論理学に「自己言及のパラドックス」というものがある。
たとえば「私は嘘をついている」とだれかがいったとしたら、その真偽は矛盾をはらんでいるというものだ。
本当に嘘をついているなら、その文は嘘ではなく真実を語っているのだから嘘をついていることと矛盾する。
嘘をついているなら、真実を語っているのだが、これも矛盾している。
これに似た問題に共感的コミュニケーションのワーク中に遭遇したので、報告しておく。
最初はとても簡単な例題のように思えたのに、共感的コミュニケーションのプロセスを使っていくとまるで迷宮にはいりこんだみたいになってしまって、大変おもしろかった。
AさんがBさんとある場所で待ち合わせをしていて、いったん落ち合ったのだが、用事があったので「ここで5分待っててね」とBさんと約束してその場を去った。
5分後に戻ってみると、Bさんがその場にいない。
心配になってそのあたりを探しまわって戻ってくると、Bさんがいた。
「なんでここで待っててくれなかったの?」
「ううん、私ずっとここにいたよ」
いなかったのは確かなのだ。
しかしBさんは「ここにいた」と主張するばかり。
こういう場合、AさんはどのようにBさんに共感を向けたらいいだろうか、という問題。
「共感を向ける」とは、Bさんがなにを大切にしていたのか、Aさんが聞いてあげる、ということだ。
Bさんはなにを大切にしていたからAさんに嘘をついたのだろうか。
しかし、ここで以下のような共感的聞き方の文法は使えないことに気づく。
「Bさんは私に信頼してもらうことが大切だから、いたって嘘をついたの?」
そのように聞いてもBさんは嘘を認めず(すでに認めていない)、ただ「嘘ついてない、ここにいた」と繰り返すばかりだろう。
共感できない。
このとき、Bさんが自分が嘘をついたことを認めた場合は、話が別になる。
Bさんがなぜ嘘をついたのか、Bさんはなにを大切にしていたからAさんに嘘をついたのか、共感的に聞いてみればいいのだ。
しかし、Bさんが自分の嘘を認めない場合、どうやってBさんと共感的なつながりを持つことができるだろうか。
この話、つづく、としておく。
私なりに出した解答はあらためて紹介する。
三軒茶屋〈カフェ・オハナ〉での共感的コミュニケーションのワークショップ・ミニライブ付きは、8月20日の夜、開催します。
詳細はこちら。