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「ネット(FacebookだのTwitterだの)に呑まれないために」という記事を書いたら、さっそく、「具体的にどんな手順でやっているのか知りたい」という反応をいただいた。
じゃあ、ってんで、ネットを自分の名前で検索して私を攻撃するいやな書きこみはないか探してみた。
あった。
「この水城ゆうってのも怪しいな」
とか、
「この人のプロフィールが商業作家のわりに妙にうさんくさく見えるのには同意だ」
と、けっしてうれしくない書きこみがされている。
URLはこちら。
どういう人が書きこんだのかはわからない。
いずれも匿名だ。
このように、ネットではいきなりだれとも知れない人から突然攻撃されたり、不快な書きこみをされることがよくある。
知人からだってあるかもしれない。
こういうときにどうしたらいいか。
私がおこなう具体的な手順を書いてみる。
経緯はこうだ。
私の知り合いの書き手が、ある出版社が主催している文章コンテストのようなものに作品を応募したところ、受賞はしなかったものの、そこの編集者からコンタクトがあり、もっと書いてみませんかとすすめられた、という話を聞いて、ひょっとしてこれはよくある自費出版系の勧誘ビジネスではないかと思ったので、ちょっと注意をうながした、というものだ。
Twitterでの書きこみだったのだが、私のその書きこみをとらえて、上記の「この水城ゆうってのも怪しいな」というリアクションが出てきたらしい(私もいまのいままでこういう書きこみがあるとは知らなかったが)。
この人はつづけて、このようにも書いている。
「自費出版の斡旋でもやってるのか?本当に良心的なとこは駄文に出版などすすめない」
もちろん私は自費出版の斡旋などやっていないが、こういう書きこみを見て嫌な気分になったのはたしかだ。
まずその自分の気持ちに「共感」していくことが、最初の手順となる。
私が最初にするのは、自分の気持ちを存分に爆発させること。
だれかにあたるのではなく、自分のなかで正直に処理する。
「くそ、この野郎、おれのことを知りもしないくせに、匿名であることをいいことに無責任なことをほざきやがって。ひとのために役に立てればいいと思って書いたことをこんな悪意でとられて、おれって本当にかわいそう」
存分にぶちまける。
自分のなかで。
少し落ち着いたら、自分の感情をできるだけ客観的に見る。
書きだしてみるのもいいだろう。
ここで現れている私の気持ちは「怒り」と「悲しみ」だ。
この感情はどこから来るものだろうか。
と、自分のニーズを推察する。
感情はどんなものであれ、自分のニーズが損なわれた、あるいは満たされたときに現れる。
今回の場合はなにかが損なわれて怒りと悲しみの感情が現れたのだ。
なにが損なわれたんだろう。
「自分が正しく理解されること」
「受け入れられること」
「誠実・正当であること」
これらのニーズがふみにじられた気がして、私は怒りと悲しみにとらわれたのだ。
それがわかったら、そこなわれた自分のニーズのことを思い、充分に自分を悼んでやる。
「自分の誠実さや正当性を理解してもらえなかった、受け入れてもらえなかった、そのことで怒りを覚え、悲しんでいるんだね。よしよし」
てな感じ。
それができたら、今度は相手のニーズを推測する。
私のことを「怪しい」と書いたこの人は、おそらく、ネットや世間にあふれる詐欺まがいの商法や人物に憎しみを抱いているのだろう。
私もそういう人間のひとりだと思ってしまったのだろう。
この人にはきっと、誠実さ、信頼、安全などのニーズがあるのだろう。
それを損なわれた気がして、このような書きこみをしたのかもしれない。
この推察はあたっていないかもしれない。
しかし、「相手のニーズを推察する」という「私の行為」に意味がある。
この人にもニーズがあるということに思いいたったとき、私はこの人をもう憎むのではなく、この人も自分のニーズを大事にしているおなじひとりの人間なのだ、という気持ちになれる。
その上で、もし必要なら、このメッセージに対して自分とこの人のニーズを満たすための行動が取れないか(ここではレスポンスを書きこむということになるが/そんなことは私はしないけど)、じっくりかんがえみる。
ここまでのプロセスで、私は自分自身がずいぶん落ち着き、冷静さを取りもどしていることを感じる。
ゆっくり紙に書き出してやってみるとだれでもできる方法なので、ネットの書きこみでなにかかっかしてしまった人がいたら、一度試してみるとよいと思う。