移動。
いつもツイッターで流している移動中の景色やスナップを、今日はなんとなくフェイスブックのほうに流してみた。
するとコメントやら「イイネ」がたくさんついて、反応が全然違う(だからといってフェイスブック礼賛というわけではない)。
私が流した写真で、地元の弁天桜という桜の名所の宣伝看板や恐竜のゆるキャラもどき、車止めの設備があまりにひどいという声が起こり(私もそう思う)、そのことについてあらためてかんがえさせられ機会が生まれた。
小松空港から羽田へ。
予定どおり飛んだのだが、いつもは曇っていても上空にあがれば視界は開けるのに、春のせいか今日はずっと視界は真っ白。
なにも見えない。
写真は飛びたってしばらくしてから見えた私の実家の上空。
この画面のなかにブッチャーの額のようなスキージャム、オオタカの舞う里山を切り開いて作ったピカピカ卵のような恐竜博物館、そして私の家が写っている。
東京にもどったら、明後日から2日間開催する現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の予約がたくさんはいっていて、明後日・金曜日19日の分はすでに予約定員を突破。
予約を締め切る。
なのに、まだ申しこんでくる人がいるので、残念ながらお断りせざるをえない。
ずっと「ご予約はお早めに」とお願いしていたんだけどな。
今後、きっと、現代朗読の公演は予約が取りにくくなるよ、と希望的に予言しておこう。
夜は安納献先生による共感的コミュニケーション講座。
講座の前に(献ちゃんとは別の)賢さんといっしょに「虎の穴」ならぬ「キリンの穴」をやっていて、それが大変おもしろかった。
もちろん講座本編も学びの多い時間であることはいうまでもないけれど。
のぞみさんがあるイベントで私の「quiet pictures 2」の曲を使いたいといって、CDを購入してくれた。
購入しなくても使ってもらうのはかまわないのに、わざわざ購入していただいたことにのぞみさんの私に対するある種の尊重とつながりの気持ちを受け取ることができて、とてもうれしい。
ありがとう、のぞみさん。
「quiet pictures」のシリーズについては、私が思いがけずギフトされることが多くて、感慨深い。
そして朝から手打ちそば。
昨日の夕方、たらふく食ったのだが、その残りを今朝も食べた。
ひと晩おいてもうまい。
そして東京へ移動。
いつもツイッターで流している移動中の景色やスナップを、今日はなんとなくフェイスブックのほうに流してみた。
するとコメントやら「イイネ」がたくさんついて、反応が全然違う(だからといってフェイスブック礼賛というわけではない)。
私が流した写真で、地元の弁天桜という桜の名所の宣伝看板や恐竜のゆるキャラもどき、車止めの設備があまりにひどいという声が起こり(私もそう思う)、そのことについてあらためてかんがえさせられ機会が生まれた。
小松空港から羽田へ。
予定どおり飛んだのだが、いつもは曇っていても上空にあがれば視界は開けるのに、春のせいか今日はずっと視界は真っ白。
なにも見えない。
写真は飛びたってしばらくしてから見えた私の実家の上空。
この画面のなかにブッチャーの額のようなスキージャム、オオタカの舞う里山を切り開いて作ったピカピカ卵のような恐竜博物館、そして私の家が写っている。
東京にもどったら、明後日から2日間開催する現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」の予約がたくさんはいっていて、明後日・金曜日19日の分はすでに予約定員を突破。
予約を締め切る。
なのに、まだ申しこんでくる人がいるので、残念ながらお断りせざるをえない。
ずっと「ご予約はお早めに」とお願いしていたんだけどな。
今後、きっと、現代朗読の公演は予約が取りにくくなるよ、と希望的に予言しておこう。
夜は安納献先生による共感的コミュニケーション講座。
講座の前に(献ちゃんとは別の)賢さんといっしょに「虎の穴」ならぬ「キリンの穴」をやっていて、それが大変おもしろかった。
もちろん講座本編も学びの多い時間であることはいうまでもないけれど。
のぞみさんがあるイベントで私の「quiet pictures 2」の曲を使いたいといって、CDを購入してくれた。
購入しなくても使ってもらうのはかまわないのに、わざわざ購入していただいたことにのぞみさんの私に対するある種の尊重とつながりの気持ちを受け取ることができて、とてもうれしい。
ありがとう、のぞみさん。
「quiet pictures」のシリーズについては、私が思いがけずギフトされることが多くて、感慨深い。
ギフトすることはギフトされること
日本にやってくる各国のNVCトレーナーたちは、羽根木の家に宿泊したり、ミニワークショップを開催したりするので、私はひそかに羽根木の家は日本におけるNVCのメッカのようなものだと思っている。
5月に来日するブリジッド・ベルグレーブ(イギリス)も羽根木の家に滞在する予定になっている。
私もおよばずながらお世話することが多いのだが、その際に私自身の紹介として音楽CD「quiet pictures」をプレゼントしていた。
うれしいことに、トレーナーのなかにはそれをワークショップのときに流している、という人もいたりする。
静かなCDで、NVC的といえばいえる。
私としては瞑想音楽(music meditation)として作ったものなので、NVCの静かなワークにしっくりくるのかもしれない。
今回、「quiet picture」の2と3がつづけて完成したので、安納献くんを通して各国トレーナーたちにまた送らせてもらった。
ネットがあるので便利。
そしたら、聴いてくれたトレーナーたちから次々とメールをいただいた。
とてもうれしい。
献ちゃんは「Gift from Mizuki」と題して送ってくれたのだが、逆に私のほうがみんなからギフトをもらったような気分になっている。
聴いてくれてありがとう、と。
リブ・ラーソンからはピアニストの友人とシェアしたいという連絡をもらった。
カイ・ラングからは、北スウェーデンの春の光のなかで聴いて美しい春が心にあふれた、と伝えられた。
バーバラ・コーチャンは、明日の朝ワシントンでママと会うことになっているんだけど、いっしょに聴きたい、といってくれた。
キャサリン・カデンからは、たくさんのニーズに会えて喜んでいる、といってもらえた。
これらは全部、私への贈り物だ。
この音楽はこちらから全曲聴けます。
お金を払わなくても聴けますが、もちろんお金を払ってもらってもかまいません。
5月に来日するブリジッド・ベルグレーブ(イギリス)も羽根木の家に滞在する予定になっている。
私もおよばずながらお世話することが多いのだが、その際に私自身の紹介として音楽CD「quiet pictures」をプレゼントしていた。
うれしいことに、トレーナーのなかにはそれをワークショップのときに流している、という人もいたりする。
静かなCDで、NVC的といえばいえる。
私としては瞑想音楽(music meditation)として作ったものなので、NVCの静かなワークにしっくりくるのかもしれない。
今回、「quiet picture」の2と3がつづけて完成したので、安納献くんを通して各国トレーナーたちにまた送らせてもらった。
ネットがあるので便利。
そしたら、聴いてくれたトレーナーたちから次々とメールをいただいた。
とてもうれしい。
献ちゃんは「Gift from Mizuki」と題して送ってくれたのだが、逆に私のほうがみんなからギフトをもらったような気分になっている。
聴いてくれてありがとう、と。
リブ・ラーソンからはピアニストの友人とシェアしたいという連絡をもらった。
カイ・ラングからは、北スウェーデンの春の光のなかで聴いて美しい春が心にあふれた、と伝えられた。
バーバラ・コーチャンは、明日の朝ワシントンでママと会うことになっているんだけど、いっしょに聴きたい、といってくれた。
キャサリン・カデンからは、たくさんのニーズに会えて喜んでいる、といってもらえた。
これらは全部、私への贈り物だ。
この音楽はこちらから全曲聴けます。
お金を払わなくても聴けますが、もちろんお金を払ってもらってもかまいません。
2013年4月16日火曜日
今週末の「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演の当日パンフ
(写真は稽古風景)
今週末の金曜日と土曜日に開催される現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」は、残席僅少となってきた。
ご予約はお早めに。
詳細はこちら。
さて、都合で来れないとか、予約が間に合わなかった、という方のために、せめて今日私が書いた当日パンフレットの内容をリークしておきたい。
以下の内容を、当日は美しくレイアウトしたパンフレットにしてご来場の方々にお渡しする予定だ。
登場作品
「原体剣舞連」宮澤賢治
「ラムネ氏のこと」坂口安吾
「毒もみのすきな署長さん」宮澤賢治
「温室」水城ゆう
「子どものころの七つの話」水城ゆう
作・構成・演出
水城ゆう
出演
内野明香
唐ひづる
KAT
佐田百絵
佐藤孟陽
高崎梓
てんトコロ
徳永珪子
野々宮卯妙
玻瑠あつこ
晩衛
平田修一
福豆豆子
水城ゆう
宮本菜穂子
山田みぞれ
美子
音響・照明
早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)
挨拶文:
現代朗読2013年春公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」へようこそお越しくださいました。
「キッズ・イン・ザ・ダーク」シリーズ(いつのまにシリーズに?)も今回で3回めとなりました。2012年夏、2012年末ときて、そして今回2013年春。
通してご覧いただいた方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃるなら、私たちが毎回バージョンアップを重ねてきていることに気づいたと思います。それはそうですね。メンバーこそ多少入れ替わるとはいえ、現代朗読という方法で作られた公演が、回を重ねるごとにエキサイト……いや、バージョンアップしていくのは当然といえましょう。パソコンのOSがバージョンアップのたびに機能が増えて重くなるように。
いえいえ、私たちはウインドウズのように回を重ねるたびに重くはなりませんよ。内容はどんどん濃くなりますが、むしろ軽快になり、ユーザーフレンドリーになってます。そのへんはアップルの……これ以上はいいませんが。
今回の公演のテーマは「いのちの祝福」です。いろいろな意味で困難な時代を迎え、この先に不安をおぼえている人も多いかと思いますが、そんななかでも喜びと笑い、まじめさも滑稽さも合わせもったいのちの輝きを失わずに生きていければ、という願いをこめて今回のプログラムを作りました。
みなさんもいっしょに声を出したり、身体を動かしたりして参加してください。ほら、そこにただすわって観ているだけじゃなく、私たちの輪のなかにはいってきていただいていいんですよ。
この公演は現代朗読のひとつのステップであり、さらに広々とした表現の世界に出ていくためのスタート地点ともなっています。そのことをご来場のみなさんと共有できれば幸いです。
本日はお越しいただいてありがとうございました。
(現代朗読協会主宰・水城ゆう)
今週末の金曜日と土曜日に開催される現代朗読公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」は、残席僅少となってきた。
ご予約はお早めに。
詳細はこちら。
さて、都合で来れないとか、予約が間に合わなかった、という方のために、せめて今日私が書いた当日パンフレットの内容をリークしておきたい。
以下の内容を、当日は美しくレイアウトしたパンフレットにしてご来場の方々にお渡しする予定だ。
登場作品
「原体剣舞連」宮澤賢治
「ラムネ氏のこと」坂口安吾
「毒もみのすきな署長さん」宮澤賢治
「温室」水城ゆう
「子どものころの七つの話」水城ゆう
作・構成・演出
水城ゆう
出演
内野明香
唐ひづる
KAT
佐田百絵
佐藤孟陽
高崎梓
てんトコロ
徳永珪子
野々宮卯妙
玻瑠あつこ
晩衛
平田修一
福豆豆子
水城ゆう
宮本菜穂子
山田みぞれ
美子
音響・照明
早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)
挨拶文:
現代朗読2013年春公演「キッズ・イン・ザ・ダーク 〜 春の宴」へようこそお越しくださいました。
「キッズ・イン・ザ・ダーク」シリーズ(いつのまにシリーズに?)も今回で3回めとなりました。2012年夏、2012年末ときて、そして今回2013年春。
通してご覧いただいた方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃるなら、私たちが毎回バージョンアップを重ねてきていることに気づいたと思います。それはそうですね。メンバーこそ多少入れ替わるとはいえ、現代朗読という方法で作られた公演が、回を重ねるごとにエキサイト……いや、バージョンアップしていくのは当然といえましょう。パソコンのOSがバージョンアップのたびに機能が増えて重くなるように。
いえいえ、私たちはウインドウズのように回を重ねるたびに重くはなりませんよ。内容はどんどん濃くなりますが、むしろ軽快になり、ユーザーフレンドリーになってます。そのへんはアップルの……これ以上はいいませんが。
今回の公演のテーマは「いのちの祝福」です。いろいろな意味で困難な時代を迎え、この先に不安をおぼえている人も多いかと思いますが、そんななかでも喜びと笑い、まじめさも滑稽さも合わせもったいのちの輝きを失わずに生きていければ、という願いをこめて今回のプログラムを作りました。
みなさんもいっしょに声を出したり、身体を動かしたりして参加してください。ほら、そこにただすわって観ているだけじゃなく、私たちの輪のなかにはいってきていただいていいんですよ。
この公演は現代朗読のひとつのステップであり、さらに広々とした表現の世界に出ていくためのスタート地点ともなっています。そのことをご来場のみなさんと共有できれば幸いです。
本日はお越しいただいてありがとうございました。
(現代朗読協会主宰・水城ゆう)
春の早朝の里山の風景
自分のボケのおかげで、春の里山を早朝からドライブしてきた。
MacBookのACアダプタを東京から持ってかえるのを忘れて、昨日ヤマダ電機で購入したにもかかわらず、それをまた県立病院のピアノコンサートで置きわすれて帰ってきてしまったのだ。
今朝は日の出の時刻から県立病院に向かった。
2番めの写真は永平寺町の山裾の風景。
古い家と田畑とこんもりした木立と山並みが大変美しい。
が、よく見ると左の背後に中部縦貫道路という高速道路の橋脚がならんでいて、もうすぐこのすぐ背後に高速道路が通って、この風景も終了。
残念なことである。
九頭竜川の堤防にはまだまだ桜が咲いていた。
私が子どものころからある桜のトンネルを写そうと思ったのだが、広告の看板や提灯がたくさんさがっていたので、やむなく堤防から川のほうを透かして撮る。
鯉のぼりが川を渡してたくさん泳いでいたが、それは夏の風景でしょ。
桜並木を離れると、河原には新緑が芽吹きはじめていて、気持ちのいい風景がひろがっている。
木立と川面の向こうにはまだ雪をいただいた山並みが見える。
もう道路も橋もダムもいいから、せめて残っている美しい風景を残そうよ、おねがい。
MacBookのACアダプタを東京から持ってかえるのを忘れて、昨日ヤマダ電機で購入したにもかかわらず、それをまた県立病院のピアノコンサートで置きわすれて帰ってきてしまったのだ。
今朝は日の出の時刻から県立病院に向かった。
2番めの写真は永平寺町の山裾の風景。
古い家と田畑とこんもりした木立と山並みが大変美しい。
