すべての人のニーズ(価値/必要性/大切にしていること)をおなじように尊重しあうことが共感的コミュニケーションの目的だが、それと同時に「自分のニーズは自分しか満たせない」ということも理解しておく必要がある。
あるニーズがあって、それを満たすために自分以外の者(他人)のおこないが必要であるとき、それは厳密にはニーズとはいわない。
見かけのニーズだ。
たとえば「尊重されたい」というニーズがあるとする。
それ自体は人がだれしもが持っている共通のニーズなのだが、それを特定のだれかに尊重されることを求めたとき、それはニーズではなく要求となる。
「あなた、もうちょっと私を尊重してくれない?」
という言動は要求にほかならない。
要求は共感的ではなく、非共感的なコミュニケーションである。
要求によってだれかとつながることはできない。
では、ある人の/私の尊重のニーズはどうやって満たされるのだろうか。
だれかから尊重されていると感じているとき、それを認識したとき、人の尊重のニーズは満たされる。
その認識はさまざまなチャンスに、思いがけない手段でもたらされるだろう。
自分が尊重されていることに気づけるかどうかは、自分自身のこころのありように関わってくる。
たとえば、あなたの同居人が部屋を散らかしている
あなたは清潔好きで、いつも部屋を整頓しておきたいと思っているのに、同居人はすこしもそれをわかってくれない。
同居人が部屋を散らかすたびにあなたはイライラするし、落ち着かなくなる。
たまには自主的に部屋を片付けてくれたら、あなたも尊重されていると思えるだろうに。
という不満を抱いて「尊重されたい」と思っているとしたら、それは永遠に満たされない可能性がある。
あなたは同居人を「部屋を散らかして私を尊重してくれない人」というレッテル越しに見ている。
レッテルをはがし、その向こう側に同居人のニーズを見ようとしたり、部屋を片付ける以外のことであなたにたいする尊重の行為や言葉を見つけたりすることで、実はたくさんの尊重があなたに向けられていることに気づくかもしれない。
それに気づけるのはあなた自身でしかない。
だれかに自分のニーズを満たしてもらおうとかんがえること自体が、あなたのなかに不満をつのらせてしまう大きな原因となっている。
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興味のある方は気楽においでください。
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