ごく最近まで私も人のことをいえないような状態だったが、私たちは自分自身のことをどれほどないがしろにして毎日をすごしているのか、ちょっと振り返ってみたい。
私たちがもっともないがしろにしているのは、自分の感情とニーズだ。
毎日、生活していると、さまざまなことが起こり、そのつどさまざまな感情に包まれる。
食事を終えて洗いものをしているだけなのにいらいらしたり、仕事に行こうとして気がふさいでしまったり、朝眼がさめた瞬間、なぜか不安におそわれたり。
しかし、そういった感情を私たちはともすれば「なかったこと」にして、つぎへ行こうとする。
いちいちそんなことに引っかかっていたら時間がいくらあっても足りない、と思っているからだ。
効率を優先し、他人と競いあうことをしいられてきた教育や社会制度のおかげで、このようなふるまいの「癖」を身につけてしまったのだ。
効率を優先しようというふるまいが、自分の感情を無視し、ニーズをほったらかしにする、つまり自分をないがしろにしている。
そのことによって私たちはとても自分自身のことに鈍感になっている。
自分の無意識や身体からやってくるサインを無視しつづけ、頭でかんがえてばかりいる。
さまざまなことに意味づけしたり、レッテルをはって分類したり、人やものごとを非難したり、計算したり、たくらんだり、推測したり、思い出にふけったり、夢想したり、あれこれ心配したり、そういったことばかりしている。
「自分」というものが大脳皮質という狭いところに閉じこめられて、愚鈍になっている。
これを身体全体、そして身体と世界の境界のところまで引っぱりだしてやりたい。
なにかの感情が生まれたとき、私たちの身体は変化している。
呼吸が変わり、筋肉が収縮したり弛緩したりして姿勢が変わり、皮膚感覚が変化する。
怒りをおぼえたとき、身体はどうなっているだろうか。
悲しいとき、身体はどんな状態だろうか。
その身体を日々きちんと感じとり、丁寧にあつかうことが、自分をきちんとあつかうことだ。
身体に意識がむけられているとき、私は自分の状態とニーズをはっきりと感じることができる。
いまこの瞬間、自分がなにを感じ、どのように感情が動き、なにを必要としているのか、身体が教えてくれる。
そのために、呼吸を観察したり、声を発して「いまここ」の自分を感じながら表現してみる。
この基本スキルが身についていると、共感的コミュニケーションによって自分自身や人とのつながりを作ることが容易になる。
自分自身を丁寧にあつかい、こころと身体を最高の状態にたもっているとき、はじめて人に貢献したり、自分のニーズを満たしたり、社会変革に力を発揮したりできる。
原発事故、自然災害、高齢化、エネルギー危機、食糧安全、医療、教育、政情、グローバリズム、人種差別、ネット社会、さまざまな不安要因が押しよせてきているいま、自分自身を最高の状態に維持し向上させていくセルフスキルがもっとも必要なのではないか、と私はかんがえている。
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