が、よく見ると左の背後に中部縦貫道路という高速道路の橋脚がならんでいて、もうすぐこのすぐ背後に高速道路が通って、この風景も終了。
残念なことである。
九頭竜川の堤防にはまだまだ桜が咲いていた。
私が子どものころからある桜のトンネルを写そうと思ったのだが、広告の看板や提灯がたくさんさがっていたので、やむなく堤防から川のほうを透かして撮る。
鯉のぼりが川を渡してたくさん泳いでいたが、それは夏の風景でしょ。
桜並木を離れると、河原には新緑が芽吹きはじめていて、気持ちのいい風景がひろがっている。
木立と川面の向こうにはまだ雪をいただいた山並みが見える。
もう道路も橋もダムもいいから、せめて残っている美しい風景を残そうよ、おねがい。
2013年4月15日月曜日
福井県立病院でのピアノコンサート記
福井県立病院での約1時間ほどのピアノコンサートを先ほど終えて帰ってきたばかり。
昨日、実家に帰省して、MacBookのACアダプターを忘れてあせってしまっていたのだが、今日午前中に福井のヤマダ電機まで駆けつけてさっそく購入(余計な出費だが、いざというときのためにこれは実家に常備しておこう)。
そのあと、父方の叔母の法事のために寺に行く。
12時前に終わって、どこかでMacBookを充電しようと思ったのだが、なかなかいい場所を思いつかない。
早めに病院に行ってしまうことにして、一番すいていた産婦人科の診察室の待合所のベンチで盗電。
その後、病院の担当の方から連絡がはいり、控え室に案内される。
こちらでようやく堂々と充電。
コンサート開始までに半分くらいまで充電できた。
13時半になって、ピアノのところへ行ってみると、けっこうな数の人が聴きにきてくれている。
ありがたい。
知り合いも何人かわざわざ来てくれていて、話をさせてもらった。
13時半になったので、演奏スタート。
今日は日本の春の曲を中心にやらせてもらった。
「花」「春の小川」など、ほかにも「茶摘」とか、オリジナル曲も。
二度めだったせいか、ピアノが指にだいぶなじんで弾きやすく感じたし、なにより聴いてくれている人たちの反応がうれしくて、しっかりとつながりを感じながら演奏できたような気がする。
ちょっと調子に乗って自分の音からやや逸脱してしまった部分もあったけれど、終わってから涙を流しながら近づいてきて、話しかけてくれた人もいた。
自分の子どものころの、カタクリが咲きみだれる里山の風景を思いだした、といっていただいた。
終わってから同級生の辰巳くんとコーヒー。
彼のおかげでこのコンサートが実現している。感謝。
家に帰ってきたら、病院から留守電がはいっていた。
忘れ物をあずかっているので電話ください、とのこと。
なんだろうと思ってかけてみると、なんと、今日買ったばかりのACアダプターをコンセントのところにつなぎっぱなしで忘れてきてしまったのだった。
こういう「ぼけ」はなぜかつづくことが多い。
守衛さんに預けてもらって、明日の朝一番に取りにいくことになった。
このレポートは残りのバッテリーでかろうじて書いている。
昨日、実家に帰省して、MacBookのACアダプターを忘れてあせってしまっていたのだが、今日午前中に福井のヤマダ電機まで駆けつけてさっそく購入(余計な出費だが、いざというときのためにこれは実家に常備しておこう)。
そのあと、父方の叔母の法事のために寺に行く。
12時前に終わって、どこかでMacBookを充電しようと思ったのだが、なかなかいい場所を思いつかない。
早めに病院に行ってしまうことにして、一番すいていた産婦人科の診察室の待合所のベンチで盗電。
その後、病院の担当の方から連絡がはいり、控え室に案内される。
こちらでようやく堂々と充電。
コンサート開始までに半分くらいまで充電できた。
13時半になって、ピアノのところへ行ってみると、けっこうな数の人が聴きにきてくれている。
ありがたい。
知り合いも何人かわざわざ来てくれていて、話をさせてもらった。
13時半になったので、演奏スタート。
今日は日本の春の曲を中心にやらせてもらった。
「花」「春の小川」など、ほかにも「茶摘」とか、オリジナル曲も。
二度めだったせいか、ピアノが指にだいぶなじんで弾きやすく感じたし、なにより聴いてくれている人たちの反応がうれしくて、しっかりとつながりを感じながら演奏できたような気がする。
ちょっと調子に乗って自分の音からやや逸脱してしまった部分もあったけれど、終わってから涙を流しながら近づいてきて、話しかけてくれた人もいた。
自分の子どものころの、カタクリが咲きみだれる里山の風景を思いだした、といっていただいた。
終わってから同級生の辰巳くんとコーヒー。
彼のおかげでこのコンサートが実現している。感謝。
家に帰ってきたら、病院から留守電がはいっていた。
忘れ物をあずかっているので電話ください、とのこと。
なんだろうと思ってかけてみると、なんと、今日買ったばかりのACアダプターをコンセントのところにつなぎっぱなしで忘れてきてしまったのだった。
こういう「ぼけ」はなぜかつづくことが多い。
守衛さんに預けてもらって、明日の朝一番に取りにいくことになった。
このレポートは残りのバッテリーでかろうじて書いている。
2013年4月14日日曜日
コンピューターが使えなくなったらどうするか
私的な検証をかねて。
今日、東京から福井の田舎に帰省したのだが、いつも愛用しているMacBookの電源アダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
実家に予備は置いてない。
田舎なので近くにアップルストアはない。
実家でも仕事はするし、メールやSNSの連絡、ブログの更新など、MacBookが使えないとなるといろいろと支障が出る。
さいわい、フル充電の状態で持ってきたので、5時間くらいは使えるはずだ。
今日一日と明日の朝くらいまではなんとかなるだろう。
まず液晶の輝度を落として省エネ。
つぎに、近所にMacBookのACアダプタを売っている店がないか、何軒か電話してみる。
全滅(orz)。
福井の市街地まで行けばMacを扱っているショップがあるはずだと思って、調べてみたらヤマダ電機(とあとで地元の友人に教えてもらったケーズデンキ)が扱っているとのこと。
明日、買いに行こう。
そしてそれはそのまま実家に常備しておこう。
それはともかく、これを機に、もしコンピューターが使えなくなったらどうするか、かんがえておくことにした。
さまざまな場面が想定できる。
まずは地震などの自然災害。
首都直下型地震に見舞われ、数日電気が来ない、などということは充分にありうる。
また、移動中に電源が使えなかったり、MacBook自体が壊れたり、といった事態もありうる。
私の使用目的は、コンテンツ製作とネットだ。
コンテンツは音声や動画などもあるが、メインはテキストだ(このブログを書いていることもそうだ)。
ネットはメール、TwitterやFacebookなどSNSでのコミュニケーションと仕事の大事な連絡もある。
ワークショップや講座を持っているので、その対応も必要だ。
販売コンテンツもあるので、それらに関する対応もある。
これらをすべて持ち歩いているMacBookでやっている。
それが使えなくなったら……
テキスト執筆については、紙の手帳にもどることができる。
これは意外に新鮮かもしれない。
時々積極的にやってみてもいいくらいだ。
ネット関連については、iPhoneに頼るしかないだろう。
ネットそのものがダウンしていないかぎり、iPhoneは軽快に使える。
問題は文字入力がもどかしいことだが、まあやれないことはない。
仕事で必要なデータや定型文は、すべてcloudに置いてある。
メール、Evernote、iCloud、その他、MacBookと常に同期してあって、iPhoneからも取りだせるようになっている。
いや、まだ取り出せないデータがいくつかある。
それは早急にEvernoteなどに転送して、取り出せるようにしておこう。
いざというときのために、iPhoneにBluetoothで接続するモバイルキーポードもカバンに入れておくべきだろうか。
そうすればiPhoneの文字入力問題もクリアできる。
危機管理の問題として、もうすこし試行錯誤してみよう。
今日、東京から福井の田舎に帰省したのだが、いつも愛用しているMacBookの電源アダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
実家に予備は置いてない。
田舎なので近くにアップルストアはない。
実家でも仕事はするし、メールやSNSの連絡、ブログの更新など、MacBookが使えないとなるといろいろと支障が出る。
さいわい、フル充電の状態で持ってきたので、5時間くらいは使えるはずだ。
今日一日と明日の朝くらいまではなんとかなるだろう。
まず液晶の輝度を落として省エネ。
つぎに、近所にMacBookのACアダプタを売っている店がないか、何軒か電話してみる。
全滅(orz)。
福井の市街地まで行けばMacを扱っているショップがあるはずだと思って、調べてみたらヤマダ電機(とあとで地元の友人に教えてもらったケーズデンキ)が扱っているとのこと。
明日、買いに行こう。
そしてそれはそのまま実家に常備しておこう。
それはともかく、これを機に、もしコンピューターが使えなくなったらどうするか、かんがえておくことにした。
さまざまな場面が想定できる。
まずは地震などの自然災害。
首都直下型地震に見舞われ、数日電気が来ない、などということは充分にありうる。
また、移動中に電源が使えなかったり、MacBook自体が壊れたり、といった事態もありうる。
私の使用目的は、コンテンツ製作とネットだ。
コンテンツは音声や動画などもあるが、メインはテキストだ(このブログを書いていることもそうだ)。
ネットはメール、TwitterやFacebookなどSNSでのコミュニケーションと仕事の大事な連絡もある。
ワークショップや講座を持っているので、その対応も必要だ。
販売コンテンツもあるので、それらに関する対応もある。
これらをすべて持ち歩いているMacBookでやっている。
それが使えなくなったら……
テキスト執筆については、紙の手帳にもどることができる。
これは意外に新鮮かもしれない。
時々積極的にやってみてもいいくらいだ。
ネット関連については、iPhoneに頼るしかないだろう。
ネットそのものがダウンしていないかぎり、iPhoneは軽快に使える。
問題は文字入力がもどかしいことだが、まあやれないことはない。
仕事で必要なデータや定型文は、すべてcloudに置いてある。
メール、Evernote、iCloud、その他、MacBookと常に同期してあって、iPhoneからも取りだせるようになっている。
いや、まだ取り出せないデータがいくつかある。
それは早急にEvernoteなどに転送して、取り出せるようにしておこう。
いざというときのために、iPhoneにBluetoothで接続するモバイルキーポードもカバンに入れておくべきだろうか。
そうすればiPhoneの文字入力問題もクリアできる。
危機管理の問題として、もうすこし試行錯誤してみよう。
羽田、小松、MacBookの電源忘れた
今日は移動日。
羽田、小松経由で福井の実家へ。
季節柄なのか、やたらと眠い。
飛行機のなかでもバスのなかでも、なにもできずに爆睡。
春は自律神経のリズムが狂いやすく、そのせいでちょっと頭のおかしな人や情緒不安定な人も増えるのだろう。
こういうときは音読療法の呼吸法。
実家に帰って、なんと、MacBookのACアダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
やばい。
MacBookが使えないと仕事ができない。
フル充電にしてあったので5時間くらいはもつはずだが(いまもそれで書いている)、さすがに明日以降はもたない。
あわてて近所の電気屋に電話してみたが、Macは扱っていないという。
福井でMacを扱っているところを検索したら、福井のヤマダ電機が扱っているらしい。
さっそく明日、行って購入しなければ。
それはそのまま実家に置いておくことにしよう。
なんとかなることがわかったが、もしMacBookが完全に使えなくなって丸腰状態になったとき、私はどうするだろうか。
そのことについてちょっとかんがえておこう。
明日は朝から近しい親戚の法事のためにお寺に行って、おっとその前にヤマダ電機に寄って、午後は福井県立病院に行ってピアノコンサート。
1時半から1時間くらい、日本の季節の唱歌を中心に演奏する予定。
無料なので、お近くの方はぜひおいでください。
エントランスホールのグランドピアノを弾きます。
羽田、小松経由で福井の実家へ。
季節柄なのか、やたらと眠い。
飛行機のなかでもバスのなかでも、なにもできずに爆睡。
春は自律神経のリズムが狂いやすく、そのせいでちょっと頭のおかしな人や情緒不安定な人も増えるのだろう。
こういうときは音読療法の呼吸法。
実家に帰って、なんと、MacBookのACアダプターを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
やばい。
MacBookが使えないと仕事ができない。
フル充電にしてあったので5時間くらいはもつはずだが(いまもそれで書いている)、さすがに明日以降はもたない。
あわてて近所の電気屋に電話してみたが、Macは扱っていないという。
福井でMacを扱っているところを検索したら、福井のヤマダ電機が扱っているらしい。
さっそく明日、行って購入しなければ。
それはそのまま実家に置いておくことにしよう。
なんとかなることがわかったが、もしMacBookが完全に使えなくなって丸腰状態になったとき、私はどうするだろうか。
そのことについてちょっとかんがえておこう。
明日は朝から近しい親戚の法事のためにお寺に行って、おっとその前にヤマダ電機に寄って、午後は福井県立病院に行ってピアノコンサート。
1時半から1時間くらい、日本の季節の唱歌を中心に演奏する予定。
無料なので、お近くの方はぜひおいでください。
エントランスホールのグランドピアノを弾きます。
2013年4月13日土曜日
奇跡の13日
明日は早朝から移動日だし、今日も朝からみっちりつまっていた一日だったので、早々に寝ようと思っていたのだが、これだけは書いておこうと思ってキーボードをたたいている。
午前10時から「朗読はライブだ!」ワークショップ全6回の、今日は最終日だった。
このワークショップはこれまで何度もやってきていて、今回がなんと13期となる。
つまり、これまで13回のライブをやってきたのだ。
思いかえすとどれも印象的で、感慨深い。
キッド・アイラック・アート・ホールを借りて現代朗読協会の本公演と合流するスタイルにしたのは、第11期からで、去年の夏のことだった。
その後、12期は年末に、そしてこの13期は来週19日と20日に開催する。
毎回内容が充実してきて、去年の年末公演では「これが現代朗読のひとつの完成形だろう」と思ったほどだが、まだまだ先はあった。
今回はさらに進化して、とても濃い内容となっている。
ワークショップメンバーもよくついてきてくれていて、ひとりひとりがとても個性的で、魅力的でもある。
午後1時に終了したのだが、最後の締めの話をみんなでしたときには、とても感慨深かった。
引き続き、午後2時から公演参加メンバーのゼミ生たちがやってきて、公演の稽古。
出演者の全員がそろう「奇跡の13日」と呼ばれる日となった。
通常はありえないことだろうが、公演前に出演者全員がそろうというのはめずらしくて、それはげろきょがみなさんそれぞれの生活や仕事などのニーズを大切にしているからで、そういう状況でもなんとか公演を成立させる工夫をしている。
今日も最初で最後の全員参加の稽古日だったが、やはり全員そろうというのはうれしいものだ。
しかし、いざ稽古が始まってみると、やばかった。
全員、自由すぎ!
