小説でも詩でもハウツー本でもブログでも、なにかを書くときには対象読者を想定すべし、とよくいわれます。つまり、どういう人が読んでくれるのか、どういう人に読んでもらいたいのか、イメージして書きなさい、というわけです。
本当にそうなのでしょうか。
この想定読者問題をかんがえてみることにします。
一見、自分の文章を読んでくれる人をイメージして書くのは、メッセージを向けるべき相手がはっきりしているので、表現もしっかりするように思えます。それでいいのかどうか、検証してみたいと思います。
羽根木のゼミのメンバーに、いつもだれを想定して書いているのか、聞いてみたことがあります。
「編集者」
「不特定多数」
「ブログを読んでくれている友達」
「自分自身」
いろいろな答えが返ってきました。が、「だれも想定しない」という答えはありませんでした。
私自身はどうかというと、職業作家になったとき、編集者から対象読者についてはいやというほど聞かされ、絞り込んで想定するようにいわれて書いてきました。だから、対象読者を想定することをほとんど無意識におこなってしまうし、習い性のようなものだといっていいかもしれません。
が、最近はそのかんがえが変わってきました。
まず、読者をこちらがいくら頭を絞って想定しても、はたしてそのとおりの読者が読んでくれるかどうかわからない、という問題があります。
たとえばネットで20代前半の女性を想定してボーイズラブを書いたのに、実際には40代の女性がもっともたくさん読んでくれた、なんてことはいくらでも起こります。
では、対象読者をひとりに絞りこんだらどうでしょうか。この場合は、想定外の読者があらわれる心配はなさそうです。
しかし、この場合でも問題が起きます。たとえば、対象読者を担当編集者ひとりに絞ったとして、その編集者を想定して一生懸命書いたとします。彼ならこういう話・こういう文書を喜んでくれるはず、と思って書いたとします。で、実際に読んでもらうと、思いがけない反応が返ってくるわけです。場合によっては、まったく喜んでもらえなかったりします。もちろん喜んでもらえることもあるかもしれませんが、いずれにしても、喜んでもらえるか喜んでもらえないかは、たんなる自分の「想像」であって、事実ではありません。つまり、予測不能なのです。
予測不能なことを無理に想定して書きすすめていくとどういうことが起こるでしょうか。
書き手は自分の外側になにかものを書くための「基準」とか「評価」を想定して書いていくことになります。書くためのイメージを想起させる主体が、自分のなかではなく、自分の外にあることになります。これは、自分を表現するためのテキストを書く行為として、とてもつまらないことではないでしょうか。「商品を書く」というのなら話は別かもしれませんけどね。
では、どうかんがえればいいのでしょうか。
(以下、略。本文全体は養成塾のメールマガジンで掲載しています)
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