今日は韓氏意拳の稽古に中野まで行ってきた。
教練は内田秀樹先生。
午後7時から始まって、10時近くまで、ほぼ3時間、みっちりとやった。
韓氏意拳の稽古は他の武術・拳術とはだいぶおもむきが違っている。
今日も3時間かけてやったのは、平歩站椿訓練の挙式と抱式、基礎試力の前後試力と上下試力、このよっつのみ。
これも型があるようでない。
ただひたすら、自分の身体の状態の集中を感じつづけ(体認という)、運動のたかまりを求めていく。
とこう書いても、なんのことやらさっぱりわからないだろうと思う。
私も最初のときはなんのことやらさっぱりわからなかった。
韓氏意拳の本を予習として何冊か読んでいったのに、実際にやってみると自分がなにをやっているのか、どうすればいいのか、まったくわからなかった。
が、いまはすこし、これらの站椿と試力が韓氏意拳のすべてをつらぬいて基礎をなしており、ここを丁寧に通過していかないと本質には迫れないのだということがわかる。
今日は少人数で内田先生が非常に丁寧に見てくれたおかげで、自分のなかで理解(といってはいけないのかもしれないが)というか体認の緻密さがすこし進展したように思えた。
とにかく、集中、集中、集中。
しかも、頭で認識したり判断したりなぞったりするのではなく、自分の身体に起こっていることに集中。
探したり確認しにいくのではなく、感じる、身体の声を聞くことに集中。
まだ動ける、もっと動ける、こんな感じ、こっちにも行ける、それがずっとのびやかにつづいていくことを把握しつづける状態。
こういったことを内田先生が丁寧に、言葉と身体をつくして、繰り返し辛抱強く教えてくれる。
ともあれ、まあこんなふうに自分の身体と対峙したことはこれまでに一度もなかったことは確かだ。
おもしろくてしかたがない。
もっと若いころにこれと出会っていたらどうだったろう、と益のないことをついかんがえてしまうが、いま出会えたということもひとつのタイミングだったのかもしれない。
若いころに出会っていたら、このおもしろさに気づけもしなかったかもしれないし。
それにしても、気がついたら3時間みっちり、おそろしく身体のことに集中し、マインドフルな濃密な時間だった。
終わったら足の裏のスジがつっていた。
ほぼ3時間、ずっと立ちっぱなしだったのだからやむをえないかもしれないが、これもいずれ克服していけるような気がする。
余談だが、韓氏意拳をはじめて以来、ピアノ演奏における身体操作の風景も、まちがいなく大きく変化しつづけているのはたしかだ。