作・演出の私ですら予想もしない読みや動きを次々とくりだしてきて、笑いと驚きをこらえることができない。
私もピアノ演奏で一応出演者のひとりなのだが、完全に観客側にまわって楽しんでしまいそうだ。
盛りだくさんの濃い内容で、お客さんがちゃんとついてこれるかどうか心配になるほどだった。
もうこうなったら、とことんやりぬくしかない。
私も覚悟を決めよう。
(写真は記録映像をヘッドマウントのカメラで撮る役割になったみぞれちゃんの勇姿。ちょっと目つきがやばいけど、これはシャッターチャンスのせいです。本当はみぞれちゃんはとてもかわいい人です)
現代朗読協会公式公演「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」は来週19日(金)夜と20日(土)昼の開催です。
席に限りがあるので、予約はお早めに。
詳細はこちら。
居残ったみんなが自主的な公演の準備をやってくれているかたわらで、午後6時からテキスト表現ゼミ。
初参加のみこちゃんと梓さんを入れて、いつもの奥田くんと植森さん、KATが参加。
小説における読者の視点、主観と客観、ストーリーが自動的に動きだすことの力、そういった話をした(ような気がする)。
午前10時から「朗読はライブだ!」ワークショップ全6回の、今日は最終日だった。
このワークショップはこれまで何度もやってきていて、今回がなんと13期となる。
つまり、これまで13回のライブをやってきたのだ。
思いかえすとどれも印象的で、感慨深い。
キッド・アイラック・アート・ホールを借りて現代朗読協会の本公演と合流するスタイルにしたのは、第11期からで、去年の夏のことだった。
その後、12期は年末に、そしてこの13期は来週19日と20日に開催する。
毎回内容が充実してきて、去年の年末公演では「これが現代朗読のひとつの完成形だろう」と思ったほどだが、まだまだ先はあった。
今回はさらに進化して、とても濃い内容となっている。
ワークショップメンバーもよくついてきてくれていて、ひとりひとりがとても個性的で、魅力的でもある。
午後1時に終了したのだが、最後の締めの話をみんなでしたときには、とても感慨深かった。
引き続き、午後2時から公演参加メンバーのゼミ生たちがやってきて、公演の稽古。
出演者の全員がそろう「奇跡の13日」と呼ばれる日となった。
通常はありえないことだろうが、公演前に出演者全員がそろうというのはめずらしくて、それはげろきょがみなさんそれぞれの生活や仕事などのニーズを大切にしているからで、そういう状況でもなんとか公演を成立させる工夫をしている。
今日も最初で最後の全員参加の稽古日だったが、やはり全員そろうというのはうれしいものだ。
しかし、いざ稽古が始まってみると、やばかった。
全員、自由すぎ!
作・演出の私ですら予想もしない読みや動きを次々とくりだしてきて、笑いと驚きをこらえることができない。
私もピアノ演奏で一応出演者のひとりなのだが、完全に観客側にまわって楽しんでしまいそうだ。
盛りだくさんの濃い内容で、お客さんがちゃんとついてこれるかどうか心配になるほどだった。
もうこうなったら、とことんやりぬくしかない。
私も覚悟を決めよう。
(写真は記録映像をヘッドマウントのカメラで撮る役割になったみぞれちゃんの勇姿。ちょっと目つきがやばいけど、これはシャッターチャンスのせいです。本当はみぞれちゃんはとてもかわいい人です)
現代朗読協会公式公演「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」は来週19日(金)夜と20日(土)昼の開催です。
席に限りがあるので、予約はお早めに。
詳細はこちら。
居残ったみんなが自主的な公演の準備をやってくれているかたわらで、午後6時からテキスト表現ゼミ。
初参加のみこちゃんと梓さんを入れて、いつもの奥田くんと植森さん、KATが参加。
小説における読者の視点、主観と客観、ストーリーが自動的に動きだすことの力、そういった話をした(ような気がする)。
カルメン・マキ&野々宮卯妙ライブ@中野SweetRainに行ってきた
2013年4月12日。午後5時に中野駅北口でマキさん、野々宮と待ち合わせ。
私が出演するライブではないのだが、SweetRainの音響が(ある程度)わかる者がいたほうがいいだろうということで(ここはマスターがいないときはいつも出演者が自主的に調整している&今回はマスターは遅れてくるとの情報あり)、私もリハーサルに顔を出すことにした。
とはいっても、私もPA設備の専門家ではないのだが。
マキさんがなかなか来ないので、時間に正確なマキさんにしてはおかしいなと思っていたら、早く着きすぎてブロードウェイをさまよっていらしたらしい。
ちなみに、マキさんは約束の時間に遅刻したことは(私の知るかぎり)一度もない。
SweetRainへ。
すでにピアノの吉田桂一さんとベースの永田利樹さんが来ていて、音出しをすませている。
ボーカルマイクを2本セッティングして、ミキサーでリバーブやボリューム、パン、イコライザーなどを調整しながら、リハーサルを進めてもらう。
セッティングが終わったら、私はさっさと店を出て、そのへんのカフェで仕事しようと思っていたのだが、なかなかマキさんの思うような音が作れなくて1時間以上あれこれやっていた。なんとかセッティングが終わり、私は近くのファーストフードでコーヒーを飲みながら、Macで作業。
7時を回ったので、店にもどってみると、出演者はだれもいない。
食事(飲み)に出たらしい。
お客さんが次々とやってきた。
今夜は予約だけでも満席らしいのだが、予約なしで来る人もいて、ちょっと混乱。
マキさんと朗読で一緒にされている条田さんがいらしたり、私の個人セッションを受けている人が来てくれたり、音楽塾に来てくれていた大木さんが来てくれたり、伊藤さやかが突然来たりと、盛況。
ゼミ生の植森さんも友人を連れて来てくれた。
神田神保町の〈書泉グランデ〉でやったイベントに来てくれた菜穂子さんの知り合いの杉村さん(?)も来てくれた。
川橋さんもグランデのイベントに来てくれたばかりか、「玉響のとき」にもおいでいただいた。
コンテンポラリー・ミュージック・ピアニストの中村和枝さんも駆けつけてくれた。
店はギュウギュウで、これが私の出演するライブでないのが残念なくらい。
朗読と音楽が絶妙なバランスで配置されたライブで、前半は1時間強、後半もおよそ1時間、アンコールを入れればたっぷり2時間半くらいの濃密なライブだった。
マキさんの歌と朗読、ピアノとベースの演奏、野々宮の朗読、マキさんと野々宮のセッション朗読。
私の作品も2、3作読まれてうれしかった。
「祈る人」「A Red Flower」「初霜」など。
始まってしばらくは、正直いって、朗読にからむ音楽に違和感をおぼえていたのだが、それは自分がいつも朗読にからむときの感覚や基準を演奏者側の立ち位置からあてはめて聴いていたせいだと気づき、途中からは吉田さんと永田さんの音楽を受け入れられるようになって、そのすばらしさを楽しめるようになった。
とくに「祈る人」ではピアノの吉田さんとベースの永田さんがフリーで朗読とからみ、私がやるときとはまったくイメージの異なった迫力のある表現になった。
マキさんの朗読の即興性のある瞬発力もさすがだと思った。
野々宮の朗読についてはもちろんいうまでもない。
これほどの自在な朗読者は、現時点で私はほかに知らない。
これは私の課題だが、第二、第三の野々宮が今後育ってくるのかどうか、育てることができるのかどうか、ということだ。
今回、完全に客側の視点でライブを聴かせてもらって、一番うれしかったのは、やはり自分の作品が読まれることだった。
作品や曲を提供したり、演出したり、といったことが、現場でいっしょにやることより私の性分に合っているのかもしれない、ともかんがえたりしていたが、しかし来週の「キッズ・イン・ザ・ダーク」公演ではみんなといっしょにやれることの喜びもまたたしかにある。
2013年4月12日金曜日
「どうせ」というマインド
photo credit: lisby1 via photopincc
私も身におぼえのあることだが、人はときにとても卑屈になり「どうせ私なんて……」といじいじすることがある。
たとえば、私が主宰している現代朗読協会では、しばしば公演やライブを企画して開催することがある。
そんなとき、なにかいいアイディアを思いついて提案したときに、それが却下されると「どうせ私なんて……」といじけたり、あるいは提案する前から「どうせ採用されないし」と引っこみ思案になったり、といったことだ。
あるいは、公演に出たいのに、自分にはまだまだ力がなくみんなの足を引っ張ってしまうのではないかと臆して「出たい」といいだせなかったり。
いまの現代朗読協会にはそういう人はいないけどね。
こういう自分は悲しいし、自分自身をないがしろにしているし、またみんなとのつながりを持てないし、主宰側からしてもこういう人の扱いはとてもやっかいだ。
なにもいいことはない。
「どうせ」という気分に襲われたとき、どうすればいいだろうか。
「どうせ」と思いはじめたとき、自分のなかにどんな感情が浮かんでいるだろうか。
悲しい?
苦しい?
つらい?
寂しい?
すこし怒りをおぼえている?
その感情をきちんと見ることで、感情が自分のどんな価値を指ししめしているのか探してみる。
自分の能力が発揮できなくて悲しいのか。
自分を表現できなくて苦しいのか。
積極的になれなくてつらいのか。
みんなとのつながりが持てなくて寂しいのか。
ふがいない自分に怒りをおぼえているのか、それとも自分のそんな気持ちを理解してくれないみんなに対して怒りをおぼえているのか。
自分がなにを大切にしているのか、なにを必要としているのか、どういうことに価値を見いだしているのか、そういったことにきちんとつながってみる。
漠然とかんがえているだけでなく、感情と価値を手帳に書きだして自分のなかを整理してみるのはとても有効だ。
自分の価値につながれたら、ではその価値を大切にするためになにができるかかんがえてみる。
「どうせ」から「じゃあ」に気持ちが変わったとき、動きが生まれる。
引っこんでいた自分から、自分の価値を大切にするために動きはじめる自分に変わる。
「じゃあ、こういうふうにしてみよう」
こういうふうに動きはじめると、まわりの人との関係性も変わるだろうし、主宰側の私としてもそういう人を受け入れやすいし、なによりつながりが生まれることがうれしいのだ。
私も身におぼえのあることだが、人はときにとても卑屈になり「どうせ私なんて……」といじいじすることがある。
たとえば、私が主宰している現代朗読協会では、しばしば公演やライブを企画して開催することがある。
そんなとき、なにかいいアイディアを思いついて提案したときに、それが却下されると「どうせ私なんて……」といじけたり、あるいは提案する前から「どうせ採用されないし」と引っこみ思案になったり、といったことだ。
あるいは、公演に出たいのに、自分にはまだまだ力がなくみんなの足を引っ張ってしまうのではないかと臆して「出たい」といいだせなかったり。
いまの現代朗読協会にはそういう人はいないけどね。
こういう自分は悲しいし、自分自身をないがしろにしているし、またみんなとのつながりを持てないし、主宰側からしてもこういう人の扱いはとてもやっかいだ。
なにもいいことはない。
「どうせ」という気分に襲われたとき、どうすればいいだろうか。
「どうせ」と思いはじめたとき、自分のなかにどんな感情が浮かんでいるだろうか。
悲しい?
苦しい?
つらい?
寂しい?
すこし怒りをおぼえている?
その感情をきちんと見ることで、感情が自分のどんな価値を指ししめしているのか探してみる。
自分の能力が発揮できなくて悲しいのか。
自分を表現できなくて苦しいのか。
積極的になれなくてつらいのか。
みんなとのつながりが持てなくて寂しいのか。
ふがいない自分に怒りをおぼえているのか、それとも自分のそんな気持ちを理解してくれないみんなに対して怒りをおぼえているのか。
自分がなにを大切にしているのか、なにを必要としているのか、どういうことに価値を見いだしているのか、そういったことにきちんとつながってみる。
漠然とかんがえているだけでなく、感情と価値を手帳に書きだして自分のなかを整理してみるのはとても有効だ。
自分の価値につながれたら、ではその価値を大切にするためになにができるかかんがえてみる。
「どうせ」から「じゃあ」に気持ちが変わったとき、動きが生まれる。
引っこんでいた自分から、自分の価値を大切にするために動きはじめる自分に変わる。
「じゃあ、こういうふうにしてみよう」
こういうふうに動きはじめると、まわりの人との関係性も変わるだろうし、主宰側の私としてもそういう人を受け入れやすいし、なによりつながりが生まれることがうれしいのだ。
ネバネバ和風スパゲティ
これから夏にむけて活躍できそうなレシピができたので、紹介したい。
とはいえ、じつはこれ、ありあわせの材料を適当に使って作ったものなのだが。
【材料】2人分
・スパゲティ……フェデリーニくらいの太さのもの、160~180グラム
・ツナ缶……小さいもの、1缶
・納豆……1パック
・山芋……10センチくらい
・オクラ……2、3本
・鷹の爪……1本
・ニンニク……1片
・板海苔……2、3枚
・オリーブ油、塩、胡椒、醤油、(あれば細ネギまたはバジル)
スパゲティを2リットル以上のお湯に大さじ2の塩を加えてゆでる。
そのあいだにフライパンに種を抜いた鷹の爪、みじん切りにしたニンニクを入れ、オリーブ油大さじ1を加えて、弱火にかける。
ニンニクが香り立ってきたら、山芋、オクラ、引き割りにした納豆、ツナ缶を順番に入れ、塩・胡椒して火を通す。
山芋がこげつきやすいので、へらでこそげながら、こげつかないように炒める。
麺を投入する前に、醤油を全体にひと回しかけ入れて、香りを出す。
麺は芯がやや残る程度(アルデンテ)にゆであげ、お湯を切ってフライパンに入れる。
その際、ゆで汁は完全に切ってしまわずに、お玉ひとつ分くらい麺といっしょにフライパンにいれるようにする。
麺とゆで汁をフライパンに入れたら、火にかけたままフライパンをしっかりとゆする。
できればフライパンを返して、ゆで汁と具が麺にからまるようにする。
このとき、しっかりフライパンをゆすることで、ゆで汁と油と炒めた具が乳化して、しっかりと麺にからまる。
全体が混ぜ合わさったら、皿に盛り、上から板海苔をもんでまぶし、完成。
見栄えが地味なので、細ネギを小口切りにしたものをさらにトッピングしたり、あるいはバジルの葉をそえるのもいいだろう。
具の候補として、ほかに、メカブやなめこもいけると思う。
それを友人から教えてもらったので、私はメカブをさっそく試してみようと思う。
とはいえ、じつはこれ、ありあわせの材料を適当に使って作ったものなのだが。
【材料】2人分
・スパゲティ……フェデリーニくらいの太さのもの、160~180グラム
・ツナ缶……小さいもの、1缶
・納豆……1パック
・山芋……10センチくらい
・オクラ……2、3本
・鷹の爪……1本
・ニンニク……1片
・板海苔……2、3枚
・オリーブ油、塩、胡椒、醤油、(あれば細ネギまたはバジル)
スパゲティを2リットル以上のお湯に大さじ2の塩を加えてゆでる。
そのあいだにフライパンに種を抜いた鷹の爪、みじん切りにしたニンニクを入れ、オリーブ油大さじ1を加えて、弱火にかける。
ニンニクが香り立ってきたら、山芋、オクラ、引き割りにした納豆、ツナ缶を順番に入れ、塩・胡椒して火を通す。
山芋がこげつきやすいので、へらでこそげながら、こげつかないように炒める。
麺を投入する前に、醤油を全体にひと回しかけ入れて、香りを出す。
麺は芯がやや残る程度(アルデンテ)にゆであげ、お湯を切ってフライパンに入れる。
その際、ゆで汁は完全に切ってしまわずに、お玉ひとつ分くらい麺といっしょにフライパンにいれるようにする。
麺とゆで汁をフライパンに入れたら、火にかけたままフライパンをしっかりとゆする。
できればフライパンを返して、ゆで汁と具が麺にからまるようにする。
このとき、しっかりフライパンをゆすることで、ゆで汁と油と炒めた具が乳化して、しっかりと麺にからまる。
全体が混ぜ合わさったら、皿に盛り、上から板海苔をもんでまぶし、完成。
見栄えが地味なので、細ネギを小口切りにしたものをさらにトッピングしたり、あるいはバジルの葉をそえるのもいいだろう。
具の候補として、ほかに、メカブやなめこもいけると思う。
それを友人から教えてもらったので、私はメカブをさっそく試してみようと思う。
2013年4月11日木曜日
撮影下見、和風スパゲティ、キッズ3公演の稽古
午前中から羽根木の家を映画の撮影に使いたいという人たちが来られて、下見。
公表していいのかどうかわからないので、お名前は伏せておくが、大正時代の話らしい。
なかなか撮影にうってつけの古民家が見つからず、羽根木の家で予定よりたくさん撮影することになったとのこと。
映画はなにしろ全部映りこんでしまうのだから、ロケーションとその準備は大変だ。
昼に納豆、オクラ、山芋、ツナ缶を使ったネバネバ和風スパゲティを作る。
見た目は悪いがかなりおいしくできた。
午後は昼ゼミで「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の稽古。
もう来週なのだった。
進行についてシナリオを読み合わせながら細かく確認し、また演出も細かい変更をいれていく。
これまでひとり読みの部分は稽古しなかったが、今日はやってみた。
気になる所要時間を計ってみた。
思ったより短くてほっとする。
公演全体を70分から80分以内におさめたいと思っている。
夜も夜ゼミでキッズ公演の稽古。
夜は参加者が多く(11人)、各パートにすべて充当してやれたので、進行の確認や実際のライブでの感触のイメージがかなりつかめた。
私もピアノ演奏をいれながら参加してみた。
まだ課題もあるが、緩急のある、動きと静寂のある、迫力と沈黙をともに大事にするおもしろい公演になると思う。
みなさん、来てね。
「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の詳細はこちら。
公表していいのかどうかわからないので、お名前は伏せておくが、大正時代の話らしい。
なかなか撮影にうってつけの古民家が見つからず、羽根木の家で予定よりたくさん撮影することになったとのこと。
映画はなにしろ全部映りこんでしまうのだから、ロケーションとその準備は大変だ。
見た目は悪いがかなりおいしくできた。
午後は昼ゼミで「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の稽古。
もう来週なのだった。
進行についてシナリオを読み合わせながら細かく確認し、また演出も細かい変更をいれていく。
これまでひとり読みの部分は稽古しなかったが、今日はやってみた。
気になる所要時間を計ってみた。
思ったより短くてほっとする。
公演全体を70分から80分以内におさめたいと思っている。
夜も夜ゼミでキッズ公演の稽古。
夜は参加者が多く(11人)、各パートにすべて充当してやれたので、進行の確認や実際のライブでの感触のイメージがかなりつかめた。
私もピアノ演奏をいれながら参加してみた。
まだ課題もあるが、緩急のある、動きと静寂のある、迫力と沈黙をともに大事にするおもしろい公演になると思う。
みなさん、来てね。
「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の詳細はこちら。
「好きなことで食べていく」についてふたたび
photo credit: .craig via photopincc
「好きなことで食べていく」ということの矛盾についてはすでにこちらに書いたことだが、今日は別の角度からふたたびかんがえてみたい。
「好きなことで食べていく」というセンテンスには前向きで自己肯定的なひびきがあり、多くの人を自動的にひきつける呪文のようになっている。
そのためこの文言がうたわれた本やブログ記事はたくさん読まれているようだ。
注意したいのは、呪文やことわざ、気のきいたひとことというのは、魅力的ではあるが、そこで思考停止してしまうことがあるということだ。
「好きなことで食べていければいいよね」
と漠然とかんがえたり、あこがれを持ってこの言葉を受け入れたりすることで、さらに踏みこんでかんがえてみることがなくなってしまう。
しかし、ここで一歩踏みこんでかんがえてみなければ、「好きなこと」をつづけていくためになにが大切なのか、見失ってしまうことになる。
このセンテンスの重要な部分はどこだろうか。
「好きなこと」なのか、「食べていく」なのか。
「食べていく」ことが重要部分なのだとしたら、なにもそれは「好きなこと」でなくてもいい。
人は食べるためだけならいろいろな手段を持っている。
仕事を選ばなければ(幸いなことに)どんなことをしてでも食べていける世の中だし、そういう時代と国に生きている。
いよいよ困れば生活保護だって受けることができる。
このセンテンスの重要部分はもちろん「好きなこと」だろう。
「好きなこと」をつづけていくためにどうすればいいか、ということが大切だし、かんがえるに値することだろう。
好きなことをつづけていくためには、生活がある程度安定している必要がある。
まちがってはいけないのは、生活を安定させるために「好きなこと」を使ってはいけない、ということだ。
「好きなこと」をつづけることとと、「食べていく」こと、つまり経済の問題とは、本来なんの関係もない。
「好きなこと」を経済問題に結びつけてかんがえてしまうことが、不幸のはじまりといえる。
経済問題は経済問題として別個に解決しておいたほうがいい。
その上で「好きなこと」をつづけていくにはどうすればいいのか、どのような環境が必要なのか、それをかんがえ、ととのえていく必要がある。
好きなことをつづけていくための環境をととのえることができれば、存分に好きなことに打ちこんでそれを持続させていくことができるだろう。
存分に好きなことに打ちこむために生活時間すべてを好きなことに使おう、つまりそれで生活費を稼ごうと安易にかんがえてしまう人が多いが、それは自分が大切にしている「好きなこと」をまったくないがしろにする行動であるというしかない。
私も若いころにはそのように自分をないがしろにしつづけてきて、えらそうに人のことをいえる立場ではないけれど、私が支払った多大なる代償をもっていま現在、このようなことを書いているわけであるから、ひとつご容赦いただきたい。
「好きなことで食べていく」ということの矛盾についてはすでにこちらに書いたことだが、今日は別の角度からふたたびかんがえてみたい。
「好きなことで食べていく」というセンテンスには前向きで自己肯定的なひびきがあり、多くの人を自動的にひきつける呪文のようになっている。
そのためこの文言がうたわれた本やブログ記事はたくさん読まれているようだ。
注意したいのは、呪文やことわざ、気のきいたひとことというのは、魅力的ではあるが、そこで思考停止してしまうことがあるということだ。
「好きなことで食べていければいいよね」
と漠然とかんがえたり、あこがれを持ってこの言葉を受け入れたりすることで、さらに踏みこんでかんがえてみることがなくなってしまう。
しかし、ここで一歩踏みこんでかんがえてみなければ、「好きなこと」をつづけていくためになにが大切なのか、見失ってしまうことになる。
このセンテンスの重要な部分はどこだろうか。
「好きなこと」なのか、「食べていく」なのか。
「食べていく」ことが重要部分なのだとしたら、なにもそれは「好きなこと」でなくてもいい。
人は食べるためだけならいろいろな手段を持っている。
仕事を選ばなければ(幸いなことに)どんなことをしてでも食べていける世の中だし、そういう時代と国に生きている。
いよいよ困れば生活保護だって受けることができる。
このセンテンスの重要部分はもちろん「好きなこと」だろう。
「好きなこと」をつづけていくためにどうすればいいか、ということが大切だし、かんがえるに値することだろう。
好きなことをつづけていくためには、生活がある程度安定している必要がある。
まちがってはいけないのは、生活を安定させるために「好きなこと」を使ってはいけない、ということだ。
「好きなこと」をつづけることとと、「食べていく」こと、つまり経済の問題とは、本来なんの関係もない。
「好きなこと」を経済問題に結びつけてかんがえてしまうことが、不幸のはじまりといえる。
経済問題は経済問題として別個に解決しておいたほうがいい。
その上で「好きなこと」をつづけていくにはどうすればいいのか、どのような環境が必要なのか、それをかんがえ、ととのえていく必要がある。
好きなことをつづけていくための環境をととのえることができれば、存分に好きなことに打ちこんでそれを持続させていくことができるだろう。
存分に好きなことに打ちこむために生活時間すべてを好きなことに使おう、つまりそれで生活費を稼ごうと安易にかんがえてしまう人が多いが、それは自分が大切にしている「好きなこと」をまったくないがしろにする行動であるというしかない。
私も若いころにはそのように自分をないがしろにしつづけてきて、えらそうに人のことをいえる立場ではないけれど、私が支払った多大なる代償をもっていま現在、このようなことを書いているわけであるから、ひとつご容赦いただきたい。
2013年4月10日水曜日
私は生ピアノを弾きたいのだ
ピアノを弾いていると、いろんな人からいろんなことをいわれる。
それは当然のことで、ひと前でなにかをする(表現する)というのは、情報発信するということであって、そのリアクションはかならずある。
それが自分の望むようなものであるか、そうでないかは別問題で、ひどく傷つけられるようなことをいわれることもある。
表現する者はもとよりそれを覚悟の上で、そういったことに対処できるメンタリティを持っているほうがいいと思うが、これはまたあらためて別の機会にくわしく書いてみたいと思う。
ピアノはいわばスイッチがたくさん並んでいるような楽器で、だれが弾いてもひとしくきれいな音が鳴る。
バイオリンやトランペットのように、きちんと音が出るようになるまで苦労するというようなことはない。
指を置いて鍵盤を押せば、一様にきれいな音が鳴る。
とはいえ、なぜか人によってピアノの音が違って聞こえる、という事実もたしかにある。
私がピアノを弾いたとき、
「とても繊細な音で好き」
といってくれる人もいれば、
「本職のピアニストじゃないから響きが弱いね」
という人もいる。
両方の意見ともうなずける。
私がピアノを弾きはじめたのは小学3年生のころで、ピアニストとしてはかなり遅いほうだろう。
しかも個人レッスンについて習っていたのは小学6年生までで、そのあとはずっと独学だった。
音大に行くようなピアノ弾きとはまるで基礎が違っている。
しかし一方で、20代前半の頃は職業バンドマンとして一日のうち8時間とか連続的にピアノをひと前で弾いていたことがあって、それはほとんどプロピアニストの多くがあまり経験することのないほどのハードワークだった。
その経験が何年かあって、それらの日々ではアコースティックピアノもエレクトリックピアノもシンセサイザーや電子オルガンのようなキーボードも、あるゆる鍵盤楽器を毎日弾きまくっていた。
ライブやYouTube映像で外国のピアニストの映像を見ていると、その恐ろしいほどに力強いタッチに驚く。
実際に彼らは屈強な体躯を持ち、腕も指もごつい。
十数年前にブルーノート東京にハービー・ハンコックの演奏を聴きに行ったとき、偶然ハンコックと握手する機会にめぐまれたのだが、そのときの分厚い手のひらと指のごつさにびっくりした記憶がある。
とてもかなうものではない。
日本のピアニストにもそういう人はいる。
板倉克行、板橋文夫、本田竹曠、などなど。
彼らが弾くと、そのピアノはまるで別の楽器のように「鳴り」だす。
私にはたぶんそういう芸当はできない。
しかし、と思うのだ。
非力だからアコースティックで勝負するのはあきらめて、電子楽器で自分を生かせばいいではないかというかんがえかたもある。
電子楽器は力がなくてもいくらでも音を増幅できるし、音色も変えることができる。
それもひとつのかんがえかたで、悪くないし、それに抵抗することなく取り入れようとも思っているが、一方で私なりのアコースティックの味わいもあるのではないかと思っている。
残念ながら、いま私はアコースティックのピアノを日常的に弾ける環境にないけれど、いずれそういう状況にめぐまれたら、自分なりのアイディアと資質を生かすための試みをやってみたいと思っている。
それは当然のことで、ひと前でなにかをする(表現する)というのは、情報発信するということであって、そのリアクションはかならずある。
それが自分の望むようなものであるか、そうでないかは別問題で、ひどく傷つけられるようなことをいわれることもある。
表現する者はもとよりそれを覚悟の上で、そういったことに対処できるメンタリティを持っているほうがいいと思うが、これはまたあらためて別の機会にくわしく書いてみたいと思う。
ピアノはいわばスイッチがたくさん並んでいるような楽器で、だれが弾いてもひとしくきれいな音が鳴る。
バイオリンやトランペットのように、きちんと音が出るようになるまで苦労するというようなことはない。
指を置いて鍵盤を押せば、一様にきれいな音が鳴る。
とはいえ、なぜか人によってピアノの音が違って聞こえる、という事実もたしかにある。
私がピアノを弾いたとき、
「とても繊細な音で好き」
といってくれる人もいれば、
「本職のピアニストじゃないから響きが弱いね」
という人もいる。
両方の意見ともうなずける。
私がピアノを弾きはじめたのは小学3年生のころで、ピアニストとしてはかなり遅いほうだろう。
しかも個人レッスンについて習っていたのは小学6年生までで、そのあとはずっと独学だった。
音大に行くようなピアノ弾きとはまるで基礎が違っている。
しかし一方で、20代前半の頃は職業バンドマンとして一日のうち8時間とか連続的にピアノをひと前で弾いていたことがあって、それはほとんどプロピアニストの多くがあまり経験することのないほどのハードワークだった。
その経験が何年かあって、それらの日々ではアコースティックピアノもエレクトリックピアノもシンセサイザーや電子オルガンのようなキーボードも、あるゆる鍵盤楽器を毎日弾きまくっていた。
ライブやYouTube映像で外国のピアニストの映像を見ていると、その恐ろしいほどに力強いタッチに驚く。
実際に彼らは屈強な体躯を持ち、腕も指もごつい。
十数年前にブルーノート東京にハービー・ハンコックの演奏を聴きに行ったとき、偶然ハンコックと握手する機会にめぐまれたのだが、そのときの分厚い手のひらと指のごつさにびっくりした記憶がある。
とてもかなうものではない。
日本のピアニストにもそういう人はいる。
板倉克行、板橋文夫、本田竹曠、などなど。
彼らが弾くと、そのピアノはまるで別の楽器のように「鳴り」だす。
私にはたぶんそういう芸当はできない。
しかし、と思うのだ。
非力だからアコースティックで勝負するのはあきらめて、電子楽器で自分を生かせばいいではないかというかんがえかたもある。
電子楽器は力がなくてもいくらでも音を増幅できるし、音色も変えることができる。
それもひとつのかんがえかたで、悪くないし、それに抵抗することなく取り入れようとも思っているが、一方で私なりのアコースティックの味わいもあるのではないかと思っている。
残念ながら、いま私はアコースティックのピアノを日常的に弾ける環境にないけれど、いずれそういう状況にめぐまれたら、自分なりのアイディアと資質を生かすための試みをやってみたいと思っている。
マインドフル散歩
桜上水まで散歩してきた。
歩数にして10,297歩。桜上水まで行ったら、帰りは電車にするつもりだったのに、結局帰りも歩いた。
下北沢、羽根木、東松原、松原、赤堤、桜上水というルートで、たぶん4キロ弱くらい。
目的は今月の20日で閉店してしまう〈オーガニック七菜〉でのランチ。
ここにはげろきょでのマリコランチでおなじみのマリコが勤めていて、今日もキッチンにいた。
このくらいの長距離を歩くと、右膝に故障を抱えている私はだんだん膝が痛みはじめるのだが、今日はマインドフルをこころがけ、膝が痛みはじめたとき自分の身体がそれにどのように対応しているのかじっくりと観察することにした。
ちょっと「歩く瞑想」に近い感覚。
気づいたのは、膝が痛みはじめると(たぶん痛くなくてもそうやってる)右膝をかばおうとして左足に負担をかけて歩いている。
そのことで右膝まわりの筋肉がきちんと働かなくて、さらに痛みを促進してしまっている。
ほとんど無意識にそのような歩きかたをしてしまっていて、それが習性になっているようだ。
思いきって右膝への負担を減らそうとはせずに膝まわりの筋肉をしっかりと使って歩くようにしてみた。
大腿直筋、内側広筋、外側広筋、前脛骨筋といった、膝を取りかこんでいる筋肉群をしっかり動かすようにして歩いてみると、逆に痛みはなくなっていく。
これらを意識的に強化することで、膝の故障の経年悪化はある程度避けられるかもしれない。
そうやって自分の身体に意識を向けながら、しかし内側ばかり向かずに身体の外からの情報も全部受け取ってマインドフルに歩いていると、なんと気持ちのいいことか。
いつもはこんなに歩かない長距離の歩行も苦ではなく、とても楽しめた。
七菜でのランチもおいしかったし、ちょうど切らしかけていた濃口醤油のおいしいのがあるというので買うことができた。
お客がとぎれてマリコともゆっくり話ができた。
ちょうどオーナーの七菜さんもいらして少し話をした。
帰りは下高井戸の駅前商店街をぶらぶら。
なぜかこの商店街が私は前から好きなのだ。
住宅街をずっと歩いていったのだが、変わった家があったり、古い家が残っていたり、畑があったり、思いがけない店が出現したりと、楽しい散歩だった。
歩数にして10,297歩。桜上水まで行ったら、帰りは電車にするつもりだったのに、結局帰りも歩いた。
下北沢、羽根木、東松原、松原、赤堤、桜上水というルートで、たぶん4キロ弱くらい。
目的は今月の20日で閉店してしまう〈オーガニック七菜〉でのランチ。
ここにはげろきょでのマリコランチでおなじみのマリコが勤めていて、今日もキッチンにいた。
このくらいの長距離を歩くと、右膝に故障を抱えている私はだんだん膝が痛みはじめるのだが、今日はマインドフルをこころがけ、膝が痛みはじめたとき自分の身体がそれにどのように対応しているのかじっくりと観察することにした。
ちょっと「歩く瞑想」に近い感覚。
気づいたのは、膝が痛みはじめると(たぶん痛くなくてもそうやってる)右膝をかばおうとして左足に負担をかけて歩いている。
そのことで右膝まわりの筋肉がきちんと働かなくて、さらに痛みを促進してしまっている。
ほとんど無意識にそのような歩きかたをしてしまっていて、それが習性になっているようだ。
思いきって右膝への負担を減らそうとはせずに膝まわりの筋肉をしっかりと使って歩くようにしてみた。
大腿直筋、内側広筋、外側広筋、前脛骨筋といった、膝を取りかこんでいる筋肉群をしっかり動かすようにして歩いてみると、逆に痛みはなくなっていく。
これらを意識的に強化することで、膝の故障の経年悪化はある程度避けられるかもしれない。
そうやって自分の身体に意識を向けながら、しかし内側ばかり向かずに身体の外からの情報も全部受け取ってマインドフルに歩いていると、なんと気持ちのいいことか。
いつもはこんなに歩かない長距離の歩行も苦ではなく、とても楽しめた。
七菜でのランチもおいしかったし、ちょうど切らしかけていた濃口醤油のおいしいのがあるというので買うことができた。
お客がとぎれてマリコともゆっくり話ができた。
ちょうどオーナーの七菜さんもいらして少し話をした。
帰りは下高井戸の駅前商店街をぶらぶら。
なぜかこの商店街が私は前から好きなのだ。
住宅街をずっと歩いていったのだが、変わった家があったり、古い家が残っていたり、畑があったり、思いがけない店が出現したりと、楽しい散歩だった。
2013年4月9日火曜日
方言についての感受性
photo credit: Hammonton Photography via photopincc
最近は私たちがやっている現代朗読と、世間一般で「朗読」といったときに浮かぶイメージの従来朗読とは、「表現」という意味ではほとんどなんの関係もないのだという結論に達することができてずいぶん落ち着いたのだが、何年か前まではおなじ「朗読」という言葉を使っているためにずいぶんそちら側からのアプローチで重箱の隅をつつくようなことをいわれて、まだ確たる信念がなかった時期には随分動揺したこともあった。
従来朗読の側から受ける指摘の多くは、「放送技術」に則さない日本語の発音についてのことだった。
たとえば、アクセント(イントネーション)。
放送技術においては、アクセントは「共通語アクセント」に則るものとされていて、それはNHKや三省堂が出している『日本語アクセント辞典』に詳細に記されている。
「橋」は「は」が低くて「し」が高い。
「箸」は「は」が高くて「し」が低い。
それをまちがえると意味が変わってしまうので「だめ」というルールだ。
これは大正14年に始まった全国ラジオ放送がきっかけで作られてきた「共通語」の「放送で用いるための」ルールだ。
情報伝達のためには、意味が正確に伝わらなくてはならないので、そのための技術がいろいろと考案された。
私たち(現代朗読=朗読表現)は放送(情報伝達)をするのではなく、自分自身を伝える・表現するために朗読をおこなうので、放送技術や共通語のルールに束縛される必要はないし、またそれを取捨選択する自由がある。
つまり、放送技術を使うも使わないも、私たちの側に選択肢がある。
朗読するとき、つい方言が出てしまう人にたいして、
「きたない」
と指摘した人がいる。
私はあまり怒りっぽいほうではないと思うけれど(そうでもない?)、その話を聞いたとき瞬間的に頭に血がのぼった。
方言が汚い、というのはどういう感受性なのか。
方言を使うとき、人は自分の生まれ育った環境を「体現」して言葉を発している。
身体性そのものが、その人の生まれ育ったそのものになっているといっていい。
だれかがその人の方言で話してくれるのを聞くとき、私はその人が生まれ育った環境と、その人の生まれついてのありようを教えてもらったような気がして、とてもうれしくなる。
うれしいを通りこして、ありがたくて涙が出そうになる。
それを「きたない」と断じる人がいる。
そういう人が朗読の指導的な立場に(たくさん!)いるというのはとても残念なことだと感じる。
方言がつい出てしまって、それを「きたない」といわれた人に、私は、
「まったくそんなことはないですよ。あなたの方言はとても美しい。方言を使っているあなたのそのありようそのものが美しいのですよ」
と伝えたのだが、うまく伝えられたのかどうか自信がない。
最近は私たちがやっている現代朗読と、世間一般で「朗読」といったときに浮かぶイメージの従来朗読とは、「表現」という意味ではほとんどなんの関係もないのだという結論に達することができてずいぶん落ち着いたのだが、何年か前まではおなじ「朗読」という言葉を使っているためにずいぶんそちら側からのアプローチで重箱の隅をつつくようなことをいわれて、まだ確たる信念がなかった時期には随分動揺したこともあった。
従来朗読の側から受ける指摘の多くは、「放送技術」に則さない日本語の発音についてのことだった。
たとえば、アクセント(イントネーション)。
放送技術においては、アクセントは「共通語アクセント」に則るものとされていて、それはNHKや三省堂が出している『日本語アクセント辞典』に詳細に記されている。
「橋」は「は」が低くて「し」が高い。
「箸」は「は」が高くて「し」が低い。
それをまちがえると意味が変わってしまうので「だめ」というルールだ。
これは大正14年に始まった全国ラジオ放送がきっかけで作られてきた「共通語」の「放送で用いるための」ルールだ。
情報伝達のためには、意味が正確に伝わらなくてはならないので、そのための技術がいろいろと考案された。
私たち(現代朗読=朗読表現)は放送(情報伝達)をするのではなく、自分自身を伝える・表現するために朗読をおこなうので、放送技術や共通語のルールに束縛される必要はないし、またそれを取捨選択する自由がある。
つまり、放送技術を使うも使わないも、私たちの側に選択肢がある。
朗読するとき、つい方言が出てしまう人にたいして、
「きたない」
と指摘した人がいる。
私はあまり怒りっぽいほうではないと思うけれど(そうでもない?)、その話を聞いたとき瞬間的に頭に血がのぼった。
方言が汚い、というのはどういう感受性なのか。
方言を使うとき、人は自分の生まれ育った環境を「体現」して言葉を発している。
身体性そのものが、その人の生まれ育ったそのものになっているといっていい。
だれかがその人の方言で話してくれるのを聞くとき、私はその人が生まれ育った環境と、その人の生まれついてのありようを教えてもらったような気がして、とてもうれしくなる。
うれしいを通りこして、ありがたくて涙が出そうになる。
それを「きたない」と断じる人がいる。
そういう人が朗読の指導的な立場に(たくさん!)いるというのはとても残念なことだと感じる。
方言がつい出てしまって、それを「きたない」といわれた人に、私は、
「まったくそんなことはないですよ。あなたの方言はとても美しい。方言を使っているあなたのそのありようそのものが美しいのですよ」
と伝えたのだが、うまく伝えられたのかどうか自信がない。
執筆用のMacBookは15インチより13インチのほうがいい
音楽編集、音声編集、映像編集が必要なのでメインマシンとして MacBook Pro 15インチを使っている。
持ち歩くには少々重いので(それでも収録作業が必要なときなどはけっこう運ぶこともある)、たいていは自宅の仕事机に置いてある。
帰省するときも、重いけれどがんばってリュックにいれて持って帰っている。
持ち歩き用に以前は MacBook Air を使っていたが、まだ内蔵ストレージが64GBとか128GBしかなかったころなので、映像や音声の作業をするにはメモリが足りなかったのと、やはりPro に比べればスペックがやや物足りないのとで、結局 MacBook Pro 13インチとチェンジして、いまは毎日13インチを持ち歩いている。
Airよりは重いけれど、15インチよりは軽い。
MacBookをiPadに置き換えられないかと考えたこともあるけれど、文字入力が多いことと、音声・映像編集があるので、私にはどうしてもMacBookのほうがいい。
というわけで、いまの私は仕事場に MacBook Pro 15インチ、持ち運び用に MacBook Pro 13インチ、ほかにiPhoneという布陣がメインとなっている。
ところで、先日たまたま作業が錯綜して、二台のMacBookを仕事机にならべていたことがある。
15インチのほうで映像編集だったか音声編集だったか、13インチのほうでメールの返事をしたり執筆したりしていた。
そのとき、ふと気づいた。
まとまった文章を書くには、13インチのほうがずっと効率がいい。
なぜか。
キーボードの大きさのせいかと思ったが、実は大きさはまったく変わらない。
キーピッチもキー配列もまったくおなじだ。
15インチのほうが大きく見えるのは、キーの周辺の部分が広いだけで、キーの部分の大きさはまったく変わらない。
私が持っているMacBookにかぎっていえば、13インチのほうが15インチよりより軽いタッチのような気はするが、大差はない。
違うのは、画面の広さだ。
私は老眼なので、文字の大きさを14ポイントくらいにして(それでもなおかつ老眼鏡をかけて)文字入力をしている。
当然、ひとつの画面に表示される文字数(情報量)は少なくなる。
これがじつは効率をあげるのではないか。
そう思うのには過去の経験がひとつある。
ヒューレットパッカードのHP-100LXというパームトップコンピューターの名機があった。
非常に愛用していて、どこへ行くにもそれを持ち歩いていた。
ちいさなキーボードだったが、それでプチプチと文章入力ができた。
そしてなぜか執筆がはかどったのだ。
小さな画面に表示されているある一定の文章の量と、小さなキーボード。
アリスが不思議の世界にまぎれこんだように、そのミニマルな世界にはいりこんで文章を書くのは、なぜか楽しかった。
その感覚を思いだした。
執筆するには画面は小さいほうがいい。
そういえば、iPhoneにブルートゥースキーボードをつないで、小さな画面に文字入力しているときもなぜかはかどった。
かんがえてみれば、手書きでものを書いていたときも、たった400字しか書けない狭小な原稿用紙という世界に向かい合っていたのだった。
持ち歩くには少々重いので(それでも収録作業が必要なときなどはけっこう運ぶこともある)、たいていは自宅の仕事机に置いてある。
帰省するときも、重いけれどがんばってリュックにいれて持って帰っている。
持ち歩き用に以前は MacBook Air を使っていたが、まだ内蔵ストレージが64GBとか128GBしかなかったころなので、映像や音声の作業をするにはメモリが足りなかったのと、やはりPro に比べればスペックがやや物足りないのとで、結局 MacBook Pro 13インチとチェンジして、いまは毎日13インチを持ち歩いている。
Airよりは重いけれど、15インチよりは軽い。
MacBookをiPadに置き換えられないかと考えたこともあるけれど、文字入力が多いことと、音声・映像編集があるので、私にはどうしてもMacBookのほうがいい。
というわけで、いまの私は仕事場に MacBook Pro 15インチ、持ち運び用に MacBook Pro 13インチ、ほかにiPhoneという布陣がメインとなっている。
ところで、先日たまたま作業が錯綜して、二台のMacBookを仕事机にならべていたことがある。
15インチのほうで映像編集だったか音声編集だったか、13インチのほうでメールの返事をしたり執筆したりしていた。
そのとき、ふと気づいた。
まとまった文章を書くには、13インチのほうがずっと効率がいい。
なぜか。
キーボードの大きさのせいかと思ったが、実は大きさはまったく変わらない。
キーピッチもキー配列もまったくおなじだ。
15インチのほうが大きく見えるのは、キーの周辺の部分が広いだけで、キーの部分の大きさはまったく変わらない。
私が持っているMacBookにかぎっていえば、13インチのほうが15インチよりより軽いタッチのような気はするが、大差はない。
違うのは、画面の広さだ。
私は老眼なので、文字の大きさを14ポイントくらいにして(それでもなおかつ老眼鏡をかけて)文字入力をしている。
当然、ひとつの画面に表示される文字数(情報量)は少なくなる。
これがじつは効率をあげるのではないか。
そう思うのには過去の経験がひとつある。
ヒューレットパッカードのHP-100LXというパームトップコンピューターの名機があった。
非常に愛用していて、どこへ行くにもそれを持ち歩いていた。
ちいさなキーボードだったが、それでプチプチと文章入力ができた。
そしてなぜか執筆がはかどったのだ。
小さな画面に表示されているある一定の文章の量と、小さなキーボード。
アリスが不思議の世界にまぎれこんだように、そのミニマルな世界にはいりこんで文章を書くのは、なぜか楽しかった。
その感覚を思いだした。
執筆するには画面は小さいほうがいい。
そういえば、iPhoneにブルートゥースキーボードをつないで、小さな画面に文字入力しているときもなぜかはかどった。
かんがえてみれば、手書きでものを書いていたときも、たった400字しか書けない狭小な原稿用紙という世界に向かい合っていたのだった。
2013年4月8日月曜日
都市農業公園に行ってきた
まるで「台風一過」のような気持ちのいい天気になった今日、午前中から足立区の都市農業公園(としのう)に行ってきた。
羽根木からはまず渋谷に出て、埼京線で赤羽まで。
これがけっこう遠い。
赤羽からバスに乗ってとしのうの近くまで。
バス停からとしのうまでの歩道は、八重桜がちょうど満開だった。
としのうは八重桜のいろいろな品種が集められていて、園内でも楽しめる。
としのうには初めて行ったのだが、広々として、さまざまな施設が点在しており、また荒川の河川敷にも面していて、とても気持ちがいい場所だ。
交流館、広場、古民家、レストハウス、水田や畑、資料館、そして温室!
ここに行ったのは、実は5月24日(金)・25日(土)・26日(日)に開催される「木とハーブまつり」に現代朗読協会がイベント参加しないかと誘われたからだ。
誘ってくれたのはNVC経由で鈴木重子さんが紹介してくれたきくあつこと菊地敦子さん。
きくあつさんは栃木在住で、さまざまなおもしろいことを企画したりコーディネートする仕事をされている。
げろきょ側からは私、野々宮、てんちゃんとみぞれちゃんが参加。
担当のKさんがまず園内を案内してくれた。
Kさんはご自分の職場であるとしのうを心から愛しておられるようで、愛情たっぷりに案内してくれて私たちもほっこりすると同時に、私たちもとしのうをどんどん好きになってしまった。
しばらくしてきくあつさんも合流し、さらに園内を案内してもらう。
私がもっともテンションがあがったのは、温室に案内してもらったときだった。
温室には熱帯植物があり、そして私たちがいま「キッズ・イン・ザ・ダーク3」の演目として稽古している「温室」そのものを想起させられる。
この温室で朗読パフォーマンス「温室」をやったらどうだろう。
想像しただけで興奮した。
そのあと、見晴らしのいいレストハウス「みはらし茶屋」で昼食をいただきながら、イベントの打ち合わせ。
「温室」はもちろんのこと、古民家をベースにすること、そしていつかやりたいとおもっていたフラッシュモブ朗読を広場や会場内でゲリラ的にやろうという案など、次々とおもしろい案が出てきて、わくわくしっぱなし。
楽しいイベントになりそうだ。
テンションがあがったまま、帰りは赤羽まで歩こうということになって、みんなで荒川の河川敷をぞろぞろと歩く。
途中、昨日の嵐で増水したのか、浸水しているゴルフ場のようなところがあり、そこの風景がまるで日本ではないような不思議なことになっていたりして、おもしろかった。
鳥がたくさんいて、うれしかった。
羽根木からはまず渋谷に出て、埼京線で赤羽まで。
これがけっこう遠い。
赤羽からバスに乗ってとしのうの近くまで。
バス停からとしのうまでの歩道は、八重桜がちょうど満開だった。
としのうは八重桜のいろいろな品種が集められていて、園内でも楽しめる。
としのうには初めて行ったのだが、広々として、さまざまな施設が点在しており、また荒川の河川敷にも面していて、とても気持ちがいい場所だ。
交流館、広場、古民家、レストハウス、水田や畑、資料館、そして温室!
ここに行ったのは、実は5月24日(金)・25日(土)・26日(日)に開催される「木とハーブまつり」に現代朗読協会がイベント参加しないかと誘われたからだ。
誘ってくれたのはNVC経由で鈴木重子さんが紹介してくれたきくあつこと菊地敦子さん。
きくあつさんは栃木在住で、さまざまなおもしろいことを企画したりコーディネートする仕事をされている。
げろきょ側からは私、野々宮、てんちゃんとみぞれちゃんが参加。
担当のKさんがまず園内を案内してくれた。
Kさんはご自分の職場であるとしのうを心から愛しておられるようで、愛情たっぷりに案内してくれて私たちもほっこりすると同時に、私たちもとしのうをどんどん好きになってしまった。
しばらくしてきくあつさんも合流し、さらに園内を案内してもらう。
私がもっともテンションがあがったのは、温室に案内してもらったときだった。
温室には熱帯植物があり、そして私たちがいま「キッズ・イン・ザ・ダーク3」の演目として稽古している「温室」そのものを想起させられる。
この温室で朗読パフォーマンス「温室」をやったらどうだろう。
想像しただけで興奮した。
そのあと、見晴らしのいいレストハウス「みはらし茶屋」で昼食をいただきながら、イベントの打ち合わせ。
「温室」はもちろんのこと、古民家をベースにすること、そしていつかやりたいとおもっていたフラッシュモブ朗読を広場や会場内でゲリラ的にやろうという案など、次々とおもしろい案が出てきて、わくわくしっぱなし。
楽しいイベントになりそうだ。
テンションがあがったまま、帰りは赤羽まで歩こうということになって、みんなで荒川の河川敷をぞろぞろと歩く。
途中、昨日の嵐で増水したのか、浸水しているゴルフ場のようなところがあり、そこの風景がまるで日本ではないような不思議なことになっていたりして、おもしろかった。
鳥がたくさんいて、うれしかった。
2013年4月7日日曜日
音読療法における共感的コミュニケーションの位置づけ
photo credit: Auntie P via photopincc
音読療法において共感的コミュニケーションは三つの柱のひとつとなっていて、非常に重要なスキルである。
コミュニケーション法をセラピースキルとして取りいれている民間療法はあまりなく、音読療法の大きな特徴のひとつとなっている。
音読療法協会は学校や老人ホーム、東北の被災地をふくむ地域の集まりなどで音読ワーク・音読ケア活動をおこなっている。
共感的コミュニケーションはこれらの活動のなかで重要な役割をはたしてきた。たとえばこれは最新の精神医学でいうところの「認知行動療法」にも通じるすぐれた方法でもある。
音読療法ではこれにさらにマインドフルネスのスキルを加えて、すぐれたセルフメンタルケアの方法を体系化している。
共感的コミュニケーションを音読療法の重要スキルと位置づけるにあたっては、つぎの二つのねらいがある。
ひとつめのねらいは、不安やいらいら、悲しみといった自分の感情を客観的に観察し、それらがどこからやってくるものなのかを認知することで、自然で自発的な行動をうながすための認知行動療法とほぼおなじプロセスを、共感的コミュニケーションで実践できる、というものだ。
後述するが、共感的コミュニケーションは、
一、事実
二、感情
三、価値
という客観的認知のプロセスを持っている。
このプロセスを実践することで、だれもが自分自身の価値観(大切にしていることや必要なこと、ニーズ)につながり、それを守ったり実現するための自発的な行動に移ることができる。
こころの病にかかりかけると、もやもやした無気力感にとじこめられ身体が動かなくなってしまうことがあるが、共感的コミュニケーションのプロセスをみずから実践することでそこから抜けだすことができる。
あるいは、音読療法士が共感的コミュニケーションをもちいてセッションすることで、クライアントが自分の感情を観察し、価値観に気づいていく手助けをすることもできる。
まずは音読療法士が共感的コミュニケーションを身につけ、自分自身のこころの健康を保つために使いこなせるようにすること。
つぎに、クライアントの認知を手助けできるようになること。
最後にクライアント自身も共感的コミュニケーションをもちいて自分のメンタルケアをおこなったり、まわりの人間との関係性を向上させることに役立てたりできるようになること。
この三つの段階を、認知行動療法としての共感的コミュニケーションの学びとしてかんがえておくとよい。
ふたつめのねらいは、ファシリテーション技術として共感的コミュニケーションを用いる方法だ。
共感的コミュニケーションは人と人の関係にある種の質を作りだす方法である。人はそれぞれ、立場やシチュエーションなどその時々で「自分が大切にしていること」を持っている。それが動機となって行動したり、感情が動いたりする。自分が大切にしていることと、相手が大切にしていることを同時に尊重することで、つながりの質を作る方法なのだ。
この方法は相手がひとりでも有効だが、相手が複数でも同様に用いることができる。
音読療法はグループセッションをおこなう機会が多いが、共感的コミュニケーションを用いるとセッションを円滑に進めることができるし、またクライアントたちが「自分が尊重された」という気持ちをもってセッションを終えることができる。
たとえば、だれかひとり、しつこくクレームをつけてくる人がいたとする。
音読療法で使うテキストが「気にいらない」「難しすぎる」「読みにくい」「字が小さすぎる」「嫌いな作家の文章だ」などといったことで、これは実際によくあることだ。
そういうとき、その人のことを適当にあしらって相手にしないようにするとどうなるだろうか。
その人もますます気分が悪くなるだろうし、その場にいる全員もその人のことが気になってセッションに集中できなくなるかもしれない。
そういうとき、共感的コミュニケーションをもちいて、その人がいったいなにを大切にしているからそのようなクレームをつけているのか、どういう価値観をもって感情を害しているのか、そのことをたずね、そこにつながっていくようにする。
その人にうまく共感できれば、その人は自分が大事にされた、尊重されたと感じることができるし、それを見ていたほかの参加者たちも、ひとりがきちんと尊重されるのを見て自分もまた尊重されているのだと思える。
進行役が全員の価値観を尊重していますよ、という態度をつらぬくことで、参加者全員に安心感がうまれ、また信頼も生まれることが多い。
そういう関係性のなかでは、ものごとの進行がいきいきとしたものになる。
もちろん、相手がひとりより、ふたり、ふたり以上大勢になればなるほど、共感的コミュニケーションの高いスキルが要求されることはいうまでもない。
音読療法において共感的コミュニケーションは三つの柱のひとつとなっていて、非常に重要なスキルである。
コミュニケーション法をセラピースキルとして取りいれている民間療法はあまりなく、音読療法の大きな特徴のひとつとなっている。
音読療法協会は学校や老人ホーム、東北の被災地をふくむ地域の集まりなどで音読ワーク・音読ケア活動をおこなっている。
共感的コミュニケーションはこれらの活動のなかで重要な役割をはたしてきた。たとえばこれは最新の精神医学でいうところの「認知行動療法」にも通じるすぐれた方法でもある。
音読療法ではこれにさらにマインドフルネスのスキルを加えて、すぐれたセルフメンタルケアの方法を体系化している。
共感的コミュニケーションを音読療法の重要スキルと位置づけるにあたっては、つぎの二つのねらいがある。
ひとつめのねらいは、不安やいらいら、悲しみといった自分の感情を客観的に観察し、それらがどこからやってくるものなのかを認知することで、自然で自発的な行動をうながすための認知行動療法とほぼおなじプロセスを、共感的コミュニケーションで実践できる、というものだ。
後述するが、共感的コミュニケーションは、
一、事実
二、感情
三、価値
という客観的認知のプロセスを持っている。
このプロセスを実践することで、だれもが自分自身の価値観(大切にしていることや必要なこと、ニーズ)につながり、それを守ったり実現するための自発的な行動に移ることができる。
こころの病にかかりかけると、もやもやした無気力感にとじこめられ身体が動かなくなってしまうことがあるが、共感的コミュニケーションのプロセスをみずから実践することでそこから抜けだすことができる。
あるいは、音読療法士が共感的コミュニケーションをもちいてセッションすることで、クライアントが自分の感情を観察し、価値観に気づいていく手助けをすることもできる。
まずは音読療法士が共感的コミュニケーションを身につけ、自分自身のこころの健康を保つために使いこなせるようにすること。
つぎに、クライアントの認知を手助けできるようになること。
最後にクライアント自身も共感的コミュニケーションをもちいて自分のメンタルケアをおこなったり、まわりの人間との関係性を向上させることに役立てたりできるようになること。
この三つの段階を、認知行動療法としての共感的コミュニケーションの学びとしてかんがえておくとよい。
ふたつめのねらいは、ファシリテーション技術として共感的コミュニケーションを用いる方法だ。
共感的コミュニケーションは人と人の関係にある種の質を作りだす方法である。人はそれぞれ、立場やシチュエーションなどその時々で「自分が大切にしていること」を持っている。それが動機となって行動したり、感情が動いたりする。自分が大切にしていることと、相手が大切にしていることを同時に尊重することで、つながりの質を作る方法なのだ。
この方法は相手がひとりでも有効だが、相手が複数でも同様に用いることができる。
音読療法はグループセッションをおこなう機会が多いが、共感的コミュニケーションを用いるとセッションを円滑に進めることができるし、またクライアントたちが「自分が尊重された」という気持ちをもってセッションを終えることができる。
たとえば、だれかひとり、しつこくクレームをつけてくる人がいたとする。
音読療法で使うテキストが「気にいらない」「難しすぎる」「読みにくい」「字が小さすぎる」「嫌いな作家の文章だ」などといったことで、これは実際によくあることだ。
そういうとき、その人のことを適当にあしらって相手にしないようにするとどうなるだろうか。
その人もますます気分が悪くなるだろうし、その場にいる全員もその人のことが気になってセッションに集中できなくなるかもしれない。
そういうとき、共感的コミュニケーションをもちいて、その人がいったいなにを大切にしているからそのようなクレームをつけているのか、どういう価値観をもって感情を害しているのか、そのことをたずね、そこにつながっていくようにする。
その人にうまく共感できれば、その人は自分が大事にされた、尊重されたと感じることができるし、それを見ていたほかの参加者たちも、ひとりがきちんと尊重されるのを見て自分もまた尊重されているのだと思える。
進行役が全員の価値観を尊重していますよ、という態度をつらぬくことで、参加者全員に安心感がうまれ、また信頼も生まれることが多い。
そういう関係性のなかでは、ものごとの進行がいきいきとしたものになる。
もちろん、相手がひとりより、ふたり、ふたり以上大勢になればなるほど、共感的コミュニケーションの高いスキルが要求されることはいうまでもない。
さまざまな場面でのマインドフルネスがひとつにつながってきた
photo credit: mindfulness via photopincc
「マインドフルネス」という、人の「ありよう」はもともと仏教から来たかんがえかただが、宗教的な思想や信仰からは切りはなして我々が「実用的」に実践することもできる。
マインドフルネスとは自分自身が「いまここ」にいて、自分自身のありようや感じているものに「気づきつづけられている」状態をいう。
自分の状態も自分を取り巻く状況も刻一刻と変化しつづけている。
これを仏教では「無常」というのだが、このことが真実であることはいまやだれもが認めるところだろう。
これを受け入れ、そういった一種の「流れ」のなかで自分のありようのクオリティを高めることで、人生をイキイキしたものとして味わったり、パフォーマンスを高めたりといった「効能」がある。
しかし効能自体が目的ではない。
マインドフルネスはそれ自体が目的ではないし、マインドフルネスがもたらす効能が目的でもない。
マインドフルネスは生き方における「姿勢」の問題だといっていい。
姿勢というのは、たとえば立ち方。
まっすぐにすっくと立つこともできるし、前屈みにちぢこまって立つこともできる。
あるいはピンとそりかえって立ちこともできる。
それぞれが自由な選択肢を持っているはずだが、なぜか自分で自分に強いてしまっている立ち方でいつも立ってしまっている人もいる。
人生の時間のすごしかたもおなじで、いつも過去のことにこだわって反省ばかりしたり記憶を反芻してばかりいる時間のすごしかたもあれば、逆にまだ起こってもいないことをあれこれ心配したり、将来計画ばかり立ててすごすこともできる。
遠くはなれた場所で起こっているかもしれないことに想像をめぐらせてばかりいることもできるし、ここにいない人になにか不幸なことが起きていないか心配して不安を抱えてばかりいることもできる。
そんなふうな自分にはどうしようもないことをかんがえたり想像したりするのをやめて、いま、ここにある自分のありように集中して、味わい、自分のパフォーマンスを最高にたもつことに専念することもできる。
どちらを選ぶかは自由だ。
どちらを選ぶにせよ、その選択肢は自分の手のなかにある必要がある。
マインドフルネスという選択肢を自分のものにするには、ある程度の練習が必要になる。
マインドフルネスはあたりまえの日常生活なかでこころがけることでしか身につけることができない。
現代朗読という表現の世界で大事にしているマインドフルネス、音読療法の呼吸法と音読で得られるマインドフルネス、共感的コミュニケーションでも役にたつマインドフルネス。
これらのことがそれぞれの場面で成り立っているのではなく、最近はようやく私のなかでひとつにつながり、ひとつの事象として矛盾なく実践できるようになってきた感覚があって、そのことをお祝いしたい自分がいる。
「マインドフルネス」という、人の「ありよう」はもともと仏教から来たかんがえかただが、宗教的な思想や信仰からは切りはなして我々が「実用的」に実践することもできる。
マインドフルネスとは自分自身が「いまここ」にいて、自分自身のありようや感じているものに「気づきつづけられている」状態をいう。
自分の状態も自分を取り巻く状況も刻一刻と変化しつづけている。
これを仏教では「無常」というのだが、このことが真実であることはいまやだれもが認めるところだろう。
これを受け入れ、そういった一種の「流れ」のなかで自分のありようのクオリティを高めることで、人生をイキイキしたものとして味わったり、パフォーマンスを高めたりといった「効能」がある。
しかし効能自体が目的ではない。
マインドフルネスはそれ自体が目的ではないし、マインドフルネスがもたらす効能が目的でもない。
マインドフルネスは生き方における「姿勢」の問題だといっていい。
姿勢というのは、たとえば立ち方。
まっすぐにすっくと立つこともできるし、前屈みにちぢこまって立つこともできる。
あるいはピンとそりかえって立ちこともできる。
それぞれが自由な選択肢を持っているはずだが、なぜか自分で自分に強いてしまっている立ち方でいつも立ってしまっている人もいる。
人生の時間のすごしかたもおなじで、いつも過去のことにこだわって反省ばかりしたり記憶を反芻してばかりいる時間のすごしかたもあれば、逆にまだ起こってもいないことをあれこれ心配したり、将来計画ばかり立ててすごすこともできる。
遠くはなれた場所で起こっているかもしれないことに想像をめぐらせてばかりいることもできるし、ここにいない人になにか不幸なことが起きていないか心配して不安を抱えてばかりいることもできる。
そんなふうな自分にはどうしようもないことをかんがえたり想像したりするのをやめて、いま、ここにある自分のありように集中して、味わい、自分のパフォーマンスを最高にたもつことに専念することもできる。
どちらを選ぶかは自由だ。
どちらを選ぶにせよ、その選択肢は自分の手のなかにある必要がある。
マインドフルネスという選択肢を自分のものにするには、ある程度の練習が必要になる。
マインドフルネスはあたりまえの日常生活なかでこころがけることでしか身につけることができない。
現代朗読という表現の世界で大事にしているマインドフルネス、音読療法の呼吸法と音読で得られるマインドフルネス、共感的コミュニケーションでも役にたつマインドフルネス。
これらのことがそれぞれの場面で成り立っているのではなく、最近はようやく私のなかでひとつにつながり、ひとつの事象として矛盾なく実践できるようになってきた感覚があって、そのことをお祝いしたい自分がいる。
新作音楽アルバム「Spring And Stream - quiet pictures 3」リリース
音楽の新作アルバム「Spring And Stream - quiet pictures 3」が完成し、配信スタートしました。
全曲試聴できるほか、ダウンロード購入(500円)もできます。
こちら。
先月2013年3月に羽根木の家でおこなった「玉響のとき Vol.5」での生演奏をもとにアルバムにしました。
「玉響のとき Vol.5」は徳久珠央さんのフットセラピーと私の即興演奏による合同企画です。
この日は春にちなんだ唱歌をモチーフに連続即興演奏をおこないましたが、その音源をほぼそのままの形で切りだしたアルバムです。
収録曲をリストしておきます。
1. Spring Stream (8’56”) — Teiichi Okano
春の小川(岡野貞一)
2. The Flowers (6’08”) — Rentaro Taki
花(滝廉太郎)
3. Somewhere Spring Is Coming (5’21”) — Shin Kusakawa
どこかで春が(草川信)
4. Spring Stream 2 (4’28”) — Teiichi Okano
春の小川(岡野貞一)
5. Spring Has Come (9’16”) — Teiichi Okano
春が来た(岡野貞一)
6. My Home Town (1’57”) — Teiichi Okano
ふるさと(岡野貞一)
7. Blue Sky And White Clouds (4’46”) — Yuu Mizuki
青い空、白い雲(水城ゆう)
2013年4月6日土曜日
ライブワークショップ5回め、体験講座、嵐?
朝から強風警報が出て、ニュースでも台風なみの荒れ模様になるから無理な外出は控えるように、といっていた。
が、全然そんな気配もないまま、午前中はライブワークショップの5回め。
基礎練のあと、何人かのひとり読みをチェック。
そして最後はライブ本番の稽古。
終了後、「公演のしおり」を作ってきてくれた晩さんを中心にゼミ生がみんなに注意点や変更点、当日のスケジュールなど、細かいことを伝えてくれた。
みんなと近所のパン屋でパンを買ってきて、昼食。
午後2時から体験講座。
その模様についてはこちらに書いた。
私の朗読や表現についてはのかんがえかたはそれほど極端なものではないし、表現の世界ではとてもまっとうなものだと自分では思っているのだが、それでも受けいれがたい人もいるようで、毎回さまざまな反応があっておもしろい。
5時に終了。
ようやく雨が降ってきた。
が、風はまだ強くない。
これから夜中にかけて嵐になるのだろうか。
が、全然そんな気配もないまま、午前中はライブワークショップの5回め。
基礎練のあと、何人かのひとり読みをチェック。
そして最後はライブ本番の稽古。
終了後、「公演のしおり」を作ってきてくれた晩さんを中心にゼミ生がみんなに注意点や変更点、当日のスケジュールなど、細かいことを伝えてくれた。
みんなと近所のパン屋でパンを買ってきて、昼食。
午後2時から体験講座。
その模様についてはこちらに書いた。
私の朗読や表現についてはのかんがえかたはそれほど極端なものではないし、表現の世界ではとてもまっとうなものだと自分では思っているのだが、それでも受けいれがたい人もいるようで、毎回さまざまな反応があっておもしろい。
5時に終了。
ようやく雨が降ってきた。
が、風はまだ強くない。
これから夜中にかけて嵐になるのだろうか。
4月の現代朗読体験講座が終わった
2013年4月6日。
午後、体験講座。
定員いっぱいの10名の申し込みがあって、3名のキャンセル、1名の無断欠席で、6名の参加。
午前中のライブワークショップからひとり参加して、7名で開催。
一般的にかんがえられている従来朗読と現代朗読の本質的な違いについての解説。
現代朗読協会の運営体制。
表現としての現代朗読の基礎的なかんがえかた。
そういったものを説明したあと、呼吸法や発声、エチュードと進んでいった。
今回は朗読の経験者はほとんどいなかった。
表現活動すらほとんどやったことのないという人が関心を持ってくれたのには、驚くと同時にうれしくもある。
なにも表現をやったことがないという人が、ある日突然表現をやってみたいと思い立ち、そして現代朗読にたどりつくという人が多くなっているのがおもしろい。
エチュードのあとはひとりずつ読んでもらったり、演出部のてんちゃんと卯妙さんに即興パフォーマンスをやってもらったりした。
たくさんのことを伝えたが、今日も「伝えすぎ」だったかもしれない。
消化不良を起こす人もいたかもしれない。
今日の参加者のアンケートから、抜粋して紹介する。
◎想像した以上に言葉を使った表現の多様さに驚きました。伝達手段でもあり、表現手段でもあり、存在そのものでもある言葉について、色々と考えさせられる時間でした。まずはこれからは誰かに向かって言葉を発する時、もっと色々な事に意識を向けてみたいと思います。
◎「文章の内容ではなく、読み手を伝える」ということが大きな発見でした。ただ「読むことが楽しい」だけでなく、周囲とのつながりの中で「表現」できるようになりたい、と思いました。
◎みんなで読む場合と、ひとりで読む場合で、自分自身を出せることができる範囲が違っているように感じた。ワークショップでは複数名で読むので自分がかくれているように感じて安心しているのかもしれないと思う。
◎マインドフル、呼吸、自分の内なる無意識を意識する事など、アプローチの素材が全ていつも自分が意識して来た事だったので、お話がうれしかったです。
◎普段、触れることのなかった世界に触れられて、楽しかったです。今回のことを吟味して、自分にどう活かせるのかしっかり考えていきたいです。
午後、体験講座。
定員いっぱいの10名の申し込みがあって、3名のキャンセル、1名の無断欠席で、6名の参加。
午前中のライブワークショップからひとり参加して、7名で開催。
一般的にかんがえられている従来朗読と現代朗読の本質的な違いについての解説。
現代朗読協会の運営体制。
表現としての現代朗読の基礎的なかんがえかた。
そういったものを説明したあと、呼吸法や発声、エチュードと進んでいった。
今回は朗読の経験者はほとんどいなかった。
表現活動すらほとんどやったことのないという人が関心を持ってくれたのには、驚くと同時にうれしくもある。
なにも表現をやったことがないという人が、ある日突然表現をやってみたいと思い立ち、そして現代朗読にたどりつくという人が多くなっているのがおもしろい。
エチュードのあとはひとりずつ読んでもらったり、演出部のてんちゃんと卯妙さんに即興パフォーマンスをやってもらったりした。
たくさんのことを伝えたが、今日も「伝えすぎ」だったかもしれない。
消化不良を起こす人もいたかもしれない。
今日の参加者のアンケートから、抜粋して紹介する。
◎想像した以上に言葉を使った表現の多様さに驚きました。伝達手段でもあり、表現手段でもあり、存在そのものでもある言葉について、色々と考えさせられる時間でした。まずはこれからは誰かに向かって言葉を発する時、もっと色々な事に意識を向けてみたいと思います。
◎「文章の内容ではなく、読み手を伝える」ということが大きな発見でした。ただ「読むことが楽しい」だけでなく、周囲とのつながりの中で「表現」できるようになりたい、と思いました。
◎みんなで読む場合と、ひとりで読む場合で、自分自身を出せることができる範囲が違っているように感じた。ワークショップでは複数名で読むので自分がかくれているように感じて安心しているのかもしれないと思う。
◎マインドフル、呼吸、自分の内なる無意識を意識する事など、アプローチの素材が全ていつも自分が意識して来た事だったので、お話がうれしかったです。
◎普段、触れることのなかった世界に触れられて、楽しかったです。今回のことを吟味して、自分にどう活かせるのかしっかり考えていきたいです。
2013年4月5日金曜日
自分の音に55年かかってようやくめぐりあえた
今日一日かけて、音楽アルバム「quiet pictures 3」の製作作業がだいぶ進んだ。
数日以内にリリースできるかな。
自分の音を聴きながら、遠いとおい回り道をしてようやくここの、自分の音にたどりついたんだなあと思って、感無量。
音楽をやる人はなにをめざして音を作っているんだろう。
私の場合は、最初、まず、自分の好きな音、あこがれの演奏家がいた。
ラジオから流れる音を聴いて、かっこいいなあ、しびれるなあ、と思って、レコードを買い、何度も何度も聴いたりした。
自分もそういう演奏ができるようになりたいと思って、試行錯誤しながら練習したりした。
田舎住まいだったので先生はいなかったから、独学だった。
都会(といっても京都)に出て、たくさんのミュージシャンと接し、いろんなスタイルや考え方があり、自分はどうすればいいのかずいぶん迷った。
試行錯誤のなかで、模倣ばかりしていたような気がする。
自分の音がどういうものなのか、まるでわからなかった。
自分の音がどういうものなのかわからないというのは自分でも認めたくなかったけれど、正直いうとずっとそういう状態がつづいていたように思う。
どういうものが自分の音なのかわかるというのは、自分の音がどういうものなのかまったく気にせず演奏できるときだ。
朗読とセッションするというチャンスが増えたときに、自分というものを気にせずただ相手に反応する、コミュニケートするという演奏に集中するようになった。
自分がどうしたいとか、どういうものが自分らしいとかかんがえないように演奏するとき、初めて自分らしさが出てくる瞬間があった。
つまり、自分(の意図的な思考という自我)を手放したとき、初めて本来の自分がそこに立ち現れてくるのだ。
そういう経験をたくさんした。
フットセラピストの徳久珠央さんとやらせていただいている「玉響のとき」も、先日3回めとなった。
参加された方の足もみをされている珠央さんのかたわらで、私はその空気を感じながら即興演奏をするという企画だ。
3回めの前回、私は本当にびっくりするほど、「なにもかんがえずに」演奏することができた。
なにもかんがえない、というのは、投げやりに演奏するということではない。
かんがえないけれど、多くのことを感じとりながら自分のなかから出てくる反応を受けとめながら演奏するのだ。
かんがえはないけれど、次々と立ちあらわれてくるイメージに反応するために、とてもいそがしい。
時間が濃密にすぎていく。
そのときの演奏をレコーディングしてあった。
それをアルバムにできないかと、今日、編集していた。
たしかに自分が演奏した音だし、その記憶もあるのに、どこか距離感がある音。
昔、こういう音を遠方にながめていながら、なぜかそこに行く道筋を選ばずに、手近な音ばかり拾い集めていた自分がいた。
ああ、本当はずっとここに来たかったんだ、無理ばかりしてここからはるか遠くに向かおうとしてばかりいたんだ。
そのことを感じて、私は深い悲しみを悼むと同時に、自分の本当の音にもどってこれたことにしみじみと喜びを覚えた。
数日以内にリリースできるかな。
自分の音を聴きながら、遠いとおい回り道をしてようやくここの、自分の音にたどりついたんだなあと思って、感無量。
音楽をやる人はなにをめざして音を作っているんだろう。
私の場合は、最初、まず、自分の好きな音、あこがれの演奏家がいた。
ラジオから流れる音を聴いて、かっこいいなあ、しびれるなあ、と思って、レコードを買い、何度も何度も聴いたりした。
自分もそういう演奏ができるようになりたいと思って、試行錯誤しながら練習したりした。
田舎住まいだったので先生はいなかったから、独学だった。
都会(といっても京都)に出て、たくさんのミュージシャンと接し、いろんなスタイルや考え方があり、自分はどうすればいいのかずいぶん迷った。
試行錯誤のなかで、模倣ばかりしていたような気がする。
自分の音がどういうものなのか、まるでわからなかった。
自分の音がどういうものなのかわからないというのは自分でも認めたくなかったけれど、正直いうとずっとそういう状態がつづいていたように思う。
どういうものが自分の音なのかわかるというのは、自分の音がどういうものなのかまったく気にせず演奏できるときだ。
朗読とセッションするというチャンスが増えたときに、自分というものを気にせずただ相手に反応する、コミュニケートするという演奏に集中するようになった。
自分がどうしたいとか、どういうものが自分らしいとかかんがえないように演奏するとき、初めて自分らしさが出てくる瞬間があった。
つまり、自分(の意図的な思考という自我)を手放したとき、初めて本来の自分がそこに立ち現れてくるのだ。
そういう経験をたくさんした。
フットセラピストの徳久珠央さんとやらせていただいている「玉響のとき」も、先日3回めとなった。
参加された方の足もみをされている珠央さんのかたわらで、私はその空気を感じながら即興演奏をするという企画だ。
3回めの前回、私は本当にびっくりするほど、「なにもかんがえずに」演奏することができた。
なにもかんがえない、というのは、投げやりに演奏するということではない。
かんがえないけれど、多くのことを感じとりながら自分のなかから出てくる反応を受けとめながら演奏するのだ。
かんがえはないけれど、次々と立ちあらわれてくるイメージに反応するために、とてもいそがしい。
時間が濃密にすぎていく。
そのときの演奏をレコーディングしてあった。
それをアルバムにできないかと、今日、編集していた。
たしかに自分が演奏した音だし、その記憶もあるのに、どこか距離感がある音。
昔、こういう音を遠方にながめていながら、なぜかそこに行く道筋を選ばずに、手近な音ばかり拾い集めていた自分がいた。
ああ、本当はずっとここに来たかったんだ、無理ばかりしてここからはるか遠くに向かおうとしてばかりいたんだ。
そのことを感じて、私は深い悲しみを悼むと同時に、自分の本当の音にもどってこれたことにしみじみと喜びを覚えた。
2013年4月4日木曜日
時間のなかを丁寧にあるく
photo credit: h.koppdelaney via photopincc
最初はティク・ナット・ハン師の本だったが、「マインドフルネス」という言葉に出会って、自分が置かれた空間と時間のありようへの意識が変化した。
もう何年もそうやってマインドフルネスを意識しながら生きているが、それでもまだまだ自分を粗雑にしかあつかえない時間をすごすことが多い。
人は生きていると、たくさんのものごとを自分の外側からも内側からも受け取っている。
自分の外側——外界や環境——からのさまざまな情報、ものおと、視覚情報、空気感、温度、湿度、においといったものや、生き物、人間との関係で生まれる情報、刺激。
それらがもたらす自分の内部の変化、感情、無意識の動きといったもの。
こういったものに「いまここ」の一瞬一瞬に気づきつづけながら、自分を丁寧にあつかいつつ時間のなかをすすんでいく。
こんなマインドフルネスをこころがけたいのだが、まだまだ未熟だと思えてしまうのは、自分もまわりのことも全然丁寧に扱えていないと気づくときだ。
ときには立ちどまることも必要なのだろう。
未熟ゆえに処理できる情報はそう多くない。
立ちどまってゆっくりと自分の内側と外側を見つめ、丁寧さを取りもどせる時間を自分にあたえてやる。
ときには受け取ることをストップすることも必要かもしれない。
瞑想し、自分のなかが静かに整理できて片付くのを待つ時間を作る。
そうしたらまた、なにが起こっているのかを丁寧に感じながら、ゆっくりと歩みを再開する。
最初はティク・ナット・ハン師の本だったが、「マインドフルネス」という言葉に出会って、自分が置かれた空間と時間のありようへの意識が変化した。
もう何年もそうやってマインドフルネスを意識しながら生きているが、それでもまだまだ自分を粗雑にしかあつかえない時間をすごすことが多い。
人は生きていると、たくさんのものごとを自分の外側からも内側からも受け取っている。
自分の外側——外界や環境——からのさまざまな情報、ものおと、視覚情報、空気感、温度、湿度、においといったものや、生き物、人間との関係で生まれる情報、刺激。
それらがもたらす自分の内部の変化、感情、無意識の動きといったもの。
こういったものに「いまここ」の一瞬一瞬に気づきつづけながら、自分を丁寧にあつかいつつ時間のなかをすすんでいく。
こんなマインドフルネスをこころがけたいのだが、まだまだ未熟だと思えてしまうのは、自分もまわりのことも全然丁寧に扱えていないと気づくときだ。
ときには立ちどまることも必要なのだろう。
未熟ゆえに処理できる情報はそう多くない。
立ちどまってゆっくりと自分の内側と外側を見つめ、丁寧さを取りもどせる時間を自分にあたえてやる。
ときには受け取ることをストップすることも必要かもしれない。
瞑想し、自分のなかが静かに整理できて片付くのを待つ時間を作る。
そうしたらまた、なにが起こっているのかを丁寧に感じながら、ゆっくりと歩みを再開する。
2013年4月3日水曜日
2週間後の「キッズ春の宴」公演で出している演出指示
4月19日と20日は公演「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」が明大前キッド・アイラック・アート・ホールでおこなわれる。
現代朗読では芝居やいわゆる劇団的な稽古・リハーサルというものはおこなわないのだが、それでも何度か進行を通して確認したり、プログラムを構成している各パートのエチュードの精度をあげるための練習はおこなう。
その際に、いちおう演出として私から指示を出していることもある。
演出指示のなかには普通の朗読や芝居をやっている人が聞いたらびっくりするようなことがいくつかあるらしい。
たとえば、衣装について。
現代朗読の基本的なかんがえ方のひとつに、
『「……しなければならない」と「……してはならない」を手放す』
というものがある。
読み方であれば、こういうふうに読まなければならない、とか、こう読んではならない、という指示は演出からいっさい出されない。
そのかわり出演者が向かい合うのは、自分はどう読みたいのか、というプレゼンスをともなった身体反応だ。
衣装についてもそのかんがえ方を適用する。
つまり、自由。
これまでは衣装をそろえていたこともあるけれど(色合いとかね)、今回からはさらに徹底して、好きな恰好で出演してね、といっている。
もちろん、そろえたい人はそろえるという自由も保障されている。
履物も自由。
演劇のようになにかの役を演じるのではなく、自分自身のままで読むのが朗読なのだ。
ひとつだけそろえようといっているものがあって、それはテキストだ。
即興性と自由を大切にする現代朗読において唯一ある決まりごとが「共通のテキストを使う」ということだ。
つまりおなじ台本を持つ、ということだ。
それを明示的にするために、台本は共通のものを使うことにしている。
当日おいでいただける方は、そんなところも観ていただけるとうれしい。
「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の詳細はこちら。
現代朗読では芝居やいわゆる劇団的な稽古・リハーサルというものはおこなわないのだが、それでも何度か進行を通して確認したり、プログラムを構成している各パートのエチュードの精度をあげるための練習はおこなう。
その際に、いちおう演出として私から指示を出していることもある。
演出指示のなかには普通の朗読や芝居をやっている人が聞いたらびっくりするようなことがいくつかあるらしい。
たとえば、衣装について。
現代朗読の基本的なかんがえ方のひとつに、
『「……しなければならない」と「……してはならない」を手放す』
というものがある。
読み方であれば、こういうふうに読まなければならない、とか、こう読んではならない、という指示は演出からいっさい出されない。
そのかわり出演者が向かい合うのは、自分はどう読みたいのか、というプレゼンスをともなった身体反応だ。
衣装についてもそのかんがえ方を適用する。
つまり、自由。
これまでは衣装をそろえていたこともあるけれど(色合いとかね)、今回からはさらに徹底して、好きな恰好で出演してね、といっている。
もちろん、そろえたい人はそろえるという自由も保障されている。
履物も自由。
演劇のようになにかの役を演じるのではなく、自分自身のままで読むのが朗読なのだ。
ひとつだけそろえようといっているものがあって、それはテキストだ。
即興性と自由を大切にする現代朗読において唯一ある決まりごとが「共通のテキストを使う」ということだ。
つまりおなじ台本を持つ、ということだ。
それを明示的にするために、台本は共通のものを使うことにしている。
当日おいでいただける方は、そんなところも観ていただけるとうれしい。
「キッズ・イン・ザ・ダーク〜春の宴〜」の詳細はこちら。
2013年4月2日火曜日
八王子の高校演劇部に出張指導(?)
八王子の高校まで演劇部の指導に行ってきた。
いや、「指導」というより、身体とことばをつなげたり聴覚や感受性を立ちあげるためのエチュードをいっしょにやったり、現代朗読のデモンストレーションを(同行の野々宮と)ちょっとやったり、稽古中の劇にすこしだけアドバイスしたり、といったことをやってきた。
朝からつめたい雨で、西八王子にある高校には東松原から明大前(井の頭線)、明大前から高尾(京王線)、高尾からひと駅もどって西八王子(中央線)という経路で、ちょっとした旅行だった。
3部制のまだあたらしい高校で、演劇部などの部活動は部員がなかなかそろわなくて大変そうだった。
今日も午前中は4人、午後は5人の部員のみ。
午前中は「基礎練」ということで、音読エチュードや現代朗読のパフォーマンスを披露した。
音楽室だったのでピアノが使えて助かった。
この世代は私も身におぼえがあることだが、大人にたいして無意味な壁を作っていたり、世界のすべてをすでに知っているかのように思いこんでいる狭小な感受性を持っている生徒が多い。
しかし、今日の生徒たちは私の話を食いつくように聴いてくれて、大変うれしかった。
エチュードもまじめに付き合ってくれた。
午後は彼らが近く新入生相手にやる劇の稽古を見せてもらった。
部員がすくないなりに、自分たちで書いたシナリオを自分たちなりに懸命に稽古している姿を見るのは、私にとっても気づきが多い時間だった。
私もほんのすこしだけアドバイスしたが、ほとんど不要なものだったろう。
多くのことを感じ、たくさんのことをかんがえることができた一日になった。
演劇部のみなさんには感謝。
自分の殻をすこしでも大きく開いて、表現の楽しさを実感できるといいな、と思いながら、高校をあとにした。
いや、「指導」というより、身体とことばをつなげたり聴覚や感受性を立ちあげるためのエチュードをいっしょにやったり、現代朗読のデモンストレーションを(同行の野々宮と)ちょっとやったり、稽古中の劇にすこしだけアドバイスしたり、といったことをやってきた。
朝からつめたい雨で、西八王子にある高校には東松原から明大前(井の頭線)、明大前から高尾(京王線)、高尾からひと駅もどって西八王子(中央線)という経路で、ちょっとした旅行だった。
3部制のまだあたらしい高校で、演劇部などの部活動は部員がなかなかそろわなくて大変そうだった。
今日も午前中は4人、午後は5人の部員のみ。
午前中は「基礎練」ということで、音読エチュードや現代朗読のパフォーマンスを披露した。
音楽室だったのでピアノが使えて助かった。
この世代は私も身におぼえがあることだが、大人にたいして無意味な壁を作っていたり、世界のすべてをすでに知っているかのように思いこんでいる狭小な感受性を持っている生徒が多い。
しかし、今日の生徒たちは私の話を食いつくように聴いてくれて、大変うれしかった。
エチュードもまじめに付き合ってくれた。
午後は彼らが近く新入生相手にやる劇の稽古を見せてもらった。
部員がすくないなりに、自分たちで書いたシナリオを自分たちなりに懸命に稽古している姿を見るのは、私にとっても気づきが多い時間だった。
私もほんのすこしだけアドバイスしたが、ほとんど不要なものだったろう。
多くのことを感じ、たくさんのことをかんがえることができた一日になった。
演劇部のみなさんには感謝。
自分の殻をすこしでも大きく開いて、表現の楽しさを実感できるといいな、と思いながら、高校をあとにした。
新刊電子ブック『子どものころの七つの話』
私の電子ブックの新刊『子どものころの七つの話』が、アマゾンKindleストア、オリジナルショップ(Gumroad)、BCCKS、パブーでリリースされました。
すべて100円(Kindleは99円)です。
「子どものころの七つの話」は現代朗読公演のために書きおろした七つの短編からなっている短編集で、ほかにも「ふたつの夢」と「記憶が光速を超えるとき」を収録してあります。
KindleとePub3形式が読める端末、アプリで読めるほか、BCCKSでは直接紙本も注文できます(割高になりますが)。
BCCKSは専用アプリで閲覧ができます。
アマゾンKindleストアでの購入はこちら。
BCCKSでのePubダウンロード・電子閲覧または紙本の注文はこちら。
パブーでのePubとKindleデータのダウンロードはこちら。
オリジナルショップ(Gamroad)でのePubダウンロードは下のボタンから。
子どものころの七つの話
すべて100円(Kindleは99円)です。
「子どものころの七つの話」は現代朗読公演のために書きおろした七つの短編からなっている短編集で、ほかにも「ふたつの夢」と「記憶が光速を超えるとき」を収録してあります。
KindleとePub3形式が読める端末、アプリで読めるほか、BCCKSでは直接紙本も注文できます(割高になりますが)。
BCCKSは専用アプリで閲覧ができます。
アマゾンKindleストアでの購入はこちら。
BCCKSでのePubダウンロード・電子閲覧または紙本の注文はこちら。
パブーでのePubとKindleデータのダウンロードはこちら。
オリジナルショップ(Gamroad)でのePubダウンロードは下のボタンから。
子どものころの七つの話
2013年4月1日月曜日
【速報】げろきょ海外公演決定!
東京周辺のみならず全国各地からも熱い注目を浴びている現代朗読ですが、さらに日本を飛びだして海外での公演が決まりました!
場所はなんとロンドン。
コヴェント・ガーデンにある由緒あるドルリー・レーン劇場での現代朗読公演です。
5月5日から3日間の公演となります。
詳細は追ってお知らせします。
みなさん、ぜひおいでください!
以上、速報でした。
場所はなんとロンドン。
コヴェント・ガーデンにある由緒あるドルリー・レーン劇場での現代朗読公演です。
5月5日から3日間の公演となります。
詳細は追ってお知らせします。
みなさん、ぜひおいでください!
以上、速報でした。
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